市場神社
市場地域周辺で発掘された「仏坂遺跡」の街道跡は台地から高麗川に向かう地形の変換点にあたり、掘割の形を見ることができる。街道跡の西側にかつて三島社と呼ばれた市場神社が鎮座している。
市場の由来は、九の日に市が立ったことによるといわれており、対岸にある四日市場地域と合わせて六斎市が開かれていたと伝わっている。
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町市場51
・ご祭神 事代主神 大山祇神
・社 格 旧市場村鎮守 旧村社
・例祭等 勧学祭 3月3日(大利天神社) 天王様 7月28日
秋祭り 10月28日
東武越生線川角駅出入口から北方向に進路をとり、350m程先の十字路を右斜め方向に進む。その後、道幅の狭い農道を周囲の状況を確認しながら道なりに進むこと500m程、周囲は長閑な田畑風景の中に時折民家がチラホラと見える中、丁字路の達するのだが、その左前方方向に市場神社の正面鳥居が見えてくる。
市場神社正面一の鳥居
周囲の長閑な風景にも溶け込んでいて、正に「村の鎮守様」の印象通りの社
不思議と子供の頃を懐かしく思い起こしてくれるような感覚
『入間郡誌』による「市場村」の解説
「市場は村の東南部に位し、古の鎌倉街道に沿ひて、宿駅たりしが如く、古九日市場の名あり。即ち九の日を以て市を開きし也。旧名主山崎氏に就て尋ね頗る該街道の跡と、当時の盛観を詳にすることを得たり」
「鎌倉街道は今の川角、西大久保境界に当れる、道幅五間の古道より東南に屈して、一たび低温なる水田地を通過し、現市場の中央を横断して東南南の方向を以て大家村四日市場、森戸の間に出づ。沿道に本陣たりし家あり。大林坊の跡あり。又市場神社あり。思ふに此街道は両上杉氏鎌倉を去れる後も多少人馬往来の存せしも、徳川氏江戸に入るに及て、漸く廃頽に帰したるものならん」
一の鳥居を過ぎた先に建つ二の鳥居
冒頭に紹介した「鎌倉街道上道」掘割の遺構はこの社の東側にあるのだが、
市場神社は街道に対して背を向けるように社殿が建てられていて、西向き社殿でもある。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 市場村』
「當村昔は鎌倉街道に係れる處にして、其ころは九の日に市あるし故、中古までは九日市場村と唱へしよし古街道の蹟は今も残れり、されど舊くは川角村に屬せし地にて、當村應長十七年の水帳に、入西郡川門の内九日市場と載たり、正保の改には見えず、元祿中のものに始て市場と見えたれば、川角村に屬せし頃は、九日市場と唱へ、分村せしは正保の後元祿の前のことにして、」
「三島社 當村の鎭守なり、本地佛は眞鍮をもて造れり、圓鑑にて徑り八寸、内に三尊の彌陀を鑄出せり、武蔵國入西郡九日市場村山崎等奉修と彫たり、満願寺持、大利明神社、」
市場神社 毛呂山町市場五一(市場字本村)
市場は町の東部に位置し、南は坂戸市に接する。
市場の地名については、村内を貫く旧鎌倉街道に沿って古くから九の日に市が開かれていたことに由来すると伝える。当社は明治四〇年に行われた合祀を機に三島神社を市場神社と改称したもので、旧名主家である山崎家(現当主まで一九代)の伝えに、先祖が鎌倉から三島様の神体を袋に入れて首に下げて持ってきたことに始まるという。その後、四代目が分家に出て以来、神体はこの家が預かり、祭りのたびに神社に納めるようになった。往時の神体は懸仏であったが、大正中期の火災により残片と化したため、神鏡を新調し、現在に至っている。
祭神は事代主神・大山祇神で、三間社流造り柿葺きの本殿は、明治一四年の再建である。明治四〇年に森戸字台(現坂戸市森戸)の村社稲荷神社を合祀した。この社は本来、森戸の国渭地祇神社に合祀される予定であったが、お土産(財産)が無いとの理由から当社に合祀されることとなり、両社の氏子が協力して社殿を運んだといわれる。このほか、市場字大利原の村社大利神社・同境内社天神社・同八坂太神社、字本村の山王大神社、字光山の山神社、字谷ケ俣の愛宕神社を合祀し、更にその後、森戸字市場の神明神社・同境内社三峰神社を合祀している。
「埼玉の神社」より引用
社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社 八坂神社の右隣に祀られている大利天神社
社殿付近から眺める境内の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「毛呂山町HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「埼玉苗字辞典」等