古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

市場神社

『鎌倉街道』は、鎌倉時代から室町時代にかけて整備された鎌倉と関東諸国を経て各地を結んだ主要街道の総称で、鎌倉から武蔵国・上野国を経て信濃国・越後国へ向かう街道を「上道(かみつみち)」と呼んでいた。埼玉県毛呂山町の各所には、その遺構が残っており、2022年に埼玉県毛呂山町市場の上道約1.3㎞とその周辺の遺跡が国の史跡に指定された。宿場や墓域などが良好に保存されていることが評価されたとのことで、街道の遺跡が国の史跡になるのは初めてで、毛呂山町では初の国の史跡である。
 市場地域周辺で発掘された「仏坂遺跡」の街道跡は台地から高麗川に向かう地形の変換点にあたり、掘割の形を見ることができる。街道跡の西側にかつて三島社と呼ばれた市場神社が鎮座している。
 市場の由来は、九の日に市が立ったことによるといわれており、対岸にある四日市場地域と合わせて六斎市が開かれていたと伝わっている。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町市場51
             
・ご祭神 事代主神 大山祇神
             
・社 格 旧市場村鎮守 旧村社
             
・例祭等 勧学祭 33日(大利天神社) 天王様 728
                  
秋祭り 1028
 東武越生線川角駅出入口から北方向に進路をとり、350m程先の十字路を右斜め方向に進む。その後、道幅の狭い農道を周囲の状況を確認しながら道なりに進むこと500m程、周囲は長閑な田畑風景の中に時折民家がチラホラと見える中、丁字路の達するのだが、その左前方方向に市場神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                 市場神社正面一の鳥居
      周囲の長閑な風景にも溶け込んでいて、正に「村の鎮守様」の印象通りの社 
                 不思議と子供の頃を懐かしく思い起こしてくれるような感覚 
『入間郡誌』による「市場村」の解説
「市場は村の東南部に位し、古の鎌倉街道に沿ひて、宿駅たりしが如く、古九日市場の名あり。即ち九の日を以て市を開きし也。旧名主山崎氏に就て尋ね頗る該街道の跡と、当時の盛観を詳にすることを得たり」
「鎌倉街道は今の川角、西大久保境界に当れる、道幅五間の古道より東南に屈して、一たび低温なる水田地を通過し、現市場の中央を横断して東南南の方向を以て大家村四日市場、森戸の間に出づ。沿道に本陣たりし家あり。大林坊の跡あり。又市場神社あり。思ふに此街道は両上杉氏鎌倉を去れる後も多少人馬往来の存せしも、徳川氏江戸に入るに及て、漸く廃頽に帰したるものならん」
        
              一の鳥居を過ぎた先に建つ二の鳥居
      冒頭に紹介した「鎌倉街道上道」掘割の遺構はこの社の東側にあるのだが、
   市場神社は街道に対して背を向けるように社殿が建てられていて、西向き社殿でもある。
        
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 市場村』
「當村昔は鎌倉街道に係れる處にして、其ころは九の日に市あるし故、中古までは九日市場村と唱へしよし古街道の蹟は今も残れり、されど舊くは川角村に屬せし地にて、當村應長十七年の水帳に、入西郡川門の内九日市場と載たり、正保の改には見えず、元祿中のものに始て市場と見えたれば、川角村に屬せし頃は、九日市場と唱へ、分村せしは正保の後元祿の前のことにして、」
「三島社 當村の鎭守なり、本地佛は眞鍮をもて造れり、圓鑑にて徑り八寸、内に三尊の彌陀を鑄出せり、武蔵國入西郡九日市場村山崎等奉修と彫たり、満願寺持、大利明神社、」

 
 市場神社  毛呂山町市場五一(市場字本村)
 市場は町の東部に位置し、南は坂戸市に接する。
 市場の地名については、村内を貫く旧鎌倉街道に沿って古くから九の日に市が開かれていたことに由来すると伝える。当社は明治四〇年に行われた合祀を機に三島神社を市場神社と改称したもので、旧名主家である山崎家(現当主まで一九代)の伝えに、先祖が鎌倉から三島様の神体を袋に入れて首に下げて持ってきたことに始まるという。その後、四代目が分家に出て以来、神体はこの家が預かり、祭りのたびに神社に納めるようになった。往時の神体は懸仏であったが、大正中期の火災により残片と化したため、神鏡を新調し、現在に至っている。
 祭神は事代主神・大山祇神で、三間社流造り柿葺きの本殿は、明治一四年の再建である。明治四〇年に森戸字台(現坂戸市森戸)の村社稲荷神社を合祀した。この社は本来、森戸の国渭地祇神社に合祀される予定であったが、お土産(財産)が無いとの理由から当社に合祀されることとなり、両社の氏子が協力して社殿を運んだといわれる。このほか、市場字大利原の村社大利神社・同境内社天神社・同八坂太神社、字本村の山王大神社、字光山の山神社、字谷ケ俣の愛宕神社を合祀し、更にその後、森戸字市場の神明神社・同境内社三峰神社を合祀している。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
 
 社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社  八坂神社の右隣に祀られている大利天神社
        
                          社殿付近から眺める境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「毛呂山町HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「埼玉苗字辞典」等
        

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菖蒲町小林神社

 久喜市菖蒲町の元荒川の左岸には「小林」という地域名がある。全国的にも有名なこの名称であるのだが、この「小林」という名称を調べてみると、苗字に関して、全国で苗字ランキング第9位の大姓で、中部日本を代表する苗字である。特に、関東・甲信越地方に多く、そのほとんどの県でベスト5に入っている(埼玉県でも4位)との事。なかでも長野県では第1位の苗字、長野県発祥の小林氏も確認されていて、江戸時代の俳人小林一茶も長野県の北国街道柏原宿(現信濃町)の農家の生まれである。
 その由来として、『地形』や『地名』由来からでは、「小林」という名称は、「小さな林」や「林の近くの土地」に由来すると考えられていて、日本は森林が多い国であり、古くから「林」に関連する地名が各地に存在していた。そのため、全国のさまざまな地域で独立して「小林」という地名や苗字が生まれたという。
 因みに、当地域名では「小林」と書いて「オバヤシ」と読むのだが、この「オバヤシ」の「小」=「オ」は「御」のことともいわれることから、「小林」とは「御林」つまり、神聖な林という意味で、森や林を切り開いて土地を開拓するとき、土地の神様の住処(すみか)として「鎮守の森」を残し、そこには神社が建てられた。小林氏には神官が多いといわれているが、それは小林という地名が神様の森に由来していることと関連性があるのかもしれない。
 祭りのお囃し(おはやし)に由来する「小囃子(こはやし)」にも「小林」と音が共通し、何かしら語源と関連あるそうだ。土地や家が栄えることをあらわす古代語の「栄し(はやし)」から来るものもあり、「小林」に関する由来にはとてつもなく深い日本独自のおくゆかしさを感じたものである。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町小林2482
             
・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾命 伊弉冉命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 慰霊祭 211日 春例祭 48日 灯籠 78
                  
秋季例祭 108日 新穀感謝祭 1123日 他
 上栢間神明神社から埼玉県道312号下石戸上菖蒲線を北西方向に進み、久喜市立小林小学校のある「小林小学校前」交差点を左折する。同県道310号笠原菖蒲線に合流し、350m程進むと、進行方向右側に菖蒲町小林神社の正面入口が見えてくる。
 県道周辺には専用駐車スペースはないので、社の正面入り口の東側手前の路地を右折し、その後左側に回り込むと、その正面に社の一の鳥居が見える。当初、県道沿いから見る正面入り口は民家に挟まれ、その奥も石壁によって見えないため、あまり期待していなかったのだが、一の鳥居から北側にかけて続く長い参道と深い社叢林に囲まれた荘厳な雰囲気が漂う境内が広がっていて、まさに地域の方々に大切に祀られている鎮守様という印象がピッタリなお社であった
        
                 
菖蒲町小林神社正面
『日本歴史地名大系』「小林(おばやし)村」の解説
見沼代用水の右岸、栢間村の北に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。西側に小林沼がある。慶長一二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩があった折、鴻巣宿から笠原村(現鴻巣市)を経て騎西町場(現騎西町)への道筋を当村など九ヵ村の百姓が開いたという(風土記稿)。同一七年・寛永八年(一六三一)検地があり(同書)、田園簿によると田高七九五石余・畑高五八三石余、旗本内藤・天野の相給。ほかに正眼寺領一二石・妙福寺領二一石余がある。
              
                                神橋の右隣に建つ社号標柱
                            その手前には伊勢参宮記念碑がある。
        
        入口を越えると、まず神橋があり、その先に一の鳥居が見える。

 久喜市菖蒲町小林地域は「おばやし」と称しているが、当地には「こばやし」苗字が数十戸住んでいて、周辺地域にもこの苗字は多い。
『新編武蔵風土記稿 小林村』には「小田原北條家分國の頃は、小林周防守が領せしよしを傳へ、且村内妙福寺の鬼薄にも、小林周防守法名蓮心居士、小林圖書頭法名蓮宗居士とのせたるをもて見れば、是等當所を領し、則ちこヽに居住し、在名を稱せしなるべし、今村民に小林を稱するもの五軒あり共に周防守が家より分れしものなりと云、又成田分限帳に百貫文小林監物、拾貫文小林圖書などのせたり、是等も周防守が一族にて、當所に住せしなるべし」と「小林周防守」が領有・居住し、、その子孫がこの地域に今でも存在していることが記載されている。
          
                       一の鳥居の先で、参道左側にある青面金剛像 
 嘗てその地域内には京手・下野寺・上手・木間ヶ根・本村・中上・大上・北東・小下・野々宮といった11の組がある。村の開発の時期はハッキリと分かっていないが、地内にある妙福寺は、応安元年(1368)に真言宗から日蓮宗に改宗したと伝えることから、当時既にこの地には相応の村が開かれていたものと推測される
 氏子の各組には、各々組で祀る神社があったが、それが大正二年に統合されて当社が誕生した。しかし、統合された後も、実際には旧地に社殿が残されたり、集会所に改築されたりして、各組の人々の拠り所となっていたようだ
 
 一の鳥居の先に朱を基調とした二の鳥居あり   境内には久喜市保存樹木であるクスの木
                          が聳え立つ。平成2年度指定を受けた。

     朱を基調とした二の鳥居          二の鳥居のすぐ先にある手水舎
 手水舎は古いが、柱に施された彫刻、木鼻の龍等の彫刻が素晴らしい。日本人の職人気質である匠の技が、このような場所にもさりげなく垣間見られる。
       
                    拝 殿
 小林神社(おばやしじんじゃ)  菖蒲町小林二四八二(小林村字京手)
 鎮座地の小林は、江戸時代には菖蒲領のうちで、慶長十二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩りがあった際、鴻巣宿から笠原村を経由して騎西に至る道筋を開いた九ヶ村のうちの一つであった。また、その地内にある妙福寺は、小林周防守忠宜を開基とし、三代将軍徳川家光から寺領二一石の朱印を受けた日蓮宗の大刹である。
『風土記稿』小林村の項によれば、村の鎮守は妙福寺の三十番神堂で、ほかに天神社・客人明神社(明治以降は白山社と改称)・三上明神社・稲荷社・平野明神社・八幡社・愛宕社・雷電社があった。これらの神社のうち、明治維新後の社格制度に当たり、三上明神社が三上神社と改称し、村社になった。一方、『風土記稿』で村の鎮守とされていた三十番神堂は、堂宇として扱われ、無格社にもなっていない。
 小林では、政府の合祀政策に従い、一旦は三上神社に村内の無格社を合祀したが、諸般の事情から大正二年二月二十日に改めて無格社白山社に字本村の村社三上神社、字森下の八幡社、字北東の稲荷社、字宮後の平野社、字小下後の水神社、字木間ヶ根の天神社、字中上の本宮社、字北東の雷電社・第六天社・稲荷社・妙見社、字野々宮後の愛宕社、字野々宮前の八雲社を各々の境内社と共に合祀し、社号を小林神社と改め、村社とした。このような経緯により当社は成立し、大正四年四月には境内を拡張、整備し、本殿及び拝殿が改築された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 小林村』
「客人明神社 元白山を勧請せしが いつの頃よりか 客人神に祀りかえしと云 是も妙福寺持なり」

        
          拝殿の右隣には廊下によって繋がれている社務所がある。
             旧村社レベルでは初めて見る配置である。
        
                    本 殿
 小林地域で古くからある伝統行事が春秋の例祭と灯籠で、春季例祭には氏子による獅子舞である「水ささら」が奉納されている。春季例祭の48日という祭日については諸説があるが、江戸時代からこの日には妙福寺の三十番神堂の前でササラの奉納があったというところから、三十番神堂の祭日を継承したものと思われる。
 春季例祭に奉納されるササラ獅子舞の起源は、口碑に「安政六年(1859)の大水害の際に、上流から三頭の獅子頭を納めた箱が流れてきて、これを妙福寺に奉納しておいたところ、いつのころか村人が摺(す)り方(舞い方)を覚え、三十番神堂の前で行うようになった」といい、「水ささら」の「水」とは、言い伝えにある獅子頭が流れ着く原因となった洪水に由来するものと考えられているという。
        
                              社殿から眺める境内の風景
 かつて小林神社の獅子舞「水ささら」は、戦前まで法眼(ほうげん)・中獅子(なかじし)・女獅子(めじし)の3頭獅子による庭場舞(にわばまい)、付属芸能の居合抜き・棒術、村内を摺り歩く道中舞(どうちゅうまい)が行われていたという。その後、昭和30年代以降に一時期途絶えたが、平成元年に復興し、現在は小学生を含む幾多の有志が稽古に励んでいるという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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菖蒲町三箇神社

 久喜市菖蒲町三箇地域は星川の左岸に位置し、古くから稲作を中心とした農業地帯である。今でも旧国道122号線や埼玉県道5号さいたま菖蒲線沿いの周辺域等を除けば広大な田畑風景が広がる地域である。因みに三箇地域の北側境で122号線沿いには大型ショッピングモールである「モラージュ菖蒲」がある。
 地域名「三箇」は「さんが」と読み、『新編武蔵風土記稿 三ヶ村』の項に「此地明應の頃辻・寺中・大藏といへる三ヶ所を合て一村となせし故の村名なりと云、今も是等の名殘村内小名にあり」とあり、辻・寺中・大蔵の三か所を合わせて一村にしたことによるという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町三箇857
             
・ご祭神 木花咲耶姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 初山祭 71日 夏祭り 77
                  
秋祭り 1019
 菖蒲神社から埼玉県道5号さいたま菖蒲線を450m程南下し、細い路地を左折すると、すぐ進行方向左手に菖蒲町三箇神社が見えてくる。街中の住宅街に鎮座する社。
        
                 菖蒲町三箇神社正面
『日本歴史地名大系』 「三箇村」の解説
 星川の左岸、新堀村の南東に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。三ヶ村とも記した。地名は明応年間(一四九二―一五〇一)に辻・寺中(じちゆう)・大蔵の三ヵ所を合せて一村としたことによるという(風土記稿)。昭和三九年(一九六四)に島根県大田市鶴岡南八幡宮境内の鉄塔内から発見された大永二年(一五二二)七月二〇日銘の経筒筒身に「武州崎西郡大蔵住本願春海」などと陰刻されていた。大蔵は野与党大蔵氏の本貫地である。
 大蔵氏は野与基永の曾孫行高を祖とし(「野与党系図」諸家系図纂)、曾孫二郎兵衛尉時季の代から「吾妻鏡」などで一族の動向が知られる。宝治元年(一二四七)六月の宝治合戦で敗れた三浦氏与党探索のため、武蔵国に派遣された大倉(大蔵)次郎兵衛は時季にあたる(「吾妻鏡」同年六月六日条)。

『野与党(のよとう)』は、武蔵七党の1つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡(現・加須市付近)の野与庄を中心に勢力のあった武士団であり、足立郡・比企郡などにも同族がいた。桓武平氏の平忠常の子・胤宗の子の基宗を祖とするとされていて、一族は、23家に分かれている。
 その中で野与党大蔵氏は埼玉郡大蔵村(旧菖蒲町)より起る野与党系列の武士団であり、野与基永の曾孫行高を祖としている。
武蔵七党系図
「忠恒―恒将―千葉小大夫常永―周防八郎元宗―野与庄司近永―恒永(奥州之役戦死)、弟大蔵二郎恒宗。〇恒将の弟胤宗―元宗―野与六郎基永―九郎大夫経長―新大夫行長―大蔵二郎行高―太郎経重―小太郎経門―左衛門太郎盛門。太郎経重の弟経清―中務丞経季―二郎兵衛尉時季―二郎左衛門尉頼季(文永九年九月二日斬於鎌倉)、弟四郎左衛門尉頼行、其の弟五郎宗季。二郎兵衛尉時季の弟九郎兵衛尉季綱―二郎季光―弥二郎宗光」
 またこの一族の名は、『吾妻鑑』にも登場する。
 吾妻鑑卷三十八「宝治元年六月六日、大倉次郎兵衛尉は、武蔵国に発向す。三浦残党の隠居するところを尋ね求めんがためなり」
 吾妻鑑卷五十「文応二年正月一日、年始の儀に大倉二郎左衛門尉」
          
                       正面鳥居のすぐ左側に祀られている弁財天   
                        冬時期なので弁天池の水は抜かれていた。
       
           鳥居の先で参道左側に並んで祀られている石祠等
         左から(?)・稲荷大明神・三峯神社・三峰大権現・秋葉社
       
                 綺麗に整えられた境内 
 菖蒲町三箇神社の創建年代は不明ながら、当初は「富士浅間社」と称しており、富士講が盛んになり始めたのが江戸時代中期以降であることから、その頃に創建されたものと推測されている。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1913年(大正2年)の神社合祀により、周辺の25社が合祀された。その際に、「三箇神社」と改称したという。
        
                    拝 殿
 三箇神社(せんげんさま)  菖蒲町三箇八五七(三箇字辻)
 三箇村は三ヶ村とも記し、地名の起こりは『風土記稿』によれば、明応年間(一四九二〜一五〇一)に辻・寺中・大蔵の三か所を合わせて一村にしたことによるという。
 当社は元来富士浅間社と称し、三箇村の辻に鎮座した。『風土記稿』三ヶ村の項に「富士浅間社 東光院持」と載り、別当を務めた東光院は「新義真言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、医王山と号す、開山真慶元禄九年(一六九六)二月十五日寂せり、本尊不動を安ず」とある。
 当社の創建は伝えられていない。しかし、江戸後期に富士講の活動が盛んとなり県内に富士山に対する信仰が広まったこと、別当寺の開山が元禄年間からあまりさかのぼらない時期であること、また、村の鎮守は当山ではなく金山明神社であることなどを考え合わせると、当社の創建は江戸中期以降であると推測される。
 明治初年の神仏分離により当社は東光院の管理下を離れ明治五年に村社となり、東光院は同九年に廃寺となった。大正二年には金山明神社をはじめとして地内に祀られていた二五社を合祀して、これを機に社名を三箇神社と改めた。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額          境内にある社務所であろうか。
        
                社殿から見る境内の様子
 
拝殿に通じる石段の右側に祀られている日枝神社     日枝神社の右隣にある神興庫

 年間の行事の中で最もにぎやかなのは、末社日枝神社の祭礼である夏祭りで、「天王様」と呼ばれている。因みに日枝神社には「山王様」と呼ばれている猿の石像が納められている。
 祭礼当日には朝から神職が祭典を執行し、終えると神輿渡御(とぎょ)が行われる。総代
2名が先導し、神輿と太鼓を載せた耕運機に当番者が同乗して太鼓を叩きながら続き、上・中・下・裏方の四地区を一周する。なお、祭りを終えた一週間後には「天王講」と称して宮司・総代・当番が社務所で慰労会を兼ねて祝宴を催す。
 かつては、地元の青年団によって神輿が担がれ、地区内を練り歩いていた。道の途中で小字ごとに休憩所を設けて酒や肴を用意して待ち受けたので、担ぎ手は次第に酔いが回り、勢い余って道から外れて民家の庭先や田畑に担ぎ込んだもので、近隣では「暴れ天王様」の名で有名であったらしい。また、村内を回り終えると、当社の神橋の手前で用水に神輿を投げ込んで洗い清めてから神輿庫に納めた。しかし、昭和40年代に青年団が解散し、担ぎ手が不足してしまったことから、現在では現行の形となったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」




           


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菖蒲町台久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町台8551
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧騎西領台村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭礼 415日 天王様 77日-14日 秋祭礼 1018
 久喜市菖蒲町台地域は、北は備前堀川が境となり、南は星川の左岸地域の間に位置する農業地域である。埼玉県白岡市下大崎地域にある首都圏中央連絡自動車道(圏央道)のインターチェンジのすぐ北側で、また久喜菖蒲公園西側近郊に位置するのだが、筆者も嘗て仕事の関係で、この公園には何度か利用し、楽しませて頂いた思い出のある場所でもある。
 途中までの経路は大崎神社を参照。大崎神社から北西方向に進路をとり、星川を越えた「三崎の森公園」を右側に見ながら道なりに進み、旧国道122号線との交点となる「三箇小学校入口」交差点を直進、すぐ先の丁字路を右折するとすぐ正面に久喜市立三箇小学校が見え、その東側隣に台久伊豆神社が鎮座している。
 加須市騎西の玉敷神社を総本社とし、元荒川流域を中心に分布する久伊豆神社の一社。平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しているともいう。
        
                  台久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「台村」の解説
 星川左岸、三箇(さんが)村の南側に位置する。東側を備前堀が流下する。東側の河原井(かわらい)沼は台沼ともよばれ、享保一三年(一七二八)に開発されて七ヵ村持添新田と武助(ぶすけ)新田となった(見沼代用水沿革史)。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定されている(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。
 
 鳥居の社号額に「正一位久伊豆大明神」と表示  参道左側に「平和記念碑」が設置されている。
 
 平和記念碑の並びに祀られている石祠等灯       石祠等の並びに祀られている合祀社
  左から辨財天・不動尊・出世石尊宮等   左から神明神社・天神社・九ヶ所神社・熊野神社
        
                 境内に設置されている「台久伊豆神社 絵馬十一面」の案内板
 久喜市指定有形民俗文化財 台久伊豆神社 絵馬十一面
 指定年月日  平成四年三月二十三日
 所有者 台久伊豆神社
 台久伊豆神社は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると「村の鎮守なり、 久伊寺持ち」とあります。同じく久伊寺は「新義真言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、蓮臺山無量壽院と号し、多聞坊と云う、開山秀深寛文八年十月七日寂す、本尊阿弥陀を安ずる」とあります。
 このことから、台久伊豆神社は江戸時代初期には既に存在じていたものと考えられます。
 現在、台久伊豆神社には「繭額」一面を含む十一面の大絵馬があります。これは町内で二番目に多い数です。
 画題としては『伊勢大々神楽』・『楠公桜井駅の別れ』・『岩国錦帯橋』・『桃園の誓い』・『獅子』などです。
『伊勢大々神楽』の絵馬は、明治二十年(一八八七・松林斎亀山画)と明治二十九年(一八九六・貴重画)の二面があります。どちらも保存状態は良好で、赤・白・紫・緑・水色の色彩鮮やかな絵馬です。松林斎亀山は幸手に在任した絵師で、本名を大久保謙吉といい狩野探妙の弟子にあたります。亀山の作品は、千葉県・茨城県方面に多く残されています。
 文久二年(一八六二)の『岩国錦帯橋』は絵馬の画題としては珍しいもので、土産用の版画をもとに描かれています。伊勢参宮を済ませた一行が錦帯橋まで足を延ばし、無事に帰ったお礼として奉納したものと思われます。
 文化十三年(一八一六)『獅子』、弘化二年(一八四五)『楠公桜井駅の別れ』、安政二年(一八五五))『武者絵』はともに伊白栄厚の作品です。 安政二年の『武者絵』には「行年六十五翁」の添書があり、これから計算して「獅子」文化十三年は二十六歳、『楠公桜井駅の別れ』弘化二年は五十五歳の時の作品とわかります。
 伊白栄厚は法眼の位を受けた狩野派の絵師ですが、同じ形の絵馬は一つもありません。狩野派絵師としての意地でしょうか、特別な板面に描いています。
『桃園の誓い』文政四年(一八ニー)は、三国史の蜀漢の創始者である劉備と関羽、張飛がその昔桃園で義兄弟の契りを結んだ故事を題材としたものです。
 平成九年三月十五日 久喜市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 久伊豆神社(くいずじんじゃ)  菖蒲町台八五五-一(台字南)
 鎮座地の大字台は、星川の左岸に位置する農業地で『風土記稿』台村の項によると、化政期(一八〇四-三〇)には一八八戸の大きな村になっていたことがわかる。更に、当社について「久伊豆社 村の鎮守なり、久伊寺持」と記していることから、江戸期は、当社に隣接していた久伊寺が別当として社務にあたっていたことがわかる。
 本殿は三間社流造りであるため、古くは三柱の神を祀っていたと思われるが、『明細帳』に記された主祭神は、大己貴命の一柱である。内陣には「正一位久伊豆大明神神号」と墨書のある筥(はこ)に納められた神牌(しんぱい)一体が奉安されているが、年紀などがないものの、形態から推して江戸時代に京都の神祇管領吉田家から受けたものと思われる。
 また、当社は、かつて広い境内地を有していたことから、この土地を利用して、地域のために三箇小学校を建設することになり、明治四十二年十一月十八日に当時の境内地の中で南側の現在地に社殿を移転した。しかし、社殿の東脇にあった銀杏だけは、神木であったことから伐られることなく残された。今も校庭にそびえる姿は神木としての威厳を保ちながらも、小学校のシンボルとして児童を見守っている。
 なお、この移転に際して、この時期に進められた政府の合祀政策に従い、村社であった当社に地内の字南の八坂社、字向野の熊野社、字九ヶ所(くかせ)の九ヶ所社及び浅間社を合祀した。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 社の社名に関して、「ひさいず」「くいず」と両方の読み方が伝えられ、人によっては呼称がまちまちであるが、近年、特にテレビ等のクイズ番組に紹介されて以降、正式な場では「くいず」と呼ぶことが多くなっていることから、中年層より若い人たちは、「くいず」と呼ぶ人が多くなっているようだ。
        
                    本 殿
 元々台地域内は、上下の二組に分かれていて、古くは別々に久伊豆神社を鎮守として祀っていたという。当社は、そのうちの上の久伊豆神社で、下の久伊豆神社は字九ヶ所(くかせ)にあったが、後に除堀(よけぼり)村に譲渡し、村全体で当社を祀るようになったという。村の開発について伝えはないが、一番の旧家は「さなえ様」と呼ばれる松本家で、同家には新田義貞の家来が立ち寄ったとの話があることから、中世には既に村が開かれていたものと推測される。
 また、現在では久喜菖蒲工業団地になっているが、河原井沼もしくは台沼と呼ばれている所は、享保
13年(1728)に開発されて七ヵ村持添新田と武助(ぶすけ)新田となり、そのうち武助新田は幕末までに台に合併されたという。
       
             社殿の右側に祀られている境内社・八坂神社
             
          久喜市保存樹木である「クス」の巨木。平成12年度指定



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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大崎神社

 久喜市菖蒲町大崎地域に鎮座する大崎神社のご祭神は級長津彦命・級長戸辺命の二柱である。群馬県藤岡市小林に鎮座する「小林風天神社」の項でも紹介したが、この神々は日本神話に登場する神で、『古事記』では志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記され、神社の祭神としては志那都彦神などとも書かれている
『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命、志那都比売神などとも書かれる。
『日本書紀』のシナトベは女神とされることもあり、神社によってはシナツヒコの姉または妻とされている。本居宣長の『古事記伝』では、賀茂真淵の説として、本来は男女一対の神であり、それが同一の神とされるようになったとしている。龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神は天御柱命・国御柱命であるが、社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神(しなつひめのかみ)のこととしている。志那都比古神は男神、志那都比売神は女神である。
 ところで、『新編武蔵風土記稿 上大崎村』には「神倉龍蔵権現社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、十一面観音・愛染の二像を本地仏とす、金剛院持」とあるように、本来は別当である金剛院の寺号が「神倉山竜蔵寺」というところから、この寺との関わりも強いと思われ、本地仏である「十一面観音 愛染明王」が祀る対象であったものから、明治時代初期の神仏分離によって、級長津彦命・級長戸辺命の二柱に祭神が変わったものではないかと思われる。 
        
            
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町上大崎194
            
・ご祭神 級長津彦命 級長戸辺命
            
・社 格 旧上大崎村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭礼 326日 大祓 626日・1226
                 
天王様 726日 初穂奉納 1115
 久喜市菖蒲町大崎地域は、同市内においては南西部に位置しており、柴山枝郷地域の東側に接していている。この地域は見沼大用水の東側は雄大な農地が広がっているが、この地域内にある久喜市立菖蒲中学校から南東方向に通じる道路を境として、その東側一帯には住宅等も見られる。
 途中までの経路は柴山枝郷神ノ木稲荷神社を参照。圏央道の下を通る道路を東方向に800m程進んだ先のY字路を左斜め方向に進路変更し、450m先の十字路を左折、暫く道なりに進むと、大崎神社が進路上左手に見えてくる。但し、このルートは社の後ろ側であるため、正面の鳥居にたどり着くために、一旦左回りに迂回する必要がある。 
 社の境内のすぐ東側にはかつての別当である金剛院の墓地があり、その間に駐車可能な空間が確保されていて、そこの一角に停めてから参拝を開始した。
        
                   大崎神社正面
『日本歴史地名大系』「上大崎村」の解説
 星川の右岸で、台(だい)村の西側に位置する。菖蒲領に属するが、古くは騎西領という(風土記稿)。当村はもと大崎村という大村であったが、慶長一二年(一六〇七)荒井新田村(現白岡町)を分立、次いで元禄(一六八八―一七〇四)以前に上・下二村に分村した。
 
寛永八年(一六三一)板倉重宗の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば大崎村の高七二二石余、反別は田方六九町六反余・畑方九九町二反余、幕府領と旗本二家の相給。元禄郷帳に上大崎村とみえ高四二二石余、旗本二家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。
        
             大崎神社正面鳥居の南方にある樹木群
 社殿から正面鳥居、そしてその南方に伸びる道は一直線に伸びている。かつての参道ではなかったろうか。境内には「久喜市指定保存樹林」の標識もあり、指定区域も「大崎神社境内及び参道」、指定年度は「平成2年度」と表記されている。
        
            境内は広々としてすっきりと整えられている。
      東側に隣接している金剛院は嘗て別当として社を管理していたのだが、
             今は社の方が敷地面旌旗は広そうである。
        
              参道左側に並べて置いてある力石群
        
             力石の並びに祀られている境内社・石祠等
     左から稲荷神社・石祠(不明)・石碑(不明)・庚申様・三峰神社・神興庫
「柴山枝郷神ノ木稲荷神社」の項に載せたのだが、この社の創建について氏子の間では、「この稲荷神社は上大崎から来た」と伝えられている。大崎神社に祀られている稲荷神社と何か関連はあるのであろうか。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上大崎村』
 神倉龍藏權現社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、十一面觀音・藍染の像を本地佛とす、金剛院持、
 金剛院 新義眞言宗、
ヶ崎村吉祥院末、神倉山龍藏寺と號す、本尊不動を置り、藥師堂

 大崎神社  菖蒲町上大崎一九四(上大崎字中手城)
 上大崎はもと大崎村という大村であったが、慶長十二年(一六〇七)に荒井新田村(現白岡市)に分立し、次いで元禄年間(一六八八〜一七〇四)以前に上下二村に分村した。
 当社は、『風土記稿』上大崎村の項に「元来は神倉龍蔵権現社と称していた。この社名の由来や当社の創始については伝えがないが、別当であった金剛院の山号寺号を神倉山竜蔵寺というところから、同寺とのかかわりが極めて大きかったものと思われる。この金剛院は、当社の東に隣接する真言宗の寺院で、寺伝に「当所地頭の南条某の姫君帰依深く、剃髪して祖先菩提供養のために建立したもの」といわれている。その本尊は不動で、法印墓地には寛延二年(一七四九)以来の一一基の墓石がある。恐らくは、当社と金剛院に同時期に草創されたものであろう。
 神仏分離により金剛院の管理を離れた当社は、竜蔵神社と改称し、明治六年に村社となった。その後、昭和十九年に大崎神社と再度改称して現在に至っている。
 祭神は級長津彦命・級長戸辺命の二柱で、『風土記稿』に伝えられる本地仏の十一面観音と愛染明王は既になく、二間社の各々には宗源祝詞を納めた唐櫃二つが安置されている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
         本 殿              本殿の奥に立つ小ぶりな鳥居
        
             大崎神社社殿の東側に鎮座する秋葉神社
           今は冬時期で水は抜かれてしまっているようだ。

 上大崎地域全体が当社の氏子になっていて、現在その数は一五五戸程であり、このうち一一〇戸が古くからの住民で現在も農業が主体となって生計を立てている。上大崎地域は、『新編武蔵風土記稿』にも記載がある小名上・中・下が現在も続いて存続し、各耕地となり分かれていて、各耕地から一名ずつ総代が選出され、神社運営に当たっている。また、各耕地は更に五、六の廓(くるわ)に分かれ、各廓から一名ずつ年番が出て祭事の世話をするという。
        
                  境内の一風景
 毎年43日には「お獅子様」が行われるのだが、これは旧騎西町の玉敷神社からお獅子様を借りて行う疫病除けの行事で、嘗ては氏子の家々の座敷に獅子が上がり込み、土足のまま走り抜けていき、そのあとの掃除が大変であったという。そのためか、座敷に上がり込むのはやめて、家の外でお獅子様を迎えるようになった。また、お獅子様には太刀を持った天狗がついて回り、各家で迎えている人にお祓いをして行くという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等


 

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