古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

日吉神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市日吉町1028
             
・ご祭神 大国主命 大山咋命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭 春季例大祭 4月初旬 秋季例大祭 9月第1土曜日
 埼玉県東松山市にある灌漑用水のため池を再生した公園が「下沼公園」で、その650mほど北にある「上沼公園」と共に、東武東上線・東松山駅に近い市街地内にあり、周囲に桜が植栽され、絶好の散策・お花見スポットになっている。
        
                   上沼公園北側入口付近
 この2つの沼には伝説があり、それがそのまま「松山の女沼男沼の由来」ともなっている。
=戦国時代の永禄12年(1569)、与四郎が戦場から逃げて家に帰ったら、与四郎の母と新妻は下沼に身を投げていたので、自身も上沼に身を投げて死んでしまった。以後、それぞれを女沼・男沼と呼ぶようになったという『女男沼伝説』があり、桜のライトアップ時には、両方の沼をつなぐ遊歩道1600mに灯籠が灯される『東松山夢灯路』も行なわれているという=
 同じ東松山市で高坂地区には「大沼」「小沼」があり、そこにも『高坂氏息女の悲恋物語』として、恋慕う仲を裂かれた二人は大沼・小沼に身を投げてしまうという悲しい伝説が今でも語り継がれていて、真偽の程は不明であるが同じ形態の伝説として残されている。
 この上沼公園の道路を隔てた西側に日吉町日枝神社は鎮座している。
        
                   
東松山市の中心街である日吉町に鎮座する日吉神社
        
 
 鳥居のすぐ左手に祀られている弁財天の石祠     鳥居の右手に設置されている御由来の案内板
 日吉神社  一御由緒一
 祭神 大国主命 大山咋命
 創建
 江戸時代文化一五年二月(一八一八年)近江国日吉山に鎮座する地主神・安産子育て・家内安全・学業成就の守護神日吉山山王大権現を当地に勧請、社殿を建立する。
 *日吉町の地名はここより始まる。(中略)
 祭典日  毎年
 元旦祭
 春季例大祭 四月初旬
 秋季例大祭 九月第一土曜日
 *神社の呼称を日枝から日吉に改める。(以下略)                案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 松山町』
眞福寺 祈願山法垂院と稱す、これも淨光寺の門徒なり、開山玄海寂年を傳へず、本尊觀音を安ず、
 松山日枝神社  東松山市日吉町一〇—二八(松山町字日吉町)
 旧松山宿の北部に位置し、「職人の町」として知られる日吉町に当社は鎮座している。町場の神社らしく、境内の両脇には家が建て込んでおり、神木に準じた扱いを受けている銀杏を除いてはこれといった樹木もないが、向かい(南側)が上沼公園という大きな池を中心とした公園になっているため、環境は比較的よい。
 日吉町は、江戸時代の中ごろに、染色に関係した職人が住み着くようになったことから発展した。当社は、神仏分離まで境内の西隣にあった天台宗の真福寺の守り神として勧請され、それが日吉町に住み着くようになった人々によって町内の守護神として護持されるようになったものであろうといわれている。ただし、この真福寺の開山については伝えられていない。また、内陣には、金幣のほかに、「文化十五戌寅年(一八一八)二月吉祥日 山王大権現 松山住人山王産野村主計久信」と記された木札が納められている。あるいは、近江の日吉神社に参詣し、その記念のためにでも上げられた納め札であろうか。
 この木札にもあるように、当社は元来は「山王大権現」と称していたが、明治に入ると神仏分離によって真福寺の管理を離れると同時に、社号を現行の日枝神社に改めた。しかし、改称の後も住民の間では「山王様」の通称で呼ばれることの方が多く、現在でもなお、「日吉町の山王様」として市民に知られている。                             「埼玉の神社」より引用                              

    
 当地名「日吉町」は、日枝神社から(日吉神社とも呼ばれていた)名付けたとの事の様で、近くに湧き水もあり、その為に地域近郊には染色業や織物業に関連した職人の住居が多くあったという。日枝神社は天台宗系の山の神を祀る神社でありながらも、同時に水の守り神でもあった。また、近くには湧き水からの上沼があり、湖畔の北側には松山神社が鎮座する。境内には水の神である弁財天も祀られており、当地が水利の便が豊かな地域であった証しでもあったのであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」郷土の民話を探して - 東松山市」

    「境内案内板」等


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本町八雲神社


        
            ・所在地 埼玉県東松山市本町158
            ・ご祭神 倉稲魂命
            ・社 格 旧無格社
            ・例祭等 例祭(天王祭) 7月最終土・日曜日
 東松山市役所の東側で、本町地域を南北に縦断する埼玉県道66号行田東松山線沿いで、「上沼公園」交差点を直進し、松山宿上宿(上町)の上沼公園を過ぎたすぐ右手に社は鎮座している。
 旧松山宿の総鎮守として創建された氷川神社(現在は松山神社に改称)の末社として、安政6年(1859)再建のために金品を募り、明治7年(1874)に再建されたという。
        
              県道沿いに鎮座する
本町八雲神社 
『日本歴史地名大系』 「松山町」の解説
 現市域の中央やや東寄り、東松山台地上にあり、北部・東部は市野川低地、南部は都幾川低地によって区切られる。東は根小屋(ねごや)村・流川村(現吉見町)、西は石橋村、羽尾村(現滑川町)、南は柏崎村・野本村、北は市ノ川村・平村・野田村。古くから交通の要地で、中世には松山本郷とよばれていた。戦国期には、武蔵八王子・河越、岩付(現岩槻市)などと鉢形(現寄居町)や秩父地方・上野国方面とを結ぶ街道の宿駅、また東方に位置した松山城(現吉見町)の城下として発達し、町場も形成されていた。慶長五年(一六〇〇)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、引続き日光脇往還・川越秩父道の宿場町として賑いをみせ、江戸時代も比企郡域の商業・交通の中心地であった。
        
                 正面一の鳥居より撮影
                鳥居前には鉄鎖が張られ中に入りにくい雰囲気がある。
 現在の市の中心部にあたる地域は市制施行前まで松山町と呼ばれ、元を辿れば1333年に上杉氏麾下の上田友直によって築城されたとされる松山城の城下町として発展した街である。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。室町時代から戦国時代にかけて扇谷上杉氏が松山城一帯を支配するが、上杉朝定が川越夜戦で敗死すると、松山一帯は北條氏の領土となる。
 慶長5年(1600)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、江戸幕府によって五街道と脇往還といった主要道路の整備が進められ、当市域でも、八王子から日光に至る日光脇往還道の宿場として松山宿と高坂宿が八王子千人同心によって整備され、また江戸から上州に至る川越児玉往還(川越道)の宿場として高坂宿が江戸幕府・川越藩合同によって整備され、その中でも川越・熊谷を結ぶ「本町通り」が商業の中心地として、発展し栄えた。
 現在の埼玉県道66号線沿いの「上沼・下沼」区間に「本町通り」を形成し、江戸時代から明治・大正・昭和30年代後半まで、中心的な役割を担ってきた商店街として、現在でもその町並みはその面影を留めていて、大正・昭和初期は全盛期であったという。
        
               
市指定文化財の本町八雲神社社殿
        
       指定年月日 昭和321129    
          
本殿保護のため屋根を掛けて保存が図られているようだが、
   周囲からの風雨や車両の排煙等に晒されてしまっていて、その点だけはやや残念。
        
                  八雲神社由来書
『新編武蔵風土記稿 松山町』
 天王社 眞福寺持
 眞福寺 祈願山法垂院と稱す、これも淨光寺の門徒なり、開山玄海寂年を傳へず、本尊觀音を安ず、
『埼玉の神社 日吉松山神社』
 八雲神社は、無格社であったのを大正三年一月十九日当社の境内社に編入したもので、市の文化財にも指定されているその社殿は、天保六年(一八三五)の再建時に河原明戸(熊谷市)の棟梁飯田仙之助とその弟子が精魂込めて造り上げたものであるという。

 八雲神社 市指定文化財
 社殿は、間口二・六m、奥行三・六m単層切妻で正面軒は唐破風となり、その下に千鳥破風がおいてあります。社殿は切妻の面もすべて彫刻で飾られています。正面は花鳥及竜と唐獅子・左側は神功皇后新羅征伐凱旋の場、右側は須佐之男命大蛇退治の場、背面は天照大神の天岩戸の場が刻まれています。
 他の神社の彫刻と異なり、伝統的なものに取材し、豊かな民俗的色彩を有する特色をもっています。
 昭和三十三年一月 境内より左記の銘文が発見されました。
 惟時安政六年四月奉再勧進者也
 法王祈願現住権律師亮覚敬白
 祇園牛頭天王
 この彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助が三人の弟子に技を競わせたものといわれています。                          案内板より引用
        
                   境内の様子
 この神社は元「天王社」と称し祇園牛頭天王を祀っていて、その後の明治期の神仏分離で八雲神社に改められているのだが、当初筆者はご祭神を素戔嗚尊であろうと普通に考えていたのだが、調べてみると、なぜか祭神が倉稲魂命というのが興味深い。
どのような経緯でご祭神が倉稲魂命となったのか、知っている方がいるのであれば、是非ともご教示願いたく思います。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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田木小田原神社

 田木小田原神社は前面一帯に広がる水田を見守るかのように祀られている。社名は、「小田原」すなわち平野部の湿田に坐す神を表すと考えられる、恐らく平野部を耕地として開くに当り、その成就を願って慈眼寺境内に祀られ、その後鎮守として崇敬されるようになると、現在地が鎮座地として選ばれたのであろう。『明細帳』で祭神を国土経営の神である大己貴命としているのは、そうした経緯を物語っている。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市田木662
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧田木村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 421日 例祭 1017
                                    報告祭 1221
 毛塚神明神社の北側を東西方向に走る「並木通り」に一旦戻り、西行すること約700m。「田木」交差点を右折しすぐ先にあるY字路を右方向に進むと、田木小田原神社の赤い鳥居が進行方向左手に見えてくる。
 実はこのY字路を左方向に進むと、社の背後付近に広い空間があり、駐車スペースにも思えたのだが、看板等もなく、個人所有の土地とも思えたので、鳥居の近くに路駐し、急遽参拝を行った。
        
                 
田木小田原神社正面
     社は越辺川の高坂台地の南斜面にあり、越辺川の左岸低地を見守るように鎮座している。
『日本歴史地名大系』 「田木村」の解説
 [現在地名]東松山市田木・桜山台・白山台・旗立台・松風台
 毛塚村の西、越辺川の左岸に位置し、村域は同川に沿う自然堤防・低地から高坂台地の南斜面にかけて展開する。岩殿丘陵・高坂台地からの水を集める急流九十九川が東部を南流し、越辺川に入る。九十九川のタキ(滝)が地名の由来であろうか。
 松山領に属した(風土記稿)。田園簿によると田高二二四石余・畑高一九三石余、旗本横田次郎兵衛(述松)家・同横田甚右衛門(胤松)家の相給。元禄一一年(一六九八)述松領は旗本三間領となる。翌一二年当村名主孫左衛門などが地頭会所へ提出した訴状(久保田家文書)によると、旧地頭横田氏は名主に対して伝馬を貸与し、名主免三町は諸役一切御免であった。
 
石段を上り終えた境内左手にある社号標と手水鉢  境内に植えられている招霊(おがたま)の木
 因みに、オガタマノキ(招霊木)は、モクレン科モクレン属に属する常緑高木の一種である。和名は、招霊(おきたま)が転じて「オガタマ」になったともされる。
 和名の「オガタマノキ」は、神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したものといわれる。日本神話においては、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際に、天鈿女命がオガタマノキの枝を手にして天岩戸の前で舞ったとされる。神社によく植栽され、神木とされたり、神前に供えられたりする。神楽で使われる神楽鈴は、オガタマノキの果実が裂開して種子が見える状態のものを模しているともいわれている。

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 田木村』
 小田原明神社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持、
 慈眼寺 新義眞言宗、入間郡上野村醫王寺末、普門山知勸院と云、本尊不動を安ず、中興の開山を秀榮と云、元祿四年示寂す、
 鍾樓 正徳四年、鑄造の鐘を掛く、


 小田原神社  東松山市田木六六二(田木字宮本)
 社伝によると、当社は寛永三年(一六二六)に観定僧都により地内の真言宗慈眼寺の境内に勧請されたことに始まる。観定僧都とは、慶長年間(一五九六〜一六一五)に慈眼寺を開基した僧である。
 その後、享保十年(一七二五)に至り、自然堤防上の慈眼寺境内から耕地を隔てた高台の現在地に遷座した。
『風土記稿』には「小田原明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持」と載る。
明治六年に村社となり、同四十一年には字田木山の神明社と字赤城の朝崎稲荷神社の無格社二社を合祀した。神明社は元和年間(一六一五〜二四)に本山派修験の常覚なるものが創建した社と伝える。朝崎稲荷神社は宝暦十四年(一七六四)に妙安寺九世の日定法印が勧請した社と伝え、昭和三十年代に入って旧氏子赤城地区の人々の要望により元地に復している。
 昭和三十三年には、境内林を用材に社殿を改築すると共に鳥居・参道石段の改修を行い、更に氏子の山口実一氏により土地の寄附がなされた社地が広まり、景観は一新した。
 なお、当社境内にある最も古い石造物は、安永七年(一七七八)の手水鉢で、これには「中嶋観音組 田木村講中」と刻まれている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      社殿を横から撮影              境内社・神明社
 祭りに関して、421日に行われる春祭りは、かつて塚越(現坂戸市塚越)の神楽を境内で行っていたため、今でも通称を「お神楽」と呼んでいるという。例祭は、氏子から「お九日(おくんち)」あるいは「お日待」と呼ばれている。12月の報告祭は五穀豊穣に感謝する祭りで、各家から初穂米を集め神前に供えるのが習いであるが、近年は農家の減少に伴い、米の代わりに現金で納める家も多くなっているとのことだ。
        
              一段高い境内から鳥居方向を撮影
        
                 田木小田原神社遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「Wikipedia」等


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岡諏訪神社

 和田吉野川(わだよしのがわ)は、埼玉県北部を流れる一級河川である。荒川水系の支流で、流路延長は12.5キロメートル。
 深谷市本田の田園地帯の排水に源を発する。深谷市から熊谷市、東松山市と概ね東から南東方向へと荒川の右岸側を並行するように流れ、途中右岸に和田川、左岸に通殿川を合流した後、吉見町上砂で荒川の右岸に合流する。
和田吉野川は、嘗ての入間川水系に属し、市野川へ合流していた。 1629年に伊奈忠次による荒川の瀬替え(荒川の西遷)により荒川が熊谷市の久下で締め切られ、和田吉野川の吉見町上砂の地点に付け替えられ、荒川本流が流れることになった。また、寄居町や深谷市を流れる吉野川も和田吉野川の一部であったが、明治初期に北側につなぐ水路が開削されて荒川に流れるようになり、吉野川本流が分離した。また、和田吉野川の呼称は元々和田吉野川と和田川の合流点より下流を示していて、それより上流側は吉野川であったが、現在はその上流側も和田吉野川と称している。
 その和田吉野川中流域右岸に位置する東松山市岡地域は、上岡・中岡・下岡の三つの地区に分かれていて、岡諏訪神社はこの内の上岡の鎮守として祀られている。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市岡1733
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧岡郷上岡鎮守・旧無格社
             
・例祭等 祈年祭 4月初寅 夏祭り 714日 例祭 826
                  
秋祭り 101
 国道17号線を熊谷市街地方向に進み、熊谷のシンボルともいえる『八木橋百貨店』のある「本石二丁目」交差点を右折する。その後、国道407号線をひたすら南下する事6㎞程、「上岡」交差点を左折し、100m程行った丁字路右側にある「上岡集会所」を左方向に進むとすぐ右手に岡諏訪神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
 上岡集会所には若干の駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                  岡諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「岡ノ郷」の解説
 大谷村の北、南西に流れる荒川支流和田吉野川の右岸に位置する。村域は同川に沿う細長い低地、および同低地に沿う台地(丘)とからなる。元亨三年(一三二三)の年紀を有する地内光福寺の宝篋印塔に「武州比企玉太岡此国山光福禅寺」とあり、古くは玉太(たまふと)の岡とよばれていたという。近世には岡村・岡郷などとも称した。熊谷往還が通り、鎌倉古街道という道もある。慶長三年(一五九八)に検地が行われ、このときの田方検地帳写(埼玉県史)一冊が残存する。田園簿には岡村とみえ、田高四二三石余・畑高一四八石余で旗本酒井領、ほかに高福こうふく(光福)寺領があった。文化八年(一八一一)川越藩領となる(「風土記稿」など)。
        
           鳥居の手前、参道左側にある伊勢参宮記念碑三基
『新編武蔵風土記稿 岡郷』において「土地もとより高く岡のさまなり、村内光福寺釋迦堂の前に、元亨年中に建し寶篋塔sり、それに武州比企郡玉太岡國山福寺としるせば、往古は玉太の岡と唱へしにや、又當村より艮の方十五町許を隔て玉作村あり、かく玉をもて名村し故詳ならず」と載せており、この地域が「岡」のように一段高い場所であるとの地名由来が記されている。
        
                 一直線に伸びる参道
        
                                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿 岡郷』
 諏訪社 妙安寺の持、
 妙安寺 曹洞宗、福田村成安寺の末、諏訪山と號す、開山祖眞文祿元年十二月朔日寂す、本尊彌陀を安ぜり、觀音堂

 諏訪神社  東松山市岡一七三一(岡字寄居)
 和田吉野川の右岸に位置する岡は、上岡・中岡・下岡の三つの地区に分かれる。この内の上岡の鎮守として祀られているのが当社である。
 口碑によると、当社は初め妙安寺の境内に祀られていたが、文政元年(一八一八)に現在の地(妙安寺の隣接地)に移されたという。昭和四十二年の社殿再建の際に「奉新造上屋一宇文政元戌寅稔十有二月初五日妙安院位立峰双代」と記した棟札が発見されており、この遷座に合わせて覆屋(上屋)が建立されたことがわかる。また、別の口碑によれば、当地は水害の多い所であったため、耕作に苦労した村人がその安泰を願って当社を奉斎したとも伝えている。
 妙安寺は諏訪山と号する曹洞宗の寺院で、開山は文禄元年(一五九二)に入寂した祖真和尚である。同寺が山号を「諏訪山」と号したとすると、寺の創建時には諏訪神社が既にこの地に存在し、一旦はこの諏訪神社を取り込んで寺の鎮守としたが、改めて文政元年に寺の隣接地に移して村の鎮守としたものであろう。
 明治初年、妙安寺の手を離れた当社は、社格制定に際し無格社となったものの、幸いにもその後の合祀政策で他社に合祀されることなく、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

『風土記稿』において、「用水には恩田村の出水を用れど、川に添し所は地形も卑ければ水損の所あり、西方に一篠の街道あり、幅一間半、河越より熊谷への街道なり、又同じ邊に鎌倉古街道と唱る所あり」と、鎌倉古街道の説明と、この地域が岡のように他の地域よりやや高いが故に、用水の確保に難儀し、慢性的な「水損の地」であることが記されている。
 
  参道左側に祀られている天神社と八雲神社      参道右側に祀られている稲荷神社と白山神社
        
                   社殿右側奥にある納札所
            札所の下の段に不思議な石が置いてあった。
        
                社殿から見た境内の一風景


 ところで、岡諏訪神社の東側には「諏訪山」と号する曹洞宗の妙安寺があり、祖眞和尚(文禄元年1592年寂)が開山、江戸期には岡諏訪神社の別当を勤めていた。
        
                                    妙安寺本堂
        
                    馬頭観音
 旧別当の妙安寺境内にある馬頭観音は、「上岡の観音様」の名で知られている。これを世に広めたのは、妙安寺一七世愚禅和尚であったといわれている。愚禅和尚は、寺に来た人々に大根の種を配ったり、また旅芸人や瞽女(ごぜ、各地を旅して三味線と唄を聴かせる盲人芸能者を意味する歴史的名称)・虚無僧を寺に招いて歓待するなどして、口伝えによって広めていった。最盛期には関東一円に講社が結成され、二月十九日の縁日には馬を連れて来た講員で境内は一杯になったという。この観音は、江戸時代より軍馬や農業馬の守り観音として信仰を集め、旧陸軍の騎兵隊やバクロウ、または現在は競馬関係者からの信仰が厚く、「上岡観音を参拝しない馬持ちはウマカッタといってはならない」とさえいわれたそうだ




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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拂田稲荷神社


        
             ・所在地 埼玉県東松山市高坂12321
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 3月二の午 冬至祭 1222
 東武東上線高坂駅東口から南側の線路近くで、民家が建ち並ぶ中に拂田稲荷神社は鎮座している。社の基檀部自体が古墳になっていて、直径約30m、高さ約2mの円墳で、通称「高坂13号古墳」別名「拂田稲荷神社古墳」と呼ばれている。
        
                  拂田稲荷神社正面 
 拂田稲荷神社は、戦国時代の混乱で荒廃した当地を見かねた僧誠誉が、村民に呼びかけて天文3年(1534)に創建、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったことから拂田稲荷と称されるようになったという。 
        
                                道路沿いに建つ鳥居
 当社は、五穀豊穣の神として崇敬されていたが、その後、高坂の発展や養蚕の振興と共に、商売繁昌の神・養蚕守護の神としても信仰されるようになる。とりわけ、養蚕守護の神としては近郷の人々の信仰も厚く、「巳の日」には「御縁日」といって参詣者も多く、大正時代の始めごろまでは、その晩にお籠りが盛んに行われたほどであったという。
        
                   鳥居のすぐ右側で、社号標柱の両側には石室の天井石
                              とも思われる石碑が
2つある。
        
                一の鳥居から撮影した、石段の先にある朱色の二の鳥居と社殿

 嘗て東松山市を含む比企地域は養蚕業が盛んな地域であった。当地域においても、養蚕が盛んであった頃は、近郷にも崇敬者が多く、中でも近隣の三・四十か村の間では拂田講もしくは穂蚕講と呼ばれる講が結成され、春蚕の始まる前(34月頃)、とりわけ「お蚕祈祷」とも呼ばれる当社の春祭りには講中の人々が参詣し、掃き立て紙を受けて帰ったものであったという。この掃き立て紙は、縦長の紙の中央に繭の形が描かれ、その中に「拂田神社守護」の文字の印が押された紙であり、この紙の上で蚕種を孵化させるとその蚕は丈夫に育つといわれていた。
 
拂田講は戦後に廃絶し、掃き立て紙も昭和43年頃まで配布されていたらしい。拂田稲荷といえば養蚕の神の印象が強い。
        
                    拝 殿
 拂田稲荷神社(ほったいなりじんじゃ)  東松山市高坂一二三二(高坂字稲荷林)
 応仁年間(一四六七〜六九)の後、戦乱が相次ぎ、田畑はすっかり荒廃してしまい、民衆は苦難にあえいでいた。そのころ、当地を訪れた誠誉という僧が、この惨状を見るに見兼ねて、住民に五穀成就と万民安堵の守護神として京都の伏見稲荷大社から倉稲魂命の神霊を勧請することを勧めた。これが当社の創建であり、社記によれば、天文三年(一五三四)のことであったとされている。
 ちなみに、当社の社号の「拂田」とは、人や場所の名前などではなく、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったため「田を拂って作った」という意味であるという。このように、社名の由来にも、戦乱による荒廃からの復興を願う当時の人々の心情が込められているように感じられる
 その後、住民や領主の努力も実って、高坂は再び活気を取り戻し、当社は村鎮守の八剣明神社(現高坂神社)と共に高坂の人々から厚く信仰された。とりわけ、文化文政のころ(一八〇四〜三〇)には霊験が殊に著しく、境内及び正面参道が拡張され、石段・石灯籠などが奉献され、更に文久二年(一八六二)には社殿も改築された。江戸時代を通じて、当社は、地内にある浄土宗の長松寺の持ちであったが、神仏分離によってその管理を離れ、代わって澤田家が神職として奉仕するようになった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 現在、当社で行われている祭事は、元旦祭・春祭り(3月二の午、三の午がある年は三の午)・例祭(10月17日)・秋祭り並びに冬至祭(12月22日)・大祓(12月31日)の年6回であるのだが、氏子区域が高坂神社と重なる為、総代以下氏子が参列するのは、元旦祭・春祭り・冬至祭の3回で、それ以外は宮司が祭典を奉仕するだけの祭りとなっている。
        
                 境内社・
子持稲荷社
 境内に祀られている子持稲荷社(通称・お子持様)は、子育ての神として信仰されており、特に小児の夜泣きには参詣すれば必ず御利益があるといわれている。また、氏子の間では、子供が生まれると参詣し、眷属像を納めて成長の無事を祈願する風習もある。なお、この「お子持様」は煙草を好むといわれており、昔は、願の叶った人は、感謝の印に煙草を奉納したとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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