河原井稲荷神社
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町河原井140
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧河原井村氏神(推定)
・例祭等 元旦祭 春の祭礼 4月11日 夏の祭礼 6月29日
灯籠祭り 8月1日 秋の祭礼 10月11日 大祓 12月29日
久喜市菖蒲町河原井地域は、久喜市の南部にあり、菖蒲町台、除堀各地域の南側に位置し、埼玉県北東部を流れる利根川水系の一級河川である星川の自然堤防上に集落は形成されている。因みに『新編武蔵風土記稿 河原井村』では菖蒲領に載っているが、嘗ては騎西領に属する村の一つであったという。
除堀久伊豆神社から埼玉県道78号春日部菖蒲線を東行し、すぐ先の丁字路を右折、そこから500m程南側の道幅の狭い十字路を左折すると、幸福寺の東に隣接して河原井稲荷神社は静かに鎮座している。後日、地図を確認すると、かつて参拝した白岡市・下大崎住吉神社の北側に位置していた。
河原井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「河原井村」の解説
星川の左岸、台村の南に位置する。菖蒲領のうちで、古くは騎西領に属したという(風土記稿)。正保四年(一六四七)川越藩の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高三六石余・畑高一三六石余。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一八五石余、反別は田方四町五反余・畑方一四町八反余、ほかに新開高四五石余、田方一町一反余・畑方三町六反余があった。
境内南西部で丁字路角にある青面金剛 拝殿手前で左側に祀られている山王社
『新編武蔵風土記稿 河原井村』に載る「稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」の一社である山王社は、長く黒沼笠原用水の端に祀られていたが、昭和45年頃、社のそばに水道小屋を作る事になったため、移転を余儀なくされ、以後は当社の境内に移され、末社として祀られるようになったという。
なお、大六天社に関しては、廃社になってしまったものか、今では社があったという話さえ残っていない。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 河原井村』
稻荷社 〇山王社 〇大六天社 以上村民持、
光福寺 曹洞宗、白岡村興禪寺末、天得山と號す、開山は本寺三世の僧存舜元龜二年三月寂す、本尊地藏を安ぜり、
稲荷神社 菖蒲町河原井一四〇(河原井字川棚)
河原井は、地元では「かわはらい」と呼ばれ、古くは騎西領に属する村の一つであった。その地名は、河原居の意であると解され、星川の自然堤防上に形成された集落であろうと考えられている。『風土記稿』河原井村の項に「稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」と載るように、河原井の村内には古くから稲荷・山王・大六天の三社が祀られていたが、その中でも当社は、村のほぼ中心にあり、村の氏神として信仰されてきた社である。
当社は、恐らくは村の開発と相前後して祀られたものと推測されるが、勧請された時期は定かではない。しかし、当社の西に隣接する曹洞宗天得山幸福寺(『風土記稿』には「光福寺」と記載)の開山の僧である存舜が元亀二年(一五七一)に寂していることや、旧家の関根家は四〇〇年以上続いているといわれていることから、村の開発や当社の勧請は、室町時代の末期ごろのことではないかと考えられる。なお、鳥居に掛かる「正一位稲荷大明神」と刻まれた石額には、文政九丙戌(一八二六)十一月吉祥日」の銘があり、恐らくこのころに、改めて伏見稲荷より分霊を勧請したものと思われる。
当社の境内には、かつたは鬱蒼と松が生い茂り、昼間でも薄暗いような所であったという。しかし、今では境内に河原井集会所もでき、明るく見通しのよい雰囲気に整備され、往時の面影は薄れてしまった。
「埼玉の神社」より引用
河原井地域に住む五六戸程の人々が、当社の氏子である。当社のご祭神は倉稲魂命で、本殿には明治28年に納められた勾玉がご神体として安置されている。
河原井地域は大きく川棚(かわたな)と武井(ぶい)の二組に分かれていて、武井は星川の後背湿地であるために田んぼが多いのだが、川棚は土嚢が砂質のために特産物である梨や柚子などの野菜や桑などを栽培している農家も多いという。
社の道を隔てた西側隣にある曹洞宗・幸福寺
子安観世音菩薩
河原井村女講中による奉納
この幸福寺の角にある地蔵は、かつては霊験あらたかな子安地蔵として有名で、近在の諸地域では女人講が結成される程であったという。現在はこうした講こそなくなったが、安産・子育てや子授けを願って多くの参詣者があるという。
毎年7月23日の縁日には「寺の灯籠」と称して神社の当番が祭りを行ってきたが、平成4年からは、寺の行事として寺総代と相談役が祭りを行っているとの事だ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
