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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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越畑八宮神社

  新編武蔵風土記稿には八宮神社が鎮座する嵐山町越畑地区について以下の記載がある。ちなみに越畑と書いて「おっぱた」と読む。なかなか馴染みのない変わった名称だ。

越畑村(おっぱたむら)(現・埼玉県比企郡村嵐山町大字越畑)
 越畑村ハ領名(りょうめい)及ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ:。東ハ吉田・勝田(かちだ)ノ二村ニ隣リ、南ハ杉山・中爪(なかつめ)ノ村々ニテ、西ハ下上横田村(しもよこたむら、かみよこたむら)ニ交(まじわ)リ、北ハ古里村ナリ。東西七町南北二十町余。家数九十軒。御打入(おんうちいり)ノ後、高木筑後守広正(たかぎちくごのかみひろまさ)ガ采邑(さいゆう)ニシテ其子甚左衛門ガ時慶安(けいあん)元年(1648)検地(けんち)セリ。ソノ後元祿元年(げんろく)(1688)替(かわ)リテ御料所(ごりょうしょ)及ビ酒井但馬守(たじまのかみ)ガ知行(ちぎょう)トナリシニ、同キ十一年(1698)御料所ノ内ヲ割テ山高十右衛門ニ賜リ、又享保十二年(きょうほう)(1727)残リシ御料所ノ分ヲ黒田豊前守(ぶぜんのかみ)・羽太清左衛門ノ二人ニ賜リテ、今モ高木・山高・黒田・羽太等ノ子孫四人ノ知ル所ナリ。

 この越畑村に八宮神社が村の鎮守として存在する。八宮と書いて「やみや」と読む。名前通り8柱の神様を祭っている社だ。

所在地   埼玉県比企郡嵐山町越畑1445
御祭神   応神天皇、木花開夜姫命、大雷神、天照大御神、
       倉稲魂命、大山祇命、櫛八玉神、品陀別命
社 挌   旧村社
例 祭   毎年7月25日に近い日曜日 獅子舞

                      
 越畑八宮神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方向に進み、越畑交差点の次の信号を左折すると右側に八宮神社の鳥居と社号標が見える。ちなみにこの交差点の右側には七郷小学校の横看板があり小さいが目印にすると良い。この社には専用駐車場はないが、鳥居や石碑を過ぎた場所に車を停めるスペースがあり、そこを借用して参拝を行った。

 まず最初に鳥居を挟んで右側には庚申塚群が、左側には記念碑が数多く置かれている。
   
       鳥居の左側にある記念碑群          同右側にある庚申塚や神宮参拝記念碑 

そして鳥居の左隣には「県指定 無形民俗文化財 越畑の獅子舞」の案内板がある。
          
越畑の獅子舞

毎年7月25日の前後で一番近い日曜日には、越畑地区の八宮神社で夏祭りが行われます。ここで雨乞いの行事として行われるのが「越畑の獅子舞」です。獅子舞はササラと言われ、数百年前に飢饉にみまわれた越畑の人たちが伊勢山田(現在の三重県)から習ったのが始まりと伝えられています。

獅子舞は万灯、法螺貝にはじまり、先払い、先達(神主)、氏子総代、棒司、花笠っ子、笛吹き衆、中立、獅子三頭の順番で行列をつくります。神社に到着すると、獅子が舞う場が清められ、獅子舞が行われます。(県指定無形民俗文化財)
                                             嵐山町ホームページより引用
    
            
                          鳥居から参道を撮影
                       
                         鳥居を過ぎると石段があり、斜面上に社が鎮座している。
 
        斜面を登りきると左側に神楽殿(写真左側)、右側に社務所(写真右側)がある。
                      
                                          拝    殿
                        
                                本殿覆屋、鮮やかに彩られた本殿が中にある。

神社明細帳には八宮神社について以下の記載がある。

八宮神社 
  埼玉縣武蔵國比企郡七里村大字越畑字日向
  村社 昭和二一、一○、一五 法人登記済
 由緒
  勧請(かんじょう)人皇四十七代聖武天皇ノ御宇ト申ス、其後承平)年中(931-938)経基公関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ヶ所ニ是ヲ祭ルト云フ。明治四年(1871)中村社(そんしゃ)届濟。
  明治三十二年(1899)五月二十二日八幡神社ヲ八宮神社ト訂正ス。
  明治四十年(1907)四月十日大字越畑字冨士山無格社浅間神社、字幡後谷前無格社雷電社、字柳原無格社神明社、字社宮司無格社社宮司社、字後谷無格社山神社、字下串引無格社大天獏社、字大堂無格社八大社、字清水無格社八幡社ノ八社ヲ本社ニ合祀(ごうし)ス。大正八年(1919)十二月二十二日拝殿幣殿(へいでん)改築許可。大正九年(1920)四月十五日竣工。
  大正十一年(1922)三月二十日神饌幣帛料供進神社ト指定セラル。

            
                                   拝殿前の石段から鳥居方向を撮影

 嵐山町は比企丘陵の中枢部を占めており、山あり渓谷あり、平地ありと変化に富んだ自然の宝庫で、国蝶オオムラサキが生息する地としても有名でり、歴史的には、木曽義仲や畠山重忠など、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもあり、埼玉県の中にあって観光資源の豊かな地域の一つである。

 越畑地区に鎮座する八宮神社は決して規模の大きい社ではないし、神社の外観もどちらかというと地味である。しかし獅子舞のような県の指定を受けている歴史的にも淵源の古い文化財あり、鮮やかに彩られた美しい本殿といい、後世に残すべき素晴らしい文化がこの地にはある。大切にしたいものだ。

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太郎丸淡州神社、勝田淡州神社

 市野川は延長約35km、流域面積147Km2の荒川水系の一級河川。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある。埼玉県大里郡寄居町牟礼の牟礼橋を管理起点とし、小川町、嵐山町へと概ね南東に向かって流れ、関越自動車道を越えた辺りからは流れを東へ変え、滑川町、東松山市を経由し、再び流れを南東に戻す。さらに吉見町、川島町を経て最後は北本市と桶川市の境界付近で荒川と合流する。
 武蔵国郡村誌や新編武蔵風土記稿によれば、市野川の上流部(寄居町と小川町の境界付近)には、金山、金塚などの小字名が分布している。例えば牟礼村に金山、今市村に金山、高見村に金塚がある(高橋の付近)。また、牟礼村には金山社が祀られていたとある。金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者(鍛冶屋や鋳物師)の信仰を集めたようである。これらのことから、市野川の周辺には金属の精錬を生業とする人々が居住していたと推測される。その時代は不明だが、鎌倉街道や古城跡との関連などから、おそらく近世以前だと思われる。市野川から採取した砂鉄を原料として、金属の精錬(たぶん、たたら製鉄)を行なっていたのだろう。この古代鍛冶集団と関係があるのか、嵐山町の市野川左岸流域には淡州神社が多く存在している。

所在地    埼玉県比企郡嵐山町太郎丸
御祭神    速御玉姫命
社  挌    旧村社
由  緒    大化(たいか)年中(645-650)本社再建スル所ナルト自来(じらい)*1年月久シキヲ経(へ)ルヲ以テ之レカ修繕(しゅうぜん)ヲ施(ほどこ)スト雖(いえども)元禄ノ頃(げんろく)(1688-1704)社宇(しゃう)*2大(おおい)ニ破損(はそん)ス是(これ)ヲ以テ猶(なお)再建スト云フ棟札(むなふだ)ニ元禄八年(げんろく)(1695)九月吉辰ト記載(きさい)アリ今現ニ存立(そんりつ)スル社宇ハ則(すな)チ之トナリ明治四年中(1871)中村社(そんしゃ)ニ列(れつ)セラル明治三十六年(1903)四月二十五日上地林(あげちりん)百十八坪(つぼ)ヲ境内(けいだい)ニ編入(へんにゅう)許可
                                                                                                                                                      「神社明細帳 淡州神社 七郷村太郎丸」より引用
例  祭    不明
       
 太郎丸淡州神社が鎮座する太郎丸地区は嵐山町の中央部に位置し、すぐ東側は滑川町である。太郎丸淡州神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方面に行き、武蔵嵐山病院を過ぎた次の信号のない十字路を右折すると左側に淡州神社の赤い鳥居が見えてくる。
          
  
参道正面に赤い両部鳥居があり、鳥居を越えて左側に何故か「大国主大神」の石碑がある。
          
                  二の鳥居と参道の突き当たりに拝殿がある。

 明治時代、内務省および庁府県に備え付けられていた神社の台帳のことを神社明細帳というが、1879年(明治12年)6月28日、内務省達乙第31号により、神社及び寺院の明細帳を作成し、その副本を内務省に送付することが各府県に命じられた。各府県では、社寺取扱規則(明治11年内務省達乙第57号)の基準に合致する社寺を、届出又は職権によりそれぞれ神社明細帳及び寺院明細帳に登載した。その神社明細帳、七郷村誌には嵐山町太郎丸について以下の記載がある。

水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 太郎丸村(たろうまるむら)   

 
太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)アリ。爰(ここ)モ本村ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。


 ここで注目される点はこの「太郎丸」という地名の由来だ。1665年の検地の際に、太郎丸という村民が案内をし、そしてこの村はこの太郎丸を中心に開墾した地であるためにこの地を「太郎丸」と命名した、ということのようだ。
 江戸時代初期この地は水房村の一部で、寛文五年(1665)の検地の時独立して太郎丸村となった。水房村とは本郷、枝郷の関係にあるのはその為で、それで太郎丸村の鎮守様は水房村の淡洲明神社(阿和須神社)であった。「新編武蔵風土記稿」で、太郎丸村の淡洲明神社を「村の鎮守」と書かなかった理由もここからくる。

 
      社殿左側にある境内社 弁財天               社殿右側奥にある八坂社

 太郎丸淡州神社の当初の社地は、現鎮座地の裏手の山中の「御林」と称するところにあったらしい。現社地には、幕末にその山から幣束が飛来して突き立ったので、これを神の御意として村民は心を一つにして社殿を造営したという。



勝田淡州神社

所在地    埼玉県比企郡嵐山町勝田270
御祭神    保武田別尊(応神天皇)、息長足日賣命、武内宿称命、菅原道真公、武甕槌命
社  挌    旧村社
例  祭    不明
          
 勝田淡州神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線に戻り、深谷市方向に北上し、玉ノ丘中北入口交差点を右折すると花見台工業団地となるので、そのまま5分弱進むと左側に勝田淡州神社が見えてくる。但し道沿いにはなく一本西側に入った道路で、しかも大変道幅は狭い。専用駐車場はなく、路肩に駐車して急いで参拝を行った。
          
 
            拝    殿                          本    殿

勝田淡州神社の由来は以下の通り。

淡州神社
由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)*1年月不詳(ふしょう)、宝永(ほうえい)年中(1704-1711)中宮(ちゅうぐう)建立、文化年中(1804-1818)上□建立、嘉永(かえい)年中(1848-1854)鳥居建立。
 元淡洲明神ト唱来(となえきたり)シ処(ところ)御維新(いしん)*2ノ際(さい)當号(とうごう)ニ改稱(かいしょう)ス。

 しかし淡州神社であれば、祭神は速御玉姫命であるはずなのに、この社は八幡神社でお馴染みの3祭神というのはどういうことだろうか。少し納得がいかない。

           
               社殿の右側に並んで鎮座する境内社、鹿島神社と天神社

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大雷淡州神社、土塩淡州神社

所在地   埼玉県比企郡滑川町山田(下山田)
御祭神   大雷神(おおいかづちのみこと)、息長足日売命
社  挌   旧村社
例  祭   7月28日  秋祭 10月16日


 森林公園南口側から県道250号森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を北東へ走って行くと、西側,つまり右側にに大雷淡洲神社の鳥居が見えて来る。社は道路沿いにあり、東側に社殿を向け、その前は比企丘陵の南北に細長い一面ののどかな田園風景が続く。
 上山田に鎮座する淡州神社とは至近距離にある社だ。
 
 

     鳥居の横にある社号標               鳥居の額「大雷、淡州、日吉神社」
 鳥居の額には日吉と明記されているが社号標石には日吉の文字は無く、案内板の御祭神にも日吉神社関連の神、つまり大山守命や大己貴命はいない。
 

大雷淡洲神社

 滑川村大字山田(下山田)
 祭神  大雷命 息長足日売命
由緒
 当社は昔この地方がしばしば旱魃に見舞われ凶作が続くので、五穀豊穣を願って雨乞いの神大雷命と三韓鎮定に功績を挙げた神功皇后を祭神として奉祀した神社と伝承される。勧請の年代は資料によれば応永二乙亥(西暦一三九五)年と推察される。寛永二乙丑年に邑の鎮守となり、明治四年三月に村社に列格した。(以下略)
                                                      案内板より引用

 
 鳥居を過ぎて数段の石段の上に鎮座する二社並列の大雷淡州神社の拝殿。ただしどちらがどの社かは何も明記されていないため不明。

           拝殿の右側にある天満天神宮


 

土塩淡州神社

所在地   埼玉県比企郡滑川町土塩
御祭神   速御玉比売命
社  挌   旧村社
例  祭   4月17日
 
 埼玉県道250号を北方向に進み、山田交差点を左折し、上山田淡州神社を右側に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。突き当たりの福田交差点を右折し、元東松山有料道路を熊谷市方向に進むと土塩Y字路にぶつかるのでそこを左折すると左側に土塩淡州神社が見えてくる。専用駐車場はないので、神社を通り過ぎてからすぐ先の交差点に駐車スペースがあったのでそこに停め急ぎ参拝を行った。
               土塩淡州神社正面

淡洲神社
 
滑川町大字土塩
 
祭神 速御玉比売命
 
由緒
  
当社は神功皇后の三韓鎮定の広徳を仰ぎその神霊を此の地に奉祀したという。
 
創始の年代は天明三癸卯(西暦一七八三)年七月三日と記録されており、天児屋根命第五十八代的伝神祇道唯一人 吉川源十郎源従門によって創立されたと伝えられる。
 
境内地四○六坪には杉の大樹が聳え神苑に荘厳の気を漂わしている。

 祭事
  元旦祭 一月一日   新年祭 二月二十六日
  例祭  四月十七日  新嘗祭 十月十七日
  大祓  十二月三十日                                      案内板より引用
             

 
       社殿左側にある境内社 不明                こちらの境内社も不明
 
                土塩淡州神社本殿



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月輪神社

 関白藤原忠通の子で九条家の粗である九条兼実(くじょうかねざね)は、京都の月輪寺(がつりんじ・つきのわでら)に隠棲していたことから「月輪殿(つきわでん)」と呼ばれていた。その霊が合祀されていると言われているのが月輪神社で、「月輪」の地名もここに由来しているとのことだ。参道や境内には樹齢何百年と思えるくらいの立派な杉が植わっていて、静寂かつ厳かなたたずまいであり、歴史を感じる古社である。
所在地   埼玉県比企郡滑川町月輪418
御祭神   素戔嗚尊、木花開耶姫命、味鋤高彦根神、豊受気媛神、月輪兼実公、菅原道真公
社  挌   指定村社(大正5年)
例  祭   10月19日 秋祭  11月23日 新嘗祭


       
 月輪神社は埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、森林公園駅入口交差点のY字路を右折し、森林公園北口前の信号をまた右折する。道なりに真っ直ぐ進むと約5分弱で左側に月輪神社の社号標が見えてくる。駐車場は神社の東側隣に集会所があり、そこには駐車スペースが確保されており、そこに停めて参拝を行ったが、そこは神社の拝殿のすぐ横にあり、正面、つまり南側の鳥居から参拝することをモットーとしている筆者にとっては少々遠回りをしなければならないことが不満な点ではあるが。
           
                        南側にある月輪神社の社号標  
   社号標の先にある朱塗りの一の鳥居              自然のままの社殿に通じる参道
                                     境内は鬱蒼とした杉林に覆われている。
          
 参道の先にある拝殿。なんでもこの社殿の基盤全体が古墳となっているようだ。この森林公園の南側に位置する羽根尾地域から月輪地域にかけては、数多くの遺跡が出土している日本でも有数の遺跡分布地帯で、調査によると、未発掘の埋蔵文化財が、町のほぼ全域に分布しているそうだ。

 東武東上線「つきのわ駅」の北部にある月輪古墳群や月輪遺跡からは、古墳時代の土器や石斧、直刀、さまざまな形の埴輪が数多く出土。東上線以南の地区からは縄文時代早期の土器が見つかり、駅西南部の一帯では旧石器時代の石器も発見されている。
   
     拝殿の「月輪神社」と書かれた扁額                      拝殿前の石段の横には案内板がある。

月輪神社
  由 緒
  当社は和同二巳酉(西暦七0九)年に大宮氷川神社の神霊を此の地に分社したと鎮守名に記載されており その後建久九戊午年三月、月輪兼実の霊を合祀して氷川大明神と称した
享保八年九月宗源宣旨により正一位の神位を贈られた 明治維新の際明神号を廃し 氷川神社と称し 明治四十一年三月大字内の五社を当社に合祀して今までの氷川神社号を月輪神社と改称した 明治四年村社となり 大正五年指定村社に昇格した

  昭和五十四年十二月吉日
   滑川村観光協会
   滑川村教育委員会

          
                     本殿覆屋とその脇にある境内社。

神社の北西側、つまり車を駐車している場所には蠶魂之碑と月輪稚蚕共同飼育所建設記念碑がある。
 
          
          道路沿いにある社号標のほうが歴史を感じる重みのある標石だと思う。

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阿和須神社

 埼玉県比企郡滑川町には淡州神社、大雷淡州神社等、「あわす」という変わった名称の社が多数存在する。嵐山町太郎丸、滑川町水房、滑川町伊古などに社は鎮座し、総本社の伊古速御玉比売神社は延喜式内社であり、江戸時代には淡洲明神とも称されていた。ちなみに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。
 淡洲神社の祭神は速御玉比売命が多い野に対して滑川町水房の社は阿和須神社と表記しているが、大和国添上郡の阿波の神社を勧請したもので祭神は息長足比売命である。

所在地 埼玉県比企郡滑川町水房238-1
御祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
社  挌 旧指定村社
例  祭 春祭4月15日 例祭10月13日 秋祭12月18日


 阿和須神社は埼玉県道47号深谷東松山線で森林公園方向に進み、滑川町役場北交差点を右折する。県道173号ときがわ熊谷線に移り、道なりに真っ直ぐ約5分くらい進むと、右側に水房集会所が見えるのでそこのT字路を右折ししばらく進むと関越自動車道のトンネルが見えるのでそこを潜るとすぐ左側に阿和須神社が鎮座している。
 駐車スペースは神社の西側に社叢があり、数台停めることは可能。だが駐車場は一の鳥居の逆方向にあるため、一端徒歩にて遠回りして鳥居方向に向かわなければならない。当日(平成25年8月15日)は大変暑い一日で、昼間の参拝は少々堪える。
 
 不思議と車道の先に社号標と一の鳥居がある。         一の鳥居、先に車道が見える。
 

 由緒の案内板が二の鳥居の手前、右側にある。          両部鳥居形式の二の鳥居

阿和須神社 
 
滑川町大字水房
祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
由緒
 当社の本宮は大和国添上郡にある阿波の神社である 垂仁天皇の曾孫三枝の別連の末裔が此の郷を開き後柏江郷の戸主直道継の末裔によって永仁年中(西暦1290年中)字御山の台に三柱の神霊を祀ったと伝えられる 寛永元年に至り祐海法師により現地に遷座し その後寛延2年11月金雄法師および氏子一同にて社殿を再建した 明治6年村社となり大正5年指定村社に昇格した
祭事 新年祭1月3日 春祭4月15日 例祭10月13日 秋祭12月18日
平成17年5月吉日
  滑川町観光協会
  滑川町教育委員会
                                                      案内板より引用

                開放感のある拝殿


                   本   殿 
こちらの御祭神は大鞆和気命(応神天皇)、気長足日売命(神功皇后)、武内宿弥命の三柱で伊古乃速御玉比売神社と同じだが、洲と阿和須で「あわす」と読み方が同じでも、こちらは大和国添上郡の阿波の神社を勧請したものなので、速御玉姫命とは関係無いようだ。
 

         境内社  八坂神社               八坂神社の隣にある境内社 稲荷神社

   ゆったりとした静かな時間が流れる。大切にしたいものだ。

        
                                                                

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