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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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淡州神社

  伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。ちなみに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。不思議なことだが関東地方には「アワ」の名がついた神社が数多く存在する。千葉の「安房」が、徳島の「阿波」から来ていることは有名だが、阿波国は「粟国」と書かれた時代もあり、阿波国内に「粟島」「淡島」があり、「阿波」「安房」「粟」「淡」、みな「阿波国」発祥の地名だそうだ。
 この淡州神社が鎮座する比企郡も実は「阿波国」と親密な関係があった地帯のようで、平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
  ところで埼玉名字辞典において日置部一族は忌部氏、齋藤氏と同族であるとの記述がある。忌部氏は大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団で 、古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・宮殿、神殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とし、天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。
 安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。この両国は古代から密接な関係があったらしい。「淡州神社」という一風変わった名称の社の存在こそ何よりの証拠ではないだろうか。
所在地    埼玉県比企郡滑川町山田765
祭  神    品陀和氣命、息長帯比売命
社  格    村社 
      
由  緒    当社は、応永2年(1395年)に、神功皇后の三韓征伐の成功を讃え、
         当地にご神霊を奉斎したことに始まると伝えられる。
例  祭
         記念祭 3月10日

         
地図リンク
 淡州神社は埼玉県道250号線、森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を道なりに北上して行くと、山田交差点の西側、進路に対して左側に淡洲神社が鎮座している。駐車場は一の鳥居前に駐車できるスペースがあり、そこに車を停め参拝を行うことができる。
 
          一の鳥居から撮影                     淡州神社の説明板
 
             拝   殿                       淡州神社と書かれた額
 淡州神社の祭神が品陀和氣命というのも不思議な感じだ。八幡神社でよさそうなものだが、元々の御祭神は淡洲明神で、水の神様だったのだろう。伊古乃速御玉比売神社項でも書いたが埼玉県で溜池がとても多い比企郡滑川地方で、明治の明神号使用禁止で御祭神が差し替えられたのかも知れない。

 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、[中略]
 又此社式内の神社と云こと、正き証は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり、別当円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と号す、
[中略]
薬師堂 薬師は当社の本地仏なりと云            
                                新編武蔵風土記稿」巻之百九十四(比企郡之九)より

淡洲神社
 滑川村大字山田(上山田)
 祭神  誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
 由緒
 当社は神功皇后が三韓鎮定に大功があったのを里民尊崇して此の地に神霊を奉斎したと伝承される。神社所蔵の古書によれば創建の年代は応永二(西暦一三九五)年とあり、往古は邑の総鎮守であったと云う。明治四年三月村社の格に列す。境内地五百七十七坪あり老樹うっ蒼と茂り古社の風格を漂わせている。
                                                      境内案内板引用

  この神社が鎮座する比企郡滑川町、古墳時代当時の地形はどうだったろうか。当地周辺は、滑川に沿う細長い谷間の土地。山間に数多くのため池が設けられ、古代においても、池があったと推測される。この地形上の観点から滑川の中流域にある式内社・伊古乃速御玉姫神社の元々の祭神は、素直に考えれば、土地を潤す滑川の神であり、沼の神であり、この丘陵地帯に多い溜め池を守護する水の神ではなかろうか。
  埼玉県は北に利根川、中川、元荒川等の利根川水系、西部、中央部には荒川、入間川・高麗川・都幾川等の荒川水系とその支流河川の流域は多く、また流域面積も豊富だが、この比企郡滑川地区は溜池がやたらに多く、その歴史的経過等調べてみたら以下のことであった。

・比企丘陵の溜池
  
埼玉県は他県に比べて溜池(ためいけ、農業用水の水源)の総数は少ないが、県の中央部から北部にかけての比企郡、大里郡、児玉郡に局所的に集中して、小規模な溜池が数多く分布している。なかでも比企郡は傑出しており、約600箇所もの溜池が存在し、これは埼玉県全体の約80%に相当する。
 これらは平地に設けられた皿池(野池)ではなく、丘陵の谷地(谷津)の開口部を堰堤(土手)で塞いで造成したもので、名称は池ではなく沼となっているものが多い。谷地を封鎖して造り出された新たな空間だが、意外なことに開放的な景観を形成している。またため池は用水を安定して水田へ供給する目的で造られてきたので、ため池が多く分布する地域は、もともと水不足が深刻な問題であったことが想像できる。
 滑川町には約200ものため池があり、この数は埼玉県の市町村では最も多く、埼玉県全体の1/4に相当するという。おそらく、関東地方の市町村で、ため池の数が最も多いのは滑川町であろう。
  ため池がいつ頃から存在するのかは、歴史的資料が現存しないので不明だが、付近に存在する古墳群との関係から、古いものは古墳時代に築かれたと思われる。古墳の存在は人々がその周辺に居住していたことを示し、そのためには何らかの生産活動が必要であり、そこで、ため池を造成して、その水を利用して稲作が展開されていたと考えるのが妥当であろう。土木技術的には古墳の築造とため池の造成は、難易度に大差はないと思われる。

             

 拝殿の左側に向かうと左奥に天満天神社、石段を上って行くと御嶽山大神の石碑と石斧群がある。正面は御嶽山大神。八海山大神、覚明霊神、清龍祓戸大神、十二大神、毘古那神、火産霊神、塞三柱大神、一心霊神等神々の石碑が立ち並ぶ。
             
                             境内社 天神天満社の奥にひっそりとあった石物
 磐座あたりかと考えたが、それにしてはあまりに寂しい状態で放置されていた。この淡州神社にはこのような石物がよく見ると多数存在しているようだ。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。日本のみならず世界の文化の出発点として石は無くてはならない存在だった。現代でも石臼や漬け物石などの生活の道具として、あるいは石仏や墓石などの信仰の対象として、または伝説の素材としての巨石や奇石、建築土木においては礎石や石積みなど、あらゆる場で根強く信頼され利用されている。

 残念ながら、時代の急速な変化によって、石の文化は生活の場から急激に姿を消しつつある。特に近年は神仏に対する畏敬の念が喪失し、信仰の対象となっていた様々な石造物は人々の記憶から消失されようとしている。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、寂しいことである。

 

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菅谷神社

  鎌形八幡神社から北東方向、約3km嵐山町内には菅谷神社がある。この神社で注目したいところは、祭神に「畠山重忠」が祀られているということだ。嵐山町は歴史上有名な人物を2名輩出していていて、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもある。
 嵐山地方は鎌倉街道上道上の交通の要衝で、中世に比企地方が光彩を放ったのは、当時の幹線道路である鎌倉街道上道(かみつみち)によるところが大きいといわれている。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国府、さらに進めば鎌倉、逆に北上すれば、児玉、藤岡から信州または越後へ達することが出来た。つまり、比企は当時の交通の要衝に発展したということになり、戦国時代に城郭が多数築かれた理由も、この鎌倉街道を監視または支配するためであったと考えられている。

 そういう意味で、嵐山町に源義仲、畠山重忠という歴史的に見ても重要な人物を同時期に2名も輩出したことの意味は大変大きい。埼玉県民はこのことをどのくらい知っているのだろうか。


所在地    埼玉県埼玉県比企郡嵐山町菅谷608 
主祭神     大山咋命(おおやまくいのみこと)
                
保食命亦名稲倉魂命(うかのみたまのみこと) 
                 
素盞鳴尊(すさのおのみこと)

       市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)
               
畠山重忠命
社   格  旧村社 
例   祭     10月17日
                

 菅谷神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方向に進み、国道254号と接する1つ手前の交差点を左折すると、右側約100m位先に社が鎮座する。入口の手前に若干車が駐車できるスペースがあったのでそこに駐車し、参拝を行った。地理的には武蔵嵐山駅の南方向、菅谷小学校の北西に位置している。 
  
            菅谷神社の入口付近を撮影              境内に建つ鳥居。畠山重忠の舘,菅谷館の北方にある。
                 
                    
由   緒
  祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
  由緒 本社大山咋命は元日枝神社なり是は畠山重忠年十七才にして治承四年十月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て此に新城を築き居住となし武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年九月十九日に奉遷勧請す故に日吉山王大権現と称せしを明治四年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う

        
                       参道の風景 社殿から撮影             
嵐山町菅谷神社社叢ふるさとの森
 平成四年三月三十日指定
 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
 この神社は、源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して建久元年(一一九○年)に、日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社、さらには、菅谷神社と改称されたものです。
 社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますが、この中でもひときわ大きなスギの御神木は、町の保護樹木にも指定されています

                                                                                     拝  殿
         
                            本  殿                          

  当社は畠山重忠が、武運長久の守護神として建久元年(1190年)に近江の日枝神社から勧進し「日吉山王大権現」と称していた。明治4年に村社に列格すると、日枝神社、さらには菅谷神社と名称変更したという。

                 
     
       神社向い側に菅谷公園があり、その中の池に厳島神社が祀られている。


               

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鎌形八幡神社

 嵐山町は埼玉県中央部に位置する人口約2万人の町である。町の中央部と北部には東松山台地が広がる。北東部は比企丘陵の西端部に位置し、南部は岩殿丘陵の北端に位置する。西部は外秩父山地の外縁となっており、南北に八王子構造線が貫いている。日本の国蝶オオムラサキが生息する地としても有名である。また1928年(昭和3年)に、本多静六が当地を訪れ景観を眺めたところ、京都の嵐山(あらしやま)の風景によく似ていることから、武蔵嵐山と命名され評判になり、多くの観光客が訪れている。町は比企丘陵の一角にあり,自然の美しさを四季折々に見ることが出来き、槻川や都機川は絶好の釣り場や川遊びの場になっている。又,菅谷館跡を始めとして多くの文化財や伝説も残されている町でもある。
 嵐山町の大蔵地区には木曽義仲(1154~1184)の父源義賢の館跡とされる埼玉県指定史跡大蔵館跡があり、土塁の跡が残されている。義賢は畠山重忠の曽祖父重綱の子である重隆の婿となったが、久寿2年(1155)8月、鎌倉を拠点に関東の制覇を目指していた源義朝の長子義平(頼朝の兄)に急襲されて、ともに討ち取られてしまった。義仲はこのとき2歳だったが、畠山重能、斉藤実盛の計らいによって信濃へ逃げのびることが出来た。
 この義仲は成人すると、武力を蓄えて平氏打倒に立ちあがり、倶梨伽羅峠の合戦に勝利し、京都から平氏を追い出すことに成功するが占領軍の乱暴狼藉によって、後白河法皇の怒りを買い、源頼朝の派遣した追討軍によって、近江国(滋賀県)粟津原で戦死した。享年31。太く、短く一直線に生きた人生といってよい。


 鎌形八幡宮には義仲産湯の清水が今も枯れずに湧き出して、いまも水が湧き出ている

所在地      埼玉県埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993
主祭神      誉田別尊  (ホムダワケノミコト)
       比売大神  (ヒメノオオカミ)
       神功皇后  (ジングウコウゴウ)
社  格      旧郷社 嵐山町鎌形鎮座
創  祀      坂上田村麻呂
創  建      延暦年間 (782~806年)



  鎌形八幡神社は、平安時代初期の延暦年間に、坂上田村麻呂が、九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている。所在地は都幾川の左岸、神社は延歴年間の創建と言うから歴史は古い。決して参拝客は多くないが境内は綺麗に整備されている。
 源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたといい、また、武門武将の神として仰がれ、「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか篤く」と、縁起の中にある。なお、「木曽義仲産湯の清水」や、嵐山町指定文化財の二枚の懸仏、徳川歴代将軍の御朱印状他多数の文書等が保存されている。

 また鎌形という名の由来として、鎌倉の鶴岡八幡宮に社殿が似ているから鎌倉の形・・・鎌形となったともいう
 

                         社号標と一の鳥居
 
          
  一の鳥居から社殿方向を撮影
 
 
  
                総門を越えると神秘的な空間が広がる
   木曽義仲の父は帯刀先生義賢で、鎌形の隣の鎌倉街道上道の通っていた大蔵に館を構えていた。当時、義賢の父、源為義と長男義朝は敵対関係にあって、義賢の関東下向も義朝の勢力削減を狙った戦略だった。しかし義賢は義仲(駒王丸)が2歳の時に義賢の甥の悪源太義平に討たれてしまう。その時、駒王丸は母、小枝御前と共に畠山重能、斉藤実盛らの温情により助けられ信州の木曽に逃れた。
 鎌形八幡神社にある木曽義仲産湯の清水は、義賢がこの地に下屋敷をもうけて小枝御前に生ませた駒王丸の産湯の清水なのである。社殿前の階段を下りた所にあり今も御手洗槽の竹筒から清らかな水が零れている。また竹筒の根本の石垣の上には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている
   
                         鎌形八幡神社   手水社とその奥にあるの義仲産湯の清水 

 哀愁を帯びた静かな社源氏3代の悲劇を公表できないためかなんとなく、人目を忍ぶような雰囲気がこの一体には漂う。
 
                   
拝殿兼本殿覆屋
         嵐山町指定建造物の本殿は覆屋の中なので見られず
  嵐山町大蔵には源義賢の墓や屋敷あとと伝えられている場所(大蔵神社)もある。源義仲の父である源義賢はもともとは上野国を本拠としていたが、源義朝と内訌があり、久寿2年(1155)源義朝長子の当時15歳であった悪源太義平によって大蔵の地で討たれている。
  のちに征夷大将軍ともなった悲劇の武将である木曽義仲は義賢が大蔵館に移り住んだ仁平年間(1153)に鎌形館で産まれたと伝えられており、鎌形の清水を産湯としたとされている。
  木曽義仲長子の清水冠者義高は源頼朝の婿であったが、元暦元年(1184)に入間河原で殺された、とされている。
         
                                                                                                        境内看板より引用                                
 
          白和瀬神社                        天満宮
 
           山の神                         八坂神社      
 
           護国神社                        金比羅神社
 
 不思議な感動がそこには確かにあった総門をくぐった瞬間から何か異次元に入り込んだような不思議な世界がこの社には確かに存在していた。
 決して知名度がある神社ではない。郷社ではあるが参拝客も例祭以外訪れる人もそう多くはないはずだ。それでいて境内はちゃんと整備されている。何百年の歳月により時の権力者によって変貌していく神社が多いのに対して、この神社にはそれがあんまり感じない。

 
 この奥ゆかしさと素朴さのあるこの鎌形八幡神社がなんとなく好きになったようだ。

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伊古乃速御玉比売神社

 比企郡は、埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に富んだ地形が特徴だ。郡の範囲は入間川支流越辺川の北、都幾(とき)川、市野(いちの)川の流域一帯で、四囲は、大里・横見・足立・入間・秩父・男衾の各郡に接している。おおむね現在の現東松山市、比企郡に属する町村(吉見町を除く)の地域である。『平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
 
 
比企丘陵は外秩父山地から東方に半島状に突き出した丘陵であり、北部は江南台地、南部は東松山台地、東部は吉見丘陵に接している。丘陵内では、高根山(標高105m)、二宮山(標高132m)、大立山(標高113m)など標高100m前後の山が、丘陵の西半分の地域に散在して突出した地形をつくるが、全体的には100m以下の丘陵地形をつくっている。丘陵内部には、市ノ川・滑川およびその支流による開析が進み、広い谷底と小谷が発達している。この開析谷は、北西~南東あるいは南北の方向をもつものが多く、これらの谷頭は丘陵の北側に極端に偏り、分水嶺は丘陵の北縁近くに偏在する。このため、丘陵北縁を東流する和田川の支谷は、未発達となっている。

 
江南町域においては、高根山から派生する丘陵と、滑川町和泉地区から派生する二つの尾根筋があり、嵐山町とは西側の谷を流れる滑川で区分されている。

 
本丘陵は、地質学的には新生代第三紀層に相当し、礫岩・砂岩・泥岩・凝灰岩等の互層によって構成されている。層序は、下位より、前期中新世に属する七郷層(凝灰岩質で緑色変質が特徴。層厚830m以上)、中期中新世に属する小園層(粗粒砂岩を主体とし、礫岩・泥岩・凝灰岩を伴う。層厚300m。)、荒川層(砂岩・泥岩の互層で、下部に礫岩を伴う。層厚350m)、土塩層(砂質泥岩を主体とし、砂岩・凝灰岩を伴う。層厚350m)、後期中新世に属する楊井層(礫岩を主体とし、砂岩・凝灰岩を伴う。層厚300m)となり、これらの中新統を不整合に覆って更新世に属する物見山礫層が分布している。

所在地     埼玉県比企郡滑川町伊古1242
主祭神     気長足姫命(息長帯比売命)、大鞆和気命(誉田別命)、武内宿禰

           
*本来の祭神は速御玉比売命
社  格     延喜式内 旧郷社
由  緒     仁賢天皇のとき創祀
                 
文明元(1469)年当地に遷座
              
享保14年(1729)閏9月29日正一位    明治6年郷社
              
明治40年4月2日神饌幣帛料供進神社指定
例  祭     十月十五日 例大祭

   
                                                
         
   
  熊谷から県道47号線で滑川町役場(北)交差点より北西2km程にあり、伊古の丘陵地帯に鎮座している。ひっそりと鎮座している、と言う言葉通り、周囲は閑散としていて、参拝日全く人に出会わなかった。ちなみにこの伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。
  創建当初は二ノ宮山上にあったが、文明元年(1469年)にこちらへ遷座したそうだ。ちなみに二ノ宮山はここから西へ700m程の距離にあり、山頂にはこちらの神社の奥宮があるとのこと
だ。
                
                                           一の鳥居横にある案内板と社号標
  境内の社叢は埼玉県指定天然記念物。前回は1月の参拝で、今回で2回目、参拝日は9月初めで大変暑く、緑深く覆われており湿気もあり、参道内は薄暗い。しかし丘陵地独特の味のある階段がたまらなく趣があり、この神社にはこの緑の暗さと、湿度、それに日本人の美意識の一つである侘び、寂びの精神が社全体に漂っていた。


  
    一の鳥居を超えると石の階段が続く                      階段は長くなく、
                                      途中から二の鳥居の先の拝殿が見えてくる

  ほの暗い参道、そして二の鳥居を抜けると日光を浴びた明るい拝殿が現れる。延喜式内社、比企総社、明治6年に郷社の社格を持った風格ある由緒正しき神社がこの滑川町に存在する。

伊古乃速御玉比売神社

滑川町大字伊古
昔は二ノ宮山上にあつたが文明元(1469)年当地に遷座したと伝える。
第60代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で44座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている。
境内全域に自生する樹水は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。
平成三年 敬白
滑川町観光協会
滑川町教育委員会
                                                             社頭掲示板より引用

 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、[中略]
   又此社式内の神社と云こと、正き証は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり、別当円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と号す、
  [中略]薬師堂 薬師は当社の本地仏なりと云
                                                                   新編武蔵風土記稿」巻之百九十四(比企郡之九)より
                         
滑川村伊古乃速御玉比売神社社叢
ふるさとの森
昭和55年3月25日指定

身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。
アラカシ・アカシデを主とした暖帯林の中に針葉樹のモミが混生しているところに社叢の特徴があります。
境内の西側にはアカシデ・イヌシデ、北側にはモミ、南東にはアラカシが、それぞれ生育しています。
今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育ててくださるようお願いいたします。                                  昭和55年10月
                                                                               埼玉県                                                        社頭掲示板より引用
                                                                                                   
  この神社が鎮座する比企郡滑川町、古墳時代当時の地形はどうだったろうか。当地周辺は、滑川に沿う細長い谷間の土地。山間に数多くのため池が設けられ、古代においても、池があったと推測される。この地形上の観点から滑川の中流域にある式内社・伊古乃速御玉姫神社の元々の祭神は、素直に考えれば、土地を潤す滑川の神であり、沼の神であり、この丘陵地帯に多い溜め池を守護する水の神ではなかろうか。


 

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