古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

菖蒲町三箇神社

 久喜市菖蒲町三箇地域は星川の左岸に位置し、古くから稲作を中心とした農業地帯である。今でも旧国道122号線や埼玉県道5号さいたま菖蒲線沿いの周辺域等を除けば広大な田畑風景が広がる地域である。因みに三箇地域の北側境で122号線沿いには大型ショッピングモールである「モラージュ菖蒲」がある。
 地域名「三箇」は「さんが」と読み、『新編武蔵風土記稿 三ヶ村』の項に「此地明應の頃辻・寺中・大藏といへる三ヶ所を合て一村となせし故の村名なりと云、今も是等の名殘村内小名にあり」とあり、辻・寺中・大蔵の三か所を合わせて一村にしたことによるという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町三箇857
             
・ご祭神 木花咲耶姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 初山祭 71日 夏祭り 77
                  
秋祭り 1019
 菖蒲神社から埼玉県道5号さいたま菖蒲線を450m程南下し、細い路地を左折すると、すぐ進行方向左手に菖蒲町三箇神社が見えてくる。街中の住宅街に鎮座する社。
        
                 菖蒲町三箇神社正面
『日本歴史地名大系』 「三箇村」の解説
 星川の左岸、新堀村の南東に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。三ヶ村とも記した。地名は明応年間(一四九二―一五〇一)に辻・寺中(じちゆう)・大蔵の三ヵ所を合せて一村としたことによるという(風土記稿)。昭和三九年(一九六四)に島根県大田市鶴岡南八幡宮境内の鉄塔内から発見された大永二年(一五二二)七月二〇日銘の経筒筒身に「武州崎西郡大蔵住本願春海」などと陰刻されていた。大蔵は野与党大蔵氏の本貫地である。
 大蔵氏は野与基永の曾孫行高を祖とし(「野与党系図」諸家系図纂)、曾孫二郎兵衛尉時季の代から「吾妻鏡」などで一族の動向が知られる。宝治元年(一二四七)六月の宝治合戦で敗れた三浦氏与党探索のため、武蔵国に派遣された大倉(大蔵)次郎兵衛は時季にあたる(「吾妻鏡」同年六月六日条)。

『野与党(のよとう)』は、武蔵七党の1つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡(現・加須市付近)の野与庄を中心に勢力のあった武士団であり、足立郡・比企郡などにも同族がいた。桓武平氏の平忠常の子・胤宗の子の基宗を祖とするとされていて、一族は、23家に分かれている。
 その中で野与党大蔵氏は埼玉郡大蔵村(旧菖蒲町)より起る野与党系列の武士団であり、野与基永の曾孫行高を祖としている。
武蔵七党系図
「忠恒―恒将―千葉小大夫常永―周防八郎元宗―野与庄司近永―恒永(奥州之役戦死)、弟大蔵二郎恒宗。〇恒将の弟胤宗―元宗―野与六郎基永―九郎大夫経長―新大夫行長―大蔵二郎行高―太郎経重―小太郎経門―左衛門太郎盛門。太郎経重の弟経清―中務丞経季―二郎兵衛尉時季―二郎左衛門尉頼季(文永九年九月二日斬於鎌倉)、弟四郎左衛門尉頼行、其の弟五郎宗季。二郎兵衛尉時季の弟九郎兵衛尉季綱―二郎季光―弥二郎宗光」
 またこの一族の名は、『吾妻鑑』にも登場する。
 吾妻鑑卷三十八「宝治元年六月六日、大倉次郎兵衛尉は、武蔵国に発向す。三浦残党の隠居するところを尋ね求めんがためなり」
 吾妻鑑卷五十「文応二年正月一日、年始の儀に大倉二郎左衛門尉」
          
                       正面鳥居のすぐ左側に祀られている弁財天   
                        冬時期なので弁天池の水は抜かれていた。
       
           鳥居の先で参道左側に並んで祀られている石祠等
         左から(?)・稲荷大明神・三峯神社・三峰大権現・秋葉社
       
                 綺麗に整えられた境内 
 菖蒲町三箇神社の創建年代は不明ながら、当初は「富士浅間社」と称しており、富士講が盛んになり始めたのが江戸時代中期以降であることから、その頃に創建されたものと推測されている。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1913年(大正2年)の神社合祀により、周辺の25社が合祀された。その際に、「三箇神社」と改称したという。
        
                    拝 殿
 三箇神社(せんげんさま)  菖蒲町三箇八五七(三箇字辻)
 三箇村は三ヶ村とも記し、地名の起こりは『風土記稿』によれば、明応年間(一四九二〜一五〇一)に辻・寺中・大蔵の三か所を合わせて一村にしたことによるという。
 当社は元来富士浅間社と称し、三箇村の辻に鎮座した。『風土記稿』三ヶ村の項に「富士浅間社 東光院持」と載り、別当を務めた東光院は「新義真言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、医王山と号す、開山真慶元禄九年(一六九六)二月十五日寂せり、本尊不動を安ず」とある。
 当社の創建は伝えられていない。しかし、江戸後期に富士講の活動が盛んとなり県内に富士山に対する信仰が広まったこと、別当寺の開山が元禄年間からあまりさかのぼらない時期であること、また、村の鎮守は当山ではなく金山明神社であることなどを考え合わせると、当社の創建は江戸中期以降であると推測される。
 明治初年の神仏分離により当社は東光院の管理下を離れ明治五年に村社となり、東光院は同九年に廃寺となった。大正二年には金山明神社をはじめとして地内に祀られていた二五社を合祀して、これを機に社名を三箇神社と改めた。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額          境内にある社務所であろうか。
        
                社殿から見る境内の様子
 
拝殿に通じる石段の右側に祀られている日枝神社     日枝神社の右隣にある神興庫

 年間の行事の中で最もにぎやかなのは、末社日枝神社の祭礼である夏祭りで、「天王様」と呼ばれている。因みに日枝神社には「山王様」と呼ばれている猿の石像が納められている。
 祭礼当日には朝から神職が祭典を執行し、終えると神輿渡御(とぎょ)が行われる。総代
2名が先導し、神輿と太鼓を載せた耕運機に当番者が同乗して太鼓を叩きながら続き、上・中・下・裏方の四地区を一周する。なお、祭りを終えた一週間後には「天王講」と称して宮司・総代・当番が社務所で慰労会を兼ねて祝宴を催す。
 かつては、地元の青年団によって神輿が担がれ、地区内を練り歩いていた。道の途中で小字ごとに休憩所を設けて酒や肴を用意して待ち受けたので、担ぎ手は次第に酔いが回り、勢い余って道から外れて民家の庭先や田畑に担ぎ込んだもので、近隣では「暴れ天王様」の名で有名であったらしい。また、村内を回り終えると、当社の神橋の手前で用水に神輿を投げ込んで洗い清めてから神輿庫に納めた。しかし、昭和40年代に青年団が解散し、担ぎ手が不足してしまったことから、現在では現行の形となったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」




           


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