古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

水澤観音を参拝しています。

 水澤観世音はおよそ1300年前、推古天皇・持統天皇の勅願により、高麗の高僧 恵灌僧正によって開基されました。また、五徳山 水澤寺の名称は、推古天皇の御宸筆(ごしんぴつ)の額名によるものです。ご本尊は国司高野辺家成公の三女伊香保姫のご持仏であったと伝わる十一面千手観世音菩薩。霊験あたらたかなること、特に七難即滅七福即生のご利益が顕著です。
 開山当初は、御堂の数三十余宇、御仏の数一千二百体にも及びましが、再三の災火により焼失しました。現在の建物は大永年間に仮堂を建立し、宝暦から天命に至る三十三ヶ年の大改築によって完成致しました。「水沢観音」の名で親しまれ、坂東三十三観音霊場の第十六番札所として多くの人々の信仰を集めています。

        
            
・所在地 群馬県渋川市伊香保町水沢214
            
・主本尊 十一面千手観世音菩薩
            
・札 所 坂東三十三観音霊場 第十六番札所
            
・例祭日 節分祭 2月3日 花祭り 4月8日 除夜の鐘 12月31日
 10月27日(火)伊香保温泉に旅行しまして、その途中水澤観音に立ち寄り、参拝しています。群馬県道15号線前橋伊香保線、通称「水沢街道」を伊香保方面に進み、「水沢うどん」の店が連なる街並みの西側正面に本寺はあります。
 この「水沢うどん」も有名で、諸説ありますが讃岐うどん・稲庭うどんと並んで、日本三大うどんの一つとされていまして、水澤観音の参詣者向けに、上州産小麦と水沢山の湧き水で手打ちうどんをつくって出していたことが起源といいまして、勿論参拝前にそのうどんは頂いています。
        
              天台宗 五徳山無量院水澤寺正面
『日本歴史地名大系』 「水沢村」の解説
 浅間山(水沢山)の東麓に位置し、北境を同山北麓を水源とする黒沢川が、南境を同山南麓船尾(ふなお)滝に源を発する滝沢川がそれぞれ東流する。東は湯上村・有馬村(現渋川市)および当村入会の秣場、南は上野田(かみのだ)村(現吉岡村)ほか一二ヵ村入会秣場、北は伊香保村ほか五ヵ村入会秣場。集落の西に坂東三十三ヵ所一六番札所の水沢観音(寺)があり、同観音の門前町といえる。「万葉集」(巻一四)東歌、相聞の「伊香保ろの八尺の堰塞(やさかのいで)に立つ虹の顕(のじのあらは)ろまでもさ寝をさ寝てば」にみえる八尺の堰塞(井堤)跡を当地の井堤平(いでだいら)辺りに比定する説もある。
        
               
参道の石段の上に建つ仁王門
 仁王門は三間一戸の楼門で、建造は古文書より天明7年(1787)であります。昭和44年(1969)に茅葺から銅板葺に葺替えた入母屋造、屋根の前後中央部に軒唐破風を付けています。軸部は切石に丸柱を立て貫と台輪を廻し、下層中央間は唐破風(火打)型虹梁、中備は蓑束、蛇腹支輪と彫刻板支輪の二手先の持ち送りは特異であります。
 上層は三手先の斗組を中央部は二列並べ、本蟇股、彫刻板支輪で二軒繁垂木です。木鼻は獅子、隅木上に蜃、唐破風棟木受部に歯をむき出した獅子面(力神)の彫刻が見られまして、木鼻と軒支輪は極彩色されています。石段の上に建ち全体が均整のとれた美しい門です。下層天井には狩野探雲筆の龍の絵が
2枚あり、平成6年(1994)に再彩色されていまして、急な階段を上層に上ると釈迦三尊像が安置されています。平成6・7年(1994・5)に仁王尊像、釈迦三尊像、風神雷神像を保存修理し、平成13年(2001)に完成した釈迦堂に移設保存されているとの事です。
 群馬県指定重要文化財       昭和60年5月7日(町)令和5年9月8日(県)
 
      仁王門正面の両側には、風神雷神の像が祀られています。(写真左・右)
       
 仁王門を過ぎて、更に勾配のある石段を登ります。正面には観音堂が見え、寺院字体鬱蒼とした森に囲まれている中、一際立派なご神木が左手に聳え立っています。(写真左・右)
               樹齢700年・樹高38m程で、「観音杉」と呼ばれているようです。
             市指定天然記念物           昭和55年9月   
        
                    観音堂
 本堂となる観音堂は、方形造の瓦型銅板屋根の正面に軒唐破風の向拝が付き、平面は、五間堂が間口5間奥行4間の室内と3間1間の吹放しの拝所となり、その外に四方縁を廻らし、大提灯が掛った1間の向拝が付く形式となっているといいます。建造は古文書より天明7年(1787)であり、内部は須弥壇に宮殿を置きその前は一室となり、脇・後陣は現在回廊になっています。向拝柱は地紋彫を施し、虹梁上に二頭の虎と林和靖の浮彫り彫刻、柱・水引虹梁・海老虹梁に龍二匹の丸彫り彫刻が巻付き、左右の虎と龍は互いに睨み合っているとの事。手挟は雉と栢、雲の籠彫で、拝所部の天井には龍・迦陵頻伽の三枚の天井絵があり、記録では絵師名と思われる墨書が残っているとあるが、現在のものは後補のものであるといいます。欄間には虎渓三笑、馬師皇(古文書に記録あり)、琴高の厚肉透かし彫、流水に花の厚板彫が嵌め込まれています。
 昭和35年(1960)草葺き屋根を銅板葺きに改修し、平成8年(1996)瓦型銅板葺き屋根に再改修していて、平成9年(1997)には欄間絵図の復元彩色を行っています。
 群馬県指定重要文化財       昭和60年5月7日(町)令和5年9月8日(県)
        
               観音堂の右側に建つ
六角二重塔
 六角二重塔は、下層部は六面に向けて、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界の六地蔵尊(青銅製)を棚の上に安置し、芯を軸に回転します。左に三回廻してお参りすることでより良い世界に生まれ変わる御利益があると言われ、別名「開運六角地蔵尊」とも呼ばれていまして、上層部には大日如来が祀られています。柱は円柱で礎盤の上にあり、下層部は二軒扇垂木、彩色軒支輪、出組、獅子の木鼻である。上層部は二軒扇垂木、彩色軒支輪、三手先、獅子の木鼻で、一段目の軒板支輪には十二支の彫刻が見えます。柱間は格子戸と火灯窓、六面に擬宝珠高欄の縁が廻り、屋根には相輪が付いています。「県文化財台帳」によれば、相輪の心柱の墨書に「干時文化一四歳(1817)丁丑六月吉辰」、地蔵尊像には宝永5年(1708)、正徳2年(1712)、正徳5年(1715)と記載されていますが、六角二重塔の建造は古文書より天明7年(1787)とし、仏像は移設、心柱の墨書は修繕による後補のものと推察するそうです。

 群馬県指定重要文化財       昭和48年12月24日 
     
           観音堂南側から石段を80数段登ると  観音堂の正面南側に社務所があり、 
             飯綱大権現が鎮座しています。   並びに
龍王弁財天があります。
        
 県立文書館に保存されている古文書「建立書水澤寺」には、観音堂、地蔵堂、仁王門等の構造規模・彫刻・地形・屋根・備品・石垣等の金額と施主名が詳細にまとめられ、惣金額1607両2朱、銭20貫400文とあり、末尾に「天明七丁未年八月水澤寺貫隆」と記されている。また、宝暦5年(1755)から天明7年(1787)の整備を記した書状もあり、これらの古文書から一連の諸建物が完成し整ったのが天明7年(1787)であり、3棟の建造年代とする。
 観音堂は彫刻に中国故事等を多用し装飾性豊かで豪華な社殿であり、六角二重塔は輪蔵的で珍しい貴重なものであり、仁王門は彫刻と彩色を施した華麗な門である。江戸後期の建物が
3棟まとまり現存することは県内でも貴重な遺構であるといえる。


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-寺院編」
    「日本歴史地名大系」「渋川市HP」「渋川市観光協会HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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内国府間八幡神社

 権現堂堤(ごんげんどうつつみ)は、埼玉県幸手市内国府間にあり、埼玉県内はもとより関東地方でも有数の桜の名所である。今では、中川の堤防上約1 kmにわたって、約1000本の桜並木が続き、権現堂堤の桜は2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出されている。
 ただし、嘗ての権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、その対策として権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の天正4年(1576)のこととされている。江戸時代には、江戸を守る「御府内御囲堤」とも呼ばれるようになり、江戸幕府の手厚い管理のもと、また幸手領の住民も水防活動に力を尽くし守り続けてきた。しかし、自然の猛威には勝てず、権現堂堤はたびたび決壊し、大規模な水害が発生した。例えば、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ていて、「母娘の順礼の悲話…1802年の大洪水で、水神の怒りを鎮めようと人柱になった巡礼の母娘を供養する石碑で、母娘は決壊した堤を前に途方に暮れる村人を見かねて、渦巻く流れに身を投じたと伝わる」もこのときのものとされている。
 明治9年(1876)には明治天皇の行幸があり、行幸堤の名前はここから生まれた。その後も、東京を守る堤として権現堂堤の治水上の重要性は高まるが、利根川改修工事で権現堂川が締め切られることが決定すると、権現堂堤もその役目を終えることになったという。
        
             
・所在地 埼玉県幸手市内国府間640
             
・ご祭神 譽田別命
             
・社 格 旧内国府間村鎮守
 松石香取神社から一旦南下し、「松石」交差点を左折、埼玉県道152号加須幸手線に合流し東行する。南北に縦断する東武日光線を高架橋にて通り過ぎた先の「権現堂桜堤」交差点を右折し、国道4号線を450m程南下した丁字路を右折した先に内国府間八幡神社は鎮座している。国道から社に通じる路地前には「内国府間 八幡神社 参道」と刻まれた社号標柱が建っているが、標柱自体小さく、国道からもやや分かりづらい場所にあるので、そこはナビの力を利用している。
        
                 内国府間八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「内国府間村」の解説
 幸手宿の北、島川右岸に位置し、同川と権現堂川の合流点の沖積地に立地する。小名に内記新田・長戸呂などがある。幸手城主一色宮内大輔の家臣遠藤石見守が天正二年(一五七四)に当地に来住し開発したという。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。田園簿では田一〇八石余・畑二三五石余、ほかに正福寺領一三石がある。
        
 幸手市の北西部に位置する内国府間地域。この「内国府間」という地域名は当初読むことができず、ナビで調べようにも最終的にアルファベット順に調べてしまう始末で、結局のところ最初のア行ですぐに判明した地域であったのだが、それでも地域名はネットで調べて判明した地域名である。「内国府間」=「うちごうま」。これはさすがに分からない。
 筆者としては、地域名の中に「国府」があるので、この地域に重要拠点があったのかとも思い、調べてみたが、どうもそうではないようで、同地域は、中川と権現堂川の合流点に位置し、沖積地に立地しているところから、「埼玉の神社」では、「河間(かわま・ごうま)」、すなわち河に挟まれた地を表す地名であるという。
        
         参道右側に設置されている「
内国府間八幡神社修復記念碑」
 
   参道左側に祀られている天神社の石碑    天神社の奥にある「北町桜會」の山車庫
                       山車庫の近くにある「山車新調記念碑」
「山車新調記念碑」の記念碑文によると、昭和47年7月の夏祭りでの子供神輿の初渡御を機に、年々祭りの雰囲気が盛り上がり、祭りを通して地域住民の親睦を深めることを目的として、子供・若衆・お年寄りの皆が楽しめるために山車を作ることを決め、平成元年から地元の有志が発起人となり、当地域も北町桜會を結成し、同3年に山車が完成し、そして同6年には山車庫を内国府間八幡神社の境内に新築することができたという。
 この山車は現在、幸手市の総鎮守社である幸宮神社の夏祭り(八坂祭り)において、各町内(荒宿・仲町・久喜町・助町・天神町・東町・北町)の山車7台が連なって「花山(全町曳き廻し)」が行われている「北町」の1台であるという。
        
            境内東側隅に置かれている数多くの庚申塔
 当社は、内国府間の八幡様と呼ばれ、氏子をはじめ近在の村々からも親しまれているとともに、庚申塔の多い神社でも知られている。嘗ては、社殿の基壇部に整然と横一列となって六〇基以上の庚申塔が隙間なく並んでいたという。これは、社殿造営時に基壇の土止めとして建立したといわれ、年紀は万延元年(一八六〇)の干支が「庚申」であり、すべて翌年の文久元年と翌々年の文久二年であるという。また、これらに見られる村名は、外国府間・外野・神明内・権現堂・境・元栗橋・嶋中・久喜・大膳新田・川通など広域にわたっている。
 当社基壇部にあった庚申塔は、造営時に土止めとして単に建立したのではなく、何かそこには信仰的な背景もあったのかもしれない。作神・道の神・徐病の神・商売の神・和合の神など様々な御利益が語られる庚申塔を一カ所に建立したことにより、更に、その威力を増やそうとした一般庶民の方々の祈りがあったものと思われる。
        
                    拝 殿
 八幡神社  幸手市内国府間六四〇(内国府間字岸内耕地)
 当社の鎮座地は、中川と権現堂川の合流点に位置し、地名である内国府間の「国府間」とは「河間」、すなわち河に挟まれた地を示すといわれる。このような地であることから、度々水害に見舞われ、現在、桜の名所である権現堂堤には、享和二年(一八〇二)に権現堂川の洪水を鎮めるため人柱になった巡礼親子の供養塔が建てられている。
 村を開発し、当社の運営に古くからかかわったと伝える家は、江戸時代に名主を務めた山田家(現在転出)である。この家は、『風土記稿』によれば、元は遠藤石見と名乗り、幸手城主一色宮内に仕え、天正二年(一五七四)に当地に土着した。更に、元禄のころまでは、野武士と号し、戦場で先祖が人馬を一打ちに切り落とした「馬切丸(うまきりまる)」という太刀を蔵していたという。
 社名は、『風土記稿』に「八幡香取合社」と載り、現在、内陣には騎乗の八幡大明神像と、香取大明神座像を安置している。
 別当は、真言宗医王山成就院で、開山年代は明らかではない。同院は、神仏分離後廃寺となっている。
 合祀は、『明細帳』によると、明治四十年に字本村裏の無格社天神社と同四十二年に字一丁田の無格社神明社の二社について行われた。
 なお、農地改革の前は、当社の周囲に約五反ほどの社有の畑地があり、これを氏子に貸し付けて小作料を徴収していた。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿            本殿に掲げてある扁額には「香取大神 
                          八幡太神」と併記されている。
        
          境内に設置されている「内国府間八幡神社新築記念碑」

「埼玉の神社」では記されていない所では、平成19年4月2日午後零時頃、突然の不審火により全焼したこと。その後、奉賛会、有志他の協力により平成20年11月、歴史的な文化財八幡神社の竣工式を迎えた、とある。おそらく、新築した際に社殿基壇部に並んで敷き詰めていた庚申塔も一カ所に纏めたと思われる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「幸手市HP」「幸手市観光協会HP」
    「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等

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松石香取神社


        
             
・所在地 埼玉県幸手市松石17-1
             
・ご祭神 経津主命
             
・社 格 旧松石村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 2月2日 例祭 7月15日 甘酒祭り 10月19日
 円藤内香取八幡神社から埼玉県道152号加須幸手線を東行し、「松石」交差点を左折、同県道316号阿左間幸手線に合流し北行すると、進行方向左手側に松石香取神社が見えてくる。この二社は直線距離にして300m程しかなく、近距離に位置している。社の南側に隣接して松石集会所があり、そこの駐車スペースをお借りして参拝を行う。
        
              県道沿いに鎮座する
松石香取神社
『日本歴史地名大系』 「松石村」の解説
 高須賀(たかすか)村の西、島川右岸の沖積地に位置する。同川筋は文禄三年(一五九四)に行われたと伝える利根川改修の際、利根川の主流筋になった河道。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。田園簿では田三〇石余・畑一五六石余、幕府領。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が行われた(「風土記稿」など)。同一〇年旗本大久保氏は葛飾郡などで一千二〇〇石を与えられており(寛政重修諸家譜)、そのなかに当村も含まれたと考えられる。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と大久保領。「風土記稿」では旗本都筑二氏と大久保氏の相給。幕末の改革組合取調書では都筑領(一一〇石余)・大久保領(七二石余)。

    鳥居の左側に設置されている「松石ささら獅子舞」の案内板(写真左・右)
 市指定文化財(民俗文化財 無形民俗文化財)
 松石ささら獅子舞
 所在 幸手市松石(香取神社)
 指定 昭和五十八年三月二十四日
 松石ささら獅子舞は、この香取神社を主な舞台として行われる伝統行事です。毎年七月十五日(現在は七月十五日に近い日曜日)に奉納され、天下泰平、家内安全、五穀豊穣、悪疫退散・無病息災などを祈願します。また、第二次世界大戦以前は、雨乞いのため臨時に行うこともありました。
 獅子舞は、行司を先に立て天狗・大獅子・中獅子・雌獅子・ヒョットコ・小万灯・露払いの棒術で構成されています。 演目は、「ハシ」「ボンテン」「ササ」「シラニワ」「シメ」の五種類の舞い方があります。
 お祭りでは、神社でササを舞ってから地区内の日枝神社(権現様)でもササを舞い、各家々を訪ねながら四か所のムラ境で辻固めを行います。獅子の一向が家を訪問するときは、縁側から座敷に上がり玄関から出てきます。
 松石のささら獅子舞の起源は定かではありませんが、獅子頭を修復したときに「享保」「寅」(一七二二年あるいは一七三四年)の文字が確認されています。昭和二十二年(一九四七)のカスリーン台風の大水害後に中断され、同五十二年(一九七七)に松石ささら獅子舞保存会として復活しています。
 松石をはじめ現在の市域は、江戸時代の初めまで下総国に属していたため、下総国の総鎮守である香取神宮の分社である香取神社が祀られています。
 また、この地域は島川(中川)の土手に沿って、大坂の落人が住みついたところと伝えられ、下駄屋、綿屋、醤油屋、かじ屋、箱屋、質屋、という屋号で呼ばれている農家が並んでいます。昔、農業のかたわら、川すじで商売をしていたなごりです。(以下略)
                                       案内板より引用
        
              県道沿いにありながら静かに佇む社
「
松石ささら獅子舞」の案内板にも記されているが、この地域の昔の共同祈願に、雨乞いがあったという。これは、しばしばあった行事で、まず幸手の雷電神社から水を頂いて来て、当社の境内に裾えた半切り桶の水に加えて獅子舞を行った。獅子舞は桶の周囲を回りながら、お互いに水を掛け合うもので、獅子が水で濡れるほど効果があるといわれていた。
        
      参道右側に祀られている境内社。左から松尾大権現・酒水大権現、稲荷社
 というのも、当時、大きな家には近郷から来た若衆と呼ばれる使用人が大勢おり、この大きな家では、村で獅子が出ると、お金を出し使用人を休ませて手伝わせる仕来りがあった。このため、日ごろの仕事に疲れた使用人が村人を騙って獅子道具を寺から無断で持ち出して雨乞いを行ったという。大きな家では、これを防ぐのに躍起になっていたともいう。盆と正月、田植え上がりでもない限り、休日もなかった時代の話であるという。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 松石村』
 香取社 村の鎮守なり、殘光寺持、末社稻荷 〇山王社 村民の持 下同じ、〇稻荷社
 殘光寺 淨土宗普照山と稱す、本尊阿彌陀、地藏堂 鐘樓 享保十八年鑄造の鐘をかぐ、


 香取神社  幸手市松石一七-一(松石字西)
 当地は、島川の土手に沿って開けた豊かな農村である。地名の松石は、昔この所は松がよく育つ石が多い所であったからという。
『風土記稿』に「香取社 村の鎮守なり残光寺持」とあり、残光寺は、天正二年(一五七四)創建との伝えがある。これによれば、当地の開発もこのころと言えよう。しかし、開発を伝える口碑では、天正十八年(一五九〇)の豊臣氏の小田原攻めで落武者が土着したというものと、元和元年(一六一五)に大坂城が落ち、浪人が住み着いたとするものと二つあり、明らかではない。
当社の創建もまた明らかにできない。当地方の香取神社勧請は、下総国に属していた時期に、一の宮を祀ったと伝えている。当地が下総国から武蔵国に変わったのが寛永十年(一六三三)ごろとされ、当社創建もこれ以前と言える。
 内陣に金幣が納めてあり、銘文に「享保五子歳(一七二〇)六月十五日 武州幸手領松石村 奉納専誉休念」とある。また「松石のササラ」と一口に言われるほど有名な、当社獅子舞の頭(かしら)に「享保□寅歳」の墨書がある。更に『風土記稿』残光寺の項に「鐘楼 享保十八年(一七三三)鋳造の鐘を掛ける」とある。これらは、当地が利根川を控えた水害地であり、殊に享保年中大洪水が頻発したことから、洪水後の悪疫除け、犠牲者の供養などどの関係が考えられる。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                社殿後方から本殿を望む。
 社の氏子区域は松石全域で、当地は大坂の落ち武者が農業の傍ら商売をしたと伝え、現在も質屋・醤油屋・笊屋・味噌屋・風呂屋などの屋号を使う家があるという。
        
               境内社に石祠等。詳細は不明。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
 

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円藤内香取八幡神社

 幸手市千塚地域の東側に接している円藤内地域。この「円藤内」は「えんとううち」と読むそうで、なかなか個性的な地域名である。「埼玉苗字辞典」では、この名の由来として『風土記稿葛飾郡内国府間村(幸手市)』の項に「舊家者角右衛門 氏を山田と稱す、もと遠藤氏なり、天正二年當所に来り農民となり、後世々名主を勤む、先祖遠藤石見清吉は隣宿幸手の舊主一色宮内大輔に仕へし由、酒井雅楽頭阿部豊後守等より、主人一色右京への答書を所藏せり(以下略)」とあり、この「遠藤」氏がいつしか「円藤(えんとう)」と読み方が変わったといい、この内国府間村に続いて当地も開発したとの事だ。
        
             
・所在地 埼玉県幸手市円藤内741-1
             
・ご祭神 経津主命 譽田別命
             
・社 格 旧円藤内村鎮守 
             ・例祭等 元旦祭 例祭(春祭り) 4月15日 秋祭り 9月19日
 千塚神社から一旦北側用水路に沿って東行し、「59号分水工」という看板が見える付近の路地を左折して埼玉県道152号加須幸手線に合流する手前の路地を右折するとすぐ正面に宝積院、並びに香取八幡神社が見えてくる。
        
          境内からやや離れた場所に建つ香取八幡神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「円藤内村」の解説
 松石村の北西、島川右岸の沖積地に位置する。南の幸手宿の内に飛地がある。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。田園簿には円遠内村とみえ、田二三石余・畑二〇九石余で、幕府領。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)。同一一年旗本小堀・同牛込・同島田の三氏は葛飾郡など四郡の内でそれぞれ六〇〇石を与えられたが(寛政重修諸家譜)、当村もそのなかに含まれたと考えられ、以後幕末まで三氏の相給(国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)。
        
            一の鳥居から離れた場所に社の神門が建つ。
         このような神門はあまりお目にかけたことはなく珍しい。
        当地の方々はこの門を「かんどり様の門」と呼ぶそうである。
        
            神門の先に木造の二の鳥居が見えてくる。
 
  二の鳥居の左側にある伊勢参宮記念碑        記念碑の並びに建つ庚申塔
        
 一の鳥居の社号額と同様に二の鳥居の額にも「香取大明神 正八幡大神」と表記されている。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 圓藤内村』
 香取八幡合社 村の鎭守なり、寶積院持、 末社稻荷 〇第六天社 村持下同じ 〇荒神社 〇雷電社
 寶積院 新義眞言宗、内國府間村正福寺の末、恵日山延命寺と稱す、本尊大日、 觀音堂

 香取八幡神社  幸手市円藤内七四一-一(円藤内字上)
 鎮座地の円藤内は、遠藤内とも書き『風土記稿』内国府間村の項に「村内名主角右衛門が先祖、遠藤石見清吉といへるもの、幸手宿の城主一色宮内大輔が臣なりしが、天正二年(一五七四)当所に来り開発して農民となれり」とあり、この遠藤氏が内国府間村に引き続いて開発した所であるという。
当社の創建は不詳であるが開発者遠藤氏とかかわるものであろう。別当宝積院(ほうしゃくいん)の本寺も、遠藤氏の本拠地内国府間にある。『風土記稿』は「香取八幡合社 村の鎮守なり、宝積院持、末社稲荷」とあり、宝積院は「新義真言宗、内国府間村正福寺の末、恵日山延命寺と称す、本尊大日」とある。本寺の正福寺は、朱印一三石を有する大寺であり、また学問寺として名高く常法檀所として末寺四九か寺があった。
 社名を、現在は香取八幡神社と称するが、『風土記稿』は「香取八幡合社」と載せ、参道石鳥居の額は、年代不詳であるが、「香取大明神 正八幡大神」とあり変遷をうかがわせる。
 
当社には、珍しい木造瓦葺きの神門がある。これは「かんどり様の門」といわれるところから下総国佐原の香取本社楼門に倣ったものであろうか。往時の氏子たちの心意気を感じさせる。
 二間社の本殿には、向かって右に香取大明神座像、左に騎乗の八幡大明神像及び「活眼薬師秀玄刻」と刻む石製の薬師仏を安置する。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
         本 殿             社殿手前で右側に祀られている天神社
        
                境内から二の鳥居を望む。
 氏子区域は円藤内全域である。幸手駅に近い当地は、昭和三十年代から急速に宅地化が進んだ所で、元来五十戸ほどであったものが現在は一一八戸となっているとの事だ。
 ところで、当社の祭礼に、9月19日に行われる秋祭りは別名「甘酒祭り」と呼ばれている。というのも、社の道路を隔てた西側に元別当である宝積院があるのだが、その寺院の前には社所有の水田が一反歩あり、この田んぼの新米で甘酒を作って祝ったところからきているという。この水田は今でも社有であるが、先の大戦時に青年団に貸したのをきっかけに、以後は氏子請けとしていて貸しているという。当地は早場米地帯で、自分の田んぼに手をつける前に社の田を刈り上げて甘酒を作って祝うところに意義があったらしいのだが、この甘酒造りは先の大戦により中止し、以来絶えていて祭りも祭典のみとなっているという。
        
                 かつての別当・宝積院


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等

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千塚神社


        
             
・所在地 埼玉県幸手市千塚1359
             
・ご祭神 経津主命 武甕槌命
             
・社 格 旧千塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 例祭(夏祭り)7月15日に近い日曜日
 幸手市千塚(ちづか)地域は、中川右岸の沖積平地に位置し、同川の自然堤防とその後背低湿地から形成されている。地図を確認すると、埼玉県道152号加須幸手線と同県道加須幸手線バイパスの中間辺りを「北側用水路」が当地域の南北を分断するように東西方向へ流れている。地域内は主に水田などの農地となっているが、東部や南部に纏まった住宅地も見られる。 
 
千塚地域のやや北側中央部で、「北側用水路」の南側に千塚神社は鎮座している。
        
                    
千塚神社正面
『日本歴史地名大系』 「千塚(ちづか)村」の解説
 
円藤内(えんどううち)村の西、島川右岸の沖積地に位置する。同川の自然堤防とその後背低湿地からなる。西は八甫村(現鷲宮町)、北は島川を挟んで狐塚村(現栗橋町)。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。村内中央にある宝性院(ほうしよういん)池は宝永元年(一七〇四)の洪水で権現堂堤が破壊され生じたという(郡村誌)。田園簿では田三二一石余・畑三三五石余、ほかに野銭永一四四文があり、幕府領。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)。
 
          入り口付近に設置されている社の案内板(写真左)と
         当地で長く受け継がれているささら獅子舞の案内板(同右)
              
           社殿の手前に聳え立つご神木の如きイチョウの大木
     このイチョウの大木の手前には奉納された燈篭が四基並んで置かれている。 
        
                   境内の様子
 参拝日時が10月初旬で、偶々氏子の方々も稲の収穫時期直後という慌ただしさから、清掃・手入れ時期前であったので、雑草等が生い茂っていたのであろうと推測している。できれば次回には、手入れの行き届いた参道や境内を見ながら気持ちよく参拝したいものだ。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 千塚村』
 香取社 村の鎭守なり、寶性院、眞乘院の両寺にて預れり、 〇稻荷社 寶性院持 〇淺間社 真乗院持 〇八幡社 泉藏院持 〇天神社 法藏院持
 寶性院 新義眞言宗東大輪村密藏寺末、高雲山と號す、本尊正觀音、開山順宗寬永十二年八月晦日寂す、
 眞乘院 同宗、國府間村正福寺の末、無量山と號せり、開山秀雅貞享年中化す、本尊阿彌陀、

 千塚神社    住所 幸手市千塚一三五九

『神社明細帳』によると、当社は元々香取神社・鹿島神社合殿と称していましたが、大正三年(一九一四)一月十七日に八幡神社・浅間神社・天神社を合祀して千塚神社に改称したとあります。
 江戸時代の千塚は上耕地と下耕地に分かれていましたが、当社は村の鎮守として、両耕地から信仰されてきました。
 祭神は経津主命・武甕槌命であり、安政五年(一八五八)に再建された二間社流造りの本殿には香取大明神像と鹿島大明神像が納められています。
 祭事は歳旦(元日)祭と、ささら夏祭りが行われます。ささら夏祭りで奉納される獅子舞は市指定無形民俗文化財となっています。
                                         案内板より引用
 
   社殿手前で参道左手にある手水舎      社殿の左側に並んで祀られている石祠群
                       真ん中は「鹿嶋大明神」、他は「稲荷宮」・
                                                     「稲荷大明神」と刻印
        
                    本 殿
 千塚ささら獅子舞
 所在 幸手市千塚(千塚神社)  指定 昭和五十八年三月二十四日
 千塚ささら獅子舞は、この千塚神社を主な舞台として行なわれる伝統行事です。毎年七月十五日(現在は七月十五日に近い日曜日)に舞が奉納され、天下泰平、五穀豊穣、悪疫退散などを祈願します。
 獅子舞の由来について定かな記録はありませんが、道具を収めておくハサンバコという箱の側面には「寛永八年(一六三一)五月吉日」の銘が記されており、これが千塚ささら獅子舞の起源を示す唯一の手掛かりとなっています。
 祭礼では、まず千塚神社で神主が祝詞を奏上し、雄獅子・雌獅子・中獅子の三頭が舞いを奉納します。その後、地区内を 回り、ムラ境で「辻」を舞い、外からの邪気を祓います。戦前までは祭礼に3日間を費やし、舞の曲も現在より多かったようです。オダイジンといわれる家ではその家だけの特定の曲を舞うこともありました。
 戦時中に祭礼は休止されましたが、戦後に復興し、昭和五十一年(一九七六) には千塚ささら獅子舞保存会が発足され、 地域の方の手によって今日まで大切に受け継がれてきました。
案内板より引用
        
                 社殿からの一風景 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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