古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

今泉八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市今泉265
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 旧今泉村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春の例祭 41415日 秋の例祭 101415
 羽生市東側に位置する弥勒地域に鎮座する長良神社の南側には埼玉県道60号羽生外野栗橋線が東西に走り、東北受動車道を越えて1.3㎞程西行した進行方向右手に今泉八幡神社は鎮座している。
        
              県道沿いに鎮座する今泉八幡神社
『日本歴史地名大系』 「今泉村」の解説
 上羽生村・町場村から東に連なる洪積世のローム台地が沖積世すれすれまで沈下した埋没台地上に位置する。西隣の喜右衛門(きうえもん)新田村、前原村(古くは二十一人方村)はもとは当村の枝郷であった。当村の名主家である斎藤家の祖先は斎藤民部盛秋と称し、上杉謙信に仕えたが、近世以降土着して長男が当村名主となり、次男喜右衛門が今泉新田を開いたという(風土記稿)。同新田は寛永六年(一六二九)に独立して喜右衛門新田村となり、二十一人方村も化政期までには分れて前原村となったとされる(同書)。
『日本歴史地名大系』 「前原村」の解説
 今泉村の南に連なる。古くは「二十一人方村」と称し今泉村の枝郷であった(風土記稿)。田園簿によると田高一三二石余・畑高一一九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本七家の相給。享保一七年(一七三二)からと考えられるが一部が下野足利藩領となり、宝暦五年(一七五五)の同藩領村々明細帳(安田家文書)には前原村とみえる。同帳によると承応三年(一六五四)幕府領代官による検地があった。宝暦五年の高二二七石余、反別は田方一四町一反余・畑屋敷二一町三反余。

『新編武蔵風土記稿 前原村』
 前原村は正保の鄕帳國圖等に廿壱人方村と出し、元祿の改には今の名に改めて、側に古は廿壱人方村今泉村の枝鄕と記したれば、全く一村となりしは近き年のことヽ見えたり、
        
                   参道の様子
 当社は大字今泉が氏子区域であり、大きく今泉と前原に分かれていて、今泉は前西原・後西原・大口・北新田・外の内・夏見の六耕地に、前原は北前原・南前原の二耕地に分かれている。前原は江戸期の万治年間に今泉村から分村したが、明治八年に再び合併となったため、「分かれ組」と呼ばれている。
 嘗ての今泉村は、戦国時代に上杉謙信の命によって越後より羽生城に派遣されていた家臣の斎藤盛秋が、後北條氏や成田氏の攻撃で守備していた羽生城が陥落したため、この地で帰農し、その後、盛秋の長男である内左衛門が開基となって天正年間に創建された「曹洞宗鷲泉山長光寺」があり、内左衛門は後に今泉村の名主となっている。
 因みに内左衛門の弟は喜右衛門で、この人物は隣村を開発し、当初は「今泉新田」という名であったが、そののち「喜右衛門新田」と改めたという。(詳しくは喜右衛門新田八幡神社を参照)。
 謙信は上杉憲政より関東管領職を譲られたことにより関東地方領有の大義名分を得て、憲政を追い出した後北條氏と激しく戦うようになった。その過程で、上杉軍の一部の将兵は故郷の越後よりも温暖な武蔵の地を気に入り、土着する者もいた。斉藤家もそうした一族であったようだ。
 社の散策の中で、このような地域の歴史を感じることは大変意義深いことだ。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 今泉村』
 八幡社 村民の持 〇熊野社 長光寺持
 長光寺 禅宗曹洞派、藤井村源長寺の末、鷲泉山と號す、慶安二年寺領二十石六斗餘の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、又毘首羯磨の作と云傳る觀音あり、元は別に堂ありしと云、開山德巖正道元和三年八月二十六日寂す、是本山第三世の僧なり、開基は古へ名主を勤し左衞門と云ものにて、寬永十年六月九日死す、此家今は廢せり、前村喜右衞門新田を開きし喜右衞門は、卽ち此弟にて、家の由緖等は前村ニ辨じたれば、合せ見るべし、 藥師堂 定朝が作れる藥師を安ぜり、祕佛とす、白山社 金毘羅秋葉天神を合社とす 鐘樓 正德二年鑄造の鐘をかく、

 八幡神社  羽生市今泉二六五(今泉字大口)
 市の東部の農業地域である今泉に鎮座する当社は、戦国時代、忍領主成田氏長により、当社の南にある曹洞宗鷲泉山長光寺と共に、文禄二年四月に創建されたと伝えられる。
 祭神は誉田別命で神体は金幣を祀っている。また神宝として、今泉と前原の氏子が、金を出し合って作らせたと伝える騎乗八幡神像と同像を画いた御影軸がある。神像の台座には、製作年紀・寄進者などの記載があったというが、最近塗り直した折、記録せずに神像と台座を張り付けてしまったために、これらについては現在知り得ない。このほか寛文九年・宝永二年・元文元年・安永二年・文化六年・天保七年・明治三三年に鳥居が建て替えられたことが、昭和二年の『鳥居新築表』に載る。古くから村の鎮守として祀られている当社は、明治六年に村社になり、更にそれまで八幡社と号していたものを八幡神社と改めた。
 明治期の『神社書上げ』には、伊奈利神社二社と熊野社が合祀されているが、現在これらは当社にはなく各耕地に戻っている。
 また、近年になって北新田の秋葉神社が境内へ合祀され、耕地の祭りも、境内で行うようになっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額        社殿の左側にある「八幡神社新築記念之碑」
 八幡神社新築記念之碑
 当社八幡神社は戦国時代 忍領主成田氏長により文禄二年四月創建されたと伝えられる。祭神は誉田別尊で御神体は金幣を祀っている又神宝として今泉と前原の氏子が金を出し合って作らせたと伝えられる騎乗八幡神像と同像を描いた御影軸がある。大勢の先人氏子の宗敬の念厚く区民の守護神として祀られ幾重なる新改築を重ねながら護持承されて参りました。此の度社殿の老朽化が進み区民氏子の総意と協力を得てこゝに新築整備がなったのであります。(以下略)
       
             社殿左側に祀られている境内社・秋葉社
           その右側に祀られている社は三峰社であろうか。
 秋葉社は、今泉地域の北新田耕地で祀られている社で、近年合祀されたのだが、3月25日の梵天揚げ、11月18日は秋葉様のお祭りが、境内で行われているという。
        
             秋葉社改築記念の碑が設置されている。
 秋葉社改築記念の碑
 秋葉社には火伏せの神が祭られている。御本尊は三尺坊権現で信濃に生まれ、幼少の頃から聡明で七歳にして僧侶となり広く学問を修め後に神通を得、秋葉寺を開創する。
 静岡県の可睡寺に建立されている総本殿の碑によれば、「西暦七二〇年頃、行基菩薩が大登山霊雲院という寺を創立し、その後八〇八年項三尺坊神通力を得てこの寺に出現したので改めて秋葉山秋葉寺と名付けられた」と記されている。御本尊は鎮防火燭火伏せの神仙として尊ばれ各地に祭られている。当秋葉社もその一つである。
 この度、社殿老朽化に伴い北新田地区総意のもとに改築整備がなった。ここに記念として概要を記す。(以下略)
        
            秋葉社の左側奥に並んで祀られている石碑類
 左より青面金剛像 (庚申塔)・庚申塔・三山秩父西国坂東巡礼供養塔(*「埼玉の神社」を参考)・(?)。但し写真には写っていないが、青面金剛像の左並びには道陸神の石碑、右端に地荒神の石碑も祀られている。
       
                             静かに佇む社の一風景
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文」等
 

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筑波山神社を参詣しました。

 筑波山神社を参詣しました。        
 当日朝は雨交じりの天候故に、心配していましたが、1時間程で雨も上がり、3時間程ドライブを楽しんでから、まずは新緑におおわれた筑波山の景観を楽しみました。何といっても平野部に燦然と聳え立つ独立峰的なその荘厳な姿は、富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称され、山そのものが「神域」として崇められているのも頷けます。
        
                                  筑波山全景
 その後、三千年以上の信仰の歴史を持つ霊峰「筑波山」を御神体と仰ぐ古社であり、山腹に鎮座する筑波山神社に参詣しました。
        
                  筑波山神社 参道
        
                  筑波山神社 拝殿
  また、
帰宅途中、筑西市村田地域に鎮座する三所神社にも立ち寄り、参詣しています。
        
                 
筑西市 三所神社正面
        
                  
三所神社 拝殿

逐次ブログにて紹介いたしますので、宜しくお願いします。
  

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山崎浅間神社

 いにしえの歌人である山上憶良は万葉集で「銀(しろがね)も黄金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」と詠んだように、いつの時代も子をいつくしむ気持ちは変わらないものだ。現在のように医学が進歩していかなった昔は乳幼児の死亡率は高く、「七歳までは神の子」「七つ前は神のうち」といわれ、神仏の御加護なくして育たないと言われてきた。七つを迎える帯解きの祝いまでに様々な儀礼を行い、神仏に感謝し、その後の無事な成長を祈ったという。初山の行事も重要な儀式のひとつである。
 初山は初山参り・浅間様などといわれ、生まれて初めて七月一日を迎えた子供が浅間神社にお参りする行事である。浅間神社の多くは、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社を勧請したもので小高い丘の上に祀られている。この丘は富士山を模しているもので富士塚ともいう。昔は自然の塚の頂上に神社を祀っていたが、江戸時代後期になると富士信仰の高揚により、塚を造ることが流行した。赤ちゃんが「初めて山に登る」ことから、その名前が付けられたといわれるこの行事では、その年に生まれた赤ちゃんのおでこに赤い神社印を押して、その健やかな成長を祈るとの事だ。
 子供の額に印を押してもらって御札とうちわをいただく地域の伝統的な行事だが、このほのぼのとした行事は大切に受け継いでもらいたいと真に願う次第だ。
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎744
            
・ご祭神 木花之佐久夜毘売
            
・社 格 不明
            
・例祭等 浅間様(初山行事) 71
 山崎重殿社の北側には、埼玉県東部地域に残された数少ない雑木林が存在し、その場所一帯は「山崎山の雑木林(緑のトラスト保全第5号地)」として、宮代町と埼玉県が購入し、さいたま緑のトラストボランティア第5号地支部(里山守り隊)を中心に、保全活動や自然観察会が行われているという。この雑木林を含めた里山の風景を愛でながら東行すると、進路左手にこんもりとした社叢林が見え、道路沿いには神明系の鳥居が見えてくる。
        
              
山崎浅間神社(赤間浅間神社)正面
 神社というよりこんもりとした古墳か塚のようなこじんまりとした社だ。後日調べたところでは以前、赤松の大木が多数あった事から赤松浅間社と呼ばれ、江戸時代後半に造られたものという。
 
 鳥居の先で参道右側に設置されている案内板     案内板の並びに祀られている二十三夜塔
                           の石碑と小宝仙元宮の石祠
 山崎浅間神社
 浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落(かさはらおとし)を眼下に見る築山の頂上に祭られていまる。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
 祭神は木花之開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
 富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(一八四三)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
 毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
 また、当社の西方には山崎の村社である重殿社があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡である山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいたことが知られている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
           境内に設置されている赤松浅間池生類供養塔
「埼玉の神社」によると、かつて
参道の南側には30坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のような景観であったようだが、昭和57年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。
        
               石階段の右側下にある石碑等
 
 参道を進んだ先には石階段があり、
その先頂上には「浅間大菩薩」の石碑がその代わりとなっている。(写真左・同右)
 浅間神社(あかまつせんげん)  宮代町山崎七四四(百間村字山崎)
 当社が鎮座する山崎は、江戸時代における百間村の南部に相当し、笠原沼落の右岸に位置する農業地域である。その村落の北端に鎮座する当社の境内は、かつては大人でも一人では抱えきれないほどの太い赤松が十数本も生い茂り、参道の脇には三〇坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のようであった。しかし、赤松は神社の賄いに充てるために昭和五十年ごろまでに順次伐採され、池も昭和五十七年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。ちなみに、「赤松浅間」の通称は、この境内の赤松にちなんだものである。
 当社には建物がなく、塚の上に建立された「浅間大菩薩」の石碑が社である。(中略)境内に文化十一年(一八一四)建立の「小御嶽再建同行中」碑があり、当時既に富士講が行われていたと推測される。
 一方、氏子の間では、境内にあった池は、当社で祀られている塚を作るために土を掘った跡であると伝えられている。このことと、『風土記稿』百間村の項に当社についての記述がないことを考え合わせると、当社が現在のような姿を整えたのは、文化年間(一八〇四〜一八)以降のことと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                  塚上からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「「宮代町HP」「さいたま緑のトラスト協会HP
    「埼玉の神社」
境内案内板」等
        

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金原稲荷神社(保食社)


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町金原43
             
・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧百間金谷原組鎮守
             
・例祭等 例祭(稲荷神社の祭礼) 720
 金原稲荷神社(保食社)は、山崎地域に鎮座する重殿社から直線距離にして1㎞程南にあり、真言宗智山派金谷山遍照院のすぐ西側に鎮座している。
 山崎重殿社から一旦東行し、埼玉県道154号蓮田杉戸線に達した十字路を右折する。その後、1.3㎞程進んだ「中」交差点を右折し、300m程先にある丁字路を右折すると左側に社は見えてくる。
        
                
金原稲荷神社(保食社)正面
 当社の祭神は倉稲魂命であるが、社頭に掛かる明治18年の社号額には「保食社」とあり、この保食神が祭神として意識された時期があったことをうかがわせる。もともとは西光院の末寺である宮崎坊の境内社であった。安永4年(1775)に京都の伏見稲荷大社から正一位の位階を与えられたことがわかる文書が残されている。本殿は慶応3年(18675月の再建で、内陣には全高25㎝の白狐に乗った荼枳尼天像が納められている。
        
      鳥居を過ぎて当初はそのまま参道を進むが、途中で直角に右に曲がる。
             その先に社殿がある配置となっている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 百間村』
 一は百間金谷原組新田と云、享保九年の新開とのみ傳へて、検地は詳ならず、
 遍照院 金屋山と號す、天正九年造立せり、開山祐源と云ふ、 地藏堂 宮崎坊 稻荷山と號す、 稻荷社 雷電社

 稲荷社  宮代町金原四三(百間村字金谷原)
 百間村は大落古利根川の右岸に沿って位置する。「風土記稿」によれば、古くは太田庄百間領に属し、村の鎮守であった姫宮神社の応永二十一年(1414)の鰐口には「大田庄南方百間」とあり、足立郡鴻巣宿の農民が来て、切り開いた土地であるという。
 当社は、この百間村の金谷原に鎮座する。金谷原とは鋳物師に関係の深い地名で、この辺りに鍛冶屋がいたことから付いたという。ちなみに当社の南三○○メートルほどの所に鍛冶屋屋敷跡があり、当地では「川口の鋳物師の本家」であるといわれている。
 口碑によれば、江戸初期に金谷原の「七郎名主」と呼ばれた関根家では金山大神を鎮守としていた。村には上の上寺(宮崎坊か)と下に遍照院があった。当時村では上下の対抗意識が強く、名主の関根家は下に居を構えていた。安永年間(一七七二〜八一)以前に、名主が関根家から上の折原家に替わるや、上では金山社を鎮守として祀るのを嫌い、新たに京都の伏見より稲荷を勧請した。そこへ下の金山神社を合祀したという。また、社伝には「安永四年(一七七五)羽倉摂津守が山城国伏見稲荷より五穀豊穣を願い勧請した」とある。「風土記稿」に見える上の寺と思われる宮崎坊は稲荷山と号し、遍照院は金谷山と号し、稲荷社・金山社それぞれの別当であったことが推測される。
                                  「埼玉の神社」より引用
 現在の金原は、「金谷原」を継承する地域名で、上・下・新田の三つの地区に分かれている。明治九年の『郡村誌』には、当地の地味について「色赤野土なり質悪しく稲麦に宜しからず茶甘藷に適し水理便ならず時々水旱に苦しむ」と記され、昭和十年代ごろまで旱魃に見舞われるたびに雨乞いを行っていたといい、その祈願は群馬県板倉町の雷電神社に「お水」をもらって祈願をしたという。
 
     拝殿に掲げてある扁額               拝殿内部
        
                     本 殿
 かつて金原では、ムラの鎮守である稲荷神社の祭りを二月の初午に行い、この時甘酒を造る。この日には、稲荷神社に各家で藁のコモに豆腐を二丁くらい入れて供える。また、事前に当番の家で造っておいた甘酒を稲荷様の境内に置き、参拝者に振る舞った。この甘酒は、稲荷様の田んぼからあがる小作の米の一部を、糀と交換して造るものである。甘酒を造った当時は、当番が一〇軒くらいで、当番の家で造り、神社に運んで神主に拝んでもらった後に振る舞うのであった。男の人たちは、御神酒で宴会を行った。この行事は、第二次世界大戦後もいくらか行ったが、現在は行われていないとの事だ。
        
             境内にある稲荷神社二百年祭記念の石碑
 稲荷神社二百年祭記念
 保食社は安永四年九月本宮正官攝津守によって分社、現在の地に鎮座された氏神樣です。
 約六百坪の境内には杉の大木が茂り百間杉と愛称されておりましたが大東亜戦争の供木になり放置されておりましたが幸い町当局の好意により公園と集会所が完成し社殿補修工事は氏子一同の協力によってなされたものであります。(以下略)
                                      石碑文より引用

        
              境内西側に祀られている境内社四基
       左より金山大神・天満宮・雷電宮・金谷権現神社が祀られている。
 因みに金山大神は、明治41年に字金谷原前から移転したという。この社は鍛冶屋集団が信仰する職業神を祀る社である。金谷または金屋(原)と称する地名は、かつて鍛冶・鋳物師の居住地であったことを示す場合が多い。金原という地域名や、境内社に金谷権現社や金山大神を祭ってあるところから、近隣で製鉄、あるいは金属加工が行われていたらしいことが伺えよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」
    「境内石碑文」等
     
        

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蓮谷稲荷神社

 宮代町百間地域の「百間」は「もんま」と読む。なかなかの難解地名である。この百間の地名については、行基(ぎょうき)菩薩が当地を舟で訪れた際に、上陸した地に地蔵尊を安置し、ここから神外(じんが)の地(聖域)までの距離をはかったところ一〇〇間あったことによる(高野村誌稿)といったような伝承が残っている。また、西光院の西の神外堀までを陣内といい、そこには百軒の家があったので「百間」という名が付いたという。
 さらに、行基が船でこの地を訪れたとする記述が着目される。現在でも百間地域には川島・平島・松の木島といった小名が残っており、周囲が川に囲まれていたことが容易に想像できる。また、百間の字逆井(あざさかさい)も、その語源は「百間記」によれば、若狭国からの船着場があり、その船頭が井戸を掘ったことに由来すると云う。古代には「万葉集」に「埼玉の津」がうたわれていることもあり、百間の地が古来から利根川水上交通の要所であったことがうかがえよう。
 一方、『埼玉県地名誌』では、アイヌ語との関連記述があり、「百間の名は湖沼よりおこるとみられる。マがアイヌ語の湖沼の意であることは柳田国男氏がすでに指摘したところである。(中略)北海道地名の紋別(モンベツ)のモンはアイヌ語の「モ」、静かなの意である(「地名アイヌ語小辞典」)。このように解するとき紋別が静かな川であるのに対して、百間は静かに水をたたえた沼の意となろう。」と載せている。
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町百間1093
            
・ご祭神 宇迦之御魂命
            
・社 格 旧蓮谷村鎮守 旧村社
            
・例祭等 元旦祭 2月初午祭 例祭 722日 お日持 1019
 宮代町役場の南側で、東武動物公園東園門や宮代町立笠原小学校のすぐ北側に鎮座している。当地はかつて蓮谷村として一村であったが、明治22年に百間村大字蓮谷となり、続いて昭和5年の大字の廃止に伴い、字百間に含まれた。この旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形であるという。
        
                 
蓮谷稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「蓮谷(はすや)村」の解説
 百間村の北西、古利根川右岸に沿って位置。南部を姫宮落堀川が流れ、台地と低地が錯綜している。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。田園簿によると田高六八石余・畑高三四石余、旗本水野領。元禄三年(一六九〇)代官八木仁兵衛長信らにより検地が実施された(風土記稿)。
 
 参道左側にある皇太神宮参拝記念碑と力石     参道左側には三基の記念碑等がある。
                          真ん中には「
新築記念」の石碑
                    新築記念
         蓮谷稲荷神社の創建年代は詳かでないが樹齢凡そ五百年の神
         木があった事でも古くから当地の鎮守であったと推定される
         明和三年に神階を授けられたが旧社殿はその頃の建設であろ
         う之は年を経たので朽損しておった たまたま境内の巨松が
         枯損した際に之を資材として改築の議が起り氏子一同が協賛
         して数年間資金を蓄積し労力を奉仕して遂に総工費金五拾萬
         圓を以て瓦葺の神殿拜殿を完成し旧観を一新した之は神徳の
          加護によって平和な郷土を築こうとする努力の結晶である
          工事は総務鈴木清吉吉岡勇吉会計加藤佑輔補佐加藤旭委員
         加藤平次郎加藤豫鈴木相三が担当した 茲に父祖三代に亘り
            て奉仕する宮司服部誠一欣然文を作りて書く

 蓮谷では、毎年米一俵、麦一俵と一〇年間くらい積み立てをして、積み立てをした全員で伊勢講を行ったものである。近年では、昭和二五年や昭和四五年に伊勢講で伊勢参りをしている。こうした伊勢参りをしてくると、記念として蓮谷の鎮守・稲荷神社に常夜灯や敷石、石碑などを奉納するものであった。現在、稲荷神社境内には、嘉永五年四月吉祥日建立の常夜灯があるが、これには「伊勢太々連」と刻まれている。これは、伊勢講による参宮記念の奉納物とみられる。また、昭和五年一二月二六日建立の伊勢太々記念碑もある。これによると、参宮は大正七年二月一五日に行われ、その後昭和三年二月一〇日、稲荷神社に敷石一七枚を奉納したことが刻まれている。
 昭和二五年の伊勢講は、昔ながらの伊勢講で、旅行会社などを頼らずに一〇日~二〇日くらいの旅をした。行き先は伊勢だけでなく、お金の続く限り、旅を続けたもので、関西を皮切りに九州の別府まで行って帰ってきたという。これに対して、昭和四五年の伊勢講は、旅行会社に手配をしてもらったもので、それでも四国を一廻りしてきたという。なお、この昭和四五年の伊勢講の際の「皇太神宮参拝記念」の碑が鎮守の稲荷神社境内にある。
        
                    拝 殿
        
          拝殿に掲げてある社の由緒が記述されている奉納額
 蓮谷稲荷神社  南埼玉郡宮代町百間一〇九二鎮座
 祭神 宇迦之御魂神 (穀物の神)(稲の精霊)
 縁起 
 旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形である。当社の鎮座地は姫宮落川の北の辺りの低地で、現在は東武動物公園の駐車場や民家に囲まれているが、かつてこの地は笠原沼を開拓した水田地帯であった。
当社は「風土記稿」蓮谷村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、村民持」とあり、その創建については二つの説がある。
 一説は口碑によるもので、豊臣家の家臣であった加藤外記(加藤壽一家の祖)が大阪城落城の後、京都の伏見稲荷神社の分霊を自らの守護神として受け、当地まで落ち延び帰農して開拓するに当たり、その守護神を作神として祀ったという。もう一説は「明細帳」によるもので、元禄三年(一六九〇)に伏見稲荷神社の分霊を遷し祀ったという。村の草分けである加藤家の子孫は、江戸時代を通じて村の名主であった。当社は初め加藤家の氏神として江戸の初期に創建されたが、その後、村人から厚く信仰されるようになったため、村の鎮守として祀るために元禄三年に再勧請されたのであろう。
当社は更に明和三年(一七六六)に名主の加藤平右衛門が願主となり、伏見稲荷神社から「正一位稲荷大明神」の神璽を拝受した。当社は明治六年に村社に列した、
 信仰
 祭事は元旦祭、二月の初午祭、七月二十二日の例祭、十月十九日のお日持の年四回である。初午祭は昭和三十年頃までは三月に行われていた。その当時は小学生の子供たちが朝から各戸を回り「油っこください」と言ってお金を集め、灯油の油、お供え、食料を買い、神前に明かりを灯し、「お籠り」と称して拝殿に一晩泊まり込んだ。翌朝は朝早くから大人たちが参拝し、赤飯や五目飯を供え、子どもたちはそれを食べて学校へ行った。現在は火災等の心配から行われていない。
                                      掲示板より引用
 
    社殿の左側奥に祀られている雷電宮      鳥居を過ぎたすぐ右側に
祀られている天満宮
 蓮谷の稲荷神社の境内には、雷電社がある。この雷電社では、特に祭りは行われないが、雷電様の祠を沼の水で洗うと雨が降るという。昔、雨が降らないので、笠原沼の船着き堀に雷電様を落として見つからなくなってしまった。すると雨が降りすぎて困ったという。その後掘上田で土を上げていて、見つかったとのこと。
        
                さ殿から見た境内の様子
        
               社の右手に祀られている庚申様


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料
     HP 宮代町史 通史編」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
  

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