古社への誘い 神社散策記

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埼玉古墳群 (7)

 埼玉古墳群の中央部に位置している二子山古墳は武蔵国最大138mの前方後円墳である。名前の由来は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山(かんのんじやま)」とも呼ばれていた。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になる。現在、内側の堀には水がたまっているが、古墳築造当時は水はなかったと考えられている。埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明だが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、5世紀末から6世紀初頭前後に造られたと推定されている。これは稲荷山古墳に続く時期にあたり、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点がある。つまり位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれる。これは丸墓山古墳以外の他の8基の前方後円墳にも共通することで、逆に言うと二子山古墳と丸墓山古墳には何故か直接的な連続性、共通性を感じない。また丸墓山古墳の後に築造された愛宕山古墳との関係にも同様にも言えることだ。そう、唯一丸墓山古墳だけ気高く孤高を持する感がある。

        
                        埼玉古墳群最大の古墳 二子山古墳

 少し話は横道にそれてしまうが重要な項目なので少々おつきあい願いたい。それは古墳である祭祀施設は一般的に大王の在位中に造られるものか、それとも没後に次代の大王、またはそれ以降の一族によって造られるものなのか、という問題だ。
 何故この問題を取りあげたかというと、大仙陵古墳のような大型古墳は墳長がおよそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m。後円部は直径245m、高さ約35mで、三重の濠の外周は2.718m、その内側の面積は464,124平方mでとてつもなく巨大な古墳だ。この巨大な築造すると、人員は 一日最大2.000人従事して、工期 に15年8ヶ月要するという試算もあると言う。
 もちろんこれほどの古墳を造り上げる大王の権力の大きさは想像を超えるものだったろうが、その反面、どんなに頑強で、尚且つ強靭な精神力を持っていたとしても人の「死」は平等に、そして必ず訪れる。ましてや古墳時代の衛生、医療、食生活環境は現代とは比べ物にならないくらい悪かったはずだし、当時の平均寿命も短かったと思われる。
 ある統計によると15歳以上に達した者の平均死亡年齢の時代変遷は、古人骨より推定すると以下の年齢となるという。 
 (参考資料)各年代の平均寿命の推移
   ・ 縄文時代  男31.1歳/女31.3歳
   ・ 弥生時代  男30.0歳/女29.2歳
   ・ 古墳時代  男30.5歳/女34.5歳
   ・ 室町時代  男35.8歳/女36.7歳
   ・ 江戸時代  男43.9歳/女40.9歳
 
 
この数値が直ちに古墳時代の大王の寿命に直結するとは限らない。大王の食生活や衣食住は一般民衆より格段良かったろう。しかしそれは大王の寿命が長いとする理由にもならない。
 自然災害や人為的な災害は老若男女問わず襲い掛かる。またそのような不幸はいつ、何時起こるか予想もつかない。だからこそこのような大型古墳を築造するためにはそれらの天災、人災等をある程度予想して少なくとも在位中に設計、築造しなければならないことは自明の理だと筆者は思うのだが、それでも現在のところこの論争は専門家の中でも解決できていない。
 古代倭国で、何十万個ある古墳はその埋葬者は特定されていないケースがほとんどだが、このうち埋葬者の推定できる数少ない古墳で、尚且つ唯一生前に築造されたことが解っている古墳が一基だけある。北九州最大の古墳で、筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)だ。
 
この古墳は東西を主軸にして、後円部が東にあるが、その北東部分に〈別区〉と呼ばれる広場状の区画がある。風土記逸文に石人と石猪が裁判の光景を再現していたとあり、磐井の政権が司法機関を備えていた可能性が指摘される。墓からは、大量の石人石馬が発掘され、被葬者の勢力の大きさを示しているという。また生前から造営されていたお墓のことを「寿陵」と言い、中国では古来より、生前にお墓を建てることは長寿を授かる縁起の良いこととされていた。岩戸山古墳について「筑後国風土記逸文」にはこのような記述がある。

 筑後國風土記曰、上妻縣々南二里、有筑紫君磐井之墳墓。高七丈、周六十丈。墓田南北各六十丈、東西各卌丈。石人・石盾各六十枚、交陣成行、周匝四面。當東北角、有一別區。号曰衙頭<衙頭、政所也>。其中有一石人、縦容立地。号曰解部。前有一人、形伏地。号曰偸人<生爲偸猪、仍擬決罪>。側有石猪四頭、号贓物<贓物、盗物也>。彼處亦有石馬三疋・石殿三間・石蔵二間。古老伝云、「當雄大迹天皇(継体)之世、筑紫君磐井、豪強暴虐、不偃皇風。平生之時、預造此墓。

 また日本書紀巻11 仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の項には陵墓について以下の記述がある。
 六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河內石津原、以定陵地。丁酉、始築陵
 魏志倭人伝には卑弥呼の死後、次のような記述がある。この記述からは死後築造が窺える。
 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立 

 
上記の記述以外では古墳が生前からの築造なのか、死後築造なのか残念ながら解っていない。さすがに約1600年前の事柄ゆえに頼るべき文献も史料もない。そこでここは奈良時代に編纂された日本の神話や古代の 歴史を伝えている重要な歴史書である「日本書紀」の記述を参考資料として紹介する。
 ありがたいことにこの「日本書紀」には神武天皇からの各天皇の崩御から埋葬までの要した期間、及びその施行者までがちゃんと記載されている。「日本書紀」は完全に漢文で書かれており、天皇家の歴史に重点を置いている。そこでここでは、「日本書紀」の記述を参考に神武天皇から開化天皇までの崩御年代と埋葬年代を見ていただきたい。(字数の関係で本来は清寧天皇まで表を作ったのを公表できないのが残念)

天皇名 崩御年度埋葬年度施行者 埋葬場所

 神武天皇


神武76年春3


翌年秋9


次の天皇


畝傍山の東北


 綏靖天皇


綏靖33年夏5


翌年冬10


  〃


倭の桃花鳥田丘


 安寧天皇


安寧38年冬12


翌年秋8


  〃


畝傍山の南の窪地


 懿徳天皇


懿徳34年秋9


翌年冬10


  〃


畝傍山の南の谷


 孝昭天皇


孝昭83年秋8


孝安38年秋8


  〃


掖上博多山上


 孝安天皇


孝安102年春正月


同年9


  〃


玉手丘(御所市)


 孝霊天皇


孝霊76年春2


孝元6年秋9


  〃


片丘馬坂


 孝元天皇


孝元57年秋9


開化5年春2


  〃


剣池の丘の上


 開化天皇


開化60年夏4


同年10


(記述なし)


 

              
              *日本書紀による各天皇の没年、埋葬年度、及び埋葬の施行者
 神武天皇から清寧天皇までの各天皇の崩御年と埋葬年に平均10ヶ月の空白期間がある。これは古代日本で行われていた殯(もがり)という葬儀儀礼があり、またこのことは古墳の築造にも少なからず関係している。

殯(もがり)
 日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。

 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 高麗」(後の高麗王朝のことではなく高句麗のこと)には、死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内 經三年 擇吉日而葬 居父母及夫之喪 服皆三年 兄弟三月 初終哭泣 葬則鼓舞作樂以送之 埋訖 悉取死者生時服玩車馬置於墓側 會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことが窺える。なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な殯の整備に必要だったとも考えられる。
 また施行者の項目を見るとほとんど次代の天皇が埋葬の施主となっている。このことから死後殯の期間中に墳墓が完成し、その後埋葬したかのような印象だが事はそんなに簡単なことではない。日本書紀の引用を信じるならば200m以上の古墳は崇神天皇から允恭天皇まで、途中反正天皇は除くが総数10名にも上る。年代も3世紀半頃から5世紀前半までの約200年間で、しかもこの時期に集中して築造されている。
 このように調べると調べるだけ謎が多くなる。少ない資料の中、以下の仮説を導き出した。

 ・ 小さな古墳に関しては基本的には殯の関係もあり、また前代の意志に沿って、また臣下との合議に基づき次代の大王が墳墓を築造し、埋葬する。
 ・ ただし、大型古墳を築造する場合は、殯の期間を念頭において、前代の在位中に前代の考えに基づき設計、築造される。

 上記の仮説に沿った場合、埼玉古墳群の9基の墳墓、特に稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、そして鉄砲山古墳の4基に関しては各古墳に埋葬されている大王の在位中にこの古墳を築造したと推測される。

 

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