古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

埼玉古墳群(4)

武蔵国造の乱」と埼玉古墳群との関係      

      
                             丸墓山古墳
            笠原氏の後裔の王者が埋葬されているとされているが真相は・・・・

 
日本書紀 第27代 安閑天皇の代(534年)、世にいう「武蔵国造の乱」が起こったという。この文献の年代の真偽は事実と見るか否か、様々な意見があるが今回その正否は論じない。

 ところでこの乱の年代はまさにさきたま古墳群の築造時期内に起こっている。
古墳群の築造順は5世紀末に築造された稲荷山古墳を初めに二子山古墳丸墓山古墳愛宕山古墳鉄砲山古墳瓦塚古墳奥の山古墳将軍山古墳中の山古墳浅間塚古墳戸場口山古墳の順で歴代のさきたまの豪族の古墳つくりの約150年間の歴史は終わる。そして
武蔵国造の乱は年代でいうと愛宕山古墳築造時期に相当する。
 「武蔵国造の乱」は時代や登場人物等、安閑紀の記述を全て鵜呑みには出来ないが、何がしかこの記事のモデルとなるような事件はあったのではないか、という各歴史学者の見解は状況的に見て的を得ているように思われる。

 それではまず最初に『日本書記』の記事の全文を引用してみよう。

日本書紀 第27代 安閑天皇

武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族(うがら)小杵(をき)と、国造を相争いて、
使主・小杵、皆名なり。年経(としふ)るに決(さだ)め難し。小杵、性(ひととなり)(うぢはや)くして逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて走げ出づ。 京に詣でて状を言(まう)す。朝庭臨(つみ)(さだ)めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅(ころ)す。国造使主、悚(かしこまり)(よろこび)(こころ)に交(み)ちて 、黙已(もだ)あること能はず。謹みて国家の為に、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)、四處の屯倉(みやけ)を置き奉(たてまつる)る。是年、太歳甲寅(きのえとら)


現代文訳

 武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族小杵(おぎ)とは、国造の地位を争って長年決着しなかった。小杵は性格が激しくて人にさからい、高慢で素直でなかった。ひそかに上毛野小熊(かみつけぬのおぐま)に助力を求め、使主を殺そうと図った。使主はそれに気づき、逃げ出して京に到り、実状を言上した。朝廷では裁断を下され、使主を国造とし、小杵を誅された。国造使主は恐懼感激(喜懼交懷)して、黙し得ず、帝のために横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(たひ)、倉樔(くらす)、の4ヶ所の屯倉を設けたてまつった。 この年、太歳甲寅。 

  このどの一族ならばなにかしらありそうな内部対立の抗争で、この笠原使主、笠原小杵2名は国造の地位を争い、お互い後ろ盾(盟主か?)を立て最終的には使主の勝利となったわけであるが、この文面では疑問を感じてしまう様な表現が幾つかあり、それを検証してみたいと思う。

1 まず最初にこの文面に出てくるそれぞれの名前にそもそも違和感を感じる。それぞれ「オミ」、「オキ」という似たような音韻であるにも関わらず、一方は一族の長のような「使」、それに対してもう一方は一族の傍流のような「杵」。第三者が客観的に見ても「小杵」には絶対的不利な表現だ。
 またこの二人は武蔵国造の地位を争って長年決着しなかったと記載されているにも関わらず、笠原直使主の前にはちゃんと「武蔵国造」と記述されている。この時期はお互い「武蔵国造」を自称している時期だったはずで、使主にだけこの名称がつくことはアンフェアである。

2 また日本書紀における笠原小杵が故意に卑しく表現している書きたてられているということだ。

 *  小杵は性格が激しくて人にさからい、高慢で素直でなかった。ひそかに上毛野君小熊(かみつけぬのおぐま)に助力を求め、使主を殺そうと図った。

 大体日本書紀は天皇家側の利益を考えて書かれた史書である。自然と自国に有利である相手に対しては甘く擁護的で、敵対関係にある勢力に対しては筑紫君磐井や山背大兄皇子、蘇我入鹿など、故意に卑しく表現している傾向がある。この笠原小杵のに関しての記述は安閑天皇前々の代の武烈天皇の悪口や非道ぶりを綿々と書き連ねられていることを思い起こしてしまう。

① 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
② 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
③ 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
④ 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
⑤ 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
⑥ 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

 日本書紀における武烈天皇は非常に悪劣なる天皇として描かれているに対して、『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。同じ時期に完成した二書であまりに違いすぎる記述だ。
 つまりこの相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたというものだ。この場合、言葉に表現できない残虐なことを記述すればとするほど、次代の正当性も中国の歴代の王朝交代のように、天命に依り仕方なくそれに代ったという正当化をし、下剋上をごまかして表現を粉飾しているにすぎないということだ。

 つまり、笠原小杵を悪ざまに描くことで、朝廷側の笠原使主の武蔵国造の正当性を強調しているということだ。もっと突っ込んで言えば、本来の正当である系統は笠原小杵ではなかったのか、ということである。それに対して「性格が激しくて人にさからい、高慢で素直でなかった」
笠原使主が都の権力を利用して、武蔵国造の地位と権力を乗っ取った事件ではなかったのかと。

 また「小杵を誅された」と書かれているが、だれが直接手を下したのか。朝廷なのか笠原使主なのかその文面における主語がだれなのか判らないし、誅した方法も全く不明でいきなり「誅す」となっている。最終的に4か所の屯倉が手に入ったわけで朝廷側には勝利の戦いであり、得るものも多かったわけであるからもっと詳しい記述があってもいいはずだが、それがない。この点も不可解だ。

3 上文でも紹介したが、「武蔵国造の乱」はさきたま古墳群を造っている最中に起こっている。 この古墳群は笠原氏の築造した古墳と言われている説が大多数であるが、一方で一族同士の戦いをしながら、片方で自分の一族の墓を造る、そんな余裕のある裕福な一族だったのだろうか、また戦略的に見ても二方面を同時に進行することは愚の骨頂と言われる。普通ではとても考えられない。

 『日本書記』には
「国造の地位を争って長年決着しなかった」と記述され、長時間緊張状態があったことがはっきり記述されている。また「(笠原小杵は)ひそかに上毛野小熊に助力を求め、使主を殺そうと図った。使主はそれに気づき、逃げ出して京に到り、実状を言上した」というように笠原使主にとって一時期不利な状況に陥ったことも簡潔だが克明に記されている。

 またこのことについて、こう反論するかもしれない。「この乱の最中は古墳建造を一時中断していたから決して記述は矛盾していない」と言われるかもしれない。がこの説明は正直厳しい。6世紀中に築造されたさきたま古墳群の数は実は大変多い。この時期に築造された古墳は以下の通りだ。
・ 二子山古墳
・ 丸墓山古墳
 愛宕山古墳
・ 鉄砲山古墳
・ 瓦塚古墳
 奥の山古墳
 将軍山古墳
 この期間だけでも7基築造され、最後の前方後円墳である中の山古墳を築造中という状況だった。驚くことに丸墓山古墳と二子山古墳はほぼ同時に造られたという。武蔵国最大の古墳と、日本最大の円墳がほぼ同時期とは!客観的に考えて、平素中でもこの築造ペースは速く感じるし、なにより大量の財と人員が必要である。地方の一豪族である笠原一族にとてもそれだけの力があったとは思えない、というか正直言って不可能だ。



つまり結論から言うと前回「埼玉古墳群(3)」で紹介したが、

この地を含め広範囲に有力な勢力が現れたことを示すと共に、その勢力は埼玉郡内の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたことを推察させるものであることが逆に「武蔵国国造の乱」によって証明させられたようなものではなかろうか。








拍手[0回]