古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上仁手諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市上仁手212
             ・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧上仁手村鎮守
             ・例祭等 歳旦祭 17日 祈年祭 43日 例大祭 113
                  新嘗祭 1127
 国道17号線を上里町方向に進み、「若泉2丁目」交差点を右折する。国道462号線に合流後北行し、利根川に架かる「坂東大橋」を越え、群馬県に入った最初の「坂東大橋北」交差点を右折する。群馬県道296号八斗島境線に合流後1㎞程東行し、右斜め手前方向に進む道を道なりに進むと、利根川の堤防が見える手前で、進行方向右手に上仁手諏訪神社が見えてくる。
        
              道路沿いに鎮座する上仁手諏訪神社
 本庄市の上仁手地域は本庄の最も北端に位置する地域である。現在利根川が南部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後、寛永年間の大洪水により、烏川の流路が南側に移って上仁手村は現在の群馬県側になったが、行政上は武蔵国に属している。
『日本歴史地名大系』 「仁手村」の解説
 かつては烏川の流路にあたり、慶長九年(一六〇四)代官頭伊奈忠次が同川に取水口(仁手堰)を設けて備前渠用水を開削した。寛永年間(一六二四〜四四)以前は上野国那波郡に属していたが、烏川の変流によって武蔵国所属となったとされる(上野国志)。幕末の関東川々御普請所絵図によると、利根川とみられる流路の南岸に元仁手、対岸に下仁手・上仁手があり、その北の島村(現群馬県境町)と長沼村(現同県伊勢崎市)との間に武蔵・上野の国境が引かれている。
       
                    境内の様子 
     
              境内に聳え立つご神木(写真左・右)
         ご神木の根元には戸隠神社の石祠がポツンと祀られている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 元仁手村』
 元仁手村は古當所及び上下仁手を合せて仁手村と唱り、正保の頃も楢然り、延寶五年五月中川八郎左衛門檢せし水帳に、上新田・下新田と載たれば、此頃より三村に分れしにや、既に元祿改の國圖に、仁手村及仁手村内上仁手村・仁手村内下仁手村と分ち記せり、元の字を添しは何の頃なりや詳ならず、當村及沼和田・山王堂・都島・杉山・新井等數村古上野國那波郡に屬せしが、寛永年中洪水の時、烏川の瀬替りてより當國に屬せし由、【上野國志】に記せり、
『新編武蔵風土記稿 上仁手村』
 利根川 村の南を流る、川幅近村に同じ、
 諏訪社 村の鎭守、圓融寺持、下同じ、〇稻荷社
 圓融寺 新義眞言宗、上野國那波郡堀口村滿善寺末、無量山と號す、阿彌陀を本尊とす、開山宥尊は寶永三年正月十六日示寂 觀音堂 地藏堂


 諏訪神社  本庄市上仁手二一二(上仁手字北土手)
 鎮座地の上仁手は、利根川北岸の群馬県側に位置する。かつては対岸の本県側の元仁手や下仁手と地続きで一村をなし、仁手村と称していたが、利根川の度重なる氾濫により同村が分断されて、現在のようになったという。この仁手村については、天正八年(一五八〇)に最後の鉢形城主北条氏邦が、長谷部備後守に出した「印判状」に、近くの栗崎・五十子(いかっこ)などとともに塩荷の押え所として載ることから、当時、武蔵から上野国へと至る重要な渡河点であったことがわかる。
 当社の創建については、口碑に「天正年間(一五七三〜九二)に北条氏の家臣であった茂木隼人の一族が来住し、氏神として祀った」とある。北条氏の鉢形城内にも諏訪大明神が城の鎮守として祀られていたことから、茂木氏が当地に来住するの当たり、城内の諏訪神社を勧請したものであろう。
『風土記稿』上仁手村の項には「諏訪社 村の鎮守、円融寺持」と載り、江戸期には、真言宗無量山円融寺が別当であった。この円融寺は、当社の北隣に本堂を構えていたが、明治十八年に焼失し、廃寺となった。
 本殿には、正徳六年(一七一六)に神祇管領吉田家から拝受した「正一位諏訪大明神幣帛」の筥(はこ)や、各々に梵字の墨書きされた多数の小石を納める桶などが奉安されている。
                                  「埼玉の神社」より引用 

       
             社殿の奥に祀られている養蚕神社の石祠
         よく見ると、養蚕神社の左側隅には稲荷社の石祠もある。
 氏子区域は大字上仁手で、氏子数は五〇戸余である。古くから養蚕育成の先進地として知られ、養蚕の盛んな土地であったが、昭和四十年始め、隣接する群馬県伊勢崎市八斗島に工業団地が造成されたことから、次第に工場へ勤めに出る氏子が増えてきている。
 氏子が今も続けている行事に二の午に行う「初午祭」があり、当地では、明治18年の折の大火災が、二の午の夜に起きたことから、毎年二の午に初午祭りを行う習わしになったという。かつては当日早朝から、多くの氏子が当社境内の稲荷社へ繭玉団子を供えた。また、各家の屋敷稲荷でも赤い幟を立てて祭りを行っていた。養蚕農家の中には、養蚕倍盛を祈願し、一日を農休みにして、自分の家の稲荷社へ参拝者を呼び寄せ甘酒を振る舞ったりした。但し、このような行事も、昭和四十年代半ばからの養蚕の衰微に伴い、現在は行われていないとのことだ。

        社のすぐ北側には悠然と利根川の大河が流れる。(写真左・右)
 古老の話によると、当地は水害を被りやすい位置にあり、水難者がしばしば出る事から、昭和初年までは、八月のお盆に、川施餓鬼(かえあせがき)が行われていた。氏子は、麦藁で編んだ小船や紙灯籠を作り、夕方になると、利根川の川辺から蝋燭を灯して流したものであった。川面を照らしながら静かに流れていく様子は、何か物悲しく、大変に風情があったという。 
       
               利根川の堤防から見る社の遠景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄の地名」「埼玉の神社」等   
        
 

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城山稲荷神社

 本庄城は、武蔵七党・児玉党出身の本庄宮内少輔実忠が古河公方家を迎え撃つために、弘治2年(1556)に構築し、元の本拠地であった東本庄館から移動した。『児玉記考』によると、「本庄氏滅亡の前は大池形をなせる凹地をはさんで左右に城郭を構え」とある。本庄城は、当初、久城掘りの東側から現在の本庄自動車学校付近までの大規模な範囲にあった。本庄城址は、現在の本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺(久城堀西側)を指すが、この辺り一帯だけではなく、本庄城址とされる地域は、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であった。城の北の崖下には小山川が流れ、東の地は窪んでおり、西の地はまた少し土地が高く、南は宿(城下町)の裏に続く。元の本拠地であった東本庄館より北方に位置し、より国境に近い位置に築かれた。
 天正18年(1590)に後北条氏傘下として豊臣秀吉と対立し、小田原城へ籠城するも開城に際して自害した。同年527日には本庄城も落城しており、鎌倉時代から本庄の地を支配してきた武蔵国の本庄氏は滅亡した。本庄氏による本庄城在城期間は、実忠とその嫡子・本庄隼人正近朝2代合わせて34年であった。
 天正188月、徳川家康に旧北条領が与えられ、その家臣である信州松尾の小笠原掃部大夫信嶺が9月に本庄一万石を配領した。小笠原氏により本庄城は改築され、信嶺の養嗣子となった信之により、本庄藩が立藩したが、慶長17年(1612年)に古河へ加増移封され、これにより本庄藩は廃藩となる。以後、本庄城の城下町付近には本庄宿が形成されていくこととなった。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市本庄3544
            ・ご祭神 倉稲魂命(城山稲荷神社) ・応神天皇(八幡神社)
                 建速素盞嗚命・牛頭天王(八坂神社)
            ・例祭等 祈年祭 315日 例大祭 412日 八坂祭 715
                 新嘗祭 1124
 本庄市役所の東側で、台町八坂神社からは北側にある「城下公園」から徒歩にて移動するとすぐ西側に城山稲荷神社が見えてくる。この地域は、北側の段丘の直下を小山川が流れ、南東は久城堀で切断されるという地勢は、自然の要害であったため、嘗ては本庄城が築造されていた地であり、江戸時代初期に本庄城を領有していた小笠原氏の本丸の位置は、城山稲荷神社の南西部一帯と推定されている。
        
                  城山稲荷神社正面
 
 鳥居近くにある「本庄新八景 本庄城跡と    標柱の先に設置されている社の案内板
     城山稲荷神社」の標柱
        
      社の案内板に対して、参道の反対側に設置されている本庄城跡の案内板
 本庄城跡  所在地 本庄市本庄三‐五
 本庄城は、弘治二年(一五五六)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。
 本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(一五六七)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。
 徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(一六一二)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。
 元禄十三年(一七〇〇)の城跡検地表には三町四反五畝二九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。
 なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和三十三年本庄市指定の文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
    本庄城跡の案内板のすぐ先にある「城山稲荷神社創建四百五十年記念碑」の石碑
 城山稲荷神社創建四百五十年記念碑
 城山稲荷神社が当地に鎮座されて四百五十年を迎える。
 今を去る弘治二年(一五五六)、児玉党の後裔本庄宮内少輔実忠は、上杉氏を破り関東の覇者となった後北条氏に従い、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄台地の北端、字天神林に城を築き、守護神として稲荷神社を勧請した。本庄城の築城を機に本城村も誕生した。
 天正十八年(一五九〇)、後北条氏が豊臣秀吉に敗れると本庄城も秀吉勢前田利家軍の前に戦う事無く開城した。
 新たに本庄領一万石の城主となった小笠原信嶺は、天神林の城を廃して当所に新城を築き、旧城内より稲荷神社をここに遷座した。
 その後、本庄城は徳川幕府により廃されるが、城山稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神として中山道最大の宿場町である本庄庶民の崇信を集めて来た。
 また、町が全国有数の繭の集散地となった明治から昭和初期にかけては、養蚕倍盛の神として周辺町村に講も組織され、例大祭には参拝者が列をなし、芝居や踊り、サーカス等の小屋掛けも行われ、賑わった。
 現在、社殿及び境内には国の神社合祀令に従って、明治四五年(一九一二)、本町地内にあった八幡神社、八坂神社、天手長男神社、琴平神社が共に祀られている。
 平成十八年(二〇〇六)、本庄の歴史とともに歩んだ城山稲荷神社の創建四百五十年を祝して、ここに石製大鳥居奉納、階段修復、記念誌発刊、記念碑建立を行うものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
          参道を進み、石段を下るその先に社殿等が見えてくる。
              県内には珍しい「下り宮」の配置
       
         境内の中央に威風堂々と聳えたつ城山稲荷神社のケヤキ」
 本庄市内で最大といわれる巨木。太い幹は空洞化しているものの、境内中央に堂々とした姿を見せている。樹勢は未だに旺盛な様子が見られ、強い生命力を感じさせてくれる。
        
                          
城山稲荷神社のケヤキ」の案内板 
 埼玉県指定天然記念物 
 城山稲荷神社のケヤキ
 昭和四十四年三月三十一日指定
 このケヤキは目通り六・三メートル、根回り十三・三メートル、枝張りは三十メートル四方に及び、姿態もみごとな樹で、この一本で神社の森をつくっているくらいである。
 樹令およそ四百年と推定される、ケヤキは戦時中特別なものを除きほとんど強制的に供出され、このような大木は、県下でも数少ない貴重なものである、弘治二年(一五五六)本庄実忠によって本庄城築城のとき献木されたと伝えられている。(以下略)
        
                ご神木の先に鎮座する社
 城山稲荷神社  本庄市本庄三—五—四四(本庄町城跡)
 本庄城は、弘治二年(一五五六)に、本庄宮内少輔実忠が築城したとされる平城である。
 利根川と烏川に削られた段丘上にあり、北側の段丘の直下を小山川が流れ、南東は久城堀で切断されるという地勢は、自然の要害であったが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の関東攻めによって落城した。 徳川家康の関東入国後、小笠原信嶺が新城主となったが、嗣子の信之が慶長十七年(一六一二)、古河城に移されて廃城となった。 現在、城跡は本庄市指定の文化財となっており、築城時に植えられたという欅の大木は県指定天然記念物になっている。
 当社は、本庄城の北東端にそびえるこの欅の大木の傍らに鎮座しており、社伝によれば、本庄城を築いた本庄実忠が、常々崇敬してきた椿稲荷明神を城の守護神として勧請し、城の丑寅(北東)の方角に社を建立して祀ったことに始まるという。 本庄氏は氏神として稲荷神を厚く信仰したといわれ、元の居城であった東本庄館跡をはじめ、本庄氏にかかわりの深い館跡の近くに稲荷社が祀られている例がしばしば見られる。また、天正十八年に新城主となった小笠原氏も、当社を厚く信仰して社殿を再興し、慶長三年(一五九八)には上州(現群馬県)赤城山麓から取り寄せた一〇〇本以上の松を境内に植樹したと伝える。
 江戸時代は、真言宗の慈恩寺が別当であり、現在の社殿は、天保十五年(一八四四)に再建したものである。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社の祭日は、祈年祭(315日)・例大祭(412日)・新嘗祭(1124日)及び、末社の八坂神社の例祭である八坂祭(715日)の年4回祭典を行っている。その中で、最も盛大に行われているのが、例大祭である。「大祭」とも称し、昔から「桜を楽しむ祭り」とされており、嘗ては42日であったのだが、昭和二十年代からは桜が満開となる十二日に行うようになり、参道付近には今でも露店が並び、相当な賑わいがあるという
 八坂神社は本庄宿時代には中山道の中央に市神様とし祀られていた。その後円心寺隣接の八幡神社内に移され、更に明治末期に八幡神社と共に城山稲荷神社境内に移り三社別々に祀られていたが、この度の社殿新築を機にこれを合祀し新社殿内に三神社を祀る事になった。
 八坂神社の例大祭は祇園祭り(天王様の祭り)として古くから伝えられてきたが、現在は本庄祇園まつりとして七月十五日に近い土・日曜日に全町参加の市民のお祭りとして盛大に行われている。本町には明和四年(一七六七年)造営の神輿が現在も残されており当時から神輿渡御が行われていた記録が残っている。
       
          社殿の左側斜面上には幾多の白狐像が奉納されている。 
 城山稲荷神社は、本庄宮内少輔実忠が本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斎したにが始まりであったが、本庄城が廃城となった後は、一般の住民の方々によって商売繁盛・養蚕倍盛の神として信仰されるようになっていった。養蚕が盛んであったころは、春に当社に供えてある繭や白狐像を借りて帰り、秋に新繭や新しい白狐を添えて返納する習わしがあり、今でも本殿の脇には多くの白狐像が置いてある。
 
     社殿の右側にある手水舎           手水舎の並びにある銭洗弁財天   
手水舎の奥には市指定文化財「ヤブツバキ」あり   嘗て湧水が噴出していたのであろうか。

 市指定文化財のヤブツバキは、戦国時代に本庄城主本庄宮内少輔実忠が西本庄の地にあった椿稲荷を現在地に移転したという社伝が残っている。 目通り周囲は1.2メートル。
また、社殿のすぐ左脇にある湧水は、氏子の間で、七夕の日に、女性がこの水で洗髪すると災い除けになるとの信仰・風習があるという。
       
                   静かな境内
 境内の一角には神楽殿がある。かつて「太々神楽講(だいだいかぐらこう)」があり、旧本庄町内や伊勢崎方面に多くの講社を持っていたという。特に例大祭では、五穀豊穣・養蚕倍盛・家内安全・商売繁盛などを祈願しに、先達に連れられた代参が大勢来て、金佐奈神楽本庄組が奉納する神楽も見物していったとの事だ。但しこの「太々神楽講」は戦前に解散となっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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台町八坂神社

 八坂神社(つしまさま)  本庄市本庄三‐七-一一(本庄町字北久保原)
 本庄は、中山道の江から十番目の宿場であると共に、繭市が盛んであったことでも名高い。本庄の繭市は、毎月六回、二と七の付く日に市の立つ六斎市で、その最盛期には「本庄の繭相場が全国の中心」とまでいわれるほどであった。
 社伝によれば、当社は弘治二年(一五五六)の創立で、城下町の疫病除けの神として本庄城主の本庄宮内少輔寅実忠が勧請したと伝えられる。その後天正十八年(一五九〇)には、小笠原氏が城主となったが、慶長十七年(一六一二)に、下総国古河へ加増転封となったため、本庄城は廃城となった。その後、明暦二年(一六五六)に本殿を建立といわれ、『明細帳』には「明暦二年信徒にて本社を建立す」との由緒が記されている。このことは、本庄宿の人々が宿場の繁栄を願って社を整備したことを示すものと思われる。
 また、『風土記稿』本庄宿の項に「稲荷社 城跡にあり、城山稲荷と云、慈恩院持、○牛頭天王社 これも同じ処にあり、大正院持」と載るうちの「牛頭天王社」が当社のことであり、本庄城跡の一角にある当社の周辺は、かつては鬱蒼とした木立に包まれ、夜には大人でも怖くて一人では近づけないほどであったが、今では周囲は城下公園として美しく整備されている。 なお大正院は、天正十一年(一五八三)の創立という真言宗の寺院で、当社の四〇〇メートルほど南方にある。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
            ・所在地 埼玉県本庄市本庄37−11
            ・ご祭神 健速須佐之男命           
            ・例祭等 初祈願 115日 祈年祭 412日 例祭 71415
                 
新嘗祭 1210
 JR高崎線本庄駅北口から駅前通りを北上すると本庄市役所に達するのだが、その手前の新郷のある交差点を右折する。市役所も近隣にあり、住所も「本庄」と市名を冠した市の中心的な地域故、多くの住宅街が建ち並ぶ道を約300m進むとすぐ左手に「八坂神社」の社号標柱のある路地が見え、そこを左折し真っ直ぐ進むと台町八坂神社に到着する。
 周囲には専用駐車場はないようなので、社のすぐ北側にある「城下公園」の駐車スペースに停めてから参拝を行った。
        
                 台町八坂神社正面
 本庄城址とされる地域は、元小山川の流れを北辺の天然の要害とした西側から続く本庄台地の東端部分に位置し、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であったという。弘治二年(1556)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折、鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社。嘗ての本庄城域の東端といわれる台町八坂神社の南側は一段下がっており、昔は堀であったと推測されている
            
             入口付近に一際目立ち聳え立つご神木
        
                                斜面上に建つ鳥居
 本庄市台町が氏子区域で、但し地図上では台町の代わりに「本庄」「東台」「日の出」の3地域に分かれているが、台町の名や自治会として現在も引き継がれており、そこに居住する約1400名が当社の氏子である。台町八坂神社は、「津島様」もしくは「台町の天王様」と呼ばれ、商売繁盛の神もしくは疫病除けの神として信仰されている。天王様の呼称は、神仏分離までは「牛頭天王」と号していたことに由来するもので、八坂神社には一般に「天王様」の通称があるが、旧児玉郡内に150社ある八坂神社のうち「津島様」と呼ばれるのは当社だけであるという。

         鳥居の先に設置されている新旧の案内板(写真左・右)
 八坂神社  所在地 本庄市本庄三‐七
 八坂神社の祭神は、健速須佐之男命である。社伝によると創立は、弘治二年(一五五六)で、城下町の疫病除けの社として本庄宮内少輔実忠が勧請したと伝えられている。現在の本殿は、明暦二年(一六五六)再興されたものである。
 この神社の祭礼は毎年七月十四日、十五日に行われ、この両日台町の氏子の人々によって獅子舞が奉納されている。この獅子舞は、寛文三年(一六六三)榛沢郡元榛沢(現岡部町)で開かれていた六斎市を本庄宿に移した折に、天王祭(市神祭)のとき、台町有志によって始められたと伝えられている。歌人三、笛四、裃着用ほか手古舞姿で拍子木二、金棒引二、舞い三(法眼一、雌獅子一、老獅子一)で演舞されている。昔より旱魃時に当社の獅子舞を奉納すると必ず霊験あらたかに雨が降ると伝えられ、雨乞獅子といわれている。
 なお、この獅子舞は、昭和三十五年本庄市指定の無形文化財となっている。(以下略) 
                                      案内板より引用
 

 
    ご神木のすぐ先にある手水舎       台町八坂神社の由来等を記した石碑あり
 八坂神社
 祭神 健速須佐之男命  例祭 七月十四日、十五日
 由緒

 弘治二年(今より四二〇年前)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社で児玉郡並びに本庄市内に於いても八坂神社は当神社が唯一の社です 社殿は昭和四十八年に再建したものである
 本庄市無形文化財八坂神社獅子舞の由来
 寛文三年(今より三一三年前)の時代に本庄宿に生絹市場開設の折八坂神社氏子有志が舞いや唄を習い伝え八坂神社に奉納したのが始まりで爾来今日に及んで居る
 この獅子は龍頭と云い寛文三年に沼和田の雷電社の社木を以って作製したものでその龍頭の顎下に年号の彫刻がある
 此の獅子舞 唄は頗る古雅なもので疫病や雨乞に霊験あらたかにて雨乞獅子の名もあり戦火の中にも毎年休む事なく奉納され現在に至って居る
 獅子は法眼・女獅子・老獅子と呼び舞人は身を清め八坂神社宮司のお祓いを受け御幣を腰に差して舞う
 伝統ある獅子舞(橋渡り)の数十年来の再現奉納を記念し之を建立。
 昭和五十一年七月十五日竣工
        
                    拝 殿
        
         社殿の左側にある「燿龍殿」と表記された獅子舞道具収蔵庫
 71415日に行われる「祇園祭」は「夏祭り」ともいい、県指定無形民俗文化財である「台町の獅子舞」が奉納される。社の標柱には「八坂神社の例大祭及び雨乞い祈願の時に奉納される獅子舞で、その起源は寛文三年(1663年)に遡ると云われ、以降、毎年休むことなく祇園祭で奉納されている」と載せている。
              
 1415日と二日続きの祭りのうち、14日の晩は宵待(よいまち)、15日が本祭りであるが、勤め人の増加から土・日曜日を祭日とするようになり、平成3年から本来の祭日に近い土・日曜日に祭りを行っている。
 台町の獅子舞は、最も古い獅子舞に寛文三年の銘があり、同年に榛沢郡元榛沢の六斎市を本庄宿に移した際に始められたものといわれている。この獅子舞は、長唄一二曲、端唄一二曲に合わせて舞うところが特徴で、宵待で六ヵ所、本祭りで八ヵ所と地内各所で奉納する。いずれも大正院の薬師堂が出発点で、当社を経由して町内を回り、最後に大正院の薬師堂に戻る形で進行、順路途中で設けられた御仮屋ではきゅうり等の奉納があるという。
        
            燿龍殿の手前に祀られている雷電宮の石祠
 嘗て夏の渇水期には、台町の北にある沼和田の雷電神社の獅子舞の一行が出向き、一場所摺って降雨を祈願したものであるのだが、これが台町獅子舞の「雨乞獅子」という異名の由来となっている。
        
                   境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
本庄市観光協会HP」「境内案内板」等

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阿夫利天神社

 神奈川県伊勢原市の大山に鎮座する「大山阿夫利神社」は、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、旧社格では県社に列していて、現在は神社本庁の別表神社である。
 社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされ、天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。以後、神仏習合が続く。
 この社は別名「雨降山〈あふりやま〉」という。大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり(あふり)山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。大山阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきた。
 その後、江戸期以前の神仏習合時代には、石尊大権現が祀られていた。この石尊大権現は、大山の山岳信仰と修験道的な信仰が融合した神仏習合の神で、十一面観音を本地仏としている。
 本庄市中央地域に鎮座する当社は、寿永年間(1182~1185)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた「石尊大権現」をこの地に勧請し、明治初年まで安養院が別当であった。その後、大正2年に天神社等を合祀し、社号を阿夫利天神社と改称したという。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市中央3438
            ・ご祭神 大山祇大神 天満天神(菅原道真公) 大雷大神 高靇大神            
            ・例祭等 祈年祭 225日 春祭(勧学祭) 425
                 例祭(お神酒上げ神事) 93日 新嘗祭 1125
 仲町愛宕神社の参拝前、社の北側にあるショッピングモールの駐車場に車を停めてから参拝したのだが、その駐車場所から目を西側に転じると、遠目からも分かるこんもりとした森が見え、徒歩にて数分歩くと、阿夫利天神社に到着することができる。
        
                  阿夫利天神社正面
 本庄市中央地域は、本庄市役所や本庄城跡から「駅前通り」を隔ててすぐ西側に隣接する、現在の行政区域で南北約500m・東西650m程の横に長い四角形の地域であり、この地域の北側境には古小山川が流れる。水源は元来湧水であったが、残念ながら現在は枯渇していて、現在の河川水量は少なく、現在の主な水源は生活排水と御陣場川からの導水である。その河川周辺の標高が約47mに対して、南側境である中山道は57m程で、台地面と低地面との断崖によって形成される。地域の北西域にある阿夫利天神社もその社の北側にある若泉公園とは標高差56m程で、台地面との境となっていて崖下に公園が東西に広がる
 
  石段の左側に並ぶ庚申塔三基と石祠一基     石段右側に建つ社号標柱
 阿夫利天神社は「石尊様の山」と呼ばれる高台の北端部に鎮座している。その高台の北側の付け根に湧水池があり、嘗ては常時、水が湧きだしていたという。
 社伝によれば、この湧水は、天明七年(一七八七)に旱魃となった折、阿夫利神社の御神体を社殿北側にある池の中洲に移して雨乞いをしたところ、霊験を得て雨が降り、同時に湧水を得たのが始まりであるという。この霊験譚は、村内ばかりでなく周辺の村々まで知れ渡り、当社は「水の神様」として厚く信仰され、現在の寄居町や群馬県高崎市辺りからも、石尊講と称して多くの人々が多数参拝したとのことだ。 

石段を登り終えるとさっぱりとした参道が続く。  参道途中右手に案内板が設置されている。
 阿夫利天神社 所在地 本庄市中央34
 阿夫利天神社の祭神は大山祇命、大雷命、高靇神、菅原道真、天手長男命の五神である。
 社伝によると、寿永年間(一一八二~八五)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた相州大山(神奈川県伊勢崎市)の石尊大権現をこの地に勧請したのが始まりと伝えられ、戦国時代の本庄宮内少輔も深く崇敬したという。
 その後、天明三年(一七八三)七月の大かんばつの時、石尊社を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれる。
 寛政三年(一七九一)に社殿を再建、大正二年に天神社ほかを合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。
                                      案内板より引用
        
     参道を進むと、正面に社殿、右側には神楽殿、左側には社務所が見える。
 
      石段上に鎮座する社殿              石段下で、右側に設置されている案内板
        
                    拝 殿
 阿夫利天神社御由緒   本庄市中央三-四—三八
 ▢御縁起(歴史)
 当社は、大正二年、阿夫利神社に天神社が合祀され、社名を阿夫利天神社と変更したものである。
 阿夫利神社は、社伝によると、寿永年間(一一八二~八四)源頼朝によって領地を受けた児玉党の本庄庄太郎家長が、かねてより信仰していた相州大山石尊大権現を、領地内の当所に勧請したのが始まりである。文明十三年(一四八一)その隣接地に、本庄藤太郎雪茂 (僧号伊安))が若泉山安養院無量寺を開基し、以後、明治初年の神仏分離まで、同寺が別当職を務めた。
 一方、天神社は、「阿夫利天神社由緒書」(埼玉叢書第三巻所収)によれば、天正二年(一五七四)に本庄城主本庄宮内少輔実忠の命により城の鎮守として奉斎されたことに始まる。本庄氏退去の後、城主となった小笠原掃部太夫も、鎮座地のほかに五反余の土地を寄進し「天神林」と名付けた。慶長十七年(一六一二)小笠原氏国替に伴い本庄城が廃城になると、天神社は村人の手によって守られ、名主七左衛門・問屋伊左衛門らが中心となって寛永六年(一六二九)に御霊を天神林に再建した祠へ移した。寛文七年(一六六七)に同社は、別当寺管霊山自在院慈恩寺境内(現在の照若町)に移された。その後、大正二年に町役場建設用地として天神社鎮座地が指定されたことにより、阿夫利神社に合祀となった。
 平成十二年一月、放火により社殿が焼失したが、御神体が残り、平成十四年九月に再建され、現在に至っている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                本殿から社殿全体を撮影
 阿夫利天神社の例祭は、毎年93日に行われる盛大な祭りである。嘗ては、923日の2日間行われ、古くから香具師(やし)の間で「三大高待」と呼ばれ、大宮氷川神社の十日待、秩父神社の妙見待と並び称される程の賑わいであった。
 この例祭では、神楽の奉納や、水を恵む神様に御神酒を奉納する「御神酒上げ神事」が行われる。この「御神酒上げ神事」は、参加している旧本庄宿の12ヵ町の各町内の旦那衆が、お神酒樽を首に掛けた町内頭と呼ばれる鳶職の親方を先頭にして、四斗樽の御神酒を荷車に載せ、木遣りと共に引いて神社に奉納する勇壮な神事である。この神事は、午後6時頃出発し、各町は、町名の入った提灯を下げ、町内ごとに昇殿すると持参した「お神酒樽」を神前に供え、町内の安全を祈念する。その後、各町内に戻り、自治会館や料理屋でお神酒を頂き直会をする。
 
  本殿の西側にひっそりと祀られている    本殿奥で、森に覆われている一角に鎮座する
       境内社・出世稲荷社         境内社・宝登山神社(一番右)と多数の石祠

 阿夫利天神社の氏子区域は江戸時代初期より中山道で栄えた旧本庄宿の12ヵ町で、宮本町・泉町・上町・照若町・七軒町・仲町・本町・南本町・台町・末広町・朝日町・諏訪町であり、この宝登山神社の台座に刻印されている「照若講」とは、この12ヵ町のひとつである照若町の講者からの奉納であろう。
 
        阿夫利天神社・本殿奥に脇道があり、下り斜面を降りると、
     崖下の空間を利用して「若泉公園」が東西に広がっている。(写真左・右)
 
  公園南側の崖面下には嘗ての湧水跡と     崖面西側には、画像が小さくて見ずらいが
     思われる痕跡がみえる。          不動明王と二童子が祀られている。 


            社の南側に隣接してある普寛霊場(写真左・右) 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市 観光協会HP」Wikipedia」「境内案内板」等                
 

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仲町愛宕神社

 慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康のもと、江戸幕府が創立され、江戸と京都、大阪などを結ぶ交通網の整備は領国経営の上でも重要な施策となった。内陸を通る中山道の整備もその一つである。そして、かつて本庄に城下町を創った新田氏家臣の末裔と言われる人々(戸谷、諸井、森田、田村、内田、今井、五十嵐等)も慶長年間頃より中山道沿いに移り住むようになった。
 寛永10年(1633年)に本陳が設置された。寛永14年(1637年)には人馬継立場となり、寛文3年(1663年)には榛沢郡榛沢村で開市していた定期市を本宿に移転し、宿場町としての形態を整えた。そして、元禄7年(1694年)に助郷村制度が確定された。
 本庄城(慶長17年に廃城)に最も接近して創られたのが本宿であり、本庄宿の中では最も歴史が長い。本宿より西方で、京都よりには上宿ができ、両者の間には中宿が成立した。三つの宿は、その後、「本町」「仲町」「上町」と呼ばれるようになった。
 その後、西国や日本海方面より、江戸に出入りする時の内陸の中継点として、宿の機能は年々拡大されていき、3町より始まった本庄宿も、天保14年(1843年)には、宿内人口4554人、商店など全ての家数を合わせ1212軒を数える中山道最大の宿場町として発展する事になる。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市中央152
            ・ご祭神 愛宕大神 天手長男大神 子安稲荷大神 
            ・例祭等 祈年祭 315日 例祭 424日 祇園祭 715
                 新嘗祭 1124
 国道17号線を本庄市街地方向に進み、「日の出四丁目歩道橋」のある交差点を左折する。その後、旧中山道で埼玉県道392号勅使河原本庄線を西行すること1.7㎞、本庄駅前通りとの交点である「本庄駅入口」交差点を直進し、240m程先の丁字路を右折し、暫く北行すると、進行方向左手で、住宅街の一角に愛宕神社の小さい鳥居が見えてくる。
 社のすぐ北側には「仲町会館」が隣接しているのだが、事前リサーチによる駐車スペースの確保が確認できなかったので、そこから150m程先にあるホームセンターの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始した。 
       
                 小じんまりとした鳥居
   民家が建ち並ぶ細い路地の先にこんもりとした森に囲まれた古墳上に社は鎮座している。

 当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せている。神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、現在も同寺で大切に祀られている。 
     
 社殿に至る石段の左手にある2本立ちとなっているケヤキはご神木とされており、今尚樹勢は旺盛。
           市の天然記念物に指定されている(写真左・右)
 本庄市指定文化財 天然記念物  指定年月日 昭和431023日。
 仲町愛宕神社のケヤキ
 愛宕神社は古墳上に祀られ、社殿に至る石段の左手に神木として所在しています。ケヤキは南北に2本立ちとなっていて、南樹は目通り周囲4メートル、北樹は目通り周囲4.3メートルです。
「本庄市HP
」より引用
             
              古墳の墳頂上に鎮座している社殿
   古墳の回りを覆う社叢林が旺盛のため、昼間の参拝にも関わらず、この一帯はほの暗く、
              神秘的な雰囲気を醸しF出している。
 当社で行われる「祇園祭」は仲町が本庄の中でも先駆となって始めたもので、戦後は一時期廃れたが、昭和24年に神輿渡御を復活したところ、商店街活性化の一助として他の町内でも次々と神輿を出すようになり、今は「本庄祇園祭」と称する大イベントに成長した。昼は子供神輿、夜は大人の神輿が威勢よく渡御するこの祭りは、本庄の夏の風物詩ともなっている。
 
  社殿に掲げてある「愛宕山」の社号額    石段の頂上部付近に設置されている案内板
 愛宕神社 所在地 本庄市中央15
 愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。
 天正19(1591) 本庄城主小笠原信嶺が勧請したと言われている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。
 神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根元から南北二樹に分れている。
 南樹は目通り周囲3.7メートル、枝張り東西約16メートル、北樹は目通り周囲4メートル、枝張り東西約20メートル、一本で社叢(しゃそう)を形成している。このケヤキは、昭和43年本庄市指定の文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
             社殿付近に設置されている社の御由緒
 愛宕神社 御由緒  本庄市中央152
 □ 御縁起(歴史)
 本庄城の城跡から見て、南西500メートルほどの所にある愛宕山と呼ばれる古墳の上に当社は鎮座し、石段の脇には神木の大欅(おおけやき)が枝を広げている。この古墳は、愛宕山の西方500メートルほどの所にある古墳と夫婦塚であるといわれ、彼方の古墳の上には寺坂町の天神社が建つ。
 当社の位置は、臨済宗妙心寺派の寺院である開善寺の旧寺領の南東端に当たる。開善寺は、天正18年(1590)に本庄城主の小笠原掃部大夫信嶺によって開かれ、慶安2年(1649)に三代将軍家光から一五石の御朱印を賜ったことで知られており、歴代将軍から拝受した朱印状を納めた漆塗りの箱は市指定文化財になっている。当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せる。
 神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。社格は無格社であったが、氏子の厚い信仰と「由緒ある社である」との誇りにより、明治末期にしばしば要請のあった村社等への合祀の話も退け、独立した社を維持してきた。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、 現在も同寺で大切に祀られている。
                                      案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 本庄宿』
 開善寺 同宗臨済派、京都花園妙心寺末、疊秀山と號す、寺領十五石の御朱印は、慶安二年十一月十七日賜へり、開山球山は時の領主小笠原掃部信嶺の室、久旺尼院の兄にて春日局の叔父なり、信濃國伊奈郡川路村開善寺に住し、天正十九年こゝに來り、一寺を草創し、則彼寺號を襲ひ且住職せりと、この僧は寛永三年八月十二日示寂、開基小笠原信嶺は慶長三年二月十九日卒す、則開善寺徹州道也と號す、
 九條袈裟一領 表紺地赤金欄、裏は白綿地なり、久旺尼院及春日局二人手親縫ひしものと云、箱の裏に星霜既久理破壊せる故、寛政年中小笠原相模守長敬改製せることを記せり、この外信玄出陣の畫像等あり、 鐘 寛延年中再鑄の銘あり 愛宕社 稻荷社
 当社には天手長男神社と子安稲荷神社の二社が末社として祀られていたが、両社共に本殿内に合祀された。そのため、昭和十二年ごろまでは、「愛宕大神」「天手長男大神」「子安稲荷大神」の三種の神札があったが、現在はこれらをまとめて「愛宕三神神璽」として頒布しているとの事だ。
        
                 石段上からの一風景
 本庄市中央地域は、本庄駅がすぐ南東側にあるため、住宅街や近代的なオフィスビル類などが多い地域なのだが、かつて、徳川幕府の政策の都合から宿場町として栄え、商人の町として発展し、18世紀には中山道で最大の宿場町となり、その後、明治以降は生糸・絹織物の産地として栄えたためか、嘗ての宿場町の古きよきまち並みが多く残り、特に中山道を通ると、蔵や商家、寺院など当時の面影を残す風景に出会え、市としての文化度や成熟度が非常に高い地でもある。
 但し、本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けたともいい、江戸時代当時の面影を残す建物は少ない。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されていて、これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。というのも、火事になった時に「防火帯」の役目を果たしたからであり、商家の資産を保管していた蔵々が火災の時に防火拡大を防ぐ「盾」となったという。
 これも近世当時の建物が少ない理由である。
 
このような歴史的な背景を推察するに、この地に「火防の神」の意味合いも強い愛宕神を祀ったのも、創建された理由の一つとして挙げられるのではなかろうか。実際氏子の間では「愛宕様のおかげで、中山道からこっち(北側で当社のある方)は古くから火事が少ない」という。慶応元年(一八六五)の開善寺所蔵の御朱印地図面を見ると、現在の仲町会館の東の辺りに湧水があり、愛宕山を巻き込むように沼が形成されていたが、この沼の水が防火用水としての役割を果たしていたことがうかがえる。但し、この沼は町の発展に伴って埋め立てられたらしく、大正時代末には既に姿を消している。
        
           ご神木の根元には三基の庚申塔と仏像がある。
 周囲が自然に恵まれた中で、ご神木が旺盛に根を台地に下ろして聳え立つ風景は度々見ることはあるのだが、このような住宅街の一角、特に路地幅が狭く、民家が密集している中で、このように立派な巨木が聳え立つ姿は威厳さえ醸し出している。地域の方々が如何に大切に守ってきたのであろう。

 
       仲町愛宕神社のすぐ東側に鎮座している戸谷八稲荷神社(写真左・右)
         鳥居扁額にはうっすらと「正一位稲荷大明神」と刻印
        
              社の傍らに聳え立つケヤキの御神木

 
    
開善寺正門の向かいにあった          小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 「小笠原掃部太夫信嶺夫婦の墓」の案内板
 本庄市指定史跡  小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 公は徳川氏の家臣で、もと信州松尾城主、天正十八年 (一五九〇年)豊臣氏の関東攻めにより、本庄氏滅亡の後当城を賜わり、同年九月入城し本庄領一万石を領した。慶長三年(一五九八年))二月十九日、五十二才にして逝去した。法名徹抄道也大居士、なお公の墓石宝篋印塔は古墳上に築かれている。
 昭和三十三年三月二十八日  本庄市教育委員会                               案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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