狐塚氷川鹿島大神宮
・所在地 埼玉県久喜市狐塚217
・ご祭神 素盞鳴尊 武甕槌命
・社 格 旧狐塚村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭礼 4月15日 秋祭礼 10月15日
国道125号線から「佐間」交差点を直進し、埼玉県道316号阿佐間幸手線を南東方向に3.6㎞程進むと、県道沿いに狐塚氷川鹿島大神宮が見えてくる。鳥居から社殿に至る参道の両側は、樹木もなく、開放感のあるのどかな場所に社は鎮座している。
狐塚氷川鹿島大神宮正面
『日本歴史地名大系』 「狐塚村」の解説
中里村の南西に位置し、東を島川が流れる。川沿いに堤防(島中囲堤)がある。元亨四年(一三二四)二月八日の下河辺荘公事注文案(金沢文庫文書)に「キツ子ツカ」の地名がみえ、称名寺(現神奈川県横浜市金沢区)領であったことがわかる。田園簿に村名がみえ、田高一八石余・畑高一七九石余で、幕府領。元禄郷帳では高一六五石余。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも幕府領。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
社の入口付近で参道右側に設置されている案内板 参道右側周辺にある高秀寺の墓地
参道途中に建つ鳥居(写真左)。
鳥居の社号額には「氷川大明神・鹿島大神宮」と刻まれている(同右)。
当地には幾つもの沼がある。これは、利根川の氾濫により生じたものであり、水損地帯であることを物語っている。
当社の神威を語る話も、水害にかかわるものが多い。明治四十三年、他社に合併することになり、幣束を持ち出したところ大水が出たので中止した。また、昭和二十二年の大洪水の折には、中川の昭和橋付近で逆流した水によって神社周辺が最も水勢の激しい所となったが、神様のお力で社は流されなかったという。
このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
参道を進み境内に入ると左側に「狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑」があり(写真左)、右側には御嶽山座王大権現・八海山大頭羅神王・三笠山刀利天宮と刻まれた石碑、その右側手前には山口数馬霊神と刻まれた石碑がある(同右)。
狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑
一、名 称 氷川神社 鹿嶋大神宮
一、所在地 栗橋町大字狐塚四番二一七番地
一、所有者 埼玉県神社庁
一、祭 神 素盞鳴尊 武甕槌命
一、創立沿革 往古より之あり、元禄十丁丑年除税地と相
成り、及々大破したので天保十四年中、氏
子力を協せて再建せり。明治六年村社と許
可。同四十三年三月二十五日、同村同字四
番無格社御嶽神社を合併す。大正五年九月
十四日、本殿改造許可。同年十一月十五日
工事落成
昭和二十二年九月 洪流により鳥居流失(中略)
一、行事祭礼 四月十五日、十月十五日
春秋二回の祭礼を行なう。
部落三班に分れ輪番制で祭礼を行なう。
一、地 勢 字のほぼ中央を南北に貫く県道幸手杓子木
線の東側に位置し、南は中川堤塘北方には
内池が清澄な水を湛えているが、西方は水
田が開けている。社殿の後方に杉は鎮守の
森を形成していたが近年公害により枯死し
現在は数本を残すだけとなって居る。
以上が昭和六十四年迄の元神社の概況であり、
町の資料による。(以下略) 記念碑文より引用
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡狐塚村』
島川 村の東を流る、川幅十二間、川に傍て堤あり、又此川に渡船場あり、水原のことは嶋川村の條に辨す。
鹿島社 村の鎭守なり、泉福寺持、
泉福寺 新義眞言宗、内國府間村正福寺末、月光山藥王院と云、本尊藥師を置、
氷川神社 栗橋町狐塚五八二(狐塚字五番)
当地の地名狐塚は、古いころ田の神として狐を祀った塚があったからと伝える。地内には、高秀寺と当社の別当であった泉福寺の二寺があり、『風土記稿』高秀寺の項に、「鐘楼 延宝三年(一六七五)鋳造の鐘を懸く」とあり、また、泉福寺は「鐘楼 延宝九年の鐘を懸く」とある。現在、両寺とも鐘は見られないが、当社の隣にある清澄な水を湛える内池には、お寺の鐘が沈んでいるとの話が伝わっている。これにより、当地の開発年代は不明ながらも、延宝のころには鐘を懸ける寺が二か所もある村であったことが知られる。
『明細帳』に「往古ヨリ是アリ、元禄十年(一六九七)ノ検地二除税ノ旨ガアル、社殿ハ天保十四年(一八四二)再建」とある。
『風土記稿』には、氷川神社の記載はなく鹿島社として載る。これには口碑によると、昔当地が下総国に属していたころは、一の宮香取神社を祀り、次に常陸国から当地へ入植があり、その国の神である鹿島神社が祀られ、江戸期に入って武蔵国へ編入されるに及んで武蔵の氷川神社を勧請したものであるという。そのため、氏子は社名を鹿島社とも氷川社とも呼ぶ。なお、社号額は「鹿嶋大明神・日川大明神」と二神を併記し、二間社の本殿に二社の金幣が祀られている。
『明細帳』に「明治四十三年三月二十五日、同村同字四番無格社御嶽神社ヲ合併ス」とあり、現在拝殿内に祀られている。
「埼玉の神社」より引用
拝殿の足元に置かれている嘗ての社号額
社の東側にある「狐塚ヘルシーパーク」
地域名「狐塚」からきているのであろうか。何気に狐の銅像があったりする。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板・記念碑文」等
