高麗神社
奈良時代霊亀2年(716年)に時の朝廷が駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野等7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初であるという。当時高麗郡には、「高麗郷」と「上総郷」の二つの郷が置かれ(当時の行政単位は国・郡・郷)、高麗郷は今の高麗神社がある日高市一帯にあった。また、上総郷は上総(千葉県)からの移住者が中心になって開発された地域と推定されている。『和名抄』は「古末」と訓じている。
また武蔵國で郡が設置された年代が文献で確認できるのは、高麗郡と新羅郡(新座郡)の二つで、不思議とかつての朝鮮半島に実在した、または朝鮮の国土を統一したれっきとした国の名前である。
ある説では北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。この人たちに共通することは、「吉志」という名前であり、これは朝鮮の王を示す「コンキシ」「コキシ」と同一語といわれているが事の真相はどうだったのだろうか。
・所在地 埼玉県日高市大字新堀833
・主祭神 高麗王若光 猿田彦命 武内宿禰命 ・社 格 旧県社 別表神社
・例 祭 10月15日
高麗神社は、埼玉県日高市にある。。最寄り駅は西武池袋線の高麗駅で、関東平野の西の端、奥武蔵の山々の先端にあたり、付近を流れる高麗川と山々をめぐるハイキングコースはこの地域の観光資源でもある。そして、高麗神社はこの地域の史跡として、観光地としても賑わっている。
高麗神社社号標とその奥にある一の鳥居
正面一の鳥居 綺麗に整備された長い参道が続く。
駐車場の北西方向で二の鳥居の近くには。「地上男将軍」「地下女将軍」とよばれる将軍標が林立している。駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたもの、という。今回撮影できず残念。
参道を進むと二の鳥居がある 二の鳥居を過ぎるとすぐ左側にある手水社
手水社の手前には高麗神社の由来の案内板がある。
高麗神社 所在地 日高市大字新堀
高麗神社は、高句麗国の王族高麗王若光を祀る社である。
高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約七〇〇年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい六六八年に滅亡した。この時の乱を遁れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが霊亀二年(七一六)そのうちの一七九九人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。
高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。
郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。
案内板より引用
神 門
高麗神社扁額「高句麗」と記載 祓所(はらえど)
この神社を語るとき7世紀の朝鮮半島の歴史を抜きに語れない。7世紀当時の朝鮮半島は激動と政略の混迷した時代だった。新羅、百済、高句麗の3国が朝鮮半島の覇を競い、戦乱に明け暮れていた。それに中華帝国の隋、唐も干渉し、いつ果てるともしない様相となっていた。
高麗と記載されているが、正式に言うと高句麗でもともと満洲高原の騎馬民族とされ、中国満洲地方・朝鮮半島・遼東地方の大半を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国であった。
高句麗(こうくり、紀元前37 -668年)
現在の東三省( 遼寧省・吉林省・黒竜江省)南部から朝鮮北中部にあった国家であり、最盛期は5世紀、「広開土王碑」で有名な「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、満州南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐(新羅)の遠征軍により滅ぼされた。王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。
581年南北朝を制した隋帝国が誕生し、2代目皇帝煬帝は、3度に渡る高句麗遠征を行うが、すべて失敗。結果的にこれが隋帝国の滅亡につながった。そして大唐帝国の度重なる遠征。唐は新羅と同盟を結び、百済を滅ぼす(661年)。そして百済救援のため軍勢をむけた倭国を白村江の戦いで破り、高句麗も度重なる遠征に国の力は衰え、高句麗の宰相であり、名将でもある淵蓋蘇文(?ー665)死後淵蓋蘇文の子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐(新羅)軍は高句麗の都の平壌を攻め、668年ついに滅亡した。
高麗神社 拝殿
666年(天智5年)高句麗国の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(日本書紀より参照)。
その後朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与されたともされるが(続日本記)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記載がなく不明である(新説『埼玉県史』)。
ご神木である樹齢300年の彼岸桜
716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(続日本記)が、若光もその一員として移住したものと推定されている(新編『埼玉県史』)。
武蔵国には白鬚神社と呼称される神社が約55社存在している。これらは、この高麗神社の分社であるとされ、当社は高麗総社とも呼ばれている。若光が晩年、見事な白鬚を蓄えていたことから白鬚さまと尊ばれていたことから、のちに当社を白鬚明神と呼称したともいう。
拝殿の前方にある神楽殿 律令時代当時の衣装が色鮮やかに展示
高麗神社の拝殿の奥には、高麗神社の社家・高麗家の住居であり、国指定重要文化財である高麗家住宅がある。入母屋造、茅葺屋根で、山を背に東を正面として建てられていて、江戸時代初期(慶長年間)の民家建築を伝えている。
高麗神社の神職を努めてきた高麗家の住居として、使われていたものです。建築は17世紀後半(江戸時代前半)と推定され、東日本の民家の中では極めて古い建築です。入母屋造りで屋根は茅葺きで、桁行七間半(14.3メートル)、梁行五間(9.5メートル)をはかります。間取りは古四間取りという形式で、「奥座敷」、21畳の「表座敷」、「勝手」と「へや」、そして土間から成っています。
「日高市公式HP」より引用