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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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萩日吉神社

 比企郡は小川町、川島町、滑川町、鳩山町、吉見町、嵐山町、そしてときがわ町の7町で構成されている。このときがわ町は埼玉県中部にある人口約1万3千人の町で、2006年2月1日に比企郡玉川村と比企郡都幾川村が合併して成立した。都幾川が町を南北に二分するように東西に流れ、その流域の大半の地域は外秩父連山に囲まれた地形だが、南西部のみ岩殿丘陵の西端に位置し街並みもそこに多く存在している。町の面積は約56k㎡で、この面積のおよそ7割が山林という大きな特徴があり、建具の里としても有名で水と緑に囲まれた自然豊かな町である。
 またときがわ町には慈光寺という寺院がある。慈光寺は埼玉県比企郡ときがわ町に国宝のある開山1300年の歴史の名刹として有名 なお寺で、山号は都幾山。院号は一乗 法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第9番札所としても有名で、関東屈指の大寺院である。また埼玉県では数少ない国宝である「法華経一品経・阿弥陀経・般若心経 33巻」をはじめ多くの寺宝を所蔵する寺として知られている。
 このときがわ町の町中から西側に大きく離れた西平地区に萩日吉神社は静かに鎮座している。別当寺であった慈光寺の鎮護のため、日吉大神のご分霊を勧請し現在の形となったという。
所在地    埼玉県比企郡ときがわ町西平1198
御祭神    大山咋命,国常立尊,天忍穂耳尊,国狭槌尊,伊弉冉尊,瓊々杵尊,惶根尊
社  挌    旧郷社
例  祭    例大祭(流鏑馬・神楽)1月第3日曜日

       
萩日吉神社は、埼玉県道172号大野東松山線を白石峠方面に向かい、宿信号を左折して道なりに真っ直ぐ進んだ西平地区、萩ヶ丘小学校の南側にある。萩ヶ丘小学校の校門の向かい側に専用駐車場があるが、そこから萩日吉神社の鳥居が見え、解りやすい。
 参拝日は7月中旬で、小学校では夏祭りの準備の練習をしていたようで、学校内から太鼓等の音が流れていた。地域に根付いた伝統がまだここには残っているようで参拝前から仄々とした感じとなった。
                  
           
                            正面一の鳥居
 社記によれば、当社は人皇第二九代欽明天皇六年(544年)十一月、大臣正二位蘇我稲目宿禰によって創建されたと伝えられ、当時は萩明神と称したが、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山の鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山から日吉(ひえ)大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮と改称したという。
 更に、『平村弓立山蟇目の由来』と称する伝書によれば、天慶八年(945年)に武蔵国司源経基が慈光寺一山の四至境界を定め、神境龍神山にて蟇目の秘法を習得させ、以来、当山を弓立山と呼ぶようになり、当社の祭礼には蟇目の神事に倣って四方に鏑矢を放つようになったと伝える。
                                                                                                 埼玉の神社・埼玉県神社庁発行より引用

      一の鳥居のすぐ先にある社号標                    そして案内板
 鳥居の後ろに立派な杉が立っている。ときがわ町指定天然記念物で御神木の児持杉(こもちすぎ)である。
      
            
児持杉 村指定天然記念物
  男杉と女杉があり男杉の根回り6.4mで三本に幹が分かれている。女杉は根回り8.89mあり24本に分かれている。
  二本とも樹高が約40mあり樹齢はおよそ800年位といわれる。なお、この杉は古来よりニ樹を祈念する時は幼児を授けられるとの伝説あり、遠近男女の信仰があつい。
  昭和56年4月1日 都幾川村教育委員会
                                                               案内板より引用
 児持杉を右手に見ながら石段を上がると一旦平らな空間が広がり、そこには二の鳥居、その左側には平忠魂社、またその参道の途中には萩日吉神社の由来を記した案内板がある。
            
                                二の鳥居

       二の鳥居の左側にある平忠魂社          参道の途中に掲げてある由来を記した案内板         萩日吉神社の由来
 「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇6年(544)12月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治5年(1189)6月、奥州の藤原泰衛追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑1200町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑1町7畝を寄進しています。以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄10年(1696)以降は牧野家の崇敬が厚く、「風土記稿」には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
 当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成3年3月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、1月の例大祭の日に本殿いおいて「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用

   石段の両側には狛犬ではなく狛猿の石像がある。            石段の先に社殿が見える。
            
                                拝    殿

               神楽殿                      萩日吉神社の祭りを記した案内板
萩日吉神社の祭り
 萩日吉神社ではこれまで、1月15日、16日に例大祭、4月26日に春季大祭、10月17日に秋季大祭の行事が行われてきました。
 1月の例大祭には流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、県内でも現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の2ヶ所のみとなり、その貴重さが認められて平成17年3月に県指定無形民俗文化財に認定されました。当社の流鏑馬は、天福元年(1233)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の1月第3日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
 神楽は、昭和52年に県指定無形民俗文化財に指定されました。1月例大祭には小神楽が、4月29日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、その厳かな調が神社の森に木霊します。
境内社の八坂神社の祭礼は、7月15日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。
 また、西平・上サ地区氏子の行事として、10月17日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                                案内板より引用
 天福元(1233)年、萩日吉神社を崇敬していた木曽義仲が戦死して、家臣七苗が明覚郷(荻窪・市川・馬場氏)と大河郷(横川・小林・加藤・伊藤氏)に移住し、義仲の霊を祀り流鏑馬を奉納したことに始まるという。鎌形八幡神社も同様だが、この比企地方には源氏3代(義賢、義仲、義高)の遺跡や伝承が数多い。

 社殿の右手には御井社(御神水)・釣取社・合祀社が鎮座していて(写真左)、左手には天神社、八坂社(同右)が横一列に並んでいる。
                   
        御井社(御神水)の奥に聳える御神木。児持杉とはまた違う荘厳さをここでも体感した。

 ところで、由緒等の案内板で登場する蘇我稲目という人物は、6世紀に実在した豪族、政治家(506年~570年)で、。蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。二人の娘(堅塩媛かたしひめ,小姉君おあねぎみ)を欽明天皇の妃(きさき)とし,天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにして、蘇我氏全盛期の礎をつくった。
 この蘇我稲目の時代は、氏姓制度の全盛期で、一族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度で、この時代の有力豪族は、大伴氏、物部氏、平群氏、葛城氏、そして蘇我氏が他の豪族をリードしていた。この豪族の中で、早くも衰退したのが、平群、葛城両氏で、その後、大伴金村が朝鮮半島の外交政策の失敗を糾弾され失脚すると、大連の物部氏(物部尾輿)と蘇我稲目の2大勢力の一巨頭となり、両氏の熾烈な権力闘争が繰り広げられた。
                   
 両氏の闘争で特に有名なものが、仏教受容問題で、物部氏は廃仏派、蘇我氏は崇仏派で、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれ、最終的には587年(用明天皇2年)の丁未の役という諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。
 ということは、少なくとも萩日吉神社に記されている蘇我稲目という人物は、崇仏派であり、寺院を創建するならまだしも、神社の創建に関連する人物とは考えにくいと一般的には思われてきた。但し、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られているようだ。逆にいうと、蘇我氏も日本古来の神々や社を敬っていた可能性も捨てきれない。
 さて真実はいかなることだったのだろうか。
  

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