三ヶ尻八幡神社
熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いという。
三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存されている。
・所在地 埼玉県熊谷市三ケ尻2924
・ご祭神 誉田別命 (合祀)大日霊貴命 菅原道真
・社 格 旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
・例祭等 祈年祭 3月25日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月8日
*祭日は「大里郡神社誌」を参照
三ヶ尻八幡神社は、埼玉県道47号線深谷東松山線で三尻中学校のすぐ南側、三尻公民館の奥に鎮座する。北側には三尻小学校があり、丁度2つの学校に挟まれた場所にある。駐車スペースはその三尻公民館を利用して参拝を行った。
県道沿いにある三ヶ尻八幡神社社号標と一の鳥居
一の鳥居より参道を望む
『日本歴史地名大系』での 「三ヶ尻村」の解説
[現在地名]熊谷市三ヶ尻・御稜威(みいず)ヶ原
幡羅郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽台地南東縁の櫛挽面と寄居面にまたがり、北は拾六間村、南は大里郡大麻生村。中世は三ヶ尻郷に含まれていた。「風土記稿」に「古ハ甕尻又尻トモカケリ、村名ノ起リ詳ナラス、或云当村ニ狭山トイヘル山アリ、其形瓶ヲ覆フニ似タルヨリ起リシ名ナリトイヘト、ウキタル説ニテウケカヒカタシ、(中略)又此村ハ当郡及大里・榛沢三郡ノ後ニ当レハ、今ノ名起レリナト土人ノ伝ヘアリ、是ハ今ノ文字ニ改メシヨリ附会セルコトナルヘク」とあり、二つの村名由来が載るが、「大日本地名辞書」は「村内なる狭山の形容、を覆せて、尻を見るが如くなれば、此名の起り明白なり」と前者の説をとっている。狭さ山とは現在の観音山で、標高七七・四メートルの新生代第三紀の残丘、櫛挽台地と沖積扇状地の接する地点に突出している。
天正一八年(一五九〇)の三千石以上分限帳(「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)によると、三宅惣右衛門康貞は「武州見賀尻」で五千石を宛行われたが、慶長九年(一六〇四)に五千石を加増され三河挙母藩に移封となった(寛政重修諸家譜)。
寛永6年(1629)築造の二の鳥居
台地面に向かって参道が続く。
実はこの参道は南(正確には南西)方向で、社殿は北向き
参道途中に設置されている案内板
八幡神社
熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森 昭和59年3月30日指定(埼玉県)
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1156)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。
ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。
林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。
平成16年3月 埼玉県熊谷市
掲示板より引用
「ふるさとの森」の案内板が設置されている場所は、広い空間となっていて、現在は参拝用の駐車スペースとなっているが(写真左)、ここには「三尻村 靖国神社」の社号標柱が立ち、広いスペースの一番西側奥には靖国社がひっそりと鎮座している(同右)。
拝 殿
本 殿
拝殿手前左側にある手水社 拝殿手前にある祓戸大神
瀬織津姫命と何か関係があるのだろうか。
境内には数多くの石碑が並び祀られている。この地に鎮座している社に対して、昔から延々と今に至るまで、氏子・総代を初めとする多くの方々が崇高の念をもって祀り、奉納してきた歴史を垣間見る思いがする。
八幡神社 篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。
寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。
かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。
社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。
平成13年12月吉日
八幡神社宮司 篠田宣久謹書
境内石碑より引用
この三ヶ尻八幡神社は鶴岡八幡宮と古くから交流があったらしい。
天喜4(1056)年源頼義、義家父子は奥州争乱鎮定(前9年の役)に出陣の折、三ヶ尻に来て戦勝祈願を行っていることから始まる。今も境内には、義家が愛馬をつないだという杉の古木が神木として祀られている。続いて寿永2(1183)年、後の征夷大将軍源頼朝は当時の三ヶ尻郷を相模の国鶴岡八幡宮若宮御領として寄進し、同宮の分祀として尊崇を集める。所願成就のため武蔵國波羅郡内尻(みかじり)郷を相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮・若宮御領として寄進する旨が記され、頼朝の花押のある寿永2年2月27日付の文書である。
この縁で、三ヶ尻に奉納米を作るため神饌田を復活させ、三ヶ尻小学校、籠原小学校、鎌倉の鶴岡八幡宮子供会の子供たちが合同で田植えをし、稲刈りをし、刈り取った米は11月23日に鶴岡八幡宮で行われる新嘗祭に奉納される。三尻八幡神社の氏子さんたちもまた、毎年、大注連縄を編み鶴岡八幡神社に奉納している。このように、熊谷の三ヶ尻八幡神社と鎌倉の鶴岡八幡宮は我々が思う以上に深い関係があったようだ。
社殿の左側には「八幡太郎義家公駒留めの杉」がある。
源頼義と八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされ、境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこっている。
境内社 琴平神社(写真左側)・浅間神社(同右) 合祀社 八坂社、雷電社、稲荷社等
琴平、浅間神社手前に鎮座している御嶽神社 社叢の奥に鎮座している境内社・産泰神社
三ヶ尻八幡神社の社殿横には「社日」と言われる石柱が存在し、各面には、五柱の神名が記されている。
「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」。天照皇大神が正面最上位で、その右面から上記の順で並ぶ。
社殿からの一風景
ところで三ケ尻八幡神社はかつて「甕尻郷」が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である」という。かつてこの地は三ヶ尻ではなく甕尻と呼ばれていた、ということだ。では「甕」とはなんという意味であろうか。
「甕」
貯蔵や運搬に用いられる容器としての日常生活道具と同時に、弥生時代中期には北九州、山口地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、甕棺墓の風習があったことが判っている。弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、青銅製武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などの副葬品が見られる点にあり、一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。青銅製品などの副葬品にも差が出てきたり、この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。
他の利用例として
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあり、祭祀用として重要な用具だったことが判る。
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとも伝えている。
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られている。
弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎え、弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
このように「甕」は、古代日本において、生活の中だけでなく、埋葬、祭祀の際にも重要な役割を果たす用具だったことが窺わせる。
さてこの「甕」を冠した神々は記紀等に詳しく記載されている。
武甕槌命
雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓む。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓む。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰 から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられている。
甕速日神(ミカハヤヒノカミ)
神産みにおいて伊弉諾がカグツチの首を切り落とした際、十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。
建御雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕槌神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕槌神が同時に生まれたとも記されている。
速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)
大国主神の 子孫で、天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶す。
(* 前玉比売は前玉神社の祭神)
天之甕主神 (アメノミカヌシ)
前玉比売の親神
甕主日子神(ミカヌシヒコ)
大国主神の 子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生まれた神。
天甕津日女命(アマノミカツヒメノミコト)
出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。
天津甕星(アマツミカボシ)
「日本書紀」にみえる神。高天原(たかまがはら)にいる悪神。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するためにつかわされる前に服従された。
別名に天香香背男(あまのかかせお)。
日本神話に登場する星神で、悪神と明記される異例の存在である。
このような「甕」を冠した神々と「甕尻郷」の甕とは何か関連性があるのか、それとも単なる偶然か。埼玉県美里町広木に鎮座する甕甕神社や近くに鎮座する延喜式内社 田中神社の祭神、武甕尻命との関係にも興味が広がった。