古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

河原代香取神社・河原代諏訪神社・河原代上香取神社

河原代香取神社】
        
            
・所在地 埼玉県久喜市河原代683
            
・ご祭神 経津主神
            
・社 格 旧河原代村鎮守
            
・例祭等 春祭り(お日待) 415日 秋祭り 1015
 佐間八幡神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を東南方向へ2.4㎞程進行した先の信号のある丁字路を左折すると、すぐ右手側に規模は小さいながらも河原代香取神社の鮮やかな社殿が見えてくる。駐車スペースはないため、丁字路側にあるコンビニエンスに駐車後、参拝を行う
        
          道路沿いに鎮座する開放感あふれる
河原代香取神社
『日本歴史地名大系』 「河原代(かわらだい)村」の解説
新井村の北に位置し、正保国絵図・田園簿には川原代新田などとみえる。田園簿によれば田高二三〇石余・畑高二四一石余で、幕府領。元禄郷帳では高三一三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本榊原・久津見二氏の相給。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                    拝 殿
 本殿内には稲荷大明神も一緒に祀られている。「グーグルマップ」において河原代香取神社稲荷大明神と表記されているのもそのためと思われる。
『新編武蔵風土記稿 河原代村』
 香取社 伊坂村迎盛院持、村内の鎭守なり、

 福壽院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺門徒、本尊不動、運慶の作、不動山と號す、開山宥海元和五年四月寂、

 香取神社  栗橋町河原代六八二(河原代字下分)
 当地は利根川と中川との間にあり、地名の河原代も河川沿いの台地の意味であるという。
 開発は 元和年間(一六一五-二四)であると伝え、氏子の池田家の過去帳には「当所開発元和九亥年(一六二三)当家先祖池田四郎右衛門、武州埼玉郡忍領須戸村より移る」と記されている。口碑によると、移住したのは荒堀の関羽家・武井家・渡辺家・下の平井家・池田家など五軒ほどで、真菰(まこも)の茂る沼地を開拓したという。
 当社の創建については不明である。『風土記稿』には「香取社 伊坂村迎盛院持、村内の鎮守なり」とある。また『明細帳』には「往古ヨリ当地二勧請シ村内鎮守二信仰ス、元禄十丑年(一六九七)二検地其ノ前ヨリ除税地ナリ、年月不詳社殿再建、其ノ後大破二及ビ慶応元年(一八六五)三月中氏子尽力シテ再ビ社殿ヲ建立」とある。
 明治四十三年三月二十五日には、同村上分の香取神社、下分の諏訪神社・香取神社を合祀する旨が『明細帳』に記されているが、各社とも現在まで移動はない。上分の香取神社は正保二乙酉年(一六四五)九月の創建と伝え、河原代上分と北広島の一部二七戸で祀っている。また、下分の諏訪神社は荒堀の一六戸で祀っている。同じく下分の香取神社は下組の共有で、香取・鹿島神社と号して、下組一七戸で祭りが行われている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 因みに本殿内には稲荷大明神も一緒に祀られている。「グーグルマップ」において河原代香取神社稲荷大明神と表記されているのはそのためと思われる。
 字河原代は、上分一四戸、荒堀一八戸、下分二二戸である。氏子区域を一応河原代全域としているが、これは、明治四十三年に村内の神社を合祀したときに成立したものであり、戦後の社格制度廃止を機に、本来の氏子区域である下分の人々が実質的な氏子となっているという。
        
            社殿の右側にある記念碑二基と十九夜供養塔
       その手前には「香取神社 稲荷大明神 本殿落慶記念碑」が建つ。

 左側に建てられている「
社殿改築記念」では、昭和22年9月15日に発生した「カスリーン台風」によって、北埼玉郡東村で決壊し、濁流が下流域に及び、旧栗橋町のほぼ全域が水没、社も壊滅的な被害を受けた。その後連年の不作が続き、社の再建も進まない状況であったが、昭和269月の「サンフランシスコ講和条約」締結を記念し、また、その年は豊作にも恵まれたので、寄付者の氏名を後世に残すために記念碑を立てたという事だ。
またその右側には「
地所奉納記念碑」があるが、この記念碑は当地から東京へ出て成功した方が、故郷の鎮守を信仰して昭和九年六月一日に建立、奉納したものであるという。
 
拝殿には「炭疽病除・大願成就」の奉納額が掛かっている。銘文によると、昭和12年の7月から8月にかけて馬の炭疽病が流行し、付近で倒れた馬は160頭にも達したが、当地では馬持ち一同で三七日(さんしちにち)の祈願を行ったので、一頭も発病しなかったという。

 香取神社稲荷大明神本殿落慶記念碑
 本神社は栗橋町施行の町道幹線二号線整備事業の実施に伴い築造用地として町の要請に応じ境内地及び参道の一部を協力をしこれを機に氏子一同に相諮り買収費並びに河原代地蔵尊の浄財を建築費に充て天皇陛下即位十周年を記念して境内地内の整備と本殿の新築を行い諸社を安置し奉る
                                      記念碑文より引用

【河原代諏訪神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市
河原代609
             ・ご祭神 
建御名方神(推定)
             ・社 格 河原代下分荒堀鎮守
 河原代香取神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を北西方向に進むと、進行方向右手に河原代諏訪神社が見えてくる
        
                 石段上に鎮座する社殿
       石段手前の左右には一対の石灯籠、また、伊勢参宮記念碑が並ぶ。
「埼玉の神社」によると、当社は河原代下分の荒堀一六戸で祀っていて、本来ならば明治四十三年三月二十五日に河原代香取神社に合祀される旨が『明細帳』に記されているが、現在まで移動はされていない。
 
   境内西側にある力石とその案内板       社殿手前左側に祀られている境内社
「力石」河原代諏訪神社
「力石」の由来は中世の若者の力比べから広まったという説、もっと古くは「石占い」からという説があり、江戸時代からの「力石」はもっぱら力試しが行われた。
 享保十八年(一七三三年)
 力石三十二貫目(120㎏)渡辺氏
 令和四年四月 (以下略)                           案内板より引用

河原代上香取神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市河原代41-2 
             ・ご祭神 経津主神(推定)
             ・社 格 河原代上分鎮守
 河原代諏訪神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を北西方向に200m程進んだ先にある丁字路を右折し、しばらく道幅の狭い農道を進むと、進行方向斜め左側に河原代上香取神社の境内全体が見えてくる。民家が数軒見える程度の田畑風景の中にポツンと祀られていて、周囲に適当な駐車スペースもないため、路駐にて急ぎ参拝を行う
        
                 河原代上香取神社正面
 この社も河原代諏訪神社同様に、明治四十三年三月二十五日に、河原代香取神社に合祀する旨が『明細帳』に記されているが、各社とも現在まで移動はしていない。上分の香取神社は正保二乙酉年(一六四五)九月の創建と伝え、河原代上分と北広島の一部二七戸で祀っている。
        
                    拝 殿
 境内碑
 抑当社は正保二年乙九月始経営し、爾後洪水の為に毀壊され因て安永二亥己歳本社を営造し、弘化四未十二月両家を再建。其の後明治八乙亥歳九月新たに拝殿を造立し、今明治十丁丑九月内殿并右本社、鳥居両様根続き屋根共に改め修復に及びうやまつて奉拝すべく者なり
 
    参道左側にある力石の案内板       参道右側で鳥居のすぐ先にある庚申塔
  享保13年(1728)、重さ32貫目(120㎏)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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佐間八幡神社

 栗橋町(くりはしまち)は、かつて埼玉県の利根地域に存在した人口約27千人の町で、北葛飾郡の北端にあり、首都圏から約50kmに位置し、周囲を利根川・中川・権現堂川の3河川に囲まれている。
 江戸時代には日光街道が利根川を越える要地として箱根・碓氷と並び関東三大関所の「栗橋関所」がおかれた水陸交通の要衝の宿場町(栗橋宿)であり、古くから人やもの、情報が行き交う場所として発展し、明治2年に関所が廃止されるまでの間、宿場町として、また舟運の町として栄えていた。現在も日光や東北へ至る鉄道は新幹線も含め栗橋を経由する。
 関東平野のほぼ中央部に位置し、山や丘陵はなく、利根川・中川の沖積平野にあって中川低地と呼ばれる低地が中心の地形であるが、中心市街地、高柳や佐間などの町西部、権現堂川沿い及び南栗橋地区には、自然堤防や旧堤防など微高地になっている場所もある。また、ほぼ平坦の地形のため土砂災害等の危険性は低い。
 2010年(平成22年)323日、久喜市、南埼玉郡菖蒲町および北葛飾郡鷲宮町との新設合併により消滅した。現在でも旧栗橋町域を総称して栗橋地区という。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市佐間577
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春の祭礼 415日 天王様 77日・15
                  秋の祭礼 1015
 国道125号線と埼玉県道316号阿佐間幸手線の交わる「佐間(西)」交差点の東、真言宗豊山派八幡山定福院の西隣に佐間八幡神社は鎮座する。
        
                  佐間八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「佐間村」の解説
 間鎌(まがま)新田の南西にあり、村の北を古利根川が流れ、川沿いに堤防がある。鎌倉街道であったと伝える古道、また日光御廻(おまわり)道が通る。地内の小草原(こくさばら)では中世墓地が発掘され、蔵骨器として使用された一四世紀中頃と推定される瀬戸瓶子や常滑大甕、また板石塔婆三七基が出土している。中世において水陸交通の発達した地であったと考えられる。また小字に陣屋・陣屋屋敷添などがあり、佐竹氏の陣屋があった所という(郡村誌)。
『日本歴史地名大系』 「佐間新田」の解説
 佐間村の東に位置したとみられる(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一七石余・畑高一二七石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一八一石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、家数二五。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)、幕末の改革組合取調書などには記載がなく、幕末までには佐間村に含まれて把握されることが多くなったものと思われる。
        
            参道先の境内は開放感ある空間が広がっている。
 当社の氏子区域は、大字佐間のうち前・後ろの全域と、河原代の一部である。前を陣屋・下手・前新田の三組に分け、後ろを上手・中組・道下・北新田の四組に分けている。氏子区域の住民は、ほとんどが氏子区域の住民は、ほとんどが氏子となり、現在は二四〇戸であるとの事。
 
      境内左側にある手水舎         手水舎の先に祀られている青龍権現社
                           権現社の左側の石碑は稲荷社
        
               一段高い場所に社殿が鎮座する。
 
 石段の左側にある案内板や伊勢参宮記念碑    石段右側にも伊勢参宮記念碑が3基あり。
                          その手前に置かれている力石2基
        
                久喜市指定文化財「八幡神社歌舞伎絵馬」の案内板
 久喜市指定有形文化財。  八幡神社歌舞伎絵馬
 指定年月日 昭和53329
 所 在 地 久喜市佐間五七七
 歌舞伎絵馬は、野郎(やろう)歌舞伎風の踊りが杉板八枚に描かれている。縦150センチメートル、横180センチメートルに達する大形の絵馬で、左方の墨書から絵師は村上義勝で、正徳六年(一七一六)丙申(ひのえさる)三月に奉納されたことがわかる。
 歌舞伎の元祖は、慶長八年(一六〇三)に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国といわれている。阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる女歌舞伎や前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が行われていたが、風紀を乱すとの理由から女歌舞伎は、寛永六年(一六二九)に禁止され、承応元年(一六五二)には若衆歌舞伎も禁止された。その後、現代に連なる野郎歌舞伎となった。絵馬が奉納された正徳六年頃には、野郎歌舞伎が盛んに行われていたようである。
 この絵馬はその当時のようすをよく表し、絵画としても巧みな鉄線描の輪郭に着色の工合も舞手の顔や姿をできるだけ変化させて描かれている。
 当時の風俗画として、また演劇の資料としても貴重なものである。
 平成二十五年三月四日 久喜市教育委員会                    案内板より引用
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 葛飾郡佐間村佐間新田』
 八幡天神稻荷合社 定福院の持、古は大社なりし由、元祿の頃改の國圖當村と覺しき邊に八幡社とあり當社のことにや、
 定福院 新義眞言宗、下總國香取郡前林村東光寺末、八幡山と號す、開山行淸、本尊不動を置、

 八幡神社  栗橋町佐間五七五(佐間字陣屋屋敷添)
 佐間の地名は、低湿地にある島状の台地を表すという。また、古くは耕地を島と呼び、これが変化したともいう。いずれにしても、古くから開かれた所である。昭和四十四年、当社後方の字小草原から、偶然、板碑三四基と古瀬戸の壺が発掘された。これは、中世この地に有力な土豪が存在した証拠であろう。
『風土記稿』は、往時の当社を「八幡天神稲荷合社 定福院の持、古は大社なりし由、変録の頃改の国図当村と覚しき辺に八幡社とあり当社のことにや」と記している。別当であった定福院は、山号が八幡山であり、現在本堂わきにある阿弥陀薬師堂は、寛永年間(一六二四-四四)、八幡社の本地阿弥陀如来を祀るために建立された本地堂であると伝えることなどから、当社は、古くは八幡社であったと思われる。
 現在、覆屋内は、中央に大きな本殿を据え、これに騎乗八幡大明神像を安置する。この左右に天神社・稲荷神社・妙義社・琴平神社の小祠を置き、うち天神社と稲荷神社には、それぞれ神像を安置している。なお、天神社の神像には、寛保二年(一七四二)の銘がある。
 以上のことから、当社は、中世、当地の土豪が当時流行した神である八幡社を勧請し、これに江戸時代中期以降に村内の天神社と稲荷社を合祀したものと考えられる。
 大正三年に字内の愛宕社を合祀し、現社名となる。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社は、『風土記稿』に「古は大社なりし由」と載せるように、広く信仰された神社である。これは、多くの絵馬奉納として表れている。絵馬は、大部分が歌舞伎絵馬と呼ばれるもので、中でも正徳六年(一七一六)に奉納された「元禄花見踊り」は優品であるという。
 
    社殿左側に祀られている愛宕社           社殿右側にある神興庫
        
                  社殿からの眺め
        
          因みにかつての別当寺で社の東隣に隣接する定福院
          正面の楼門には「八幡山」の扁額が掲げられている。
        
                   定福院本堂
             境内には多数の羅漢像が置かれている。 
         
           薬師堂               社の境内右側にある観音堂


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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大田天神山古墳

 かつて深谷市の北部に位置する利根川右岸一帯は低地地帯で、利根川の洪水によりできた氾濫原にあたり、瀬(水の流れが急な所)や島(中州のこと)という地名が多く、俗に『四瀬八島』という言葉も残っていて、南西島・北西島・大塚島・内ヶ島・高島・矢島・血洗島・伊勢島と瀧瀬・小和瀬・横瀬・中瀬の地域名をもつ地域とされている。
 この地帯は、利根川のしばしばの氾濫により、常に被害を受けた為、旧郷社で、旧榛沢郡総鎮守社である島護産泰神社をこれらの守護神として信仰したことにより「島護」の名がついたという。地名にはその土地の歴史が刻まれていて、風土や歴史を物語るという。大事にしたいものである。
 女体山古墳や太田天神山古墳(男体山古墳)がある地域名も「内ヶ島」といい、かつては渡良瀬川や利根川、またその各河川の支流等が入り乱れていた地域であったと推測できる。そして、その一帯の水運流通(経済)を一手に管理する集団のトップがこの古墳に埋葬されている人物であったのかもしれない。
        
            
・所在地 群馬県太田市内ケ島町16061ほか
            
・形 状 前方後円墳
            
・規 模 墳丘長210m
                 
後円部径120m 高さ16.5m 前方部幅126m 高さ12m
            
・築造時期 5世紀前半-中期頃(推定)
            
・史 跡 国指定史跡 年月日 昭和16127
                       
平成2285日(追加指定)
            
※参拝日 2026111
 大田天神山古墳は、東武伊勢崎線太田駅の東約1.2kmにある古墳で、女体山古墳のすぐ南西側にあり、両古墳はほぼ同じ時期に造られていることや、同じ方向を向いて造られていること、設計企画に同じ尺度を用いている可能性があることなどから、2つの古墳の葬られた人たちの間には密接な関係があったと考えられている。
        
             
太田天神山古墳中央部東側にある入口道からスタート
            写真左側のくびれ部付近には鳥居が見える。
 
    入口に対して左側が前方部        同じく入り口に対して右側は後円部
 さすが墳丘長210㍍の大きさを体感できるスケールのある古墳。東日本では最大、全国でも30位以内(近畿地方を除くと3位)の規模を誇る大前方後円墳で、東日本では墳丘長が200㍍を超す唯一の古墳として知られている。また、大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長とされているが、他の説もあり明らかではないとの事だ。
        
             東側のくびれ部に建つ目塚天満宮の鳥居
       
            鳥居の左側に設置されている当古墳の案内板
 史跡 天神山古墳
・所 在 地 太田市大字内ケ島字天神1606ほか
・指定年月日 昭和16年(1941127
 別名男体山とも呼ばれ、東日本最大、全国でも27.8位の規模を誇る大前方後円墳である。
 墳丘の全長210m、後円部直径120m、同高さ16.8m、前方部前端幅126m 高さ12mである。
周囲には二重の周堀が巡らされ、墓域は長さ364m、幅288mに及ぶ。また北東と西に陪塚を持つ。
 墳丘は三段築造で、表面を渡良瀬川系の川原石で葺き上げている。
 主体部は堅穴式であるが、既に盗掘を受けており、後円部南鋸付近に大型の長持形石棺の一部が露出している。
 墳丘部及び中堤帯には円筒埴輪が、また後円部墳頂には器材埴輪が樹立していたと考えられる。
 築造時期は5世紀中頃と推定され、被葬者は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。
 平成元年331
日                              案内板より引用

 天神山古墳
 平地ニ營造セラレタル前方後圓墳ニシテ略西南ニ面シ封土全長約六百九十三尺、後圓部徑約五百十四尺、前方部幅四百三十二尺ヲ有シ群馬縣下ニ於ケル最大ノ古墳ナリ表面ニ葺石存シ周圍ニ幅約百二十尺ノ環隍阯アリテ現在水田ヲナシ其ノ外側ニモ環隍阯ノ一部存シ二重隍ヲ示セリ封土ハ少シク毀損セラルル所アリト雖尚ヨク舊態ヲ保テリ
                             「文化遺産オンラインHP」より引用

 
  くびれ部頂上付近に鎮座する目塚天満宮     天満宮近くに祀られている石祠等
 くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、「天神山古墳」の古墳名は同神社に由来するとの事だ。
 因みに当古墳は、1938年(昭和13年)の『上毛古墳綜覧』では「九合村69号墳」として登載されていたが、1941年(昭和16年)127日に「天神山古墳」として国の史跡に指定されている。
        
             目塚天満宮から一段高い後円部を望む。

 上毛野地域(かみつけの 現・群馬県域)では、太田天神山古墳登場以前までは東毛の首長(別所茶臼山古墳)と西毛の首長(浅間山古墳・白石稲荷山古墳)とが個々に存在したが、やがて東毛の首長が伸長し、女体山古墳や天神山古墳が出現するに至り、上・下毛野地域のみならず北武蔵地帯に及ぶ支配を確立して築造した古墳と筆者は推測している。



参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「文化遺産オンラインHP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「古墳内案内板」等

        

 

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太田市内ヶ島町 女体山古墳


        
            
・所在地 群馬県太田市内ケ島町15061
            
・形 状 帆立貝形古墳(又は造り出し付き円墳)
            
・規 模 墳丘長106m
                 
後円部径84m 高さ7m 造り出し部幅18m 高さ1m
            
・築造時期 5世紀中頃(推定)
            
・史 跡 国指定史跡 (指定年月日) 昭和248
                   ※参拝日 2026111
 国道407号線を北上し、「太田市役所南」交差点を右折、1.7㎞程東行した「内ケ島」交差点を左折し群馬県道2号前橋舘林線を右側に女体山古墳が見えてくる。ざっくりいうと「大田イオンモール」のすぐ西側にある。古墳前に駐車スペースが若干あるということのようだが、交差点の向かい側にはコンビニエンスもあり、そこの一角をお借りし、買い物をしてから古墳散策を行った。
        
                           県道沿いにある
女体山古墳
 太田市内ケ島町地域は、市東南側に位置し、金山丘陵の南に広がる沖積平野に残るローム層からなり、古代の行政区分である新田郡と山田郡の境界付近に位置しており、奈良・平安時代には新田郡に属していたものと考えられている。
        
              
女体山古墳正面造り出し部を撮影
               
造り出し部は幅18m、長さ16m
 
   古墳正面前部に設置されている案内板         案内板の右側にある標柱
 国指定史跡 女体山古墳
 所 在 地 太田市大字内ケ島字女体1506ほか
 指定年月日 昭和2年(192748
 隣接する男体山(天神山古墳の別名)に対して女体山と呼ばれる円丘部に方形の造り出し部を付けた形で帆立貝形古墳という形式である。
 墳丘の全長106m、円丘部直径84m、高さ7m、造り出し部は幅18m、長さ16mである。帆立貝形古墳としては奈良県北葛城郡河合町の乙女山古墳(墳丘全長128.6m)に次いで全国第2位の規模を有する。周囲に幅1119mの周堀を持つ。墳丘表面には川原石が葺かれ、円筒埴輪が巡らされている。
 主体部(埋葬施設)は竪穴式のものと推定される。未発掘と伝えられるが、墳頂付近に削平の跡があり盗掘を受けているものと考えられる。
 築造時期は5世紀中頃で、天神山古墳よりやや先行する時期と考えられている。
 平成2年(1990331
日 太田市教育委員会                      案内板より引用
 
   墳頂部はなだらかな平面が続く。            
墳頂部に祀られている石祠二基
 周囲に幅1119mの周濠をもち、墳丘表面には河原石が葺かれ、円筒埴輪がめぐらされている。主体部(埋葬施設)は竪穴式のものと思われ、墳頂付近に削った跡があることから盗掘を受けていると推定される。築造時期は5世紀中ごろで、天神山古墳よりやや先行する時期。天神山古墳と女体山古墳はともにきわだった規模をもち、ほぼ同一時期に、同一方向を向いて築造されていることから、両古墳の被葬者には密接な関係があると考えられている。1927年(昭和2)に国の史跡に指定された
        
          女体山古墳から東方向を望むと、太田天神山古墳が見える。


参考資料「
国指定史跡ガイド」「日本歴史地名大系」「太田市HP」「太田市観光物産協会HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「古墳内案内板」等

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境島村諏訪神社

 境島村(さかいしまむら)は、伊勢崎市東南部の利根川沿岸に位置する。治水目的の河川改修により、地域は利根川を隔てて南北に分断され、埼玉県に接する地区南部は河川飛び地となっている。地域東部には深谷市横瀬地区の飛び地が存在する。
=保泉(ほずみ)武士(たけし)は粟がら育ち 米のなる木はわしゃ知らぬ=
 と、この地方の桑つみ唄に唄われるよぅに、境町を折半して、およそ東武鉄道伊勢崎線以南、部落では、保泉・上(下)武士以南・小此木・中島・米岡・平塚・利根川をはさんだ旧島村の地域は、全くの畑作地帯であった。水利に恵まれなかったからである.
しかしここの砂質の壌土は、桑の生育には最も適した。とくに旧島村の土地が、しばしば利根川の洪水に見舞われた結果、土壌中に微粒子病の病源菌を保たず、そのために蚕種に向く蚕飼育が可能であったと、同地の専門家に聞いたことがある。ともかくもこの地帯は、本県における蚕の本場であり、蚕種地帯でもあって、大がかりな養蚕が行なわれ、そのために、家々の造りも立派であり、「新地・島村屋造りはよいが」と桑つみ唄にも謡われるのである。そしてまた、明治初年に、単身、蚕種を持ってイタリアに渡った田島弥平翁の出身地でもあったのである。
        
            ・所在地 群馬県伊勢崎市境島村373277
            ・ご祭神(主)建御名方命
            ・社 格 旧島村鎮守 旧村社
            
例祭等 例大祭 43日 夏祭り 8月第1土日 秋季例祭 113
 境島村地域を起点として同市今泉町に至る群馬県道295号境島村今泉線を西行する。雄大な利根川の風景を愛でながら長閑な田畑風景の中県道を1㎞程進むと、県道沿いの進行方向やや右手に境島村諏訪神社が見えてくる。
 実はこの社には去年何度かアプローチをしたのだが、社周辺の道路工事・整備中により社に近づくことが出来ず、断念せざるをえない状況であったのだが、今回偶々近場での用事を済ませ、心向くままに立ち寄った次第である。
        
                 境島村諏訪神社正面
    道路沿いや境内にはまだ道路工事用のカラーコーンが整然と建ち並んでいる。
『日本歴史地名大系』 「島村」の解説
 小此木(おこのぎ)村の南に位置し、南は武蔵国榛沢郡横瀬村(現埼玉県深谷市)、同郡宮戸村(現同県本庄市)。現在、利根川が中央部を西より東へ貫流し、南北に二分されている。「島村郷土誌」の利根川流路変遷図によると、近世から大正三年(一九一四)の河川改修まで、村内を流れる利根川の偏流蛇行ははなはだしい。洪水に度々襲われ、その度ごとに水脈が変わっていたことが知れる。現利根川の中央部に字前島または本野(ほんの)と称する集落があり、当村の中心部であった。度重なる洪水・川欠けによりしだいに居住者が利根川の南・北岸に移転。北岸に北向・西島、南岸に新地・新野・新田・立作(りゆうさく)などの集落がある。大正三年の河川改修により字前島は河床となった。利根川の往来は竿漕ぎ渡船による。渡船の創始時期は近世からといわれるが不詳。この渡船は現在も続けられ北向と新野を結び、県道扱いとなっている。無料。
 天正二年(一五七四)北条氏繁は当地に長期在陣していた(同年閏一一月五日「北条氏繁書状」鶴岡八幡宮文書)。
 上記『日本歴史地名大系』には「渡船(島村渡船)」の事も載せている。
島村渡船(しまむらとせん)は利根川によって分断されている群馬県伊勢崎市境島村内を結んでいた渡船。約400メートルの航路を5分ほどで渡していた。伊勢崎市の市道の一部として(18年度以降は春から秋のみ)無料で運航されていた。しかし、2019年の令和元年東日本台風で船着き場等の設備が被害を受けて休航となり、そのまま20224月に廃止された。
       
                   境内の様子
 社叢林に囲まれていると社はいえ、境内によく見る玉垣や玉砂利が敷いてあるわけでもなく、鳥居や社号標柱の先に石灯籠と社殿が見える程度の余計なものを省いたような社。よく見ると、幡さし用の石製の柱が社殿の奥に横づけされている。
       
                      拝 殿
 当社は、正親町(おおぎまち)天皇の御代の天正年間(15731591)に武田信玄の遣臣だった粟原太郎左衛門が、信濃国の名神大社諏訪明神の御分霊を奉祀して氏神としたのを起源とする。
その後、島村の地が小此木から分離して一村をなす時に、中島の飯福社を離れて当社を村の鎮守社として村民の崇敬するところとなった。
 明治10年村社に列せられ、同42114日、字新地に祭祀してあった無格社稲荷神社・雷電神社・水神社、字新田に祭祀してあった無格社稲荷神社、並びに境内末社浅間神社、字立作に祭祀してあった無格社稲荷神社、字北向に祭祀してあった無格社神明宮、字西島に祭祀してあった無格社戸隠神社・大杉神社・三峯神社・手長男神社を合祀したという。
 大正3612日、河川改修によって州中の前島が廃されるとき、現在の字築場373番地の277に社殿を建築し、同5625日に遷座奉斎され、今に到る。
        
                    本殿覆屋
             
                                    本殿内部
 当地域は、利根川後背地という地理的条件から、農業が難しかったこともあり、地区では古くから養蚕が営まれた。明治期には田島弥平ら有力な養蚕農家、蚕種製造業者が現れ、蚕種を海外へ輸出するなど地区の養蚕業は繁栄を極めた。養蚕業衰退後の現在でも地区内の「島村養蚕業績之地」碑や、田島弥平旧宅をはじめとする養蚕農家群などから、かつての繁栄ぶりを窺い知ることができる。
 冒頭に紹介した田島弥平(たじま やへい、文政5815日(1822929日)―明治31年(1898年)210日)あるいは田島邦寧(たじま くにやす)は、明治時代前期に広く普及した養蚕技法「清涼育」(せいりょういく)を確立し、明治5年島村勧業会社を設立し,渋沢栄一らの協力で蚕種の輸出を成功させた。島村(現群馬県伊勢崎市境島村)の養蚕農家・蚕種製造業者である。主著に『養蚕新論』『続養蚕新論』があり、養蚕業・蚕種製造業への貢献によって緑綬褒章を受章した。太平洋戦争後まもない時期に群馬県が刊行した『上毛篤農伝』では、「群馬県の誇り」「蚕糸群馬が生んだ最大の巨人」等と賞賛されている。明治312月死去。77歳。名は邦寧。字(あざな)は子寧。号は南畬(なんよ)
 弥平が自らの理論に基づいて改築した住居(田島弥平旧宅)は国の史跡に指定されており、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産リストに登録された。
 この住居は伊勢崎市境島村地域に現存していて、今も人が住む民家で、庭先までの見学は可能であり、伊勢崎市は田島弥平旧宅案内所を設置し、模型やパネルなどの各種資料によって、資産価値を解説している

         
                   社殿東側から撮影

          社殿の奥に祀られている石祠と庚申塔群(写真左・右)



参考資料「群馬県民俗調査報告書5:境町の民俗」「日本歴史地名大系」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 」等

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