古社への誘い 神社散策記
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たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・
ja
2024-03-18T01:42:55+09:00
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小泉稲荷神社
 
・所在地 群馬県伊勢崎市小泉町231
・ご祭神 稲魂命(宇迦之御魂命) 大己貴命
・社 格 旧小泉村鎮守
・例祭等 月次例大祭 4月15日 中祭 12月1日...
・所在地 群馬県伊勢崎市小泉町231
・ご祭神 稲魂命(宇迦之御魂命) 大己貴命
・社 格 旧小泉村鎮守
・例祭等 月次例大祭 4月15日 中祭 12月1日 他
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3385264,139.2549405,17z?hl=ja&entry=ttu
下渕名大国神社から国道17号上部バイパスを伊勢崎方向に進行し、4.4㎞程先の「あずま跨道橋」交差点を右折する。群馬県道68号桐生伊勢崎線を北東方向に1.3㎞進むと、「小泉稲荷神社」の立看板のある変則的な十字路があり、そこを右折、その後早川に架かる朱色の「小泉稲荷橋」を渡るすぐ先に有名な小泉稲荷神社の大鳥居が見えてくる。
小泉稲荷神社に通じる巨大な一の鳥居
回りに大きな建物等がないため、鳥居の大きさがひときわ目立つ。
高さは22.17m。竣工は昭和56年
この大鳥居から東方向に500m程先に小泉稲荷神社が鎮座する。
『日本歴史地名大系』「小泉村」の解説
利根川右岸で、北は下之宮(しものみや)村、南は沼之上(ぬまのうえ)村・飯倉(いいぐら)村、東の利根川対岸は柴(しば)町(現伊勢崎市)。下之宮村境に矢や川の旧河川敷が低地をなす。
正保五年(一六四八)前橋藩によって検地が行われ、反別合計一九町余(小泉村誌)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二六石余・畑方八八石余。近世後期の御改革組合村高帳では旗本戸田領、家数一六。前掲村誌によると天明三年(一七八三)浅間焼けによる降灰は七、八寸に及び、水田三町歩が利根川を流下した泥土で埋没したと伝える。この泥入りで沼之上村との境界が不明となり、両村の村方三役が立会いで境界を定めた(「取替議定書」高橋文書)。
東向きの小泉稲荷神社正面鳥居
この鳥居に対して横向きに奉納・寄進した大小300基もの鳥居が参列に並んでいる。
嘗て京都の伏見稲荷神社に参拝したことがあったが、そこには不思議な美しさと神聖性が辺りを包んでいたように感じたが、この社はやや窮屈そうな印象は正直ぬぐえない。
東向きの正面鳥居に対してズラリと並んだ南向きの鳥居群
濃密な鳥居のトンネル
奥行きもあるため、鳥居の先がここからでは見えない。
鳥居のトンネルを抜けると正面に拝殿が見える。
境内には「拝殿屋根改修記念碑」があり、社の由緒等が記されている。
拝殿屋根改修記念碑
幾百年の歴史を胸に社前にぬかづくとき、なぜか心の安のやすらぎを感じる小泉稲荷神社
御祭神稲魂命(うかのみたまにみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする小泉稲荷神社は、人皇十二代崇神天皇の御代に豊城入彦命が東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉紀し住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝えられている。
其の後、慶長五年(1600年)この地の領主久永源兵衛は崇敬の念が篤く社殿を修理し敬神の範を示したために領民からは氏神としたと云われる。特に江戸時代末期の祭礼日には近郷近在の参詣人で非常に賑わったと云われている。
明治・大正時代を経て昭和初期社殿を改築する。その後、昭和三十六年四月社殿運営の奉賛会を組織し崇敬者の多数の御協賛により現在の社殿を造営する。以来、稲荷大明神の御神威益々輝き、霊験あらたかな御神徳を仰ぎ、幸福を願う崇敬者は現在数十万人にも及ぶ賑わしさになる。
社前には二百数十基にも及ぶ鳥居が奉納されている。尚崇敬者の真心を顕現し小泉稲荷神社の神域の基礎と神威の象徴を明らかにするため大鳥居建設奉賛会を組織し、万余人に及ぶ崇敬者の御協賛をいただき昭和五十六年四月高さ二十二・一七メートルの大鳥居を竣工する。
平成十七年十二月に拝殿屋根改修を行う。
小泉稲荷神社の創建は、崇神天皇の時代に、毛の国開拓の祖神とされる豊城入彦命が、東夷征討の折に山城国伏見稲荷の分霊を祀って創建したものと伝えられている。但し伏見稲荷大社の創建時期は和銅年間(708年〜715年)といわれているので、「崇神天皇」の御代とは年代は会わないが、それだけ歴史も古く由緒もあったのであろう。
平安時代には、耶無陀羅寺という阿弥陀寺の境内社になっていたという。その後、安土桃山時代の慶長5年(1600年)、当地の領主である久永源兵衛に篤く崇敬された。
大正2年に大東神社に合祀されたが、後に戻されて氏子の管理となる。
現在は、大東神社とともに国定赤城神社の兼務社。
拝 殿
拝殿の扁額 本 殿
「拝殿屋根改修記念碑」に記載されている「久永重勝(ひさなが しげかつ)」は、戦国時代から江戸時代初期の武将。別名 源五・源六・源兵衛。
久永氏は石見国久永を名字の地とする賀茂氏(賀茂吉備麻呂)の末裔を称する一族で、祖父重吉の代に三河国額田郡に移って松平氏・徳川氏に仕えた。
徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは敵兵2人を射殺す武功を上げ、家康より葵紋入りの矢筒と弓立を拝領し、遠江国榛原郡に200石を与えられた。天正18年(1590年)小田原征伐、天正19年(1591年)九戸政実の乱での陸奥岩出山城出張、文禄元年(1592年)肥前名護屋城出張に従う。名護屋城出張の際には自ら銀鞘の佩刀で出仕したために家康の感心を買い、兵糧300俵を賜っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにも従軍。
慶長8年(1603年)からは徳川秀忠に属し、武蔵国児玉郡に550石を与えられる。のち弓頭となり、同心10人足軽50人を預けられ、所領も武蔵・上野・常陸に5千2百石を与えられた(ただし、内2千石は同心足軽の知行)。慶長10年(1605年)秀忠の上洛に随行。慶長14年(1609年)武者船没収が発令されると、九鬼守隆・向井忠勝とともに淡路国へ出張している。慶長16年(1611年)常陸・下野に群盗が蜂起すると、服部保正・細井勝久と共にその鎮撫を命じられ、案内人を催してこれらを鎮定した。のち下野大光院の普請奉行となる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣のために出陣し、休戦後の大坂城総堀埋め立ての奉行となる。慶長20年(1615年)夏の陣にも出陣。家督は子の重知が継いだ。
社殿左側奥に祀られている白狐納所 本殿奥には奥宮が鎮座。平成22年10月に新築
小泉稲荷神社の南西部は、東小保方町地域があるが、その地域に鎮座する大東神社境内周辺は嘗て「旗本久永氏陣屋跡」と云われている。現在の東小保方地区は江戸時代には東小保方村と呼ばれ、徳川家の旗本久永源兵衛重勝の領地であった。久永氏は石見国(島根県)の出身であり、埼玉や茨木にも領地が点在する禄高三二○○石の旗本である。
東小保方村は石高が1182石の村であり、久永氏は村の支配のためにこの地に陣屋を設けました。陣屋は東西75m、南北120mの大きさで、濠や土居が構えられていた。濠はその後拡張されて池となってしまい、現在では南池の南端と西池の東端にわずかに当時の面影が残されているのみであるという。
南面には正門を有し、更に南へと通路が続いて細長い大手枡形となり、南端には木戸が設けられていたものと思われ、この形は陣屋特有のものであり、県内でも吉井や岩鼻の陣屋がこれと同じ形になっている。
明治維新後陣屋は廃され、一時期小保方小学校として使われると共に、大正2年には周辺の神社を合祀した大東神社がおかれ今日に至っているという。
元小泉神社の奉納手洗盤
伊勢崎市指定重要文化財 元小泉神社奉納手洗盤
この手洗盤は江戸時代末期の元治元年(1864)、現在地より約二百メートル西にあった稲荷社の御宝前に奉納されたものです。その後大正二年にこの稲荷社が大東神社に合祀された時に、手洗盤も大東神社に移されてしまいました。以後長い間大東神社に置かれていましたが、昭和六三年、関係者の協力により現在地へ移転されたものです。
手洗盤の正面には、旗本久永領陣屋元役人清水氏の時に近郷の香具師の張元(伊勢崎の銭屋、境の不流一家、赤堀の小松屋)が世話人となって奉納された事が記されており、残り三面には願主の田村丹治良・惣治良をはじめとする小泉・大原等近村の百姓約百名の献金者の名前が記されています。
江戸末期において商業資本が農村地域に浸透しつつあった事とあわせて、現世利益の稲荷信仰の歴史をみる上で大変貴重なものです。(以下略)
案内板より引用
現在の手水舎(写真左・右)
駐車スペース角に並んで祀られている石祠・石碑群
境内の目立たない場所にひっそりと祀られているわけではないが、何となく丁重な扱いを受けてないような気がする。筆者としては、むしろこちらのほうが、地域に密着した歴史をもつ大切な宝物ではなかろうか、とふと感じた次第だ。
参考資料「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
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群馬県の神社
2024-03-18T01:42:55+09:00
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妙義神社摂社・波己曽神社
 妙義山は、今から約6~400万年前のカルデラを伴う火山の噴出物でできており、活動後の長年の浸食でカルデラ内の硬い火山の石だけが浸食に耐えて、現在の聳えるような岩山になった。
 妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。...
妙義山は、今から約6~400万年前のカルデラを伴う火山の噴出物でできており、活動後の長年の浸食でカルデラ内の硬い火山の石だけが浸食に耐えて、現在の聳えるような岩山になった。
妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。創建は「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。
鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる。
この中で行沢の波己曽神社、諸戸の波己曽神社(吾嬬者耶神社)は現存している。
・所在地 群馬県富岡市妙義町妙義6(妙義神社内)
・創建・建立 明暦2年(1656年)
・指 定 群馬県指定重要文化財
妙義神社の総門近くに鎮座する摂社・波己曾神社。途中までの経路は妙義神社を参照。
社の入り口のような存在である総門の先にはやや左側にずれるように石段があり、上った先に銅鳥居があるが、そのすぐ右手奥には波己曾神社が鎮座する。
因みに摂末社(せつまつしゃ)とは、神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。
現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。
妙義神社 摂社 波己曾神社正面
「上野国風土記」に「妙義大権現社記」があり、これによると宣化天皇二年(537年)に鎮座、とあるほか、一書に宝亀年中(770~180年)草創とあり実は波己曽神社なるを・・・と記されている。主祭神は日本武尊。(妙義町誌下)537年鎮座が正しいとすれば、1480年ほどの長い歴史を有することとなる。
また波己曽神社が妙義神社の前身であり、妙義の地主神と伝えられ現在でもそう変わりはないように思われる。平安時代の「上野国交替実録帳」には、波己曽神社は美豆垣、荒垣、外垣と垣が三重にめぐらしてあったと記される。この頃までは社殿はなかったといわれ、波己曽神社と社務所の間にある大岩・影向岩が磐座として信仰の対象で祭祀場であったとされる。この方式は日本最古の神社ともいわれる奈良の大神神社と似ている。大神神社は三輪山そのものをご神体として社殿を持たないが山上には三つの磐座が存在する。
拝 殿
波己曾社(県指定重要文化財)
妙義神社の前身は石塔寺であり、そのまた前身が波己曽神社であろう。波己曽神社は白雲山にあり、妙義山の信仰は金洞山や金鶏山よりも白雲山を中心に信仰を集めていた。
妙義神社には、元々波己曽神が主祭神として祀られていたが、神仏習合により妙義大権現が主祭神となり、現在では日本武尊となっている。そして今では、波己曽神社は境内摂社に格落ちした形になった。
波己曽神社の信仰は古来よりのもので社殿は建立されていなかった。「波己曽」の由来は「いわこそ」であり、長い間に「い」が失われて「はこそ」になったものと考えられている。
「いわ」は岩であり大昔は大岩が自然崇拝・信仰の対象になっていた。
波己曽神社のご神体は、現在の妙義神社社殿北東の奥の院への登り口にある「影向岩」(えいごういわ)であったと推測される。
奥の院は「大の字岩」の奥の岩窟であり、幅は約六メートル、奥行き約十メートル、高さ十メートルという大きなものである。
大黒天や観音の石仏が祭られて山岳信仰の岩窟に似つかわしいものである。影向岩には注連縄が張られ、毎年十二月の「すすはらい」のときは未婚の男子が身支度をして清掃している。
一説には、この大岩は天から降ってきたと伝えられている。物凄い音を立てて降ってきたが、ここが居心地が良いというので納まったまま苔むしたという。波己曽神は、往昔、そびえ立つ岩石を真下に立って仰ぎ眺めた先住人たちが、今にも倒れ落ちて自分の頭上に押しかぶさってくるのではないかと恐怖を感じたので、山の神信仰のように危難を免れるために祈願して祭ったものと言い伝えられている。
「上野国交代実録帳」に記された三重の垣を廻らした波己曽神は、古代信仰によるものであったから社殿を必要としていなかった。三重の垣とは、美豆垣壱廻、荒垣壱廻、外垣壱廻と表現されている。
鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる。
拝殿正面右側に設置されている標札 拝殿内部
波己曾神社 本殿
『日本歴史地名大系 』「波己曾社」の解説
[現在地名]妙義町妙義
妙義神社境内に鎮座する。同社の地主神で、前身であると考えられている。白雲山麓の諸戸(もろと)・行沢(なめざわ)や碓氷郡松井田町行田(おくなだ)に鎮座する七波己曾社の中心。「三代実録」貞観元年(八五九)三月二六日条に「授上野国正六位上波己曾神従五位下」とあり、元慶三年(八七九)閏一〇月四日に従五位上、同四年五月二五日に正五位上勲一二等に叙せられた。
長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」には「碓氷郡 勲十二等波已曾神社 美豆垣壱廻 荒垣壱廻 外垣壱廻」とあり、総社本「上野国神名帳」でも碓氷郡に記され「従二位波己曾大明神」とある。江戸の国学者奈佐勝皐が天明六年(一七八六)上野・下野両国を調査見学した際の日記「山吹日記」五月四日の条で、妙義神社境内に入ったのち「左りの方に出れは波古曾の御神います、これも御社いときよらなり、此御神は神名式には載られねとも、三代実録にしはしは見えたるふるきみやしろなれとも、今はかく側にいますやうになり、おしなへてはしる人もなし」と記す。
社殿左側に鎮座する厳島神社 波己曽神社の敷地内に設置された
『妙義神社再建事業記念碑』
参考資料「日本歴史地名大系」「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」「妙義神社HP」等
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群馬県の神社
2024-03-16T10:33:01+09:00
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妙義神社
「上毛三山」は群馬県が誇る代表的な山である。赤城山・榛名山・妙義山を指し、三山にはそれぞれ赤城神社、榛名神社、妙義神社が鎮座し、人々は各山に宗教的意味を与えて崇拝、または種々の儀礼を行ってきた。
 妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置し、九州の耶馬渓・四国の寒霞渓と並...
「上毛三山」は群馬県が誇る代表的な山である。赤城山・榛名山・妙義山を指し、三山にはそれぞれ赤城神社、榛名神社、妙義神社が鎮座し、人々は各山に宗教的意味を与えて崇拝、または種々の儀礼を行ってきた。
妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置し、九州の耶馬渓・四国の寒霞渓と並んで、日本三大奇景の一つとされる山であり、国の名勝に指定され、日本百景にも選定されている。標高は1,104mと決して高くはないが、そのギザギザと尖った奇岩が乱立し、表面に露出した荒々しい岩肌が創り出す自然景観の美しさが特徴的な山である。
その絶壁と奇岩怪石が成す山容は浮世離れした雰囲気を醸しており、古くから信仰の対象となっていた。妙義神社は「上毛三山」の一つである妙義山の東麓に鎮座し、妙義山信仰の中心となっている神社である。江戸時代は関東平野の北西に位置し、江戸の乾(戌亥)天門の鎮めとして、家運永久子孫繁昌を願って歴代の徳川将軍家に深く信仰され、加えて加賀の前田侯外諸大名の崇敬も篤かったという。
・所在地 群馬県富岡市妙義町妙義6
・ご祭神 日本武尊 豊受大神 菅原道真公 権大納言長親卿
・社 格 国史現在社(波己曽神)旧県社
・例祭等 例祭 4月15日 山開き祭 5月5日 紅葉祭 11月3日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2998804,138.7652371,15z?hl=ja&entry=ttu
群馬県富岡市に鎮座する一之宮貫前神社から群馬県道47号一ノ宮妙義線・同県道191号妙義山線で約11㎞先にある妙義神社。県道47号線・191号線の交点である「北山」交差点辺りからは、ほぼ正面に妙義山の稜線がハッキリと見え、表面に露出した荒々しい岩肌が真近かに見えてくる。
妙義神社の正面鳥居から道を隔てた向かい側には「道の駅みょうぎ」があり、そこには十分な駐車スペースも確保されている。
*参拝日 2021年(令和3年)12月11日。
「道の駅みょうぎ」から見る妙義山
妙義山は、赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられ、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれている。特に下仁田側から眺望できる金洞山 (1,094m) は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれてきた。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられている。
『妙義』の名称の由来は諸説あり、後醍醐天皇に仕えた権大納言長親卿が、この山を眺め、明々巍々(めいめいぎぎ)であるところから「明巍」と名付けた事が、後に「妙義」となったと言われた説や、威厳があることを表す「明々巍々(めいめいぎぎ)」と例えられたことが名前の由来となったという説もあるが、実際のところは不明である。
妙義神社正面大鳥居
史実によれば「権大納言長親卿」と記載されているこの人物の本名は花山院長親(かさんのいん ながちか)で、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・学者・歌人・禅僧。生年は1347年といわれ、後醍醐天皇の崩御した1339年からかなり後代になってから南朝で活動した人物であり、両者の接点はないに等しい。正長2年(1429年)7月10日に薨去。享年83ともいい、終焉の地に関しては遠江国耕雲寺説や上野国妙義山説も嘗てあったようだが、長親が晩年地方に下ったとする史料はなく、やはり京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力であるようだ。
妙義神社正面鳥居を過ぎて、上り坂の道を進む。最初は両側に売店も数店あるが(写真左)、社の社号標柱の地点からは境内となり、厳かな雰囲気と変わる(同右)。
社号標柱を過ぎて、上り坂を登り詰めると正面に朱を基調とした総門がある。
朱色にカラフルな色彩が素晴らしい正に妙義神社の入り口のような存在。
旧白雲山石塔寺の仁王門だったが、神仏分離の時代を経て現在は神社の総門となっているが、左右に仁王像が祀られている。江戸時代後期(1773年)の建立。三間一戸八脚門、切妻造、銅板葺。国指定の重要文化財(昭和56年・1981 6月5日)となっている。
妙義神社総門(旧白雲山石塔寺仁王門)
石塔寺(神仏習合の妙義大権現)の旧寺域には社務所(建立年代不詳)と御殿(嘉永6年/1853年築)が置かれています。 総門は、安永2年(1773)築で、国の重要文化財。
江戸時代後期の八脚門の代表的な遺構となっています。
白雲山石塔寺の仁王門だったので、廃仏毀釈で石塔寺が廃寺となり、妙義神社の総門となった現在も左右に仁王像が祀られています。
総門をくぐると銅鳥居で、その先に165段の石段がありますが、平成17年のNHK大河ドラマ『義経』で、牛若丸が修行する鞍馬山の設定でロケ地となったところ。
ちなみに石塔寺は、房州の石堂寺(いしどうじ/南房総市/当初は「石塔寺」)、近江の阿育王山石塔寺(いしどうじ/東近江市)とともに日本三石塔寺に数えられていました。
「妙義神社公式HP」より引用
総門の近くに設置されている「妙義山歩道」の案内板
総門の先には石段が2か所あり、2番目で斜め左側の石段の先には銅鳥居がある。
群馬県指定重要文化財
銅鳥居の左手前側には3本の大杉が聳え立つ。
通称「三本杉」
妙義神社・唐門の石段からほぼ直線上にこの3本の杉があり、また3本の杉の木の真ん中には不思議な気の流れがあるようで、この空間に入り、お願い事をする方が多いようだ。妙義神社一のパワースポットと言われている。
銅鳥居から参道を進んで石造の「太鼓橋」を渡ると、上部神域へと一直線に延びる165段の石段が見えてくる。
165段の勾配のある石段を撮影。
写真左側は上部神域へと一直線に延びる石段の様子。右側は石段から下の風景を撮影したもの。石段は上に上がるにつれ、樹木の根に押されたためか、異様に凸凹しているところが何カ所かあり、正直きつい。途中何度か休憩を入れながらやっと終点までたどり着くことができた。
石段を上り切った先が神域の入口となる隋神門
この門も群馬県指定重要文化財
唐 門
隋神門を潜りぬけて、左側に曲がり、右側に見える石段を上り切ると豪華絢爛な唐門が見えてくる。-宝暦六年(1756年)の建立。妻を唐破風にした銅茸平入りの門で、これらの建物の周囲は彫刻でもって埋められている。昭和56年(1981年)6月5日国重要文化財に指定。
唐門を裏側から撮影
拝 殿
国重要文化財 本殿・幣殿・拝殿(合わせて1棟、権現造)
江戸時代後期(1756年)の建立。本殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造。幣殿、桁行三間、梁間一間、一重、両下造。拝殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風。
創建は、宣化天皇2年(537年)と伝わる。
元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。神仏習合時代、妙義神社には別当(神社を管理する寺)として上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があった。現在の妙義神社の総門は、明治の初めに廃寺となった石塔寺の仁王門である。神社の総門となった現在も、左右に仁王像が祀られている。
現在の社殿は、宝暦年間(1751年 - 1764年)の大改修によるものである。古くは波己曽(はこそ)神社といい、『日本三代実録』に記載がある。
拝殿上部に掲げてある黄金の扁額 拝殿内部
社殿の奥に回ると、天狗社がある。
妙義山には天狗が住むという言い伝えがあるそうで、天狗は一部の山伏が死後に転生した姿だとも言われている。ここにも妙義山が山岳信仰の山である事がわかる。
本 殿
参拝中、ふと思ったことがある。日本人にとって「山」とはどのような存在、対象物であったのだろうかと。
日本の国土面積の約 4 分の 3 は山地や丘陵地である。関東平野などの一部の地域を除けば、ふと周りを見渡せば、何かしらの山を見ることができよう。それ程山は身近な存在である。
しかし一部の山は里人も崇める程度に留める「霊山」として祀られる場所も多々存在する。
日本の古神道においても、水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から、山や森を抱く山は、神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきた。これらの伝統は神社神道にも残り、石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している事例もみられる。
山そのものを神体としたり,山の神と田の神が交代する信仰や山人伝承,死霊が山にとどまり祖霊化する信仰等は,こうした観念に基づく。
その後飛鳥時代に伝来されたという仏教においてでも、世界の中心には『須弥山(しゅみせん)』という高い山がそびえていると考えられ、平安時代に空海が高野山を、最澄が比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていった。平地にあっても仏教寺院が「○○山△△寺」と、山号を付けるのはそのような理由からである。
日本における、山岳修行の開祖は役小角(えんのおづぬ)ではあるが、山岳信仰が本格的に日本古来の古神道や、後に伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗等の密教)への信仰と結びついて、「修験道」という独自の宗教が生み出されるのは平安時代からである。
修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立した。
平安中期以降山岳修行により呪術的な力を獲得して宗教活動をする山伏(修験者)が出現して,日本の山岳信仰を特徴づけた。修験者の指導によって講が組織され,本来仰ぎみる信仰対象であった山岳は,しだいに参詣登拝の対象となる。霊山・名山の多くは江戸時代に庶民の登拝対象になった。明治期以降うまれた多数の教派神道は,こうした山岳を拠点としているとの事だ。
社殿での参拝を終了し、帰りは一般参道ではなく、外回りのルートを利用した。この一帯も境内で、手入れも行き届いていて、水神社や愛宕社等の石祠が祀られている。
水神社の石祠 水神社の南側には愛宕社が鎮座
この下り坂のルート途中には多くの大岩・巨岩が見られる(写真左・右)。考えてみれば、山岳信仰は、山を崇め奉る信仰である。この信仰は基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。
参考資料「妙義神社公式HP」「山川 日本史小辞典 改訂新版」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」等
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群馬県の神社
2024-03-13T22:45:49+09:00
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上野国一社八幡八幡宮
「一国一社」という称号は、浅学な筆者にはあまり聞きなれない名称である。隣国である下野國(現栃木県)には同名の「下野國一社八幡宮」があるが、それによると「下野国第一の八幡宮という意味で下野國一社八幡宮あるいは一國一社八幡宮」とも称されてきたとされているが、この「上野国一社八幡八幡宮」も上野国の中で第一...
「一国一社」という称号は、浅学な筆者にはあまり聞きなれない名称である。隣国である下野國(現栃木県)には同名の「下野國一社八幡宮」があるが、それによると「下野国第一の八幡宮という意味で下野國一社八幡宮あるいは一國一社八幡宮」とも称されてきたとされているが、この「上野国一社八幡八幡宮」も上野国の中で第一の八幡宮、という意味となるのであろうか。
「Wikipedia」で検索すると、最初に「国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)」と出る。この宮は、令制国の国府(府中)の近くに創建された八幡宮であり、「府中八幡宮」と称されたり「国分八幡宮」と表記されることもある。また単に「八幡宮」「八幡神社」と称したり、地名を冠する神社もある。
国府八幡宮には神社によって、国衙の鎮守であると伝えるものと、国分寺の鎮守と伝えるものとがある。一般に国府と国分寺は近くにあることが多く、両者が混同されたものもあると見られている。総国分寺である奈良の東大寺の鎮守社が手向山八幡宮であることから、各地の国府・国分寺でも八幡宮を鎮守としたとも考えられる。これらの国府八幡宮は国府の近くにあることから、後に総社の機能を持つようになったものもある。
必然と「一国一社の八幡宮」「一道一社の八幡宮」「総社八幡宮」と称する八幡宮も、国府八幡宮に由来するものとされるが、例外もある。例として、武蔵国では総社八幡宮として磐井神社が、国府八幡宮として武蔵国府八幡宮が鎮座しており、また国分寺市西元町の八幡神社が国分寺の鎮守であったとする説もあり、分立している。また、上野国は国府比定地に近い前橋八幡宮が国府八幡宮とする説があるが、国府比定地から離れた場所に一国一社八幡宮として上野國一社八幡宮が鎮座している場合もあるという。
どちらにしても一国一社八幡宮の定義はどうも曖昧で結論は出そうにない。
・所在地 群馬県高崎市八幡町655
・ご祭神 (主)品陀和気命 (並)息長足姫命 玉依姫命
・社 格 旧郷社
・例祭等 新年大祭 1月第二土曜日 宵祭 4月4日(夜)
春祭 4月5日 秋祭 11月3日 二年参り 12月31日(夜)
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3396691,138.9495097,16z?hl=ja&entry=ttu
国道17号線の交点、及び国道354号線の起点でもある「君が代橋東交差点」で、碓氷川に沿って走る国道18号線に入り、4㎞程西方向に進む。「八幡大門」交差点を右折すると、すぐ正面には上野国一社八幡八幡宮の大鳥居が見え、そのまま道なりに進むと、社の神門が正面に見えてくる。
神門付近はY字路となっていて、そこを左方向に進む。上り坂の道の先は右カーブ方向に折れ曲がり、その起点付近右側に専用駐車場に入る路地があるので、そこに進行し、駐車後参拝に臨んだ。因みに「八幡大門」交差点先にある大鳥居の撮影は出来なかった。
上野国一社八幡八幡宮正面神門
神門は弘化2年(1845年)に竣工。この門には神仏習合の名残りがあり、元は「仁王門」と云い、今でも門の両側には仁王様が睨みを効かせている。
13世紀世紀中頃のものと思われる正月三〇日付関東御教書写(「榊葉集」所収)によると、板鼻別宮すなわち当社の預所は上野国守護安達景盛であった。当社の鎮座地は板鼻庄に含まれ、また東隣の大聖護国(だいしようごこく)寺が別当寺であったらしく、「板鼻庄八幡宮大聖護国寺」(天正一八年八月三日「徳川家康制札写」成就院文書)などと記されている。
神門を過ぎて石段を登った先に二の鳥居がある。 二の鳥居
天正一九年(一五九一)由緒書写(矢口文書)および文政六年(一八二三)由来書上(清水文書)によれば、天徳元年(九五七)村上天皇の勅命により山城国石清水八幡宮を勧請したもので、永承年中(一〇四六―五三)源義家が奥州遠征の途中当社へ祈願、凱陣後の康平六年(一〇六三)、拝殿から末社までを造営し義家の鎧・兜・弓矢や神器を奉納した。
旗竿で源氏の長久を祈願したところ一夜で根葉が出て目白の神竹となり、以来源家の崇敬する社となった。源頼朝も木曾義仲追討の節当社に祈願し、大功を遂げて神殿を残らず造営した。新田義重も格別に信仰し社殿を再興したという。
宝永5年(1708年)の竣工と推定される随神門
「随神」とは、ご社殿や神社社地などを守る神様を指す。その神様は、随神門などに安置されていて、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)という俗称で呼ばれることもある。
左右二神共、弓と矢を携え、剣を帯びているが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府(このえふ)の舎人(とねり)の姿で、彼らは「随身(ずいしん)」と呼ばれていた。その随身が転じて、主神に従い守護するという意味で随神となったという。
この随神門は市指定文化財。
随神門の先で左側にある市指定文化財の鐘楼
入母屋、鉄板葺、袴腰、上層部外壁は吹き放し、昭和53年(1978)に鋳造の釣鐘。
随神門の先で右側にある神楽殿
「上野国一社 八幡宮大大御神楽」の案内板
上野国一社 八幡宮大大御神楽
当八幡宮の御神楽は、現社殿の造営(江戸中期の宝暦七年・一七五七年)に当たり、それまで中断していたのを、京都神祇官領に出願し、宝暦四年(一七五四年)に伝授されて復興したものです。
能様式をとり入れた荘重・優雅な趣があって、他に見られない特徴となっています。座数は三十七座、お囃子は下り破(さがりは)・出羽・かまくら・しようでん等の十六種目、舞は住吉・天狐(てんこ)・外道・戸隠・中切・醜女・招福・神剣・松堂・大蛇・三神和合・猿田彦の十二種目でこれらが今日全部保存されており、近年巫女舞も復活されました。
県下でも有数の御神楽で、平成元年三月八日に高崎市の重要無形民俗文化財第一号に指定されました。(以下略)
案内板より引用
拝 殿
上野国一社八幡八幡宮
上野國一社八幡八幡宮は、群馬県高崎市八幡町にある神社である。旧社格は郷社。元々は碓氷八幡宮・板鼻八幡宮と呼ばれていたと言われる。現在は一般的に八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)と通称されるほか、「やわたのはちまんさま」と呼ばれている。
上野國一社八幡八幡宮は、天徳元年(957年)に源満仲の3男・河内源氏の祖である源頼信が八幡荘に石清水八幡宮を勧請して創建されたという。当初、八幡宮は一国一社の建立だった為、上野国一社八幡宮とも称されていて、その後、 源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていたという。主祭神は品陀和気命、併せて息長足姫命、玉依姫命が祭祀されている。
当社は江戸時代から神仏混合になったとされ、境内には旧護摩堂(現在の拝殿)、旧仁王門(神門:三間一戸、八脚単層門、切妻、銅板葺、仁王像は失われている)や旧本地堂(天満宮:木造平屋建て、入母屋、鉄板葺、妻入、間口2間、正面1間唐破風向拝付)、鐘楼(入母屋、鉄板葺、袴腰、上層部外壁は吹き放し、昭和53年:1978年に鋳造の釣鐘。)などがあり当時の名残が見られる。明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当寺院だった神徳寺が廃され郷社に列した。
境内敷地は約9,000坪。現在の社殿(隋身門、拝殿、本殿)は文化11年(1750年)ないし宝暦7年(1757年)の再建とされる。本殿は天地権現造り、境内社の天満宮は元本地堂、また同じく稲荷社は元宮である。本殿・幣殿・拝殿は高崎市指定重要文化財。
「Wikipedia」より引用
精巧な彫刻や極彩色、金箔等豪華な仕上げである本殿
現在の上野国一社八幡宮社殿は宝暦7年(1757)に建立されたもので、拝殿(木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺、平入、正面千鳥破風、桁行8間、張間4間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り)、幣殿(両下造、銅板葺、桁行3間、張間2間、花頭窓付)、本殿(三間社入母屋造、銅板葺、平入)が一体となる権現造り。精巧な彫刻や極彩色、金箔など豪華な仕上げで、江戸時代中期の社殿建築の遺構で優れた意匠を有する貴重な存在である事から平成10年(1998)に高崎市指定重要文化財に指定されている。
境内社・日枝社(山王宮) 境内社・地主稲荷社
本殿奥には摂社二十二社 摂社二十二社の並びに
境内社・東照宮(疫斎神)
上野国一社八幡八幡宮は創建から1,000年の歴史があり、多くの建物等の文化財が指定を受けている。全てを解説するのは無理があるので、以下の説明に留めたい。
・ 社殿(拝殿、幣殿、本殿)-天地権現造り-宝暦7年-高崎市指定重要文化財。
・算額(三面)-天明7年・天保5年・安政7年-群馬県指定重要文化財。
・大大御神楽-宝暦4年復興-高崎市指定無形民俗文化財。
・胴丸2領-南北朝時代(室町時代)-高崎市指定重要文化財。
・唐銅燈籠-慶応3年-野澤屋惣兵衛奉納-高崎市指定重要文化財。
・八幡宮社頭造営図-高崎市指定重要文化財。
・境内森林-群馬県及高崎市緑地保全地区。
拝殿から境内を撮影
上野国一社八幡八幡宮の建物結構はいわゆる神仏混淆色で、仏殿様式の建物が残る由緒深いものという。例えば元本地堂の天満宮、元仁王門の神門、鐘楼、拝殿内の護摩堂など。境内は約八千坪(2.7ha)で県・市指定緑地地区になっている。
参考資料「日本歴史地名大系」「東京都神社庁HP」「高崎市公式HP」「上野国一社八幡八幡宮公式HP」
「群馬県:歴史・観光・見所」「ぐんラボ」「Wikipedia」「境内案内板」等
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群馬県の神社
2024-03-11T20:53:32+09:00
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伊勢崎神社
 律令時代、概ね広瀬川を挟んで東の「佐位(さい)郡」と西の「那波(なわ)郡」に分かれ、藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。藤原系渕名氏は、兼行の直系の子孫で下野国足利に勢力を持つ...
律令時代、概ね広瀬川を挟んで東の「佐位(さい)郡」と西の「那波(なわ)郡」に分かれ、藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。藤原系渕名氏は、兼行の直系の子孫で下野国足利に勢力を持つ俊綱.忠綱父子が寿永内乱期に滅亡すると、鎌倉幕府の役人で京都から派遣された中原氏が渕名氏を継承する。一方、兼行の別の子孫は那波郡に勢力を持ち那波氏を称していたが源平合戦時、那波弘澄(広純)が源義仲に与して一族は衰亡し、中原氏の一族・大江広元が那波氏を継承した。伊勢崎市堀口町には「那波城跡」があり、鎌倉時代から戦国時代にかけて大江系那波氏の居城となる。
伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれた。戦国時代には大江系那波氏の末裔・那波宗俊が崖上に「赤石城」を築く。1560年上杉謙信が三国峠を越えて上野国に進出すると、宗俊は北条氏に従って抵抗するが、赤石城は落城、本拠の那波城は囲まれて降伏する。
因みに赤石城には那波氏の一族である「赤石氏」も存在していた。赤石城落城後、一族は近村の飯土井村赤石城(現前橋市飯土井町)へ移った。
赤石城攻略の手柄により謙信から那波氏の旧領を与えられた上野国の戦国大名・由良成繁は、日頃から信仰していた伊勢神宮の御加護と考え、伊勢神宮に那波郡の一部を寄進し、赤石城内には「伊勢宮」を勧請する。やがて庶民の信仰の利便のため伊勢宮が城外に移されると、人々が集まって門前町を形成し「伊勢の前(さき)」と呼ばれて現在の「伊勢崎」の由来となったという。
・所在地 群馬県伊勢崎市本町21-1
・ご祭神 保食神 他27柱
・社 格 旧県社 創建 建保元年(1213)
・例祭等 上州焼き饅祭 1月11日 春季例祭 4月15日
例大祭 10月17日 ゑびす講祭 11月19日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3204857,139.1880026,14z?hl=ja&entry=ttu
国道17号バイパス線を伊勢崎市方向に進路を取り、「上渕名上武道下」交差点を左折する。但しこの付近の国道は高架橋となっているので、数百メートル手前で一旦高架橋から分かれる道に移動し、下った先の上記の交差点を左折しなければならないので、そこは注意が必要だ。交差点を左折後、群馬県道2号前橋舘林線に合流し、道なりに4㎞程進む「本町二丁目」交差点先の十字路を左折すると、すぐ右側に伊勢崎神社の正面鳥居が見えてくる。
伊勢崎神社の正面鳥居前に10台程の専用スペースがあり、参拝は非常に楽である。街中にある社で社格は旧県社。
伊勢崎神社正面
正面鳥居の左側に設置されている「伊勢崎神社御由緒」
「伊勢崎神社御由緒」
順徳天皇の御代の健保元年(一、二一三年)、三浦介義澄の創立したものと伝えられています。代々の赤石城主の崇敬厚く、明治に至って氏子持ちとなりました。大正十五年、旧称の飯福神社が稲荷神社をはじめ町内数社を合祀し、伊勢崎神社と改称されました。社殿は本殿・幣殿・拝殿からなり、本殿は嘉永元年(一、八四八年)の創建であり、幣殿並びに拝殿は昭和十一年(一、九三六)に造営されたものです。彫刻の緻密にして壮麗なことは氏子の誇りです。
御祭神 保食命(宇氣母智命)
御神徳
保食命は食物を初めとして産業を司る神で、人の生活上欠くことの出来ない神様です。記紀神話において、身体から食物や獣を生み出す記述があるように、物の成り出ずる力を備えています。
「衣食足りて礼節を知る」の通りで、一定の財産を持つことは人生においてとても大切なことです。家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の神様として親しまれています。
案内板より引用
「伊勢崎案内記」には、当神社に関して簡潔ではあるが以下の記載がある。
「伊勢崎町字裏町に在り祭神は宇気母智神保食命なり建保元癸酉年九月三浦之輔義澄の勸請せるものなりと云ふ古來より伊勢崎町の總鎮守なり」
参道正面・境内の様子
街中に鎮座しているためか、「伊勢崎神社の境内地は約700坪」と当社HPに記載されているように、「旧県社」の格式として社の規模は決して大きくはない。
但し境内は程よく手入れもされていて、神楽殿や境内社、石祠・石碑等も決められた場所におさめられている。平日に参拝したわけであるが、参拝中も多くの参拝客がお参りしていて、地域の方々に親しまれている立派な社と言う印象を受けた。
参道正面左側に聳え立つご神木(写真左・右)
現在伊勢崎神社が鎮座している地域名は「本町」であるが、嘗てこの地は「赤石」と称していた。この伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれていた。
伊勢崎神社の西側には広瀬川が南北に流れているが、その左岸堤防付近には「赤石稲荷」という小さい社が鎮座している。どうやら調べて見ると「金蔵院古墳(赤石山古墳、伊勢崎町第1号古墳)・径25m、高さ2.7mの円墳」上にある社という事だ。
伊勢崎発祥の地『赤石』の名前を冠にした「赤石稲荷」。「赤石」という地域名はないようだが、このように伊勢崎神社周辺には「赤石」由来の社や建物等が散在しているのも面白い。
正面鳥居を過ぎ、すぐ参道左手に神楽殿がある。 神楽殿の並びにある手水舎。
神楽殿と手水舎の間のスペースに祀られている 手水舎の奥には芭蕉句碑と銅製の御神燈。
境内社・稲荷神社。 御神燈の下には石祠群が置かれている。
芭蕉句碑
芭蕉句碑には「よく見れば薺花咲く垣根哉」の句が彫られている。
拝 殿
伊勢崎神社
伊勢崎神社は、群馬県伊勢崎市本町にある神社で、旧社名は飯福神社(いいふくじんじゃ)、通称は「いいふくさま」。旧社格は県社である。
創建は建保元年(鎌倉時代)、三浦義澄(三浦介義澄)によるものと伝えられている。鎌倉時代末期の元徳元年(1329)に、国司である新田義貞が現在の地に移し、社殿を修理して、八坂神・稲荷神・菅原神の3神を合祀したという。地元・赤石城(伊勢崎城)城主からの信仰篤く、後に上杉謙信(輝虎)や由良信濃守成繁といった武将らも崇敬していたという。
当初、境内地を含む地域一帯は赤石と呼ばれていたが、元亀年間(1570~1573年)に伊勢神宮(三重県伊勢市)の分霊を勧請合祀以来、伊勢崎の地名の由来になっている。その後江戸時代以降、当地の領主が代々、社殿の修繕や祭典執行を担い、明和9年には吉田家から正一位に叙されている。(中略)
1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。1926年(大正15年)、近くにあった稲荷神社など数社が合併し、社名を飯福神社から伊勢崎神社へと改称。1941年(昭和16年)には社格が県社に列した。
境内には明治9年(1876)に楊州庵半海社中が建立した「よく見れは薺花さく垣根哉」の芭蕉句碑がある。
「群馬県:歴史・観光・見所」「Wikipedia」より引用
伊勢崎神社は1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。同時期近郊の社である「下渕名大国神社」「倭文神社」「火雷神社」等は既に「郷社」であり、由緒も歴史も深く、格式も遙かにこの三社の方が高かったにも関わらず、最終的にこの三社は郷社で止まり、伊勢崎神社は1941年(昭和16年)に郷社を飛び越えて一気に県社に格上げされている。
拝殿上部に奉納されている木製のプロペラ
この昇格の背景には何があったのであろうか。拝殿正面入口の上部には、戦時中、中島飛行機(富士重工業の前身)の社員が奉納した木製のプロペラが現在でもあるが、そのことと何か関連性があるのであろうか。
建物全体に精巧な彫刻が施されていて見ごたえのある本殿
伊勢崎神社の本殿は江戸時代後期の嘉永元年(1848)に再建されたもので、一間社、流造り、銅板葺き、建物全体に精巧な彫刻が施され特に壁面には中国の故事と思われる透かし彫りが見られる。因みに拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り横板張り。幣殿は両下造(本殿と拝殿を切妻屋根で接続)、銅瓦棒葺、桁行1間、張間1間。
本殿裏にある西の鳥居
伊勢崎市といえば、「織物」で有名な地だ。特に銘仙(めいせん)は、平織した絣の絹織物で、鮮やかで大胆な色遣いや柄行きが特徴の、独特の先染め織物である。
本来は、上物の絹織物には不向きな、屑繭や玉繭(2頭以上の蚕が1つの繭を作ったもの)から引いた太めの絹糸を緯糸に使って密に織ったものを指し、絹ものとしては丈夫で安価でもあった。幕末以降の輸出用生糸増産で大量の規格外繭が生じた関東の養蚕・絹織物地帯で多くつくられ、銘仙の着物が大正から昭和初期にかけて大流行した。伊勢崎、秩父に始まり、これに、足利、八王子、桐生を加えた5か所が五大産地とされている。
元々は、主に関東や中部地方の養蚕農家が、売り物にはならない手紬糸を使用して自家用に作っていた紬の一種であった。江戸時代中期頃から存在したが、当時は「太織り(ふとり)」「目千(めせん)」などと呼ばれ、柄は単純な縞模様がほとんどで、色も地味なものであったという。
明治になって身分制度が改まり、一般庶民に課せられていた衣料素材の制限がなくなると、庶民の絹に対する憧れも相まって、日常着においても絹物が主流となった。また、女性の社会進出が進んだものの、服装においてはまだ和装が圧倒的に主流であり、社会の洋風化に追いついていなかった。このため、女学生や職業婦人などの外出着や生活着として、洋服に見劣りしない、洋風感覚を取り入れた着物である銘仙が広く受け入れられることとなった。
当初は平仮名の「めいせん」であったが、1897年、東京三越での販売にあたって「各産地で銘々責任をもって撰定した品」ということで「銘撰」の字を当て、その後、「銘々凡俗を超越したもの」との意味で「仙」の字が当てられて「銘仙」となったという。
「伊勢崎銘仙」は五大産地の中では最大の生産量をもち、銘仙の中では高価な部類に入る。併用絣の技法を用いた、鮮やかな多色遣いによる手の込んだ柄が代表的で、1950年代には、一反の中に24色の糸を使用したものもあったようだ。1975年に伝統的工芸品に指定されている。
大正から昭和初期にかけて、銘仙生産量は全国の半分を占めるまでに至り、伊勢崎銘仙の黄金期と呼ばれるまでとなったが、戦後、生活様式の欧米化により和装から洋装へと変化していく中で、需要が減退し徐々に売り上げや生産量が減少し、その生産者も減っていくことになる。
時代の流れで和装から洋装が主流となる中でも、織物工業組合(織物協同組合)主導のもと新技術の開発や後継者問題に取り組むなど銘仙文化を継承していく活動が行われ、その活動の功績により、伝統工芸品としての高い評価を受けながら伊勢崎銘仙は現在に至っている。
織物工業組合(織物協同組合)のもと、銘仙文化の承継活動が行われてきたが、生産者の高齢化や後継者問題は困難を極め、銘仙の新たな製造については現在危機的状況にある。毎年「いせさき銘仙の日」のイベントでは、現存する銘仙を着用したファッションショーの開催や、銘仙の生地を再利用して手さげ袋や名刺入れなどの小物に加工して販売しているという。
伊勢崎神社の御朱印帳やお守り袋と御内符(おんないふ:神様の御利益があるお札)、御朱印の用紙にもこの伊勢崎銘仙を使用している。大切な地域の宝物であり、後世に残してほしいものだ。
参考資料「伊勢崎風土記」「伊勢崎案内記」「伊勢崎市役所公式HP」「群馬県:歴史・観光・見所」
「伊勢崎神社HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
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群馬県の神社
2024-03-08T23:37:51+09:00
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今市瀧尾神社
 2006年(平成18年)3月20日に、今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併し、現在の「日光市」が発足した。2006年以後の日光市役所本庁は旧今市市役所(今市本町)であり、合併後最初の日光市長は元今市市長が務めていた。この合併により、「門前町」日光は元より、日光江戸村な...
2006年(平成18年)3月20日に、今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併し、現在の「日光市」が発足した。2006年以後の日光市役所本庁は旧今市市役所(今市本町)であり、合併後最初の日光市長は元今市市長が務めていた。この合併により、「門前町」日光は元より、日光江戸村など周辺の観光地も「日光市」に含まれることとなった。
面積は関東地方で最大、全国の市でも岐阜県高山市、静岡県浜松市に次いで全国第3位となり、栃木県全体の約22%を占めている。
ところで体裁上、「日光市」という名称は残っているが、市町村合併後の日光市街とは、旧今市市の中心市街を指している。
筆者も知らなかったことだが、2006年3月、合併前旧日光市の人口は、16,301人で、同じ時期の今市市の人口(61,998人)と比べて少なく、また旧足尾町(人口3,220人)、旧藤原町(人口10,545人)、旧栗山村(人口1,916人)と、旧藤原町を上回る程度の人口規模だった。市町村の経済的な基盤は基本的には人口数で決まる。国際観光都市として「日光」は認知されている反面、旧日光市の人口は減少傾向にあり、「消滅可能性都市」のひとつに挙げられていたという。
どちらにせよ、新たな日光市の中心地域は紛れもなく今市地域であり、現在の日光市役所の西側に、嘗ての今市総鎮守である今市瀧尾神社がどっしりと鎮座している。
・所在地 栃木県日光市今市531
・ご祭神 田心姫命 大己貴命 味耜高彦根命
・社 格 旧今市総鎮守 旧郷社
・例祭等 節分厄除け祭 2月3日 例祭 4月第2土・日曜日
八坂祭 7月7日~14日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.7253236,139.6862282,17z?entry=ttu
森友瀧尾神社から一旦南下し、国道119号線との交点である「森友」交差点を右折する。その後国道119号線を西行し、3.8㎞先の「今市小前歩道橋」に到着すると、ほぼ正面に今市瀧尾神社の立看板と社号標柱が見えてくる。地図を確認すると東武日光線・上今市駅の南側に位置し、社の南側に今市小学校がある。専用駐車場は神社左側にあり、十分なスペースが確保されている。古社の貫禄を醸し出している旧今市市の総鎮守である。
風格すら漂う今市瀧尾神社正面。
文化財の石鳥居が壮大にそびえ立つ。
『日本歴史地名大系』 での「今市市」の解説では、「県中央から西北寄り、日光山塊南東麓に広がる。北は塩谷郡栗山(くりやま)村・藤原町、東は同郡塩谷町・河内(かわち)郡上河内村、南は宇都宮市と鹿沼市、西は日光市。塩谷町との境界を鬼怒川が東流する。栗山村との境は赤薙(あかなぎ)山・大笹(おおざさ)山など標高1,000~2,000mの女峰(によほう)連山東端部にあたる。栗山・日光・今市三市村境界赤薙山(2,010m)が最高点で、市域は南東に下る一方の広い傾斜面にある。中央部は東へ横断して流れ鬼怒川に入る大谷(だいや)川の形成した今市扇状地、北部は女峰連山の東端から渓谷を流れて鬼怒川に入る板穴(いたな)川と、それに合流する小百(こびやく)川・砥(と)川のつくる狭い河岸段丘と扇状地。南東部は今市扇状地の南側面から湧水して南東へ流れ、鬼怒川へ合流する田川とその支流赤堀川などの形づくる河岸段丘、南西部は行(なめ)川の沖積小平野。気候は夏冬の気温差は大きいものの、七―八月でも平均気温摂氏21~22度と冷涼で、夏期には雷雨が多く、局地的豪雨や、降雹をみることもある。市域の60%は山林・原野で、農地は20%、宅地は三分足らずにすぎない。なおかつて市域西半は都賀(つが)郡、東半は河内郡に属していた」との地形多岐な特徴を解説している。
国道沿いに建つ今市瀧尾神社社号標柱
因みに「たきお」ではなく「たきのお」と読むそうである。
鳥居近郊に設置されている「今市瀧尾神社 案内碑」
今市総鎮守 瀧尾神社
御祭神 -大己貴命(大国主命)田心姫命 味耜高彦根命
天応二年(七八二) 勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るに始まる その後 人皇第百弐代 後花園天皇寛正元年(1460) 正月十五日改築 今日の神域整う。 明治十年七月 近郷十八ヶ村(現在の日光今市市)の郷社に列せらる。(以下略)
西方向に伸びている参道
国道沿いに鎮座しているにも関わらず、境内は静寂に満ちていて、とても穏やかな雰囲気の中、気持ちよく参拝することができた。正面には朱を基調とした神橋が見える。「叶願橋」という。
参道途中左右に祀られている石祠群・境内社(写真左・右)。左手にはお稲荷さんの狛犬があることから一基は稲荷社であろう。右側の境内社は不明。
参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎には、花がたくさん飾られていた(同右)。
境内前に建つ二の鳥居。一の鳥居と共に市重要文化財である。
二の鳥居の左側にある案内板
日光市指定文化財 今市瀧尾神社石造明神鳥居
種 別・・有形文化財(建築物)
員 数・・二基
規 模・・「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ
「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ
材 質・・石造
建築年代・・未詳
旧瀧尾権現社の鳥居、制作年代については、鳥居そのものの表面がかなり風化しているために、刻銘が判読できず、特定できない。しかし、日光二荒山神社との関連などから、約四〇〇年~五〇〇年前と推定される。「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ。
「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ。鳥居の形式は、明神鳥居の典型で格調高い。また、鳥居上部の「貫」上下端切込面は類例を見ない。石材は地元大谷川から採取したものと思われる。
平成七年三月十日 日光市教育委員会
案内板より引用
重要文化財として指定されている鳥居は、「二の鳥居」「三の鳥居」と記されている。つまり当然「一の鳥居」があったはずである。どこにあったのであろうか。
重厚感のある拝殿
今市総鎮守 瀧尾神社 勝道上人 御創祀の古社
天応二年(七八二)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時に当社にもこれを祀るに始まる。その後、人皇百弐代後花園天皇寛正元年、正月十五日に改築、明治十年七月に近郷十八カ所(今の日光市の一部と今市)の郷社に列せられる。
例大祭は四月十四日に神輿を中心に氏子区内十八カ町を供奉、約二百五十人により盛大に執り行われる。また、この祭の期間には氏子町内の屋台の引回しがある。桜花が咲き誇る中、大鳥居前には山岡鉄舟筆の関東一の大幟が奉掲され、まさに春迎えの先駆けの祭りである。
また七月七日~十四日には当社、末社八坂神社の八坂祭が執り行われる。この祭りには関東一とも言われる神輿が氏子青年会多数の奉仕により奉舁され日光街道に御神威赫々、幻想幽玄の世界が現出し多くの氏子崇敬者に感動を与える。
「栃木県神社庁HP」より引用
拝殿前にある賽銭箱。神紋は「左三つ巴」。
社殿の左手前には、ご祭神の大己貴命(父・大黒さま)、田心姫命(母)、味耜高彦根命(子・恵比寿さま)の石像がある。
本殿。彫刻や彩色はなく、シンプルな造りである。
社殿左手奥には鳥居の先にある小さな石祠が一基。今市瀧尾神社の奥社という(写真左)。またその隣には木々に囲まれた中に境内社が並んで祀られている。天候も雨は上がったが、決して良いわけでもなく、また夕方でやや薄暗い参拝時間で、また境内社のある辺りは木に覆われ、少し独特な雰囲気を醸し出していた(同右)。稲荷神社・菅原神社・雷電神社・琴平神社・八坂神社・宇佐八幡宮・正八幡宮等。
静まり返った境内
*追伸
実は去年11月に家族旅行を兼ねて日光方面の神社を参拝したのだが、この「今市瀧尾神社」の掲載を忘れてしまい、今になって気づいて紹介した次第である。かなり唐突の登場となったことをお詫びしたい。
参考資料「日本歴史地名大系」「栃木県神社庁HP」「Wikipedia」「境内案内板等」等
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栃木県の神社
2024-03-06T23:49:34+09:00
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常泉御嶽神社
 
・所在地 埼玉県加須市常泉31-1
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 少彦名命
・社 格 旧常泉村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日
地図 http...
・所在地 埼玉県加須市常泉31-1
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 少彦名命
・社 格 旧常泉村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1062419,139.6049173,18z?hl=ja&entry=ttu
加須市常泉(つねいずみ)地域の見竹耕地に鎮座する。「常泉」という地名は、当地に村を潤す豊かな泉があり、常の文字が永久不変を表すところから、涸れることなく湧き出す泉を称え名付けられたという。
土地の人々は、この豊かな泉をもたらす遥かなる山々に神威を感じ、当村開発に当たり、水の神として当社を祀ったと伝えている。これが御嶽社で、「見竹(みたけ)」の地名は当社に因むものであるという。創建年代等は不詳。
この社は、耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかったという。
常泉御嶽神社正面
下高柳八坂社から一旦「下高柳集会所」先の埼玉県道149号加須菖蒲線へ合流し、そこを左折する。新川用水(騎西領用水)を越えた「常泉」交差点を左折すると、すぐ左側に常泉御嶽神社の鳥居が見えてくる。
専用駐車場や社務所等もない。道路の向かいにコンビニエンスがあり、そこで買い物を済ませてから急ぎ参拝を行う。
鳥居の社号額 北方向に伸びる参道の先に拝殿が見える。
『日本歴史地名大系』による 「常泉村」の解説によれば、この村は、北は新川用水路を境とし、東は油井(ゆい)ヶ島村・小浜村。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高一〇七石余・畑高五四石余、川越藩領、ほかに大英寺(現騎西町)領三〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三〇五石余、反別は田方一七町四反余・畑方一二町八反余、ほかに新開高一二二石余、田方六町九反余・畑方四町八反余。元禄九年(一六九六)の旗本米倉氏領知目録(米倉家文書)に村名がみえ、高四二八石余。国立史料館本元禄郷帳によれば旗本小笠原領。同帳には枝郷として油井ヶ島村が載る、との記載がある。
常泉御嶽神社はこの地域の最北端に位置し、新川用水(騎西領用水)から里人を守るように鎮座している。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 常泉村条』
常泉村
御嶽社 神明社 「以上二社、村の鎮守にて、圓福寺持」
圓福寺
「新義眞言宗、根古屋村金剛院末、御嶽山と號す、本尊地蔵を安ぜり、開山末長寛文十三年三月七日寂す」
境内にある「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
常泉、見竹の地は水清き緑豊かな平坦な地であり、先人達はそこに御嶽社を勧請し村の鎮守としてきた。
御嶽社は、本殿に大山祇命、大己貴命、少彦名命を祭神として祀り、古来より常泉地区の氏神として人々から厚く敬われてきた。また明治三十二年には神明社を合祀し、祭神として更に大日孁命が祀られた。毎年四月十五日には枠灯籠を飾って春祭りを行い、この行事は今日まで継承されている。
当社は特に耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかった。
昭和八年本殿改築が行われたが、拝殿、幣殿の老朽化が著しく進み、雨漏り等が始まり、平成八年、氏子一同に計り改修資金の浄財を集め、積み立てを行い、平成十四年建設委員会を設立した。同年四月四日、仮殿遷座祭を行うとともに建設委員総出の奉仕により、社殿の解体、土盛り、境内樹木の伐採等に汗を流した。本殿を一時移転し、基礎完了後、元に戻して改修し、幣殿、拝殿の新築を行った。
斯くして六月十一日に上棟祭、十月二十日に本殿遷座祭、十一月三日に奉祝祭を挙行して社殿の完成を祝った。ここに、長年に亘る神々の御神徳に感謝すると共に、更なる恩恵を氏子、崇敬者一同の上に給わらん事を祈念して、この碑を建立した(以下略)
記念碑文より引用
拝殿手前、参道の両側に鎮座する石碑二基(写真左・右)
共に(御嶽)大明神と刻印されているように見える。
静かに鎮座する社
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内記念碑」等
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加須市の神社
2024-03-05T00:48:53+09:00
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下高柳八坂社
 
・所在地 埼玉県加須市下高柳1081
・ご祭神 素戔嗚命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后
菅原道真公・天穂日命・武夷鳥命・倉稲魂命
・社 ...
・所在地 埼玉県加須市下高柳1081
・ご祭神 素戔嗚命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后
菅原道真公・天穂日命・武夷鳥命・倉稲魂命
・社 格 旧下高柳村鎮守 旧村社
・例祭等 天王様 7月8~15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.109308,139.6077661,17z?entry=ttu
加須市下高柳地域は、東武伊勢崎線の加須駅と花崎駅との中間地点で、鉄道南部に位置する「ショッピングモール」、「下高柳工業団地」等を内包する地域である。このショッピングモールの敷地は元々、下高柳工業団地として造成されていたが、企業が集まらなかったため、工業団地の一部を商業地として転用した経緯がある。近郊にはイオンモール羽生やモラージュ菖蒲などの大型ショッピングモールが開業したものの、建設当時はこのショッピングモールが周辺地域初の大規模ショッピングセンターだったので、「埼玉県北部最大のショッピングセンター」、「関東平野のど真ん中にでっかくオープン!」などのキャッチフレーズが用いられたという。
このショッピングモールの西側を南北に通る埼玉県道149号加須菖蒲線をモールを通り過ぎた地点から500m程南下し、新川用水(騎西領用水)手前の十字路を左折する。その後「下高柳集会所」先の丁字路を左折し、暫く北上すると下高柳八坂社の鳥居が見えてくる。
下高柳八坂社正面鳥居
社の周囲は民家が立ち並ぶ住宅街の一角に鎮座していて、嘗ての「旧下高柳村鎮守・旧村社」という格式に対して、その歴史的な重みがなくなった第一印象。社殿や境内も最近改築等して一新し、綺麗に手入れもされているが、筆者が想い抱いていたイメージとはかなりかけ離れたものであった。
民家の間にある参道 参道の先にある二の鳥居
二の鳥居を過ぎると明るい境内が広がる。
『新編武蔵風土記稿 上高柳村条』によると、元々は上下高柳村は共に一村を成していたが、正保年代に二村に分けられたという。
「文永の頃高柳弥五郎幹盛と云ふもの住せし故、此の唱ありなどものに見ゆれど土人は伝へず(中略)元は下高柳村と一村なりといへど、正保の改に上下二村とす、」
また風土記稿に記されている「高柳弥五郎幹盛」とは、武蔵七党・野与党の氏族である大河戸氏から分かれた高柳氏が居を構えた場所とされている。この「高柳弥五郎幹盛」は、『吾妻鑑』にも登場しており、卷五十二「文永二年五月二十三日、高柳弥次郎幹盛」と記されている。
下高柳八坂社の創建年月日は明らかでないが、風土記稿によれば下高柳村の鎮守で、明治元年(一八六八)六月まで牛頭天王社と称されていた。また吉祥寺持ちとされている。
拝 殿
境内に設置されている「社殿修築記念碑」
「社殿修築記念碑」
八坂社の祭神は須佐之男命で極めて霊威高き神である平安の古き御代
神仏習合に依りて牛頭天王として数多の社に鎮め祀らる此の神社の創
建不詳なるが江戸の御代には牛頭天王社と称え村民の崇敬の的となる
天文二年三月二十一日神祇官領からの宗源宗旨に依り正一位の神階が
与えらる明治の初め八坂神社と改名明治五年村社に列格す後に村内に
鎮座する三島社住吉社天神社鷲宮社稲荷社等を合祀し神威高揚に努む
現在は八坂社と称す長年の歳月経て社殿老朽化し総代事取人に早急な
改築の声高まる議りに議りて建設委員会を設置氏子一同に趣旨を通す
崇敬の念に富み愛郷の情深き諸人等賛同し浄財を奉納宮司神社本庁に
改築承認申請書提出す平成十七年二月一日付本庁統理より承認書届く
直ちに着工建築に関わる神事行事百余名の氏人清き誠の心にて奉仕し
盛大に執行大神等の高き尊き御神徳を蒙り奉りて工事順調に進展社殿
内外の装飾麗しく整い尊厳な風格を加え神威を増し神聖な社となる平
成十八年三月吉日社殿修築工事竣工奉告奉祝祭を大御国風高々に挙行
忠実人等の顔歓喜に満ち神に祈る姿最も美し茲に竣工を寿ぎ地域の発
展子々孫々の繁栄を祈り氏子等の美徳を称え謹んで一碑を建立して後
世に伝えるものとする(以下略)
境内にある古い祀念碑。 社殿左側にある神興庫か。
神興庫の並びに鎮座する境内社等
右から境内社・稲荷神社、弁才天・弁才天女の石碑等、力石。
力 石
左側の石の重量・38貫目、約140㎏。右側の石の重量・30貫目、約110㎏。
境内の風景
『日本歴史地名大系』 「下高柳村」の解説
[現在地名]加須市下高柳
南は新川(につかわ)用水路を境に小浜村・常泉(つねいずみ)村と対し、北は青毛堀(あおげぼり)川を限り、西は上高柳村(現騎西町)。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高三六〇石余・畑高三六五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二四七石余、反別は田方一三町九反余・畑方一三町二反余、ほかに新開高二四七石余、田方一三町九反余・畑方一三町二反余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。化政期には常陸下妻藩領で(風土記稿)、幕末まで同藩領であったとみられる(改革組合取調書など)。
参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」
「境内碑」等
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加須市の神社
2024-03-03T21:40:29+09:00
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三俣諏訪神社
 現在の利根川の流れは、大水上山を水源として関東平野に入ると、北から東へ流れる「一本化」された川筋であるが、中世以前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合...
現在の利根川の流れは、大水上山を水源として関東平野に入ると、北から東へ流れる「一本化」された川筋であるが、中世以前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いでいた。
このように嘗ての利根川は派川が多く「八百八筋」の如く乱流していて、尚且つ秩父山地から東側に流れる荒川も利根川と越谷(埼玉県)付近で合流する時もあり、一度大雨が降り始めると面積の狭い江戸湾(東京湾)では全て吸収しきれず、現在の埼玉東部から東京東部地帯は大湿地帯となっていた。
天正18年(1590年)の徳川家康江戸入府後、利根川の河道を付け替える工事が始まった。世にいう「利根川東遷事業」である。その目的として、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立すること等に加えて、東北の雄、伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれている。
利根川東遷事業は、約60年間にわたって行われた大事業であるが、利根川の流れを変えるだけでなく、堤防も造成したり、農業用の用水路をつくるなどの工事も同時に行なわれた。
その第一歩となった事業が「会の川」締め切り工事である。
会の川(あいのかわ)は、埼玉県羽生市から加須市街地を流れる河川であり、利根川の大きい旧分流の一つで、会の川用悪水路(あいのかわようあくすいろ)とも呼ばれる。
三俣諏訪神社は加須市街地で、会の川の北側近郊に鎮座している。一見して石垣のような頑丈な基礎で補強し、積み上げ、その上に社殿がある姿を見ると、この社も川の氾濫に備える対策を施していて、往時の水害の惨状に思いを巡らせたものである。
・所在地 埼玉県加須市諏訪1-8-4
・ご祭神 健御名方命
・社 格 旧三俣村鎮守 旧村社
・例祭等 例大祭 8月27日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1307296,139.5968783,20z?hl=ja&entry=ttu
埼玉県道128号熊谷羽生線・同38号加須鴻巣線を通り、行田市を抜け、加須市街地方面に進む。「加須警察署前」交差点の先で、進行方向左側に三俣諏訪神社は鎮座している。県道沿いに鎮座しているので紹介しやすい社である。但し専用駐車場はないので、近郊にあるコンビニエンスに停めるしかない。勿論参拝前には買い物をすることは忘れていない。
県道沿いに鎮座する三俣諏訪神社
利根川は羽生の川俣より南流し、加須市内に入って川幅を広げた。「三俣」という地名は「鬼島」「中島」「明智島」の州が流れを三つに分けていたことによるという。加須市街地を流れる会の川は嘗て古利根川と呼ばれ、一説によると利根川の本流ともいわれ、かなりの大河だったようだ。現在は近現代の整備により穏やかな流れを見せるが、嘗ては乱流であったのであろう。加須市内の社の多くがその社殿を高く積んでいるのは、川の氾濫から守るためであったと思われる。
木製の二の鳥居
加須市街地の一角に鎮座しているからか、周囲の社叢林は少なく、陽光差し込む明るい社という印象。
『日本歴史地名大系』での 「三俣村」の解説では、「南は久下村・加須村と会の川を境に対し、北は手子堀川を限る。旧高旧領取調帳や「郡村誌」では上三俣村・下三俣村の二村として記載されているが、田園簿や元禄郷帳・天保郷帳では一村として載る。分村時期は幕末から明治初頭と考えられるが、元禄五年(一六九二)の質地証文(梅沢家文書)や同一四年の田地寄進証文(龍蔵寺文書)には下三ッ又村・上三俣村と記されており、元禄期頃から上・下に分けてよばれることもあった」とあり、江戸時代・元禄期は、下三ッ又村・上三俣村と分かれていたようだ。
拝殿前に屹立するご神木(写真左・右)
三俣諏訪神社の南西近郊には龍蔵寺がある。
この龍蔵寺は、文和4年(1355)に教蔵上人によって開され、江戸時代には徳川幕府から寺領22石の所領安堵の朱印状が与えられたという、歴史ある寺院である。
境内中央にそびえ立つイチョウの木は、高さ10mにも及ぶ樹齢670年の老大木である。龍蔵寺の縁起文によると、教蔵上人が人々を悩ませ続けていた約300mの白龍を、法力によって昇天させ、白龍の「龍」と教蔵の「蔵」をとって「龍蔵寺」と名付け、白龍が首をもたげた地に龍蔵寺を建立し、イチョウを植えたといわれている。
市指定天然記念物 龍蔵寺の大銀杏
この大銀杏は、幹回り四、三メートル、高さ十メートルで、昭和五十一年の指定時には高さ五十メートルをはかる大木であった。
龍蔵寺縁起文に、寺の創建と大銀杏を植えた経緯が記されている。
「昔、この地に棲む怪物(鬼)が人々を悩ましていた。布教途上の教蔵上人が人々を救おうと、女性の姿をした鬼に、十念を授けたところ白龍となって天に上り、人々も鬼も救われたという。白龍の頭があった地に人々は龍蔵寺を創建し、また尾があった地に、弁財天を勧請した。 龍頭・龍尾があった場所に文和四年(一三五四)三月にそれぞれ銀杏を植えた」
なお、龍尾のあった場所という諏訪神社境内の銀杏は、落雷にあい枯れている(以下略)
「龍蔵寺 案内板」より引用
現在のご神木は、落雷により枯れてしまった銀杏に代わって植えられたものという事になる。
『新編武蔵風土記稿 三俣村条』によると、三俣諏訪神社は「諏訪辨天合社」として記載があり、社の別当寺は「光徳院」であるが、どちらも「白竜」伝説を共有している龍蔵寺との関係性が非常に深いと思われる。
*詳しくは「龍蔵寺の歴史」を参照。
諏訪辨天合社
諏訪社は正徳四年九月、大岡土佐守政春の勧請にして、村の鎮守なり、光徳院の持、
龍藏寺
淨土宗京都知恩院の末、無着山龍光院と號す、元は佛眼山と號せし由、寺領二十二石は慶安二年八月賜へり、本尊阿彌陀は立像四尺餘、慈覺大師の作なり、當寺は文和四年の草創にして、開山敎藏上人明德元年正月二日寂す、この敎藏は淨土傳燈總系譜敎藏慈智翁とのす、是なり、
鐘樓 正德五年の銘を鐘に之れり
『新編武蔵風土記稿 三俣村条』より引用
拝 殿
鎮守諏訪神社緣起
後村上天皇の御宇に當り忠臣多く匪躬の節に斃れ奸雄横行して天下麻の如く亂れ皇室式微し人民塗炭に苦めり當時本村の南部には利根川貫流し沿岸彼處此處厪に韜晦せる士人避難せる農民等の移住せしを見るのみにして開拓未だ普からず
草萊蓬々たる原野多かりき利根の河中に三島あり鬼島中島明知島といふ奔流為に三叉を成せり爰に三俣の渡口あり
適々龍藏寺の開山敎藏上人行脚して津頭に來り景勝を賞覽せらる舟予備に地理を語りて鬼島に及び曰く島内には怪物棲息して人を惱すを以て敢て行くものなしと
時に上人予は雲水の身なれば願はくは衆生濟度の為め所謂怪物を得脱せしめんと乃鬼島に渡りて柴の庵を結び称名念佛七日に及べば夜中女性來りて十念を授けられんことを乞ふ上人徐に何者なりやと反問せしに忽百丈の大白龍身と化し十念を受けて見る見る形ヲ失ふ
始め白龍の首を擡げし所には龍藏寺を創立して菩提寺とし蜿蜒七曲りして尾の止りし所には諏訪神社を勧請して氏神と仰けり是實に正平十年三月なり
降て 中御門天皇の御宇正徳四年九月に至リ領主從五位下大岡土佐守藤原政春上諏訪神社を合祀し同時に家内和合の為め主夜神社を建立して攝社とす上社は建御名方命下社は事代主命を祭リ主夜神社は屋船命を祭れり
爾来神徳の光被する所氏子愈々榮えて窮りなし乃齋戒沐浴して文獻に徴し舊記に據り謹みて之が梗概を記述すと云爾(以下略)
「鎮守諏訪神社緣起文」を引用
この伝承は、古代の「ヤマタノオロチ伝説」同様、利根川(現会の川)の治水にまつわる伝説と考察できよう。
拝殿の扁額
拝殿の扁額周囲には、幾多の奉納額が飾られている(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』等に記載されている「大岡土佐守政春」とは、江戸時代「大岡越前守忠相」として有名な「大岡氏」の一族である。
大岡氏は、摂政関白九条教実の庶流が,三河国大岡村に移り,地名を姓としたことより始まるといわれる。初代忠勝のとき,徳川氏の祖,松平清康・広忠の2代に仕え,その子忠政も家康に仕えて軍功をたてる。因みに忠勝の「忠」の諱は松平広忠に由来し、大岡氏代々の通字となった。その子忠行,忠世,忠吉の3系に分かれるが,忠吉の長男忠章の系統から忠世家に入った忠相が万石に列せられて西大平大岡家をおこし,同じく忠吉の末子忠房の系統から忠光がでて,側用人となり2万石をもらって岩槻大岡家をおこした。
大岡土佐守政春は、忠吉の次男(三浦)吉明の系統であり、「大岡土佐守家」と称す。武蔵・上野国に領地を持ち、石高は2,000石。政春は戸田宗家・政光の3男光忠を祖とする分家である戸田政次の三男であるが、1660年に15歳で相続し、「三浦」から「大岡」に復姓した。その後、数回の加増により2,000石となる。1718年に73歳で隠居し、76歳で亡くなっている。
「鎮守諏訪神社緣起」では大岡土佐守政春はこの地域の領主であったというが、それを証明する書簡等は見つからなかったので、三俣諏訪神社との接点は判明しなかったが、「緣起」では、正徳四年(1715)大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて諏訪社を勧請し、下社に神像を奉納したという。
三俣諏訪神社の南側並びに鎮座する金毘羅神社。
社の奥の両側には、「浅間大神」「小御嶽大神」の石碑が祀られている。
社殿からの一風景
二の鳥居から北側に伸びる参道もあり、その参道右側沿いに「神庫」が並んで建てられている(写真左)。そしてその先には、社号標柱も立っている(同右)。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須市HP」
「改訂新版 世界大百科事典」「Wikipedia」「龍蔵寺案内板」等
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加須市の神社
2024-03-01T21:32:43+09:00
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戸川神社
 
・所在地 埼玉県加須市戸川808
・ご祭神 軻遇突智命 市杵嶋姫命 湍津姫命 田霧姫命
・社 格 旧寺ヶ谷戸村鎮守 旧村社
・例祭等 例祭 10月15日
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・所在地 埼玉県加須市戸川808
・ご祭神 軻遇突智命 市杵嶋姫命 湍津姫命 田霧姫命
・社 格 旧寺ヶ谷戸村鎮守 旧村社
・例祭等 例祭 10月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1581039,139.5936007,16z?hl=ja&entry=ttu
町屋新田天照皇太神宮から一旦東北自動車道方向に戻り、自動車道脇の道路を北西方向に1㎞程進む。埼玉県道366号三田ヶ谷礼羽線と交わる信号のある十字路を左折し、自動車道下を潜り、直後の十字路を右折、400m程進んだ先の進行方向左側に戸川神社の社号標柱が見えてくる。
東北自動車道脇の道路に面して建つ社号標柱
社号標柱の脇道の先に戸川神社は鎮座する。
戸川神社正面
戸川神社の鎮座する大字戸川は、明治時代に寺ヶ谷戸村と広川村とが合併して成立した比較的新しい地域である。但し『新編武蔵風土記稿 寺ケ谷戸村条』並びに『同 広川村条』において、広川村はもと寺ヶ谷戸村の一部であり、慶安元年に分村したものであると伝えている。
『新編武蔵風土記稿 寺ケ谷戸村条』
「當所は志多見村の民佐左衛門と云者來りて開墾し、寛永の頃までは寺ケ谷戸新田と唱へて、志多見村に指揮せしが、何の頃よりか一村となれり」
・愛宕社
村の鎮守とす、地蔵院の持ち、
・地蔵院
新義眞言宗、上羽生村正覺院末、愛宕山と號す、本尊地藏を安ず、開山堅證延寶七年十二月廿二日寂す、藥師堂
『新編武蔵風土記稿 廣川村条』
「元は寺ケ谷戸村の内なりしを、慶安元年分村すと云傳ふれど、元禄の國圖(*国図)に寺ケ谷戸枝郷廣川村と記したれば、全く一村となりしは後年のことゝ見えたり」
・辨天社
村の鎮守、村民の持、
『新編武蔵風土記稿』によると、当地は志多見村の民である佐左衛門が開いた土地であり、寛永年間までは「寺ケ谷戸新田」と唱えていた。また寺ヶ谷戸村の鎮守は愛宕社で、真言宗愛宕山地蔵院が別当であり、広川村の鎮守は弁天社で、村持ちであった。
その後1909年(明治42)に広川村の弁天社を合祀し、戸川神社に改称したと云われている。
陽光が差し込み、開放感のある境内
境内も綺麗に整備され、日頃の氏子・総代の方々の社に対する崇敬の思いを感じられよう。
『日本歴史地名大系』 での「寺ヶ谷戸村」の解説
[現在地名]加須市戸川
南は葛西用水路を境に下谷(しもや)村と対し、東は広川村。羽生領に所属(風土記稿)。元和七年(一六二一)羽生領代官大河内金兵衛久綱の命により、志多見村名主松村佐左衛門の手で開発されたと伝える。当初は佐左衛門(さざえもん)新田と称されていたようで(正保二年「佐左衛門新田年貢割付状」松村家文書ほか)、田園簿では寺ヶ谷新田と記される。
『日本歴史地名大系』では、元和七年(一六二一)羽生領代官大河内金兵衛久綱の命により、志多見村名主松村佐左衛門の手で開発された地域であることが記されている。『新編武蔵風土記稿』よりも詳しく調べているようだ。
拝 殿
加須低地上に鎮座する多くの社は、水害対策のため頑丈な石垣で補強された基盤上に鎮座している。この社の配置一つ見ても、地域の歴史の一幕を顧みることができよう。
合祀記念之碑
神ヲ敬ヒ神ヲ崇メ奉ル念ノ厚キハ我国民ノ良習ナリ頼リテ以テ国ハ穏力ニ民ハ安ラカナリ仰々当大字ハ広川寺ヶ谷戸二箇村ノ連合ヨリ成り而シテ古来愛宕神社ヲ以テ寺ヶ谷戸村ノ村社とし厳島神社ヲ以テ広川村ノ村社トス両社ノ神徳弥高ク各自ノ信仰最モ深カリシナリ〇ニ政府我同村社以下無格社ノ数多ク〇モスレバ神威ヲ瀆シ奉ランコトヲ恐レ社寺併合ノ訓令ヲ発セラレ此ニ於テ両社氏子総代ノ者率先シテ其併合ヲ図り遂ニ其ノ議ヲ決シ明治四十一年十一月三日出願シ同四十二年七月八日付指令収第六〇五号ヲ以テ許可セラレ同年九月十五日全ク合祀ヲ了シ社名ヲ戸川神社ト改称ス今ヤ本社ノ資産ヲ増加シ維持ニ困難ナカラシメ以テ崇敬ノ実ヲ挙ゲントス庶幾クハ将来永ク赫々タル神徳ヲ拝シ奉ランコトヲ得ンカ〇ニ合祀祭ヲ行フニ当リ碑ヲ建テテ記念トス
*〇印は旧字体であり、また印刷の所々がハッキリ読めず、解読できませんでした。
拝殿の扁額には「愛宕山」と表記されている。 本 殿
江戸時代当時の面影を残す貴重な額である。 本殿の左側奥には稲荷大明神の石祠二基あり
社殿右側には幾多の石祠・石碑等が祀られる。 石祠・石碑の並びに4体の青面金剛像がある。
境内社・姫宮社(多気比羅神社)、その隣には神厩舎があり、木製の白馬の像がある。
この境内社は、埼玉県桶川市の元荒川沿いにある「篠津多気比売神社」と関係のある社と考えられる。江戸期「姫宮社」と称し、別名「姫宮大明神」とも云われ、その後明治初年社号を「多氣比賣神社」と改称したという。
社の裏手、つまり北側には中川が一直線に流れている。河川改修の結果このような水路になったと考えられるが、嘗ての中川の周囲は後背湿地と埋没台地の谷が複雑に絡んだ地形でもあったという。因みに社の南川は葛西用水路が流れていて、河川・用水路に挟まれた地に鎮座している。
戸川神社の北側隣には、へら鮒管理釣り場の「加須吉沼」が在り、周囲にも同様の沼が点在する。所々に沼もあるのは、かつてこの付近が沼地だった頃の面影を残す地形的な理由もあるのであろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内碑文」等
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加須市の神社
2024-02-29T11:02:01+09:00
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