正一位鎌足稲荷神社
それに対して川越水城公園は、水と緑の空間を創出することを目的として、昭和63年(1988年)に主にプール施設として開設された芝生広場や散策路などが楽しめる緑豊かな県営公園である。園内では、春のサクラ並木や秋の紅葉など、四季折々の自然が楽しめ、さらには、ボート池(4月上旬から11月上旬まで)、テニス場(夏季プール期間を除く)など、年間を通じてさまざまな利用ができる、総合的なレクリエーション施設となっている。
このように、埼玉県川越市にある池辺地域は、入間川右岸沿いにある広大な河川敷を利用した公園がつくられているが、それぞれの公園化に至る目的や用途がさりげなく違うことも興味深いことだ。
・所在地 埼玉県川越市池辺840
・ご祭神 宇迦之御魂大神
・社 格 不明
・例祭等 元朝祭り 1月1日 初午祭り 3月最初の午の日
二の午祭り 次の午の日 星祭り 12月15日
池辺熊野神社から一旦入間川の土手方向に戻り、河川敷に沿って通じる道を北方向に進む。関越自動車道の高架橋付近に達した後、橋下のトンネルを潜った先にある「川越水城公園」を左手に見ながら楕円を描くように道なりに800m程進むと、公園入口手前付近の進行方向右側に正一位鎌足稲荷神社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。
道を隔てて左側が川越水城公園、右側に 看板左側にこじんまりと纏まった社
社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。 の境内が見える。
この池辺地域は「埼玉の神社 池辺熊野神社」において、「当地は入間川右岸に開ける水田地帯で、地名池辺は大きな池の傍らに開かれたことに由来するという。“酒樽いけれ(埋めれ)ば井戸になる”といわれたほどの湿地帯で(中略)近くを流れる入間川は度々決壊し、低地である当地に水害をもたらし、その都度住民は疾病に苦しめられた」との記載があり、『新編武蔵風土記稿 池邊村』にも同様の記述がある。
『新編武蔵風土記稿 池邊村』
往古當所に大なる池ありしに、其傍を開て一村となせし故村名となれりと、其池の形は埋れて今は〇の跡のみ殘れり、村の廣さ東西五町餘、南北も大抵同じ(中略)陸田多く水田少し、用水は增形村より出る清水を引來れども、動もすれば旱損あり、(中略)
堤 入間川の水除なり、增形村より小ヶ谷村に續けり、
梶原淵 廣さ一反、水丈は〇に三四尺、名義は土人の傳あれど取るべきことにも非れば載せず、中に小嶋ありて辨才天の社を安ぜり、按に往古此邊大なる池ありしと云へば、押堀・梶原二の淵は彼池の遺跡ならんと土人いへり、
※ 〇…読解不可の旧字体で引用できず。
川越水城公園との道から一本東側内にある 民家の間の道幅の狭い路地を進みきると
路地に建つ一の鳥居 参道は斜め左方向となり、二の鳥居が建つ。
因みに参道の先正面に見える建物は社務所
参道の先に見える二の鳥居・三の鳥居
四の鳥居の先に見える拝殿
拝 殿
稲荷神社 川越市池辺八四〇(池辺字南重林宝)
当社の鎮座する池辺は、入間川右岸に位置する農業地域で、集落を取り囲む様に水田や桑畑が人勝手いる。池辺の名の起こりは、『風土記稿』によれば、その昔、当所に大きな池があり、その傍らを開いて一村をなしたことによるとある。この話が伝える池は、現在は跡形もないが、当地は低地であるため、かつては池があちこちにあった。しかし、後年、耕地整理のために埋め立てられ、今では押堀など、地名にその名残を留めるにすぎない。
この池辺地区の東北端に当社は鎮座しており、保食命を祀る。詳しい由緒は知られていないが、正しくは正一位鎌足稲荷と呼ぶとされ、松山の箭弓稲荷神社(現東松山市)の分霊で、池辺の開村のころから祀られていると伝えられる。
鎮座地の地名を重林宝という。これは社記によれば、正元年中に天台宗最明寺及び七堂をこの地に建立した鎌倉の臣福山某が、当地に老杉が鬱然としていたところから名付けられたもので、以後当社を重林宝鎌足稲荷と号したと記載されている。
本殿は一間社流造りであり、境内には、社殿のほかに神職の控え所とタイゴジョと呼ばれる建物が建っている。祀職は、もと地内の三明院が別当であったが、神仏分離の後は、豊田本の白鬚神社社家の山畑家が務めている。
「埼玉の神社」より引用
境内に設置されている社の案内板 社殿左側にある神名碑・石祠・奉納碑
拝殿の奥に祀られている石祠群
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本工業経済新聞社HP」「ホットスタッフ川越パークHP」
「小江戸川越ウエブ」「かわごえ環境ネット」「境内案内板」等
