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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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下里八宮神社

 古代の日本では、「八」は聖数とされ、また、漠然と数が大きいことを示すのにも使用されたという。同様に、八を用いた八十(やそ)、百八十(ももやそ)、八百万(やおよろず)等も「数が大きい」という意味で用いられていた。
 
日本では古くから、天の神様、地の神様、山の神様、海の神様、水の神様、果ては、台所の神様(竈の神)、手洗いの神様(厠神・かわやがみ)まで、あらゆるところに神様がいると考えられてきた。神道でいう「八百万の神」と言われる古くからの民俗信仰は今の我々日本人の根底にも色濃く根付いている基本的な考え方だ。八百万の神は、古事記にも記述がある表現だそうで、日本書紀などにも八十神や八十万神が登場する。
 
このように「八」という漢数字は末広がりで縁起が良い数字として喜ばれ、八百万は限りなく無限に近い多くの数を表す例えとして用いられてきたようだ。
所在地   埼玉県比企郡小川町下里990
御祭神   高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神
社 格    旧村社
例 祭   7月中旬 下里ささら獅子舞
          
 下里八宮神社は小川八宮神社から国道254号線を東側方向に進み、「道の駅 おがわ」を通り過ぎて約1㎞程先の信号のあるT字路を右折する。程なく槻川に架かる柳町橋を渡り、そのすぐ先で道路沿い右側に下里八宮神社は鎮座している。丁度進行方向右側の路肩には駐車スペースが豊富に確保されており、そのスペースに車を停めて参拝を行う。
        
               道路沿いに鎮座する下里八宮神社
  槻川沿いの地、仙元山(298m)の麓に下里全体の鎮守として祀られている。社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(868年)に現在の地に遷座した。その後、近村七ヶ所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
「新編武蔵風土記稿」比企郡の項には、他に小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮神社あるいは八宮社が見える。

 八宮神社の総社と言われる下里の社。参道一帯の雰囲気(写真左、右)も一種荘厳さを醸し出している。

        
                    二の鳥居
     
        二の鳥居を過ぎ、石段を登り切り、社殿前左側にある杉の御神木(写真左、右側)
       
                   拝    殿
  下里地区の伝統行事として「下里のささら獅子舞」が行われている。この下里地域の獅子舞の歴史は古く、かんばつや疫病を追い払うため、享保年間(171636年)に始められたと伝えられている。わらじかけの獅子三頭、伴奏のササラ、笛、万灯等、40~50人が楽を奏でながら八宮神社(毎年)、大聖寺と八坂神社(隔年交代)で舞いを奉納するもので、毎年7月中旬の夏祭りに行われる。

           
                             本      殿

 話は変わるが下里地区を含む比企地帯には「尻焙り(けつあぶり)」と言われる伝説が存在する。平安時代初期、坂上田村麻呂が東北地方の賊を征討するため軍勢を引き連れ関東地方に来た際に、「岩殿山(現東松山市)に龍が住んでいて、悪いことばかりして困っている。」という話を聞き、その悪龍を退治した後、周辺の村人たちはたいへん喜び、お饅頭を作って食べ、踊ったりした。それにちなんで、比企地方では6月1日に庭先で麦わらを燃やし、背中をあぶりながらお饅頭やおにぎりを食べる「ケツあぶり」という行事が行われていたという。

 この「下里」という地名は六月一日に大雪となり、大霜が降りたので「霜里」と呼ばれ、後世それが「下里」になったという由来だそうだ。由来は成否はともかくとして、社伝にいう貞観十年以前からこの地域に社があったといい、また坂上田村麻呂伝説の由来時期の古さといい、かなりの歴史的淵源の古さを物語る社といえそうだ。


 拝殿正面上部に飾られた日露戦争の戦勝記念額  本殿裏には分霊した七社の神璽を納めた祠が設置。
 
 下里八宮神社は周辺地域の八宮神社の総社であり、各地域に分祀したといわれているが、御祭神である高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神(住吉三神)・海見三柱神(宗像三女神)が他の社ではほとんど祀られていない。どういうことだろうか。

      社殿左側にある天神社        天神社の並びには稲荷社。奥には三峰社と八坂社あり。          
 
 ところで下里地区の南方向小字割谷には「下里割谷板碑石材採石遺跡」と言われる鎌倉時代から戦国時代にかけて関東に広く流通した武蔵型板碑の製作遺跡が存在する。採掘から一次加工までの工程が行われていたことが確認され、武蔵国だけでも5万基にも及ぶ緑泥石片岩(りょくでいせきへんがん)製の板碑が存在するが、その中心的な製作地と考えられている。ちなみに埼玉県内はそのうち2万基以上の板碑が確認されているそうで、これは質・量ともに全国一といわれている。

           

 緑泥石片岩は緑泥石を主成分とする結晶片岩の一種で、暗緑色でつやがあり、加工が容易で、岩石は片理に沿って板状に割れやすい特徴があり、その為板碑に利用された。秩父郡の長瀞地域の岩畳は有名だが、この小川町下里割谷地域も長瀞地域に勝るとも劣らない一大産地だったようだ。
 この下里・青山板碑製作遺跡は平成26年10月6日に国指定史跡に指定された。


 



 

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