葛貫住吉四所神社
戦国時代になると、葛貫地域は後北条氏の勢力下となる。永禄2年(1559)に作られた後北条家臣の領地とその面積を記した『小田原衆所領役帳』には「河越三十三郷葛貫」とあり、後北条一族が直接領地を治めていたという。また江戸時代の葛貫村の鎮守住吉四所神社の史料には「葛貫荘弥蔵村」と記され、戦国時代以降も葛貫荘という古い地名が使われていた。
また葛貫地域には、その先祖を平安時代「中関白家」と称した藤原道隆の子・内大臣藤原伊周流、武蔵七党の児玉党より端を発し、鎌倉幕府の寺社奉行御家人として活躍した「宿谷(しゅくや)氏」の本拠地でもある。この地域には宿谷氏により開かれた薬王寺があり、葛貫地域の東に位置する坂戸市多和目には永源寺や田波目城といった同氏に関係の深い寺院・史跡がある。
・所在地 入間郡毛呂山町葛貫735-1
・ご祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后
・社 挌 旧村社
・例祭等 祈年祭 2月17日 夏祭り 8月1日 秋祭り(獅子舞)10月15日
新穀感謝祭 11月23日
出雲伊波比神社の西側を南北に走る埼玉県道30号飯能寄居線に合流後、日高市方向に南下する。2㎞程進んだ信号のある十字路を右折すると、すぐ進行方向右手に葛貫住吉四所神社の鳥居が見えてくる。但し鳥居の両側は、住宅と家塀に囲まれているので、ゆっくりと徐行しながら確認しなければ、通り過ぎてしまうほど入り口付近の幅は狭い。
周囲には適当な駐車スペースがないので、周囲の交通に支障のない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始した。
葛貫住吉四所神社正面
『埼玉県の地名 日本歴史地名体系』「葛貫村」の解説
大谷木村の東、高麗川支流宿谷川(葛貫川)左岸台地に立地。「くずぬき」ともいう(「風土記稿」など)。宿谷川は入間・高麗の郡境を流れ、対岸には高麗郡平沢村(現日高市)。小田原衆所領役帳に左衛門佐殿(北條氏堯)の所領として「百四拾六貫六百三十六文 河越三十三郷多波目葛貫」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。寛永一六年(一六三九)の検地帳(毛呂山町史)によれば田・畑・屋敷五一町八反余。田園簿では田高一七○石余・畑高一五八石余、旗本宮崎・朝比奈両氏の相給。元禄帳では高三二六石余、国立史料館本元禄郷帳によると旗本高林・宮崎両氏の相給。正徳(一七一一‐一六)頃両領とも幕府領となったが(風土記稿)、寛保二年(一七四二)に上総久留里藩領となり、幕末に至った。延享二年(一七四五)には高三二六石余、家数七○ほどで、地内芝地(秣場)を惣百姓連印で開発を願出たにもかかわらず名主が独断で約二五人だけに割渡したために残りの百姓らが訴え出ている(毛呂山町史)。上野国と相模国を結ぶ道(鎌倉街道の一)が南北に抜けていた。元当村に属していた「大寺廃寺」は近年の行政区画変更により現在は日高市山根に属する。
鳥居の左側にある「住吉四所神社記」の石碑
(日陰の部分は解読不明な漢字が多く、その点は了解を頂きたい)
住吉四所神社記
傳曰●●●●朝胸刺國●●●●●●攝津
移祀焉然●●●●古秩父族能隆●●茲●
遂稱葛貫別當●●日加神●●●●●●●
祥瑞雲集後以貞和元年●経營●●●●●
火貞治五年鎌倉公基氏再營社殿規模頗整
明徳二年九月氏滿復修營之江戸初免社境
七段七畝貳拾歩租爲除地元祿四年十二月
以舊殿既●更營而存于今維新後明治五年
列村社四十年二月十三日併字●畝鎮座無
格社愛宕神社●名住吉四所神社其明年四
月十七日請上地林八畝四歩得成境内編入
神域初完威徳兼備●是氏子興議謀叙創始
以來年紀以傳●朽請余●余不肖●●事然
現●在社掌之任●不可固辞敢記(以下略)
入口の狭さと対照的な奥行きのある境内
『新編武藏風土記稿 葛貫村』
住吉社 攝津國住吉神を移し祀れり、神體は白木をもて束帶せし形を造る、長八寸許の坐像にていと古色なり、當社の傳に應安二年左兵衞督基氏再興ありしに、後兵亂のために大破せしを、明德二年九月又再興せしと云ことを記したれど、年代を推に其子氏滿の再興なるべし、又當社に棟札あり、中央に奉興慶長山住吉四所大明神と書し、右に武州入間郡神主宮崎筑前守、左に元祿四年辛未十二月造立之二百十六年に而とのみ見えたり、元祿四年より二百十六年を上れば、文明八年に當れり、例祭九月十三日、神主宮崎某の司る所なり、
末社 天神社 八幡社 白山社 稻荷社 子權現社 山神社 牛頭天王社、
拝 殿
社記によれば、昔応神天皇の御宇、胸刺国造伊佐知直が摂津国(現大阪府)から奉遷したのが起源とされていて、元禄四年(1691年)に造営されたものが現在の本殿(拝殿奥)であるといわれている。葛貫住吉四所神社では、毎年10月上旬に五穀豊穣・疫病退散を祈り、獅子舞が奉納される。
毛呂山町では、十社神社・住吉神社(滝ノ入)・川角八幡神社と共に、同時期に4か所で行われるのが特徴である。
『入間郡誌 住吉四所神社』
村の稍々中央にあり。創立詳ならず。或は貞和年中足利尊氏、貞治年中足利基氏、明応年中足利氏満の造営と称す。蓋し古社なるベし。現今の社殿は元禄年中の造営なりと云ふ。明治五年村社に列せらる。境内幽邃也。神官宮崎氏。
本 殿
「埼玉の神社」によると、氏子区域は葛貫一帯で、氏子数は100戸程である。現在氏子の多くは会社勤めとなっているが、もとは米麦を自給し、養蚕を行っていた家がかなりあった。また、当地は自生の篠・桜・藤などを利用した箕(み)の産地としても有名で、篠と藤は降霜のころ、桜の皮は春先にと農閑期に材料を集めて作られる。箕は現金収入になるため盛んに作られ、多くは秩父方面に出荷されている。
神社の運営費については、戦前までは田畑を神社が所有していたため、これを氏子に貸し付けて小作料をとり、祭典費の一部に充てていたが、この田畑を農地解放により失ったのを機に、各戸から初穂料として一律に集める方法に改めた。
当地で結成されている講には、榛名講・古峰講・三峰講・御嶽講・成田講などがある。これらは、いずれも大字の中の有志によって組織されているもので、組単位の結成ではない。中でも榛名講や御嶽講は主に作神として、古峰講や三峰講は火防・盗賊除けとして信仰する人々が講員として集まっている。
また、嘗て氏子の間では、男衆のお日待である大遊びや女衆のおしら講が行われていた。特に、2月11日の大遊びには、宿で朝から酒を飲んで楽しんだものであったが、これは一年間の村行事を協議する機会でもあったという。
本殿の右側に祀られている境内社末社
向かって左から稲荷神社・子権現神社・天神神社・八幡神社・白山神社
参道途中左側にある神興庫であろうか。 社殿左側に祀られている境内社・八雲神社
静まり返っている境内
ところでこの地域には、10月第2日曜日に行われる秋祭りで、その時には「葛貫の獅子舞」が奉納される。この獅子舞は「毛呂山町指定民俗文化財 無形民俗文化財」と指定を受けている。また、同じく「毛呂山町指定有形文化財 歴史資料」と指定されている「神馬奉納絵馬」もこの社の境内に掲示板として設置されている。
「葛貫の獅子舞」の案内板
毛呂山町指定民俗文化財 無形民俗文化財
葛貫の獅子舞
平成二十三年(二〇一一)三月二十二日指定
奉納日 毎年十月第二日曜日
住吉四所神社に奉納される獅子舞は、雄獅子、雌獅子、中獅子が舞う「三頭獅子舞」です。
当社の獅子舞には、獅子とハイオイ(幣負)、花笠、万灯のほかに天狗が登場します。天狗は、猿田彦命を表すといわれており、獅子たちの先導役を担います。
奉納する演目は、「街道笛」、「角兵衛」、「十二切」があります。
また、獅子が舞う際には、町内で唯一、ささら歌を歌う「謡い(うたい)」を行います。
令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
「神馬奉納絵馬」の案内板
毛呂山町指定有形文化財 歴史資料
神馬奉納絵馬
平成二十七年(二〇一五)三月一十九日指定
住吉四所神社には、宝永元年(一七〇四)銘の神馬奉納の様子を描いた大絵馬が掛けられています。
大きく描かれた馬を曳く様子は、馬のたてがみや尾、鞍の彫刻、曳き手の表情や装束はどの細部も細かく描き、人馬の動きを表現しています。絵馬奉納の経緯は不明ですが、葛貫地域には馬を管理する牧が設けられたという伝承が残り、近代には草競馬が開催されるほど、馬が身近であったことが、馬への崇敬につながったとみられます。
令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
共に案内板より引用
*参考資料
『新篇武蔵風土記稿 宿谷村』
「宿谷庄と唱ふ、村名の起りを尋るに、村民權左衛門が先祖宿谷太郎行俊なるもの、隣村葛貫に住して當村を開發すと云り、彼權左衛門が家に藏せる宿谷氏の系譜を見るに、行俊が孫次郎左衛門重氏は、頼朝頼家實朝等に仕るとあれば、開發の年歴も大抵推て知べし」
「舊家者權左衛門、氏を宿谷と稱す、相傳ふ先祖は當國七黨の一兒玉惟行の第四子太郎経行に出、経行が四代の孫太郎行俊此地に來り住せり、是當所宿谷氏の祖也、夫より四代の後宿谷次郎左衛門重氏・鎌倉右大將家に仕へしに、和田義盛常盛の事に座して仕を止られ、やがて剃髪して不染入道と號し、遁世して當國に下り住しが、後召れて再び頼經に仕ふ、其子左衛門行時も將軍家に仕へたりしに、世かはりて宗尊親王に仕へ、其子二郎左衛門光則[按ずるに【鎌倉志】に光則寺は、大佛へ行道の左にあり。此處を宿谷とも云、相傳ふ平時頼の家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり、昔日蓮龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子を、光則に預け給ひ、土籠に入らると。是によれば親王家に仕へしと云は疑ふべし、]光則の子、三郎行岩、行岩の子三郎行惟まで親王家に奉仕し、行惟の子四郎重顕より將軍尊氏に仕へ、其の子與市儀重に至て、武蔵相模の内にて、知行七千町の地を領し、將軍義詮義満に従ひて、応永の頃泉州に於て、大内義隆と戦ひてしばゝ軍功あり、其後子孫世々將軍家に仕へたりしに、儀重七代の孫近江守重近の時より、小田原北條家に属し、其子大和守重則天正年中、氏直より當國入間郡の内、宿谷・權現堂・葛貫・市場・下川原・大久保・熱川・女影八ヶ村所領の書出を與へられしと云、北條氏没落の後は、鄕士となりしにや詳ならず、重則より四代の後、權左衛門重本大猷院殿に仕へ奉りて、後宿谷に住居し、寛文十年十二月廿四日五十五歳にて死とあり」
参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の地名 日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「埼玉県景観資源データベースHP」「境内案内板」等