古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八甫鷲宮社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市八甫4—651
            ・ご祭神 大己貴命 天穂日命 天夷鳥命
            
・社 格 旧八甫村鎮守 旧村社
            ・例祭等 元旦祭 例祭 4月15日 鷲宮催馬楽神楽 7月24日
                 お日待 10月15日
 大輪神社の鎮座する埼玉県道152号加須幸手線「産業団地(北)」交差点を東方向に300m程進んだ先にある路地を左折すると、進行方向正面に八甫鷲宮社の鳥居が見えてくる。
 この鷲宮社が鎮座する地域名は「八甫」と書き、「はっぽう」と読む。この地域名については、当地の周りに西大輪など八ヶ村があったことから「八方」の意味とする説や、中川が利根川の本流だったころ、この辺りは八艘の船が帆を揚げて通れる大河であったことから「八帆」の意味だとする説、船運が盛んだったころ、当地近辺に八つの浦があったことから「八浦」の意だと「する説などが伝わっているという。
        
                八甫鷲宮社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「八甫村」の解説
 東大輪村の北にあり、西は鷲ノ宮村、村の北を流れる島川(現中川)の対岸は新井村(現栗橋町)。地名は八浦とも書かれ、八つの浦があったとも、帆影が八つ見えたことからとも、八ヵ村に囲まれた地から八方と称したともいう。布施美作守景尊に宛てた天正九年(一五八一)から一五年の間と推定される六月三日の北条氏照書状写(武州文書)に「八甫」とみえ、八甫から上流に上る商船三〇艘は咎立てをする必要はないが早く戻ること、また八甫は氏照の当知行なので他の船をむやみに通さず、今後はだれの船かを確認してから通すことなどを申渡しており、関宿(現千葉県関宿町)・古河などと同じく氏照の支配下にあった河岸場であったことが知られる。当地から延慶二年(一三〇九)、元亨四年(一三二四)銘など多くの板碑が発見されている。
 田園簿に八浦村とみえ、田高一九七石余・畑高七〇三石余(ただし田畑の合計高は村高と一致しない)、ほか野銭永一二三文とあり幕府領。元禄八年(一六九五)の反別寄(文久元年「八甫村諸記録写」霊樹寺文書)によれば、石盛は上田一一・中田九・下田七・下々田五、上畑・屋敷一〇で、ほかは同じく二ツ下り、総反別一一二町余・高八五六石余で、ほかに野銭場一四ヵ所の反当り永一〇〇文、雑木林銭場五九ヵ所の反当り永二五文、草銭場一ヵ所の永一五文となっている。
        
 当社は長禄年間(1457年 - 1460年)に創建された。その後、1695年(元禄8年)に白石与右衛門によって再勧請されている。与右衛門在世中の八甫村には、当時1000石の年貢が課されていた。その年貢の負担で村内が疲弊していたことから、与右衛門は村を代表して鷲宮神社に年貢軽減の祈願をしたところ、翌年から900石に年貢が軽減された。与右衛門はこれに感謝して、鷲宮神社より分霊を勧請して社殿を建てたと伝えられる。
  1874年(明治7年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
 
  境内に向かう途中で参道左側に設置されている「
八甫の獅子舞」の案内板(写真左・右)
「久喜市HP」
 鷲宮1丁目の鷲宮神社では年に6回、国指定重要無形民俗文化財の「鷲宮催馬楽神楽」が行われますが、八甫(はっぽう)の鷲宮神社でも年に1回、4月15日の祭日にあわせて鷲宮催馬楽神楽が行われます。今回は、八甫の鷲宮神社でのみ行われる特徴的な神楽の演目についてご紹介します。
 鷲宮催馬楽神楽は全12座の演目で構成されますが、そのほかにも番外の演目が伝承されていて、そのうちの一つ「天津国津狐之舞(あまつくにつきつねのまい)」が八甫の鷲宮神社でのみ行われる演目です。この演目は、狐(天狐(てんこ)・地狐(ちこ))の2人とひょっとこの面をつけた山の神の1人で舞い、狐たちが農夫に種まきを教える様子を表現しています。
 この「狐」の舞はその後、江戸の里神楽から逆輸入されたものだと考えられています。そのため、本社で演じられることはなく、ほかの演目とは調子の異なる陽気な囃子(はやし)が演奏され、舞人(まいにん)がおどけた狐に扮(ふん)して横っ飛びを行ったり、その様子を山の神が胡坐(あぐら)をかいて眺めたりと、ほかの演目では見られない特徴的な所作(しょさ)の舞が演じられます。また、舞人たちが見物人に餅などを配り、その年の災厄を祓(はら)うならわしも、この「狐」の舞の時だけに行われます。
 八甫の鷲宮神社では、天保(てんぽう)14年(1843)以降、神楽を行うようになったとされ、天保年間(1830から1843)の記録に12
座の演目の番外として「天津国津狐之舞」が挙げられていることから、江戸時代後期には八甫で「狐」の舞が行われていたことが推察されます。
        
    「八甫の獅子舞」のみならず「鷲宮社の史歴と行事」の看板も設置されている。
        
                            神楽殿
 案内板や久喜市HPに説明されているように、当社では4月15日の例祭で、土師一流催馬楽神楽が奉納されている。この例祭は、氏子の間では「だいだい」と呼ばれていて、「太々」の意味であり、当日奉奏される太々神楽にちなんだ通称である。太々神楽を見るのは、氏子の楽しみの一つであり、古くは近隣の村々からも花見がてらに多数の見物人が訪れ、広い境内がいっぱいになったという。
 また、7月下旬には鷲宮町指定無形民族文化財であるささら獅子舞も奉納されるのだが、八甫の淡中宮(あわなかみや)・上・中・下の四耕地に古くから伝わるもので、江戸期に舘林で行われた寄せザサラ(競演会)で優勝し、領主から褒美として弓を拝領したという実績を持ったとの事だ。 
             
                 拝殿前に聳え立つ老木。ご神木の類であろうか。            
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 八甫村』
 鷲宮社 村の鎭守なり、金剛院持、下三社同じ、末社稻荷 天神 〇稻荷社二 〇諏訪社
 金剛院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺の末、不動山金剛寺・号す、開山金剛房秀憲慶安五年十月八日化す、本尊彌陀 不動堂 觀音堂


 鷲宮社  鷲宮町八甫六五一(八甫字宮前)
『明細帳』は、当社の由緒について、「創立ハ長禄年度(一四五七-六〇)埼玉郡鷲宮村鷲宮神社ノ別ケ霊ヲ鎮祭、其後元禄八年(一六九五)本村白石与右衛門発願ニテ社殿建立、尚明治九年本村渡辺七左衛門義意智氏子協心同力ニテ今ノ社殿拝殿共建立セリ」と記している。このうち、長禄年間の鎮祭についての言い伝えは残っていないが、白石与右衛門については、氏子の間に次のような話が伝わる。
 その昔、開拓が進んで八甫の村が今くらいの大きさになったころ、千石の年貢が課せられていた。村人は年貢が高すぎて納めきれずに苦しんでいたが、ある年、白石与右衛門が願主となって鷲宮村の鷲宮神社に年貢の軽減を祈願し、成就の暁には鷲宮様を八甫の鎮守として勧請することを約束した。すると、次の年から年貢が九〇〇石余に減った。そこで、八甫では神様との約束どおり、鷲宮様の分霊をお迎えし、鎮守として奉斎するようになった。
 なお、当社の本殿内には、この時お迎えしたと伝えられる分霊(神璽)があるが、その箱書きには「天保十年(一八三九)九月十九日」とあり、『明細帳』の記述とは一致しない。近世における別当は金剛院(真言宗)であった。
 祭神は大己貴命・天穂日命・天夷鳥命の三柱で、明治七年に村社となり、今日に至っている。                                                                        
「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
 神楽殿の並びに祀られている天神宮等の石祠      本殿奥に祀られている石祠
      天神宮以外は不明          「埼玉の神社」によると浅間宮らしい。
        
             境内北側隅に祀られている諏訪大明神
        
                  八甫鷲宮社遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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大輪神社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市東大輪1713
            
・ご祭神 八幡宮 鷲大明神
            
・社 格 旧東・西大輪村鎮守 旧村社
            
・例祭等 お祭り 9月15日 秋祭り 10月15日
 埼玉県道3号さいたま栗橋線沿いに鎮座している西大輪神社(雷電社)から更に県道を1.6㎞程北上し、「八甫」交差点を右折する。その後、同県道152号加須幸手線を東行し「産業団地(北)」交差点の右側斜向かい角地に大輪神社の社叢林が見えてくる。
        
                  
大輪神社正面
 社号標柱には「
武蔵国櫻田鎮座 大輪神社」と刻印。また鳥居の手前には「右 嶋川舟戸屋 左 さって道」と刻まれている道祖神が建つ。写真にはないが、社号標柱の右側には伊勢参宮記念碑もある。
 社号標柱に刻印されている「櫻田」はかつて存在していた村名「桜田村(さくらだむら)」からきていて、埼玉県東部、北葛飾郡に存在した村であり、1889年(明治22年)4月1日、八甫村・西大輪村・東大輪村・外野村・上川崎村・中川崎村・下川崎村が合併し、北葛飾郡八輪野崎村(やわのざきむら)が成立し、同年、村名を改称し、桜田村となる。
 その後、1955年(昭和30年)1月1日 - 桜田村のうち八甫・西大輪・東大輪・外野・上川崎が南埼玉郡鷲宮(わしのみや)町と合併(新設合併)し、北葛飾郡鷲宮(わしみや)町となる。同日、桜田村のうち中川崎・下川崎が幸手町に編入されたという。
 因みに現在「桜田」は大字として存在していて、その地域は東大輪とやや南方向に接し、東鷲宮駅の東側に南北に広がる一地域となっている。
        
                    県道沿いに鎮座しているとは思えない位静かな境内
                  左側に見える建物は東大輪自治会館兼社務所
『日本歴史地名大系』 「東大輪村」の解説
 上川崎村の北方、西大輪村の北東にある。西大輪村とはもと一村であった。当地から永仁元年(一二九三)、建武二年(一三三五)銘などの板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、田高三八〇石余・畑高四三〇石余、幕府領、ほかに密蔵寺領高一〇石がある。元禄郷帳では高八九五石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本本多・松平二家の相給のほか密蔵寺領。「風土記稿」によると家数六九。日光道中幸手さつて宿の助郷であり、慶応二年(一八六六)当時は勤高七三四石で同宿の定助郷役を勤めている(「御用留帳」田口家文書)。
        
                木製両部鳥居の二の鳥居
          当社の二の鳥居の社号額には「正一位八幡宮・正一位鷲大明神」と書かれ、
  更に社殿が二間社であることなどからみて、古くから八幡・鷲の合殿であったと思われる。
        
            二の鳥居を過ぎた先にある一対の灯篭が2基
         手前の一対の灯籠は天和3年(1683)3月奉納のもので、
          後ろ側にある灯籠一対は、西大輪村講中による奉納。
 
  灯籠の先で参道左側にある伊勢参宮記念碑       二の鳥居の手前で参道右手にある
                      月山大神・羽黒大神・湯殿山大神 参拝記念碑
        
                    拝 殿
     拝殿の手前で参道の突き当たりの中央部に立派な御神燈が設置されている。

『新編武蔵風土記稿 東大輪村』
 八幡社 村の鎭守なり、密藏寺持、末社稻荷 愛宕
 密藏寺 新義眞言宗、山城國醍醐無量壽院末、東光山五大院と號す、本尊不動を安ず、慶安元年寺領十石の御朱印を賜はれり、 天神社 藥師堂 鐘樓 元祿八年の鑄造の鐘をかゝぐ。

 大輪神社  鷲宮町東大輪一七三一(東大輪字下口)
 当地は、古くは大輪村と称し一村であったが、寛永十八年(一六四一)の利根川改修に伴い、東大輪村と西大輪村に分かれた所である。
『風土記稿』によると、東大輪村の神社は「八幡社 村の鎮守なり、密蔵院持、末社稲荷 愛宕」とあり、西大輪村の神社は「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持、末社大六天 天神 雷電 稲荷」とある。
 東大輪村の八幡社は、貞享二年(一六八五)の『寺社書上帳』に、「東大輪村 八幡社、寛永四年(一六二七)の検地迄は御見捨地に御座候」とあるが、実際は天和三年(一六八三)奉納の石灯籠に「八幡宮・鷲宮大明神」と対で刻まれ。また鳥居の社号額にも「正一位八幡宮・正一位鷲大明神」とある。更に社殿が二間社であることなどからみて、古くから八幡・鷲の合殿であったと思われる。
 一方、西大輪村の鷲明神社は、元禄八年(一六九五)の『検地帳』によると、社地八畝歩が除地として記されている。
『明細帳』は、東大輪の八幡社由緒を「年代不詳ト雖モ山城国石清水八幡宮ヲ勧請スト古老ノ口碑二存セリ」とあり、西大輪の鷲神社の由緒は「年歴不詳ト雖モ大和国三輪明神ヲ勧請スト古老ノ口碑二存セリ」とある。
 明治四十二年、東大輪の八幡社に西大輪の鷲神社を合祀し、大輪神社と改称した。ただし、鷲神社社殿はお仮屋として旧地に残された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
『久喜市HP』によると、当社では、毎年10月15日の秋祭りの前に、稲藁で大蛇2匹を作り、鳥居に飾り付ける神事が行われる。現在、この藁蛇は東大輪上(かみ)と下(しも)の合同で作られるが、かつては東大輪と西大輪で1匹ずつ担当していたという。
 この藁蛇の製作を東大輪と西大輪の双方で請け負ってきたのは、両地区が江戸時代の初めまで大輪村という一村落で、後に分村したことに由来すると考えられる。大輪神社の祭神は、東大輪村の鎮守(ちんじゅ)である八幡宮(はちまんぐう)と西大輪村の鎮守である鷲大明神(わしだいみょうじん)を合祀(ごうし)したもので、このため東・西の大輪村の氏子(うじこ)は協力して秋祭りを行ってきた。
 実際、平成8年ごろまで、西大輪でも藁蛇を作り、かつては13日の晩に作った蛇を、その晩のうちに大輪神社の鳥居に飾り付けていて、一方、東大輪では14日の朝に蛇を作り、昼までに飾り付けを行っていた。その際、藁蛇を、西大輪は鳥居の西の柱に、東大輪は東の柱に飾り付けたという。また、西大輪の当番は14日から18日までの祭り期間中、大輪神社の留守番をしたということだ。
 大輪神社の秋祭りは、現在もその年の実りを感謝するとともに、無病息災(むびょうそくさい)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って毎年行われている。藁蛇はその象徴として地域の人々に親しまれてきた。近年、都市化の進展に伴い藁蛇を飾り付ける祭りは珍しくなり、本市でも現存しているのは、この大輪神社の藁蛇1例だけであり、貴重な祭りの一つといえよう。
            本殿の右側奥に聳え立つご神木(写真左・右)。
             ご神木の根元には稲荷大神が祀られている。
       
          社殿右側に祀られている境内社・灯籠・青面金剛像
           左から稲荷神社・灯籠(御神楽講中による奉納) 
         青面金剛像(庚申供養講中 元禄15年12月)・秋葉神社
       
                社殿から見た参道の風景 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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寿町白山神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市寿町1-2303
             ・ご祭神 菊理姫命 伊弉諾尊 伊弉冉尊
            
・社 格 旧豊田本村原産土神
            ・例祭等 建国祭 2月11日 春祭り 4月14・15日 天王祭 7月14・15日
                 秋祭り 10月14・15日 大祓 12月20日
 大袋新田氷川神社から「入間川街道」を北東方向に進路をとり、関越自動車道の高架橋の下を潜った先から1.5㎞程進んだ進行方向左手で住宅街の中に寿町白山神社は見えてくる。
 因みに川越市では、道路を「市道○○○○号線」のように数字で管理しているが、これを住民が呼びやすく、親しみやすいものになるようにと、生活に身近な路線について、地域住民の要望や一般公募を行い、「川越市道路愛称選定委員会」の選考を経て道路の愛称を定めているという。市のHPを確認すると全部で36もの愛称道路があるのだが、入間川街道もそのうちの一つである。
        
             入間川街道沿いに鎮座する寿町白山神社
            鳥居の左側にある建物は寿町一丁目集会所
 寿町は川越市の地理的中央部で、北部は入間川周辺の沖積平野、南部は武蔵野台地上に位置し、一丁目に武蔵野台地の縁となる崖線があり、北端部を赤間川が流れる。地域内は一丁目が市街化区域で、その全域が第一種低層住居専用地域に指定された住宅地で、戸建ての住宅が建ち並ぶが、生産緑地地区の農地もある。二丁目は市街化調整区域で、東部に団地があるが、主に水田などの農地である。
 この地域は、1967年(昭和42年)6月1日に町名地番整理によって寿一丁目および二丁目が成立した行政区域で、もと大字豊田本、大字豊田、大字野田の各一部であった。
        
           街中とは思えない程豊かな社叢林に覆われた境内
 元来、当社は豊田本の字の一つであった原の産土神として祀られていたものであったが、寿町が制定された際、その地域内には当社のほかに神社がなかったことから、当社が寿町の鎮守となった。もちろん、もと豊田新田や野田の住民であった人々は、古くから親しんできた神社の氏子を離れて新たに当社の氏子となったわけで、そこはいささかの葛藤があったかと察せられよう。
       
          拝殿前の参道の両側に聳え立つご巨木(写真左・右)
 当社は寿町の鎮守として信仰され、白山様の通称で親しまれている。更にかつて当社が原地区で祀っていた社であったことから旧原地区の住民の中には産土神様と呼ぶ人もいるという。
 また、当社は昔から霊験あらたかな神社として多くの人々の崇敬を集め、遠方から百度参りに来る人もあったという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 豊田本村』
 小名 安生老(アブロウ)村 (中略)爰に白山社あり、本地は十一面觀音を安ず、往古は仙波北院の境内に居りしが、御宮御造立の時彼地を退られ、當所の幻夜なりしを開きて、爰に移れる由、
『入間郡誌 東北部諸村(川越町付近)』
 安生老 川越入間川街道に臨み、豊田より野田新田にも及ぶ。 中央に白山社あり。 伝へ言ふ。 古は川越仙波喜多院の境内の一部にありしが、東照宮?造立の時、彼地を退去し、此原野を開きて居住せりと。 其旧家に伝へし所によれば、天正のはじめ、上野国に住し砥石売買を行へりと。 安生老の名何に依て生ぜしかを知らず。 二十二年四月北半を割て、野田新田に加ふ。

 白山神社  川越市寿町一-二三〇三(豊田本字原)
 当社は川越市のほぼ中央に位置する寿町に鎮座する。祭神は菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊の三柱である。
 社伝によれば、当社は、応仁元年に甲斐国の領主武田信玄の家臣であった山口長左衛門が上州に住んでいた時に守護神として祀った神社で、古くは喜多院の境内に奉斎されていたと伝える。天正年間、東照宮の造営に伴い、喜多院より現在の地へ遷座した。鎮座地の地名を原というが、それは、当時この付近は一面の原野であり、人もほとんど住んでいなかったことに由来する。
『風土記稿』によれば、山口長左衛門の子孫らは、遷座に伴い、当地に移り住み、原野を開いて一村を成したとある。現在、既に山口長左衛門の子孫と伝えられる家はない。ただし、社殿の隣に屋号をミヤノウチと呼ばれる荻原巌衛家があり、当社の境内は元来同家の土地で、当社造営の際に寄進されたものと口碑に残る。荻原家は代々当社社家として奉仕してきたが、戦時中、山畑家に替わっている。
 本殿は一間社流造りで、棟札に嘉永四年再建とある。欄間・側面などに美麗な竜の彫刻が施されている。また、拝殿の欄間にも竜の彫刻が施され、天井には雪渓筆の竜の絵が描かれていたが、昭和三七年、火災により覆屋・祭器庫を全焼し、拝殿も半焼したため、残念ながら現在では竜の絵も往時の約半分しか見ることができない。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿前に設置されている本殿の案内板            本 殿
『川越市HP』
 市指定有形文化財 寿町白山神社本殿
 種   別 市指定有形文化財 建造物
 指定年月日 平成19年8月10日
 社伝によれば、当社は、武田信玄の家臣 山口長左衛門が祀った神社で、古くは喜多院の境内にあったが、東照宮の造営に伴い現在地へ移ったという。
 本殿は、覆屋(おおいや)内板床の上に据えられ、正面に軒唐破風(のきからはふ)を付けた柿(こけら)葺屋根の一間社流造である。建築年代については、覆屋内の基壇に「天保十己亥歳 十一月吉日 當社再建」という刻銘もあり、本殿も天保10年(1839)頃の造営と一応考えられるが、一方で嘉永4年(1851)再建を記す棟札があったとの伝えもあり、明らかではない。
 本殿の装飾は、他の本殿建築と同じように、巧妙な江戸彫り彫刻で満たされ、柱や長押(なげし)に地紋彫が施され、頭貫(かしらぬき)側面や斗きょう間には花木鳥の彫刻で飾られている。とりわけ身舎(もや)の東西側面に嵌められた彫刻板には、ほほえましい表情の人物が立体的に描かれ、彫物師の心技を強く感じさせてくれる。
        
          本殿の奥に祀られている境内社・左から八幡社・稲荷社
       
               社殿の両側に聳え立つ御神木の如く立派な巨木(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「川越市
HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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豊田本白髭神社

 川越市豊田本(とよだほん)地域は、市中央部の入間川右岸側の沖積平野に位置する平坦な地である。地内は網の目のように多数の河道跡があり、ほぼ全域が扇状地や氾濫平野の中の微高地で、水田などの農地が多い農業地域となっている。その農地は耕地整理(圃場整備)されておらず、区画が不整形で境界(畔)が入り組んでいて、集落は南北に縦貫する市道の大田街道に沿ってやや広い帯状に分布している。地域の南辺の低地を赤間川が流れ、他にいくつもの小河川も流れているという。
        
            
・所在地 埼玉県川越市豊田本1212
            
・ご祭神 白鬚大明神(猿田彦大神)
            
・社 格 旧豊田本村・豊田新田鎮守 旧村社
            
・例祭等 記元祭 2月11日 春祈祷 4月15日 天王様 7月14日
                 
秋日待 10月15日 新嘗祭 11月23日
 大袋新田氷川神社から入間川街道を北東方向に進み、関越自動車道に達する手前の十字路を左折する。通称「太田街道」と呼ばれる市道を1.4㎞程北上した先の十字路を右折したその進行方向左側に豊田本白髭神社の正面鳥居が見えてくる。
 正面鳥居の周辺には適当な駐車スペースはないようで、境内社殿の東側には「豊田本公民館」が隣接して建っており、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                 
豊田本白髭神社正面
『日本歴史地名大系』 「豊田本村」の解説
 野田村・脇田村の南西、入間川と新河岸川の間の台地および低地に立地。豊田村・豊田本郷とも記す。村名は天文元年(一五三二)没の地内曹洞宗善長寺の開基豊田隼人に由来という(風土記稿)。当村から北方小室村にかけては古代条里の遺構が残る。小田原衆所領役帳に御家門方の北条長綱(幻庵)御新造の所領として「六十貫九百六十四文 河越卅三郷豊田」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。

 正面鳥居の右側に一際目立つ富士塚(写真左)。こちらは石段もあり正面で、浅間社の石祠が祀られている。そして境内から見上げる富士塚(同右)。残念ながら草に覆われ、塚の所々に見える石碑の詳細が分かりづらい。「埼玉の神社」によると、「富士講記念碑」のほか、「阿夫利神社」「磐長姫神社」「金刀比羅神社」などがあるという。
       
         草に覆われた富士塚に比べてきちんと整えられてある境内
 当社の氏子区域は豊田本で、地域名の「豊田」の由来は、戦国時代の武将である小笠原安元の家臣、豊田隼人が開発したことによるという。この豊田隼人は、地域内にある曹洞宗善長寺の開基で、天文元年(1532)没したという。

『新編武蔵風土記稿 豊田本村』
善長寺 曹洞宗龍ヶ谷龍穩寺の末、豐田山と號す、開山は本寺七世節庵良筠、天文十三年十月廿八日示寂、開基は豐田隼人、法名善長天文元年八月廿一日死すと、されど此人は元三州に住し、小笠原攝津守安元に屬し、御入國の時安元郡內入閒川村の地を賜はりし故、家臣隼人移てこゝに居れり、しかるに此人の家より失火し、村內及び奧富村も此災に罹りしかば、隼人こゝに居ること能ずして、當所に來りこの村を開發せし故、村名となれりなどいへど、小笠原氏の譜を案に攝津守安元は天正十七年十一月晦日三州に於て卒せしと云へば、安元の男太郞左衞門安勝御入國の後、入閒川村を賜りしなるべし、然れば天文元年に死せる豐田氏の入閒川村に住せしと云は、其謂れ疑ふべきに似たれど、姑く傳るまゝを記せり、本尊正觀音を客殿に安ず、正德二年の銘をえりたる鐘を客殿の軒にかけたり、稻荷社 白山社

『風土記稿』によると、豐田隼人は元三河国に住み、小笠原攝津守安元の家臣であったという。安元の没年が天正17年(1589)であり、主君の徳川家康が関東に領地替えされた前年にあたるため、入間川村の地を領地として賜わったのは、安元の三男太郞左衞門安勝の時代ではなかったかと推測している。ただし、そうなると豐田隼人の没年である天文元年(1532)に全くあわないので、困った編集者たちは、とりあえず伝わっているところは書いておきましょう、とのスタンスで記載しているのであろう。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 豊田本村』
 白髭社 村内及び新田の鎭守にして、勸請の年歴は傳へざれど、寛永三年の棟札あれば大抵推て知べし、神主山畑豐前は勝呂住吉の武士にて、勝呂雅樂が配下也、


 白髭神社  川越市豊田本一二一二(豊田本字表)
 社伝によると当社の創立は、長禄元年三月二二日とされ、本村の新井帯万が祀ったことによるという。社蔵の棟札八枚のうち「白鬚大明神・武刕入間郡河越」とのみ判読できる棟札(縦五二センチメートル・横一三センチメートル)は、『風土記稿』に載る「寛政三年の棟札」か、あるいは『明細帳』に載る「大永年中頃ノ棟札存在スト雖年暦朽損」のどちらかであると考えられる。
 祀職は『風土記稿』に「神主山畑豊前(中略)勝呂雅楽が配下」とあり、棟札を見ると、寛文七年「神子太郎兵衛」、天和二年「神主三良右門」、元禄一〇年「神主三郎右衛門 遷宮師林蔵院」、享保一二年「社主山畑三郎右衛門 祈主林蔵院榮範法印」、延享四年「祠官山畑左近 導師伊勢守高麗重章」とあり、その変遷がうかがえる。現在、山畑護が奉仕する。
 明治五年に村社となり、同四一年には豊田新田の八坂社、中耕地の稲荷社、表の白山社を本殿に合祀した。八坂社は天明五年仲茂右衛門の勧請と伝え、文化一一年の棟札があり、白山社は貞享元年神主山畑長兵衛と新井織部ら村民が協力して創建したと伝える。
 明治四一年に東の稲荷社を合祀し、更に同四二年に当社の境内にあった菅原社(天保元年勧請)大己責社(文久三年勧請)浅間社(万延元年勧請)阿夫利社(天保六年勧請)琴平社の五社を本殿に合祀した。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿前に掲示されている社の由来等の案内板 
   
社殿左側に祀られている境内社・福壽稲荷神社           社殿右側奥にある祭器庫
        
                    本 殿
 当社の祭りには、昭和30年代まで、川越市中福の神楽や氏子の長男が組織する獅子舞、及び獅子の役者になれない子供達による囃子などが行われていたという。
当地の獅子舞は、狭山市柏原から習ったと伝えられ、主に氏子の長男により演じられたが、後継者の不足から中止され、今は獅子道具を境内に飾りつけるだけとなっている。これにかかわる信仰としては、舞うときに落ちた獅子頭の毛を持ち帰って、神棚に供える風習があった。
        
 社殿と福壽稲荷神社の間には、倒木され空洞化しているのであろう老木の中から新たな若葉が芽吹いている。風雪に耐えながらも生きようとする自然の逞しさを実感するとともに、現代に生きている我々に何か大切なことを教えているようにも感じる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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大袋新田氷川神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市かし野台1-13
            
・ご祭神 素盞鳴命
            
・社 格 不明
            
・例祭等 例祭 4月15日 夏祭り 7月15日 秋祭り 10月15日等
 川越市かし野台地域は、川越市南西部の武蔵野台地の縁に位置する。北で山城、北東で大袋新田、南東で南台、南で狭山市新狭山、西で藤倉と接する。南東境に国道16号が、中央部に入間川街道が通る。北部には赤間川が台地の縁に沿って流れている。
        
                 
大袋新田氷川神社正面
 増形白山神社から500m程南東方向に続く道を進み、十字路を右折する。この十字路の斜向かいには、可愛い看板が設置されている歯科医院があり、そこを目印にすると分かりやすい。その後、道なりに南行し、赤間川を越えた先の入間川街道に達する丁字路の右側角地に大袋新田氷川神社は鎮座している。街中にあり、鎮座地のかし野台一丁目は市街化調整区域となっていて、そのためか、社もすっきり整備され落ち着いた雰囲気がある。
        
    入間川街道沿いに鎮座し、街中にありながらも境内は落ち着いた雰囲気が漂う。
『日本歴史地名大系』大袋新田村の解説
 大袋村の南、赤間川・新河岸川に挟まれた低地および台地上に立地。南東には山城村・藤倉村を隔てて飛地があり、境界は錯綜している。慶長年中(一五九六―一六一五)に小田原北条氏の旧臣横山次右衛門によって開発されたといい、慶長一二年・正保四年(一六四七)・元禄七年(一六九四)に検地が実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三二石余・畑高一七四石余、ほかに野銭永三貫五文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三二七石余、反別田七町八反余・畑三七町五反余、ほかに開発分高五〇石余(反別田一町二反余・畑五町八反余)・武蔵野分高四四石余(反別畑一一町六反余。

 当社の氏子区域は大袋新田のうち小字を原新田と呼ぶ地区で、古い集落は中央部を縦貫する旧入間川街道沿いにある。古くは農家が大部分を占めていたが、昭和30年代からの宅地化に伴い、現在農家は一割ほどでその他は勤め人に変わっているという。
        
                    拝 殿 
 氷川神社  川越市大袋新田(大袋新田字原新田)
 鎮座地大袋新田は、新河岸川流域の低地・台地に位置し、北を大袋と隣接する。大袋の地名は入間川が袋のように流れ込んでいたことに由来し、戦国期にその名が見える。慶長年間、小田原北条氏の浪人横山次右衛門が芝地を開墾して大袋村に属したことが、当地の地名の由来と伝えられる。
 当社は、現大袋新田六四番地に祀っていたものを明治初期に現在地に移転したという。旧社地には現在稲荷神社があり、四軒稲荷と呼ばれ、古くから旧社地に隣接する旧家内田家四軒の氏神とされている。このことから当社の創立に内田家がかかわったことも考えられるが、その史料に欠け推測の域を出ない。『風土記稿』には「氷川社 村民の持」とのみ記す。
 祭神は素盞鳴命である。一間社流造りの本殿には、高さ四〇センチメートルの石塔が納まり、「本宮氷川大明神 天保十一年三月 世話人助右衛門」と刻まれ、併せて竹の根元を材として作った蛇を安置する。
 大正一〇年ごろ、大袋の白髭神社への合祀の働きかけがあったが、氏子の強い要望で行われず、今日に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
        社殿の左側に祀られている境内社や氷川大明神御宝前3基等
 
     境内社 三峰社と稲荷社           
氷川大明神御宝前3基
        
                   境内の一風景
 このあたりは古くから干ばつ被害の頻繁な地といわれ『新編武蔵風土記稿 大袋新田村』にも「陸田多くして水田は少し、用水は増形村より出る清水を引来れど常に旱損あり」と載せ、往時の氏子の生活をうかがわせる。本殿に祀られている「竹で作られた蛇」もこのような自然的背景から生じた「水の神」信仰に基づく奉納品と思われる。
 大正時代までは日照りが続くと雨乞いの神事が行われ、作神と信仰する群馬県の榛名神社までお水をもらいに行き、一同参列の上、宮司による厳粛な祈祷がされ、その後、笹をこの水に浸して、参列者の頭から振りかけて行事は終了となる。この雨乞い神事は、氏子の願いが通じることが多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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