古社への誘い 神社散策記

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埼玉古墳群(9) 関東地方の古墳状況


      

      
            埼玉古墳群では5番目、6世紀初めから中期に築造された瓦塚古墳

 参考だが埼玉古墳群、稲荷山古墳が築造された同じ時期(5世紀中頃から6世紀初頭)に造られたといわれる関東地方の古墳状況を県単位に調べてみた。考えてみれば当たり前のことで、6世紀「埼玉の津」を中継地点として利根川流域の地方や東京湾沿岸に広がりを持つ同一文化圏の形成から見ても、交易を通じて埼玉古墳群の文化が与えた影響もあれば、逆に埼玉古墳群が影響を受けた地方も当然存在したであろう。ちなみに埼玉県、東京都は埼玉古墳群(3)を参照。

茨城県

舟塚山古墳 茨城県石岡市北根本前方後円墳186m 5世紀後半 
愛宕山古墳  〃  水戸市愛宕町前方後円墳 137m 6世紀初頭 
葦間山古墳  〃  筑西市徳持前方後円墳 141m 6世紀初頭 
 

 茨城県は神話の時代では日高見国とも言われ、常陸国風土記では「常世(極楽)の国」と謳われ、倭武天皇伝説の地である為か、古墳も豊富に存在している。5世紀後半に築造された茨城県石岡市北根本にある舟塚山古墳は全長186mで、関東では太田天神山古墳に次ぐ規模の大きさを誇り、しかも二子山古墳と同時期、又はその前期にあたる。この古墳は国造本紀に初代茨城国造として記録されている「筑紫刀禰」の古墳と言われていて、「筑紫」は狭義では現在の福岡県を示し、広義では九州全体を示す。九州は大陸の文化や技術を最も早く受け、古代から多くの豪族が出ている。常陸風土記にも九州とのつながりを示す内容が多くみられることから筑紫刀禰は九州出身の豪族だったかもしれない。ちなみにこの石岡市は奈良時代に常陸の国の国府がおかれ、常陸の国の中心であり、常陸風土記に登場する「茨城郡」の中心地ともいう。
 また舟塚山古墳築造の前後には5世紀前半には梵天山古墳(全長152m)、6世紀初頭には愛宕山古墳(全長136,5m)と古墳築造は群馬県に次いで盛んな地域だ。

栃木県

塚山古墳栃木県宇都宮市西川田町 前方後円墳 98m 5世紀後半 
笹塚古墳  〃  宇都宮市東金町 前方後円墳 100m 5世紀中頃 
琵琶塚古墳  〃  小山市飯塚前方後円墳 123m 6世紀前半 
摩利支天塚古墳   〃  小山市飯塚 前方後円墳 120m 6世紀初
 

 栃木県は茨城県より小粒な古墳が多い。栃木市にある吾妻古墳が全長128mで県内最大の前方後円墳だが6世紀後半の築造で当時はまだ出現してない。小山市は国分寺などが所在する下野国の中心的地域であったらしく5世紀後半から6世紀前半に築造された摩利支天塚古墳(全長120m)、琵琶塚古墳(全長123m)という栃木県では規模の大きい古墳が100m位の近さに存在し、両者は同形同大で、主軸も一緒ということから両者の連続性がうかがわれる。また栃木県の古墳の最大の特徴は前方後方墳が多いということだ。中でも足利市にある藤本観音山古墳は全長117mの前方後方墳で、栃木県で最大、東国では前橋八幡山古墳に次いで2位、全国でも5位の規模を誇る。4世紀後半に築造と推定されていて、西南西へ直線4kmくらいの所に太田天神山古墳がある。

千葉県

内裏塚古墳 千葉県富津市二間塚 前方後円墳 144m 5世紀中頃 
弁天山古墳   〃  富津市小久保 前方後円墳 88m5世紀後半

 千葉県は関東地方の南東部に位置する県で、『房総三国』、すなわち律令制以来の下総国の大半、上総国、安房国3ヶ国から成り立つ県である。古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年(平成2年)時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
 
6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化し、7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、成田市にある印旛沼周辺地域の下総台地上にある龍角寺古墳群のように7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。この古墳群では岩屋古墳(7世紀前半~中頃、方墳、一辺78m)が有名だ。

 また神奈川県は律令制において相模国と呼ばれていた。弥生時代の遺跡は少なく、小規模で質も劣る。これは、弥生文化の進出が遅れたことを示すものと考えられる。また古墳も概ね小規模(神奈川県海老名市の瓢箪塚古墳、4世紀末~5世紀初頭 全長75mの前方後円墳等)で、出現は畿内に1世紀以上後れた4世紀の中頃ないし後半とされる。

 しかし何と言っても関東地方における古墳の密集地帯は群馬県である。東国(東海・甲信・関東地方)では圧倒的な質と量を誇り、昭和10年の全県域の調査により8,423基の古墳の存在が明らかになり、全体では1万基以上が作られたと想定されている。
 下に掲示した図は群馬県主要古墳を地域別、年代別にまとめた図である。この主要古墳の変遷図を見ると大まかな勢力の移行が読み取れる。
          
                         群馬県主要古墳の変遷図
  この古墳変遷図を見ると、最初に出現した王者は前橋市朝倉の八幡山古墳の埋葬者だ。同時期に元島名将軍塚古墳と藤本観音山古墳の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。

 その後盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市の白石稲荷山古墳(全長175m)や岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。

 それに対して太田市の勢力は益々力を持ってついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。

 太田市の勢力は太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。但しこれは各地方共通の事項であり、外見は縮小されたが、内部石室や装飾品、副葬品は逆に豊富で豪華になる。

 このように5世紀半頃から6世紀初頭、二子山古墳が築造される以前の時期に存在していた関東地方の古墳はまさに大型古墳築造の絶頂期にあたっていた。もちろん各地方の豪族は古墳の規模の大きさによって己の力の象徴を誇り、競い合った時期だったのだろう。しかし二子山古墳築造時期はそのピークをすでに経過していた。上記群馬県の主要古墳の変遷図でも5世紀中頃築造の太田天神山古墳までは各地方は大きさを競い合っていたが、その後は1,2の例外はあれ、大半は100m以下の小、中規模な古墳が占めている。

 但し埼玉古墳群は、そもそも築造した経緯が違ったのではないかと考える。行田市周辺は他の地域に比べて築造開始時期が遅く、何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する100mクラスの中型、大型前方後円墳が出現した。そのことは非常に重要な点である。つまりこの古墳群の王者たちは既に大型古墳を築造するノウハウを持っていた他地域の豪族であり、武蔵国出身の豪族ではなかったのではないかという事だ。元々は他地域の有力豪族が、王墓を選定する際にあらゆる条件をクリアしたこの地を終の棲家として選んだのではないだろうか。そしてそのヒントは埼玉古墳群近郊に存在する内陸の交易地「埼玉の津」ではなかったか。
 埼玉古墳群の王者にとってこの「埼玉の津」は多くの物資や文化が行き交いしていた水上交通の要衝の地だが、その一方で様々な極秘の情報を入手することが出来る政治的にも重要な地でもあったろう。その近郊に埼玉古墳群を築造することは交易から出る利益という内政面もさることながら、対外的には自身の権力の大きさをアピールできる一大モニュメントでもあった。前出したが埼玉古墳群の築造年代は5世紀末からで古墳時代では各地に比べても比較的遅れて出現した実力者だ。各地の前方後円墳を参考に模擬し、より見栄え良く、自分自身の、そして一族の繁栄の象徴としての古墳を大々的に築造する、それは他の地域ではすでに過ぎ去った過去のことだったことではあるが埼玉古墳群の王者にとってはどうしても避けて通れない、そして必然性のあることだったのではないだろうか。


 

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