古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

岡泉鷲神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市岡泉11211
             
・ご祭神 天穂日命
             
・社 格 旧岡泉村鎮守 旧村社
             
・例祭等 オビシャ 119日 天王様 714日 例祭 723 
 実ケ谷久伊豆神社の南側正面鳥居がある農道を東行する。周囲一帯田園風景が広がる長閑な農村風景を愛でながら、1㎞程進行した先にある三叉路の真ん中の道を進み、埼玉県道78号春日部菖蒲線に達する手前で、進行方向左手に岡泉鷲神社が見えてくる。
 社に隣接した岡泉集会所前にある適度な駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始した。
 
   正面参道の右側並びに建つ社号標柱     社号標柱の右並びに設置された案内板
        
                  社の参道正面入口
『日本歴史地名大系』「岡泉村」の解説
 太田新井村・彦兵衛(ひこべえ)村の西、上野田村・下野田村の南に位置する。北境の一部を隼人堀川、地内を黒沼用水が流れる。太田新井村との境に彦兵衛村の飛地がある。岩槻領のうち。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一〇石余・畑高七六石余、同藩領。幕末まで同藩領として続く。同藩の高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数一八(うち本百姓一一)・人数一一八、岡泉新田は家数一一(うち本百姓八)・人数五七(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。貞享三年(一六八六)には高一三五石余、ほかに新田二二石余、野銭永二貫六九五文半、見取場田畑三一町六反余となる(岩槻藩領郷村高帳)。
 岡泉(おかいずみ)地域は、白岡市東南部に位置する農業地域である。『日勝村誌』によれば、村名の由来は、昔(正慶の頃・1332年頃)、野田とこの地の間に沼があり、岡泉と称したといわれている。岡泉新田は江戸時代に開発された。村の中心部には鎮守の鷲神社、丸山共同墓地、観音堂などがある。明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
        
              参道を進むと見えてくる一の鳥居
 当社の創建について『風土記稿』岡泉村の項に「村の鎮守なり、村持、天和元年(一六八一)十月勧請す、神体は丸き板にて、本地仏薬師の像あり」と記す。一方、『明細帳』には、「創立年月不詳従前村内字戸崎耕地二在リシヲ天和元年十二月転社ス」とある。氏子の伝えによると、旧鎮座地は現在地の北西一キロメートルの隼人堀川と黒沼用水に挟まれた場所で、水害を受けやすいために当地に遷したという。
 
  一の鳥居の先にある木製の二の鳥居      二の鳥居を過ぎたすぐ左手に見える
     朱を基調とした両部鳥居              浅間大神
        
              参道を隔てて浅間大神の向かいにある神楽殿
 当社で723日に行われる
例祭である「祭礼」は、豊作祈願の祭りとされ、この日は、神楽殿で囃子と神楽(巫女舞)が奉納される。
 当地の囃子と神楽は天保年間(一八三〇〜四四)に春岡村(現さいたま市大宮)から習ったものと伝えられる。その後、昭和初期には神楽を舞える人がいなくなり、改めて大宮の杉山社中に教わり、現在は白岡市指定文化財となっている。戦前までは里神楽として、囃子方や神楽舞方を要し「天の岩戸」「おろち退治」「源平盛衰記」などの演目を上演しており、現在でも神楽面が数多く保存されている。囃子は、これらの日のほかに元旦の初詣と五月八日の岡泉観音堂の花祭りにも奉納されている。この囃子は「大尽囃子」とも呼ばれているが、その由来は明らかではないという。
種   別 市指定無形民俗文化財
指定年月日 昭和55111
        
        長く続く参道の中、今では珍しく三の鳥居も建てられている。
         ただ周囲の雰囲気はやや寂れているような雰囲気もある。
 
              社殿の手前に聳え立つケヤキの御神木(写真左・右)
 当社の勧請は天和元年(1681)と伝えられることから、このときある程度の大きさの苗木を植えたとすれば、樹齢は350年近くと推定されようか。幾多の風雪に耐え、村のさまざまな歴史をつぶさに見てきた証人として、ぜひ大切に守りたい木である。
        
『新編武藏風土記稿 岡泉村』
 鷲宮社 村の鎭守なり、村持、天和元年十月勸請す、神體は丸き板にて、本地佛藥師の像あり、

 岡泉鷲神社  白岡町大字岡泉字神台
 岡泉鷲神社は、天和元年(一六八一)に当地へ勧進されたと伝えられている。祭神には天穂日命が祀られている。境内には本殿、拝殿のほか、神楽殿がある。本殿右側には八雲社(祭神は素戔嗚尊)が祀られている
 七月十四日には八雲社の祭礼である「天王様」が行なわれる。山車が境内で組み立てられ、その上で祭り囃子(大尽囃子)が奉納される
 また同月二十三日は鷲神社の祭礼で、神楽殿にいて神楽と囃子が奉衲される。こえらは天保年間(一八三〇~四四)、若者の気風の荒廃を心配した村人が、春岡村(現大宮市)から師匠を招き、若者達に習得させ神社に奉納させたのが始まりという
 境内には二本の大ケヤキがあり、山車や大尽囃子、神楽とともに町の指定文化財となっている
 平成十年二月 白岡町教育委員会
                     境内案内板より引用
 境内には立派な御神木があり、神楽や囃子・市指定文化財もあり、敷地も広く、旧村社の格式以上に本来は大変立派な神社だったと思われる。
 他のHP等で見たのだが、この社の拝殿、特に屋根部位の損傷が著しく、大きな穴が開いており、このままでは風雨風雪が社殿に侵入してしまい、いずれ柱が腐って崩れ落ちてしまう事態となっていたという。現在の社殿の様子を確認すると、以前の拝殿は完全に解体され、一部使用できそうな部材に関しては、新しい社殿に出来る限り再利用してできたもので、社としての趣き、重厚さは以前と比べてかなり変わってしまっているであろう。
 この社だけでなく、県内外の神社には老朽化しているにも関わらず、改築もされず、風雨風雪にさらされているものも少なくない。
 
嘗て拝殿向拝部位等の材を使用したのであろう。        本 殿
 その思いは評価しなければいけないだろう。
        
     境内には、市指定文化財の標柱が建っていて、文化財保全という観点から
       でも、地方自治体を主体としたさらなる取り組みを期待したい。
       
              本殿の右側に祀られている八雲社
 714日に行われる「天王様」は疫病除けの祭りである。この日は境内に山車を組み立てて花を飾り、これに地元の囃子連が乗って囃子が奉納される。以前は氏子各戸から跡継ぎたちが山車を曳いて、氏子地内を巡っていたが、諸般の事情により、山車は境内に飾るだけとなったという。
 

  八雲社の並びに祀られている合祀社(写真左)。左から天満宮・天満宮・神明社・稲荷社。 
       合祀社の右並びには稲荷社・道陸社が祀られている(同右)。 
        
                   境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP
    「白岡市観光協会
HP」「境内案内板」等
         
   

  
        


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千駄野稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市千駄野814
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧千駄野村(上耕地)鎮守 旧無格社
             
・例祭等 初午祭り 2月初午
 千駄野八幡神社から直線距離にして500m程北西方向で、東北自動車道の西側の住宅街の一角に千駄野稲荷神社は鎮座している。但し地域の中央部を南北に縦断する東北自動車道を越える最短距離の道路がないため、一旦白岡パークラインを北西方向に進み、自動車道に沿った脇道を白岡市役所付近まで北上、その後、自動車道を潜るように通り抜けたのち、今度は自動車道に沿った脇道を南下するといったような回りくどいルート設定しかない。
 社の北側に隣接している「千駄野自治会館」の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                 
千駄野稲荷神社正面
 千駄野地域は、ほぼ東北自動車道を境にして上と下に分かれており、当社の氏子区域である上には、「加美耕地」「新田耕地」「丸谷耕地」「下沼耕地」の四つの耕地がある。
「埼玉の神社」によると、千駄野では下で祀る八幡神社が村社になっているため、当社は無格社となったが、この両社は共に村の鎮守で信仰の厚さに差はないとして、合祀が行われることもなく、現在に至っている。ただし、昭和四十八年には、道路拡張によって拝殿が取り壊され、同時に本殿の草葺き屋根が銅板葺きに改められたため、神社の趣は随分と変わったという。
        
                 千駄野稲荷神社全景
『新編武蔵風土記稿 千駄野村』
稻荷社 德性寺の持 末社 山王 天神 〇八幡社 村民持以上二社當村の鎭守なり 末社 稻荷
德性寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、天滿山と號す、本尊地藏、〇泉福寺 淨土宗高岩村忠恩寺の末、龍池山と號す、本尊彌陀、〇阿彌陀堂 忠恩寺持

 稲荷神社   白岡市千駄野八一四(千駄野字下手)
 千駄野は、日川の旧流路に位置する農業地域である。その地名は、昔、この辺は千駄の萱が取れる原野であったことに由来し、村人は取れた萱を岩槻城に納めていたという。そのため、昔の人は「千駄野は殿様村だ」とよく言ったものであった。
 数回にわたる利根川の改修によって日川の流水量が大きく減少し、千駄野でも耕作が可能になってきたのは江戸時代になってからのことで、検地帳などの古文書の記述から、少なくとも正保から寛文のころ(一六四四〜七三)には一村として成立していたものと思われる。
 こうして成立した千駄野の集落は、大きくは北部の上(かみ)と、南部の下(しも)とに分かれるが、当社は、上の鎮守として祀られてきた神社で、江戸時代には地内の徳性寺という真言宗の寺院が別当を務めていた。したがって、当社は、その創建の年代は不明であるが、日川の流水量が減り、耕作が可能となって人が住み着き、村の形が整えられていく中で、耕地の安泰を願って作神である稲荷神を勧請したものと推測される。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
              社殿の左脇に祀られている山王社
       
                  子育て地蔵堂
 当社の境内の南東隅には地蔵堂が祀られている。昔から「子育て地蔵」として信仰が厚いこの地蔵尊は、元来は徳性寺にあったが、廃寺となり、寺僧の末裔の邸内に移されていった。その後、昭和45年頃に自治会館の北側に移されたが、地蔵尊が建物の陰になって御利益を発揮しないという理由から、平成元年に現在の位置に祀られるようになった。724日に行われる縁日には、境内に80基程の灯籠が飾られ、灯籠が灯る夜には多くの参詣者があるという。
 当地では、他所から嫁に来るとまず家の荒神様を拝み、それから当社と子育て地蔵に子宝が授かるように祈願するのが習いとされていた。そうして子供が生まれると、願果たしたとして鈴緒に紅白の晒(さらし)を下げたものであったが、当地では子育て地蔵を祀ることから、昔から双子が多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「白岡市HP」「埼玉の神社」等

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千駄野八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市千駄野1291
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧千駄野村(下耕地)鎮守 旧村社
             
・例祭等 百万遍 718日近くの日曜日 例祭 915
 実ヶ谷久伊豆神社の西側に南北に通る「白岡パークライン」を600mほど北行した道路沿い左手に千駄野八幡神社は見えてくる。周囲には適当な駐車スペースはないようなので、北側にある交通量の少なめな農道に路駐し、急いで参拝を行った。
        
          白岡パークライン沿いから参道は伸びているのだが、
          途中から参道が右側に曲がるような配置となっている。
『日本歴史地名大系』 「千駄野村」の解説
 実ヶ谷村の北に位置する。西部の微高地は大宮台地白岡支台の東端にあたり、中央部から東部にかけては旧日(につ)川流路の低地である。悪水堀は菱沼(ひしぬま)落堀・下沼落堀、用水は黒沼用水を利用。水利はよいが水旱に苦しむこともあった。村の西方小久喜(こぐき)村境から東方岡泉村境に至る粕壁杉戸(かすかべすぎと)道と、小久喜村から実ヶ谷村境に至る岩槻道がある。岩槻領のうち(風土記稿)。利根川の数次の改修により日川の流水が涸渇し、耕地が可能となった。
        
                              
千駄野八幡神社 両部鳥居
 白岡市千駄野(せんだの)地域は、白岡市中部に位置し、地域内には白岡市役所がある。東境は大字界が錯綜しているとはいえ、大略として岡泉・実ケ谷両地域に接し、地区の中央を南北に東北自動車道が縦断し、その西側は南部を除き主に住宅地で、東側は公共施設が立地する以外は主に水田などの農地となっている。
 千駄野という地名の由来は『日勝村誌』には「本村ハ古ヨリ岩槻城附ノ村ニシテ古来荒蕪地多ク領主ニ納ムル貢租ハ僅ニ茅千駄ニ過ギザリシヲ以テ千駄野ト 称セシトイウ」とあるが、木や茅を焚いて雨乞いした所との説もある。
 江戸時代には岩槻藩領に属し、明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
        
            社殿左側手前に祀られている境内社・石碑等
            左から天満宮・両部稲荷社・稲荷神社・?
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 千駄野村』
 稻荷社 德性寺の持 末社 山王 天神 〇八幡社 村民持以上二社當村の鎭守なり 末社 稻荷
 德性寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、天滿山と號す、本尊地藏、〇泉福寺 淨土宗高岩村忠恩寺の末、龍池山と號す、本尊彌陀、〇阿彌陀堂 忠恩寺持


 八幡神社  白岡町千駄野一二九(千駄野字迎)
 鎮座地である千駄野の地名は、村内に荒れ地が多く、領主に納める貢租が茅一千駄に過ぎなかったことにちなむとも、かつて一千駄の木や萱を焚いて雨乞いをしたことに由来するともいう。この千駄野の村の名が文献上に見えるのは、寛文四年(一六六四)の「寛文印知集」に収められる阿部伊予守宛の朱印状目録からで、このことから考えると、村が成立したのは慶安から万治にかけて(一六四八〜六一)のころと推測される。
 当社は、稲荷社(現稲荷神社)と共にこの千駄野の村の鎮守として祀られている神社で、創建についての伝えは詳らかではないが、恐らく村の開発と相前後して勧請されたものであろう。村の鎮守が二社あるのは、千駄野の村が大きくは上耕地と下耕地に分かれており、それぞれで鎮守の社を祀ってきたためで、稲荷神社は上耕地の鎮守、当社は下耕地の鎮守である。なお、『風土記稿』千駄野村の項によれば、稲荷神社は地内の徳性寺の持ち、当社は村持ちとなっているが、立地からすれば泉福寺が当社の祭祀に関与していた可能性がある。
 明治六年には村社となり、氏子の崇敬はますます厚く、境内には様々な石造物が奉納されていった。幟立は明治十一年、社号標は昭和十五年に奉納されたものであり、末社の稲荷社の祠は昭和四年に建立されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
 千駄野地域の南部に当たる下耕地が当社の氏子区域であり、下耕地の中にも「迎」「四谷」の二組に分かれている。千駄野の名前の起こりの一つとされている雨乞いは、通称「千駄焚き」といい、嘗て山上に松の枝・藁・麦稈(むぎから)・萱を各自が持ち寄って焚き上げるというものであったらしいが、現在は行っていないようだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「埼玉の神社」等


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境上矢島勝手大明神

 伊勢崎市境上矢島地域は、同市南東部にあり、早川右岸に位置する。国道17号上武バイパスと同354号線が交わる西側の、東西約1.2㎞・南北約1.5㎞の地域であり、その中央部付近に集落が集まっていて、周囲一帯田畑が続く農業地域である。かつて新田政義の三男谷島信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。一面水田に囲繞された村で、北方を流れる早川に水利を得る。やがて利根川に合流する早川はまだ小さい流れで、集落から北方に広がる大水田地帯を満たすには不充分なので南方長溝川からも水利を得ていた。
 文政年間この長溝川の堰堤をめぐって、木島・百々・ 境各村を相手に大きな水出入りがあった。いわゆる「四寸ロ騒動」で、今も故老の語り草になっている。この騒動は長溝川から取り内れる堰の水口の寸法をきめたもので、水口四寸の堰が決まったのであるが、上矢島村で堰の下に別のトンネルをつくって水を引いたのが判明して大騒動になったといい、水に深い執着をもつ村の成り立ちを知ることが出来る。
 また一畝一歩耕作地を潰したくないという村人の思いがあるので、トラックや観光バスを貫通する道路を設けることも許さなかったという。集落が非常な不便を感じながら、その不自由に甘んじている姿も由なしとしない。稲作と養蚕が主で、蔬菜類の栽培は比較的少ない。
 

        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境上矢島955
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 旧矢島村鎮守
             
・例祭等 秋祭り(上矢島獅子舞) 11月第1日曜日
 東武伊勢崎線「境町」駅北口から駅前通りを北上し、国道354号線に達した丁字路を左折する。その後、すぐ先に見える「境百々」交差点を右折し350m程北上、変則的な十字路を右折して暫く道なりに進むと、周辺一帯田畑風景が見え、所々に民家が点在する一角に境上矢島勝手大明神が静かに鎮座している
        
             南向きに鎮座する境上矢島勝手大明神
『日本歴史地名大系』 「矢島村」の解説
 新田郡に属し、早川右岸に位置。西は佐位郡木島村。平坦地。永禄年間(一五五八〜七〇)頃には、由良氏に仕えていた南小二郎が住んでいたという。永禄八年の「長楽寺永禄日記」正月五日条に「南小二郎方ヘモ泉書記ヲタノミ、境ニテ礼ヲノベツル」とあり、南氏は長楽寺(現新田郡尾島町)住持義哲と交際のあったことが知られる。「寛文朱印留」に村名がみえ、武蔵忍藩領。寛文郷帳では田方二九五石余・畑方一六〇石余、元禄郷帳では旗本桑原・高屋領の二給。
 この上矢島地域は、粕川と東を流れる早川の間に開けた淵名台地先端部にあり、平安時代の遺跡が発見されていて(上矢島遺跡)、30軒程の竪穴住居・掘立柱建物・井戸などが出土され、台地の最も高い部分を溝が台地走向に沿って走り、その両側に住居が集中している。また、住居や溝の中から50点以上の墨書土器が出土している。
        
                 こじんまりとした境内
 当地域には上矢島獅子組」と呼ばれる
鎮守勝手神社に附属する獅子組があったが、明治時代末以降は徳蔵寺に引継がれて、113日の秋祭りにて五穀豊穣や家内安全を祈って奉納されてきたと伝えられていた。流儀を明らかにしないが東新井・下淵名獅子組と同じ火挾流と推定されるが、前託二者に比して新しく江戸中期の創設であろう。毎年旧暦九月二十九日(クンチ)と十月二十五日両度演舞されたが、今は十月十七日の村祭りに徳蔵寺境内で公開演舞される。雄獅子・雌獅子・老獅子(ホーガン)の一人立連舞で、獅子舞の前に祭礼棒がある。
 先の
戦争により、演舞者及び笛吹き等、後継者がいないため、休止状態になっていた。戦後復活したが、再び獅子頭が古く傷んでいたことや後継者不足等により、約半世紀にわたり途絶えていたが、令和4年度の獅子頭と太鼓の修繕を機に、令和6年度、「上矢島獅子舞保存会」を発足。そして東新井獅子舞保存会の指導を得て、令和711月「上矢島秋まつり」にて約50年ぶりに演目「岡崎」(無病息災と家内安全を祈る)を勝手大明神に奉納、復活となったという。
        
                    拝 殿
 奈良県吉野郡吉野町にある勝手神社(かつてじんじゃ)は、吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれていた。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、辰巳(東南)の護法神でもある。
 
吉野の金峯山にある蔵王権現・子守権現(吉野水分神社)・勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている。
 鎌倉時代中期の武将で、新田宗家4代当主である新田政義の三男谷島(矢島)信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。その吉野の僧や山伏が上矢島に勧請し、谷島(矢島)氏の館の辰巳に祭られ、矢島氏からは弓矢の守護神として、農民からは農業用の水源を養う風雨の神として信仰されたといわれる。
 また別説では、徳蔵寺は太田金山城主由良氏に仕えた南氏が建立したという。
『矢島村南系図』
「永禄年間、京都北面の武士藤原姓南修理大夫義頼は牢人して上野国に下り、その子南小次郎頼広は新田郡上矢島村を知行し、佐渡守に任じ矢島城主となる」
 南氏は金山落城後に上矢島村に土着帰農したという。因みに家紋は丸に剣花菱。また、『世良田村長楽寺永禄八年日記』に金山城主横瀬氏(由良)家臣南小次郎佐渡守頼広の名は随所に見える。
 徳蔵寺の創建に矢島氏か南氏どちらが関わっていたとしても、勝手明神が辰巳の護法、軍将神であることは変わらず、徳蔵寺の地と関係は当然深いものがあったと思われる。
        
              社殿の右側奥にある不思議な建物
 手前には左から「喜心霊神」「〇嶽霊〇」「〇心霊神」「御嶽霊神」と刻まれた石碑がある。

『境町の民俗』には、この地域には「御嶽教荏原講」という講社があったという。この講社は、埼玉県深谷在に発詳し、文政年間上矢島村に流布された。木曾御嶽の山岳信仰で、講社は第一部より第三部まであって、第一・第二は埼玉県にあり、上矢島の結社は第三部に属する。さらに派生したものに新田町上中、伊勢崎市馬見塚に講社がある。村の講員は約六十人で、毎月の御縁日は九・十八・二十七の三日、この日講員が参会して、無病息災家内安全の読経をするという。
 御嶽教の行は主として水行で、入寒から寒明けまで寒中三十日の水行をする。いま水行をするものは五人で、毎日夕食後集まり、寒水をかぶり、沐浴潔済の後、神前で跋経を読誦し、自らの息災を願うと共に、行者としての修行陶冶を期す。その行は非常に厳しく、寒中肉、魚、ねぎを食うことを禁じ、女の肌にふれるのを許さない。境町に数多くの御嶽教講社があるが、荏原講ほど修行鍛練をするものはなく、活発な布教活動をなすものもないとのことだ。
 
     社殿の西側から北西部にかけて祀られている石祠群(写真左)と、庚申塔群(同右)
        
                  社殿からの一風景
『境町の民俗』には、当地域の年間行事が載せられていて、幾つかを紹介する。
・八丁じめ
 6月に行われる悪病除けの行事。一丈ぐらいの高さのところで竹の芯を伐って、上から一節位のところにヨタレベエ(へいそく)をつけて、区長か村世話人が、村のはずれのところに立てた。矢島では七本立てた。北は花香塚、東は西今井、南は境、西は木島、西南は百々、北西は淵名、東南は三つ木・女塚との境界に立てて、小字の守りとした。
オクンチ
 10月の秋祭りの日を「オクンチ」という。昔は九月二十九日であったが、今では十月十七日。この日は鎮守様のお祭りである。赤飯を炊いて祝った。他所へ嫁いだものは、子供を連れて泊りこみでお客に来た。この日にお獅子を舞った。お獅子の稽古は、以前は九月二十三日から五晩、お寺を宿にしていた。お獅子は三つあり、やり手は決まっていた。お祭りには村中が出た。
オカマ様のルスンギョウ(旧十月中)
 旧十月の六日・十六日・二十六日、おはぎを作ってオカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)に上げた。オカマ様には三十六人の子供があるので、出雲へお客に行けないという。
 オカマ様については、つぎのような話がある。
 オカマ様はあるとき人の子を食ってしまった。そこで神様がオカマ様の子供を一人隠してしまった。するとオカマ様は心配のあまりきちがいになってしまった。そこで神様はオカマ様に、人の子を食べなければ子供をだしてやるといった。そんなに沢山子供がいるくせに、
一人ぐらい隠されてそんなことでは、これから人の子を食うなといわれた。そこで約束して、子供をだしてもらって、それからはオカマ様は、子供を食わなくなったという。

「オカマ様のルスンギョウ」の説話では「オカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)」と載せているのだが、三宝荒神は、神道において「竈三柱神(稀に三本荒神)」と名前を変えて祀られている。この神は「かまど神」として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
 この説話を見ると、この社のご祭神は竈三柱神とも勘ぐってしまうのだが、今のところはそれ以上の詳細は不明である。どなたか知っている方がいればご指導の程、宜しくお願いいたします。



参考資料「伊勢崎市HP」「境町の民俗HP」「ぐんま地域文化マップHP「日本歴史地名大系」
    「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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七母女天宮


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井429
              
・ご祭神 天照皇大神(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 秋祭り(東新井の獅子舞) 11月第3日曜日
 境東新井神明宮から群馬県道2号線前橋舘林線に戻るように同じ道を北上、500m程進んだ十字路を右折すると七母女天宮が見えてくる。
 小さな社だが、「東新井の獅子舞」にも関連してくる社でもあり、意外と近距離でもある為参拝した。但し周囲に駐車スペースが全くないため、路駐をして急ぎ参拝を行う。
        
                  
七母女天宮正面
    鳥居前の石柱には左側に「七母女天」、右側に「大土神社」と刻まれている。
 それぞれの社名に対して調べてみると、大土神社は、神戸市灘区に鎮座する「大土神社(おおつちじんじゃ)」と社名が同じことから、ご祭神は天照皇大神と思われる。
 それに対して、七母女天(しちもみょうてん)とは、密教、特に天台宗の玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる「摩多羅神(またらじん)」の別神名とされている。つまり、摩多羅神の「Matarah」=摩怛利神=七母天と同体であると想定し、その上で七母天と北斗七星を結びつけたもので、七母天女の本地が吉祥天で、北斗七星の1つである文曲星を吉祥天とする説もある。
        
            鳥居に掲げてある「七母女天宮」の社号額
 因みに摩怛利神(摩怛哩神、摩怛曳とも)は、梵語で「母」を表すMatrの音写であり七母天のことである。七母天は閻魔天あるいは摩訶迦羅天(『理趣経』)の眷属で、両者に祈願して行疫神を宥め病疫を退散して一切の罹患者を救済せんとする行法が「摩怛利神法」と呼ばれるという
 七母女天宮は別名「妙見様」とも呼ばれている。「妙見」信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。元々、渡来人の多い近畿以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本、特に信濃から関東・東北にかけて広まったという。
 まあ、いろいろな説を載せているのだが、七母女や摩多羅神・摩怛利神、妙見信仰との関わり等、正直分からないことだらけの神である。
       
                    拝 殿
 この社の創建や由緒等は、境東新井神明宮同様どう調べても分からない。但し『境町の民俗』において七母女天宮に関連する記述があるので箇条書きにて紹介する。
・妙天様
(東新井)は七母妙天で一切の病疾に御利益があるといわれる。お礼には三角の布袋に綿をつめた匂袋を三つか五ツ、多いのは十数個糸でつなぎ合わせてあげる。
境東新井地域は、数十年前まであった道化芝居は有名で、芝居に使われたカツラ小道具の類は最近まであった。七母女天は厄神として今も信仰され、実相院と称した寺は廃されたが、御本尊木彫聖観音は今も残され、つぎの台座墨書銘がある。
 奉造立観音尊像二世
 圓満子孫繁昌之所ヲ守護シ給也
 天正十七年己霜▢▢▢▢▢宝前

 実相院趾には大きな百万遍珠数が残されており、例年行ってきた天道念仏は廃された。
        
                 南側から境内を撮影


参考資料「境町の民俗」「境まちの史跡と景観写真集HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」等


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