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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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坂本八幡大神社

 東秩父村坂本地区は村の北西部に位置し、北で大内沢、大里郡寄居町西ノ入と、東で奥沢と、南東で御堂と、南で皆谷と、 西で皆野町三沢と隣接する。埼玉県道11号熊谷小川寄居線沿い及び槻川の西側斜面に民家の散在する静かな山村地区である。
 坂本八幡大神社は坂本地区の中心部あたり、槻川の左岸の山の中腹に鎮座している。わが郷土の英雄である畠山重忠と関連のある由緒ある社である。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村1541
御祭神   誉田別命 他13柱
社  格   旧村社
例  祭   秋大祭 113

       
 坂本八幡神社は前出皆谷天神社から埼玉県道11号を落合橋に戻ること約2㎞程、小川消防署 東秩父分署の道を隔てて槻川を渡った先に鎮座している。大内沢神社と同じで赤い神橋が目印となっている。広い境内ではないが、山の稜線を巧みに利用して3つの平地面をつくり、石組で補強している構造で、石垣のような石組が第一印象で飛び込んでくる。駐車スペースは広くはないが神興庫の左側にやや広い空間があり、そこに停めて参拝を行う。
            
                                    槻川に架かる神橋を渡ると立派な一の鳥居がある。

  一の鳥居の手前には「神代里神楽」と記された標識があり(写真左)、一の鳥居の先ですぐ左側には神興庫(同右)がある。
            
                               神楽殿
  当社では毎年113日秋の大祭に村指定無形民俗文化財に昭和561220日指定された神代里神楽が奉納される。この里神楽は安政年間(18541860)より伝えられる里神楽で昔、衣装・用具を保管していた倉庫が火災になり、一時中断したが、深谷市上野台より飯塚利平氏を招いて再興したという。神楽は、舞方6名・はやし方3名で行われ、舞は前儀による清めを含め18座からなっているという。

           
拝殿前に聳え立つ村天然記念物である「タマグス」の御神木。畠山重忠の手植えの木と案内板に記されている。
           
                      二の鳥居と石段の先にある拝殿
 『新選武蔵風土記稿』坂本村の項には、当社について、「建久年中(1190年~1198年)重忠創建のよし云伝ふ、慶安二年五石一斗余の御朱印を賜ふ、社地九町四方、村中の鎮守なり、例祭八月十五日(中略)石段を登ること廿余級にして本社に至る云々」とある。
 勿論ここに記されている「重忠」とは鎌倉時代の武将で、幕府の有力御家人であり、「坂東武者の鑑」と謳われた畠山重忠である。畠山重忠は、1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡「畠山郷」(現深谷市畠山)に生まれ、幼名は氏王丸。父は畠山重能、母は三浦義明の娘。畠山氏は、坂東八平氏(千葉・上総・三浦・土肥・梶原・秩父・大庭・長尾)のひとつ秩父氏の嫡流の家系で、父重能のとき、秩父から畠山に移り住んで畠山の苗字を名乗る。
           
            拝殿の奥に3段目の石組があり、その上に本殿が鎮座している。

 そもそも重忠が属する秩父氏は鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある不思議な名族だ。平将恒は父武蔵介・平忠頼(将門の従兄弟)と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称したという。忠頼の父・良文は将門と親しかったものともいわれ、忠頼の息子である将恒の「将」の字も将門から引き継いだものと思われる。
 将恒と正室・武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基は、前九年の役に従軍して秩父別当に就任した。さらにその息子である秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた源有光の長女を妻とし、後三年の役に従軍して先陣を務めたことで秩父氏は発展し、秩父郡吉田郷の秩父氏館(吉田城)に居住した。武綱の息子である秩父重綱の代には、「武蔵国留守所総検校職」に就き、武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持ち、一族は大いに発展した。秩父重綱の長男、重弘の子は畠山氏、二男である重隆の孫は河越氏を称し、三男、重遠は高山氏、四男の重継は江戸氏を称した。こうして武蔵国各地に移った一族は平氏の血筋を武器に在地豪族と婚姻関係を結んで勢力を拡大し、秩父平氏(秩父党)を形成していった。
 畠山の家督を継いだ秩父重隆は、下野国の藤姓足利氏や上野国の新田義重、その保護者・同盟者である源義朝と争っていた。また義朝と結んだ甥の畠山重能とも家督を巡って対立していた。重隆は源義賢を娘婿に迎えて対抗したが、両人は1155年(久寿2年)に大蔵合戦にて源義平に討たれ、家督は畠山重能に移る。この重能の長男が重忠である。
 1156年(保元元年)の保元の乱で、河越重頼は源義朝の下で戦ったが、1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が敗死。その後は平家に従った。1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵後、秩父氏の一族ははじめ平家方につき、畠山重忠・河越重頼・江戸重長は衣笠城合戦で三浦義明を討ち取った。源頼朝が再び安房から南下して武家政権を打ち建てようとした時も、江戸重長らが下総で頼朝軍を足止めしている。しかしその後、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは頼朝に服属し源氏方として平家と戦い、宇治川の戦い・一の谷の戦い・奥州征伐等で活躍、鎌倉幕府設立に尽力した。

だが頼朝亡きあと実権を握っていた北條時政にとって邪魔な存在となり、元久1年(1204)11月、子の重保が京都で平賀朝雅と喧嘩したことから、翌年、牧の方(北条時政の後妻)が女婿の朝雅の訴えを受けて時政に讒言し、そのため時政は謀反の罪で畠山氏一族を討滅する格好の機会をとらえ、同年(1205)6月22日、菅谷館から鎌倉へ向かう途中、北条義時が率いる幕府軍に二俣川(神奈川県横浜市旭区)で待ち伏せされ、壮烈な最期を遂げた。重忠享年42歳。墓と伝える五輪塔が、深谷市畠山にある。

 重忠は治承・寿永の乱で活躍し、また源頼朝の忠臣として知られ、鎌倉時代より現代まで、その人物像には多くの脚色が加えられ、伝説の中には文字通り史実のものもあれば、重忠人気に便乗した後世の多くの付会と思われるものもある。伝説は所詮伝説と割り切ってしまえばそれまでだが、伝説をつくり語り伝えた主体像に焦点を向けると、そこに新たな歴史的状況が浮かび上がってくることがある。
           
                      拝殿の左側には境内社 天満天神社
           
  天満天神社の左側には五社稲荷神社、五社とは 熊野社、愛宕社、稲荷社、金山社、浅間社の五社

 埼玉県内の畠山重忠に纏わる伝承・伝説の類のその大部分は荒川流域の西部地域に存在する。重忠は本拠地は深谷氏畠山及び武蔵嵐山町の菅谷館であるが、その一方秩父一族嫡男家であり、惣領家として秩父庄司とも名乗っていた。その意味において武蔵国の荒川以西地域は重忠にとって勝手知ったる自分の庭であり、活動範囲ではなかったろうか。勿論比企能員が領有していた比企地域等在地豪族はいただろう。重忠の武蔵国における直轄的な領有地は限られた地域であったと思われる。ここで筆者が言いたいことは重忠の領有地域ではなく、武蔵国内の広域な活動範囲である。

 話は変わるが、埼玉県内には約2万基以上以上の板碑が確認されているが、これは質・量ともに全国一といわれている。主として荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる石で、たがねなどで割ると板状に薄く割れる性質があり、柔らかく加工しやすいため、美術的にも美しい出来上がりとなるらしい。この緑泥片岩は青色を帯びているために青石塔婆とも呼ばれていて武藏形板碑と分類されるが、その発生時期は鎌倉時代中期頃から造られ始め南北朝に全盛期を迎え、室町時代そして新しいものとして安土桃山時代のものもあり、そして江戸時代には全く造られなくなるが、板碑と鎌倉街道は大いに関連があるらしい。
 重忠は古代鍛冶、鋳物師集団の頭目ではないかと以前記したことがあるが、その他に実は石工の棟梁ではないかとも考えている。畠山本田の昔話に「 東鑑建久三年永福寺の庭園造成の際、重忠は3m余もある石を一人で抱え池の中を歩き頼朝の指図通りの位置に据え付けた」と記述されている。単なる怪力の話かも知れないが、巨石を動かす技術を持ち合わせている昔話ではないだろうか。板碑発生の由来ははっきりとしていない点が多く、定説はないが、その由来の一つが畠山重忠にあると考えると何となく歴史のロマンを感じるものだ。
            
                           拝殿部より境内を撮影
 重忠の活動範囲内にこの東秩父村も入っている。現在の埼玉県道11号(小川町から東秩父村に行くルート)と294号沿いは鎌倉街道上道の裏街道に位置し、このルートは昔から存在していたであろう。また坂本八幡大神社から埼玉県道11号沿いに定峰峠を通り秩父に入るルートは秩父盆地から外秩父、更には武蔵国内地に通じる数少ないルートの一つであり、重忠は当然知っていたであろう。

 最後に大内沢神社で紹介した「恒望王、藤原恒儀」伝説と畠山氏との接点はあるのだろうか。恒望王は大内沢・安戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峰・栃谷・山田・黒谷・大野原・皆野・田野等広大な郷を領有していたが、その全てが秩父氏の領有地内であり、共に平氏からの出自であること、藤原恒儀は怪力男で、その点は重忠も共有事項である点、多々ある。

 東秩父村という閑散とした山村地域にも歴史の不思議さや奥深さを感じることができる。これだから神社の参拝はやめられないのだ。

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