忍者ブログ

古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


大蔵神社

 平安時代の末期は貴族社会から武家社会への一大変革期と言われている。この社会の変革期に活躍した木曽義仲はこの嵐山町大蔵の地で生まれ育ったと言われていて、義仲に関係する伝承や伝承地が町内に多く残されている。
 木曽義仲の父は、源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢で、母は小枝御前。義賢は嵐山町の大蔵に館を構えて住み、そのころ義仲は駒王丸(こまおうまる)という幼名で呼ばれていた。
 源義賢は1153(仁平3年)年頃、武蔵国の名族秩父重隆の養君として上野国多胡から武蔵国大蔵へと迎え入れられ、大蔵館を構えたと言われており、当地を拠点として武威を高めたが、1155(久寿2)年、嵐山町大蔵の地で起こった「大蔵の戦い」で非業の最期をとげることになる。義賢の兄義朝の長男である悪源太義平は、この地方に勢力を伸ばすために大蔵館を攻め、義賢とその一族の大部分が討ち死にした。
 この大蔵の地は、都幾川をのぞむ台地上に位置し、荒川支流の都幾川と鎌倉街道が交差する要衝の地でもある。大蔵神社の森は周囲よりも高くなっており、今でも高い土塁に取り囲まれている。義賢の屋敷はこのあたりにあったといわれ、義賢がこの地を本拠地にして勢力をのばそうとした理由が何となく頷けた、そんな参拝となった。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町大蔵523
御祭神    大山昨命
社  挌    旧村社
例  祭    不明

        
 大蔵神社は国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点(交差点の名称はなし)を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進み(埼玉県道172号大野東松山線)、都幾川を越え約1km位進むと右側にこんもりとした大蔵神社の社叢が見える。残念ながら駐車場または駐車スペースはないようなので県道沿いに路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
           
                  県道172号大野東松山線側から正面参道を撮影
           
                   額に「大蔵神社」と書かれた朱色の両部鳥居
           
                  鳥居の手前左側にあった「大蔵館跡」の案内板
大蔵館跡
 大蔵館は、源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は東西一七○メートル・南北二○○メートル余りであったと思われる。
 館のあった名残りか、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。
 現存遺構としては、土塁・空堀などがありことに東面一○○メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、伝城山稲荷と大蔵神社がある。
 源義賢は、当地を拠点として武威を高めたが、久寿二年(一、一五五年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。
 義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の旭将軍木曽義仲である。
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿

 大蔵神社の手前左側には稲荷神社が鎮座し(写真左)、その奥には八坂神社の扁額が掲げてある一見神興庫兼倉庫風の社もある。また稲荷神社の側面上部には「大蔵八坂神社御神輿製作の由来」と書かれた額が飾られていた(同右)。

大蔵八坂神社御神輿製作の由来
 大蔵八坂神社の御神輿の由来は、記録によると、今から一六四年前の天保七年(一八三六年)六月に氏子の皆さんから御寄付をいただき造られたと考える。<その後明治八年(一八七五年)にも氏子から御寄付をいただいた記録がある>
 当時を日本史で見ると天明三年(一七八三年)七月に浅間山の大噴火があり、その後の天変地異により天明七年までを天明の大飢饉。天保四年から十年までを天保の大飢饉といわれた年代で、相当の病人死人が出たと記録されている。まさに大飢饉の最中に五穀豊穣身体健全を願って御神輿を造られたことが想定される。また御獅子二体は明治二十年に造られた記録がある。
 以来、毎年御神輿と御獅子の渡御が盛大に行われてきた。時代の変化にともない昭和四十年代には、一時御神輿の渡御が中止されていたが、大蔵町南会が昭和五十二年に設立され本会が中心になり、翌年から渡御が復活したことは大変喜ばしいことである。そして平成元年には青少年の健全育成を願って、氏子総代の成澤勝治氏が子供神輿を御寄進され現在に至っている。
 しかし現在の御神輿は老朽化が著しく平成元年から夏祭りの残金を将来の御神輿購入資金の一部として特別積立をしてきた。
 ここで大行院大澤霊明氏の発案でミレニアム二○○○年を記念して、御神輿を新装しようということになり平成十一年の区民総会にはかり、二十八名からなる大蔵神輿製作実行委員会をつくり、毎戸月額二千円十八ヶ月の積立御寄付を賛同願って造ることに決定した。実行委員会では東京浅草、群馬県高崎市及び県内関係地まで出向き検討を重ねてきたが、高崎市内の神具専門問屋で現品を確認して完成品で購入した。なお今回の御神輿の製作にあたり大行院大澤霊明氏には、御助言と過分なる御芳志をいただき区民一同感謝申しあげるものである。
 異常大蔵八坂神社の御神輿製作の由来を記し後世に伝えるものである。
 平成十二年(二○○○年)七月吉日 大蔵神輿製作実行委員会
                                                           同掲示板より引用
           
         稲荷神社から東側正面にある鳥居。額には「大蔵稲荷大明神」と書かれている。
 

  稲荷神社に並ぶように配置された境内社。写真左側は不明。同右は仙元大日神の石碑。この石碑の両側にある石碑らしきものが何となく気になる。
                 
                        大蔵神社参道付近から撮影

 この大蔵神社には県道沿いや境内西側の「大蔵館跡」の看板付近に土塁や空堀の遺構が見られ、土塁の高さは3m以上あろうかというほど立派なものだ。但しこの土塁等は後世の改築とも考えられ、発掘調査の結果によると現存する土塁は室町時代から戦国時代にかけてのものとされている。
 大蔵地区近辺には源氏3代(義賢、義仲、義高)ゆかりの鎌形八幡神社や笛吹峠、鎌倉街道など、鎌倉武士の息吹きを伝える旧跡が数多く点在している。嵐山という雅な地名と相まって、埼玉県にもこれほど文化遺産の多い地域が存在することが正直嬉しかった。

拍手[0回]

PR

萩日吉神社

 比企郡は小川町、川島町、滑川町、鳩山町、吉見町、嵐山町、そしてときがわ町の7町で構成されている。このときがわ町は埼玉県中部にある人口約1万3千人の町で、2006年2月1日に比企郡玉川村と比企郡都幾川村が合併して成立した。都幾川が町を南北に二分するように東西に流れ、その流域の大半の地域は外秩父連山に囲まれた地形だが、南西部のみ岩殿丘陵の西端に位置し街並みもそこに多く存在している。町の面積は約56k㎡で、この面積のおよそ7割が山林という大きな特徴があり、建具の里としても有名で水と緑に囲まれた自然豊かな町である。
 またときがわ町には慈光寺という寺院がある。慈光寺は埼玉県比企郡ときがわ町に国宝のある開山1300年の歴史の名刹として有名 なお寺で、山号は都幾山。院号は一乗 法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第9番札所としても有名で、関東屈指の大寺院である。また埼玉県では数少ない国宝である「法華経一品経・阿弥陀経・般若心経 33巻」をはじめ多くの寺宝を所蔵する寺として知られている。
 このときがわ町の町中から西側に大きく離れた西平地区に萩日吉神社は静かに鎮座している。別当寺であった慈光寺の鎮護のため、日吉大神のご分霊を勧請し現在の形となったという。
所在地    埼玉県比企郡ときがわ町西平1198
御祭神    大山咋命,国常立尊,天忍穂耳尊,国狭槌尊,伊弉冉尊,瓊々杵尊,惶根尊
社  挌    旧郷社
例  祭    例大祭(流鏑馬・神楽)1月第3日曜日

       
萩日吉神社は、埼玉県道172号大野東松山線を白石峠方面に向かい、宿信号を左折して道なりに真っ直ぐ進んだ西平地区、萩ヶ丘小学校の南側にある。萩ヶ丘小学校の校門の向かい側に専用駐車場があるが、そこから萩日吉神社の鳥居が見え、解りやすい。
 参拝日は7月中旬で、小学校では夏祭りの準備の練習をしていたようで、学校内から太鼓等の音が流れていた。地域に根付いた伝統がまだここには残っているようで参拝前から仄々とした感じとなった。
                  
           
                            正面一の鳥居
 社記によれば、当社は人皇第二九代欽明天皇六年(544年)十一月、大臣正二位蘇我稲目宿禰によって創建されたと伝えられ、当時は萩明神と称したが、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山の鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山から日吉(ひえ)大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮と改称したという。
 更に、『平村弓立山蟇目の由来』と称する伝書によれば、天慶八年(945年)に武蔵国司源経基が慈光寺一山の四至境界を定め、神境龍神山にて蟇目の秘法を習得させ、以来、当山を弓立山と呼ぶようになり、当社の祭礼には蟇目の神事に倣って四方に鏑矢を放つようになったと伝える。
                                                                                                 埼玉の神社・埼玉県神社庁発行より引用

      一の鳥居のすぐ先にある社号標                    そして案内板
 鳥居の後ろに立派な杉が立っている。ときがわ町指定天然記念物で御神木の児持杉(こもちすぎ)である。
      
            
児持杉 村指定天然記念物
  男杉と女杉があり男杉の根回り6.4mで三本に幹が分かれている。女杉は根回り8.89mあり24本に分かれている。
  二本とも樹高が約40mあり樹齢はおよそ800年位といわれる。なお、この杉は古来よりニ樹を祈念する時は幼児を授けられるとの伝説あり、遠近男女の信仰があつい。
  昭和56年4月1日 都幾川村教育委員会
                                                               案内板より引用
 児持杉を右手に見ながら石段を上がると一旦平らな空間が広がり、そこには二の鳥居、その左側には平忠魂社、またその参道の途中には萩日吉神社の由来を記した案内板がある。
            
                                二の鳥居

       二の鳥居の左側にある平忠魂社          参道の途中に掲げてある由来を記した案内板         萩日吉神社の由来
 「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇6年(544)12月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治5年(1189)6月、奥州の藤原泰衛追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑1200町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑1町7畝を寄進しています。以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄10年(1696)以降は牧野家の崇敬が厚く、「風土記稿」には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
 当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成3年3月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、1月の例大祭の日に本殿いおいて「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用

   石段の両側には狛犬ではなく狛猿の石像がある。            石段の先に社殿が見える。
            
                                拝    殿

               神楽殿                      萩日吉神社の祭りを記した案内板
萩日吉神社の祭り
 萩日吉神社ではこれまで、1月15日、16日に例大祭、4月26日に春季大祭、10月17日に秋季大祭の行事が行われてきました。
 1月の例大祭には流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、県内でも現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の2ヶ所のみとなり、その貴重さが認められて平成17年3月に県指定無形民俗文化財に認定されました。当社の流鏑馬は、天福元年(1233)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の1月第3日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
 神楽は、昭和52年に県指定無形民俗文化財に指定されました。1月例大祭には小神楽が、4月29日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、その厳かな調が神社の森に木霊します。
境内社の八坂神社の祭礼は、7月15日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。
 また、西平・上サ地区氏子の行事として、10月17日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                                案内板より引用
 天福元(1233)年、萩日吉神社を崇敬していた木曽義仲が戦死して、家臣七苗が明覚郷(荻窪・市川・馬場氏)と大河郷(横川・小林・加藤・伊藤氏)に移住し、義仲の霊を祀り流鏑馬を奉納したことに始まるという。鎌形八幡神社も同様だが、この比企地方には源氏3代(義賢、義仲、義高)の遺跡や伝承が数多い。

 社殿の右手には御井社(御神水)・釣取社・合祀社が鎮座していて(写真左)、左手には天神社、八坂社(同右)が横一列に並んでいる。
                   
        御井社(御神水)の奥に聳える御神木。児持杉とはまた違う荘厳さをここでも体感した。

 ところで、由緒等の案内板で登場する蘇我稲目という人物は、6世紀に実在した豪族、政治家(506年~570年)で、。蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。二人の娘(堅塩媛かたしひめ,小姉君おあねぎみ)を欽明天皇の妃(きさき)とし,天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにして、蘇我氏全盛期の礎をつくった。
 この蘇我稲目の時代は、氏姓制度の全盛期で、一族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度で、この時代の有力豪族は、大伴氏、物部氏、平群氏、葛城氏、そして蘇我氏が他の豪族をリードしていた。この豪族の中で、早くも衰退したのが、平群、葛城両氏で、その後、大伴金村が朝鮮半島の外交政策の失敗を糾弾され失脚すると、大連の物部氏(物部尾輿)と蘇我稲目の2大勢力の一巨頭となり、両氏の熾烈な権力闘争が繰り広げられた。
                   
 両氏の闘争で特に有名なものが、仏教受容問題で、物部氏は廃仏派、蘇我氏は崇仏派で、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれ、最終的には587年(用明天皇2年)の丁未の役という諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。
 ということは、少なくとも萩日吉神社に記されている蘇我稲目という人物は、崇仏派であり、寺院を創建するならまだしも、神社の創建に関連する人物とは考えにくいと一般的には思われてきた。但し、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られているようだ。逆にいうと、蘇我氏も日本古来の神々や社を敬っていた可能性も捨てきれない。
 さて真実はいかなることだったのだろうか。
  

拍手[4回]


堀の内羽尾神社

 羽尾神社の祭神の一柱である藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明は人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
 この藤原恒儀という人物は別名「恒儀様(ゴウギサマ)」と呼ばれ、昔から親しまれ、非常な力持ちで角力、つまり相撲が強かったと伝承もあり、土師氏の始祖野見宿禰を暗に連想させる。
 
所在地    埼玉県比企郡滑川町羽尾4806
御祭神    日本武尊、藤原恒儀
社  挌    指定村社
例  祭    例大祭 10月吉日

         
 羽尾神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川消防分署交差点前の信号を右折するとすぐ右側に鎮座している。右折する交差点は大型ショッピングモールが左側にある交差点なので、まず迷うことのない解りやすい社と言える。
 
         参道右側にある社号標                    参道正面一の鳥居
           
羽尾神社由緒
 滑川町大字羽尾
祭神 倭建命 藤原恒儀
当社は恒儀様と称され町崇敬の産土神社である。 勧請年代は伝来の古書に倭建命天長酉(西暦829年)鎮座と明記されている。
 また別の祭神藤原恒儀青鳥判官と称し隣地東松山市に在る青鳥城址の城主で天長6年9月20日の卒した人と伝えられ後年に至り当社に合祀されたと云う そして此の神社は藤原恒儀の嫡子恒政と家臣藤原竹連によって創建されたと伝承される。
 明治4年村社となり大正5年4月指定村社に昇格した。
                                                        案内板より引用
            
  羽尾神社は比企丘陵の尾根の微高地先端に建てられており、一の鳥居から決して高くはない2つの石段を登ると社殿が見えてくる。この羽尾神社は今でこそ社として鎮座しているが中世には羽尾館、つまり城的機能を持つ館があったのではないかと言われている。、現地を訪れると確かに神社背後にわずかに土塁や空堀らしい跡が確認でき、台地先端を掘り切っているように見える。ただはっきりとした明確な遺構とは言えないことも確かで、神社の建立・改築の際に相当手が入っている可能性もある。
          
                             拝    殿

        拝殿の額には「鎮護宮」と書かれている。                 拝殿内部

 ところで羽尾の「羽」は羽生の地名の由来とと同じく「埴輪」の「埴」、つまり、土師族出身の移住民がこの羽尾地方に住んできたことをこの地名は意味するのではないだろうか。土師氏は土器を製作する集団を土師部といい、ハゼ、ハニシとも称していた。この滑川町を含む比企地方の地名「比企」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力で、この日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通している。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になる。つまり、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっているという。

 この日置部集団は太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団である。6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっており、8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。このことはある高度の技術者集団の移住が考えられる。

 
 また羽尾神社の祭神である藤原恒儀は滑川村誌 民俗編によると、この人物は大麦の穂で目を突いて、片目になってしまったことから、羽尾地区では大麦は禁忌作物であり、また恒儀にまつわる片目の伝承があるという。また武蔵国郡村誌の比企郡羽尾村によれば、羽尾村の琴平社(現在は羽尾神社に合祀か?)の祭神は金山彦命だった。金山彦命は金属精錬との関わりが深い神なので、羽尾地区の片目伝承との関連性が興味深い。
 つまり藤原恒儀はこの地域の古代鍛冶集団の長であった可能性が非常に高いのではなかろうか。

    

拍手[2回]


奈良梨八和田神社

  奈良梨宿(ならなしじゅく)は、川越・児玉往還にあった宿場で、現在の比企郡小川町大字奈良梨の奈良梨交差点周辺が該当する。この地はかつての鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であった。天正10年12月9日の北条家伝馬掟には、奈良梨に対して、西上州の通路にして伝馬を高見及び菅谷まで綱立すること、一日につき平時は馬3匹、戦時には馬10匹を備えて置く。それぞれ公用荷物に限り無賃で輸送すること、それ以外の荷物は一里一銭の公定駄賃を取るように指示している。
 戦国時代の後北条氏は内政に優れた大名として知られていて、早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。伝馬制も同様に内政を得意とする後北条氏らしく細やかな規定だ。これらの事柄からここ奈良梨は戦国時代には伝馬駅宿に定められ、宿が形成されていたことを知ることができる。
所在地   埼玉県比企郡小川町奈良梨939
御祭神   建御名方命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   不明

      
 奈良梨八和田神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道296号菅谷寄居線が交わる奈良梨交差点の北側に奈良梨八和田神社、旧名諏訪神社は鎮座している。埼玉県道296号線沿いに嘗て鎌倉街道上道はあったと考えられ、この奈良梨も重要な拠点の一つであったことは上記後北条氏の伝馬掟でも判明している。八和田と書いて「やわた」と読むが、決して八幡系の社ではなく、諏訪神社系統のようだ。
         
 一の鳥居から二の鳥居や社叢までの長い参道。ちなみに一の鳥居は二つの県道が交わる『奈良梨』交差点沿いにあり、両県道の交通量の多さから今回撮影ができなかった。
         
                         二の鳥居正面参道

  二の鳥居の手前で右側には厳島社とその周りには水堀のような池があるが、農業用の溜池だろうか。
           
                             拝    殿
 八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名だった比企郡八和田村に由来する。元々諏訪神社といい、明治23年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村を作ったので、この諏訪神社もその村社として、幾つかの神社を合祀し、村社として、現在の社名へと改称されたという。
 
              神楽殿                           本    殿 
                       
  昔、信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。
 当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。
                                               「埼玉の神社」埼玉県神社庁
                  
                           八和田神社の大杉

  高さ約30m、目通り約5.7mの大スギ。赤茶けた幹が威容を誇る。周辺は田園地帯のため遠くからもよく目立つ。樹齢は約800年以上と推定され、小川町の天然記念物に指定されている。

 また八和田神社の鰐口は、延徳・弘治の銘を刻したもので、もと高坂村常安寺に延徳3年(1491)大成と永順に寄り懸けられたが、その後、弘治3年(1557)男衾郡鉢形錦入の新井土佐守によって寄進されたものだといわれる。大きさは、面の径34.6センチ、胴の厚さ18.5センチを測り、鰐口としては大型である。
           
 この八和田神社の鰐口は、町指定文化財(工芸品)として小川町の指定を受けている。

 

拍手[0回]


手白神社

 滑川は延長13.5Km、流域面積40Km2の荒川水系の一級河川で、源流(最上流)は比企郡嵐山町と小川町のため池であり、農業排水を集めながら南東へと流れ、大里郡江南町、嵐山町、滑川町、東松山市を経て、吉見町北吉見と東松山市松山の境界で市野川に合流する。
 江戸時代末期に編纂された新編武蔵風土記稿の比企郡吉田村に当時は滑川の起点が吉田村(現在の嵐山町吉田)の湧水だったことが記されている。

  
”滑川:当村の田間所々より涌出水、村内にて落合ひ、一條の流れとなり、始てこの名を負へり、是滑川の水源なり”

 この滑川源流域で熊谷市と滑川町との境付近に手白神社は鎮座している。

  所在地  埼玉県比企郡嵐山町吉田952
 御祭神  手白香姫命、大貴巳命、大山祇命、金山彦命、高霊神、市杵島姫命
 社  挌  旧村社
 例  祭  不明

                       
 手白神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、塩八幡神社の先の交差点を左折し、道なりに約1km位真っ直ぐ進むと右側に小高い山があり、その山を背にして鎮座している。道幅は狭く、また専用の駐車場もないので社を過ぎた場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。                                             
                            手白神社入り口
             
  参道の間には御神木の杉が聳えている。樹齢800年以上という巨木であり老木だ。右側の木が高さ36m、目通り5.03m、左側が高さ26m、目通り2.7m。推定樹齢約800年。昭和49年に町の天然記念物の指定になった。
          
                 石段の参道を登りきると正面に拝殿が見えてくる。
 
   社殿の随所に施された彫刻が見事である。            社殿の横にある案内板

町指定有形文化財 彫刻  手白神社本殿彫刻

 手白神社は今から870年ほど前の天治元年(1124)に蘆田基氏が創建したと伝える。御祭神は手白香姫命である。大字吉田地区のほぼ中心に位置し、古くより「手の神様」として、近隣の人々からの信仰が厚かった。現在の本殿は、大正二年(1913)に峯野神社、五竜神社、六所神社が合祀された際に六所神社の建物を移築したものである。
彫刻は江戸時代の作品で、技法に勝れ保存状態も良い(以下略)
                                                      案内板より引用

          
                              本   殿
                      
                        こちらも本殿、側面から撮影

 手白神社の御祭神筆頭である手白香姫命は継体天皇の后。二十四代仁賢天皇の第五皇女であり、武烈天皇は同母弟にあたる。古事記では手白髪郎女と表記されている。
 この社の起源として嵐山町誌は次のように述べている。宝永三年(1706)に別当泉蔵院から領主折井氏に提出された伝説として、「仁賢天皇(第二十四代)の第五皇女に手白香姫命という女性がおり、武烈天皇の酷刑苛政を諫めたがきかれないので東国に下り、この吉田の里に止って里人を教化した。ところがある日、手白香姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたがついに発見することができなかった。その後、手白香姫は都に帰り継体天皇の皇后となった。
 鏡を落とした湧水は鏡浄呂(きょうしょうろ)池と名づけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天を祀った。その後、白河天皇の御代(1080年頃)に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ、社木の樫の木に向って神気が立ち上がり、その中に姫の姿が現れて「私は先年ここで鏡をなくしたので魂はまだここに止っている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来て頼むがよい。」というお告げがあったという。


 大和王権は第25代武烈天皇没後、一旦血統が途絶える。嫡子がいなかった為だ。その為ヤマト朝を構成していた豪族連合の意向を受け、遠い越前国に住んでいて約5代前に分家した意富富杼王が謂わば婿入りの形で手白香姫命との婚姻を条件に大王の位を引き継いだ。第26代天王継体天皇である。そしてその嫡子欽明天皇(509~571)は王家本流として敏達から舒明、そして天智・天武へと連なる大王家の礎とも云える系統を保持することができた上においてもこの手白香姫命の存在は大きかったといえる。
          
        社殿の左側奥の突き当りに御神水か湧水か?柄杓もあるのでその類だろう。
 
    拝殿の前を左に行くと神楽殿がある。        神楽殿前を右へと登って行くと境内社あり。
 

拍手[3回]