古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高柳新田八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市高柳204-1
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 元旦祭 祭礼 4月15日 お日待 10月15日
 島川八幡神社から北東に伸びた道を道なりに進み、「稲荷木落排水路(とうかきおとしはいすいろ)」に架かる八幡橋を越えた民家が点在する集落西端部に高柳新田八幡神社は鎮座している。境内には高柳新田会館あり、駐車スペースは確保されている。
 因みに稲荷木落排水路は、埼玉県加須市と久喜市を流れる河川・排水路であり、稲荷木堀(とうかきぼり)とも称され、高柳地域のほぼ中央部を流下している。久喜市松永(左岸側:東側)周辺では古堤と呼ばれていて、嘗ての利根川の旧流路のひとつ浅間川の堤防が残っている。この堤防は自然堤防に盛土をして建設されたと云われており、堤防上は鎌倉古道であったと伝わっている。
        
              塚上に鎮座する
高柳新田八幡神社
『日本歴史地名大系』 「高柳新田」の解説
 旧葛飾郡に所属していた高柳村は佐間村の南西にあり、村の北西を古利根川、南を島川が流れ、島川沿いに堤敷一一間の島中囲堤がある。日光御廻(おまわり)道が通る。中世初期から開発が進み、高柳郷が成立していた。高柳新田は高柳村の枝村であったのだが、この両地域との位置関係はつまびらかではなく、「風土記稿」によれば、「四方ノ地形犬牙シテ分チカタシ」とし、元和六年(一六二〇)の開発により高柳村より分村したという。田園簿に村名がみえ、田高三七石余・畑高一〇〇石余で、幕府領。領主の変遷は高柳村と同様。元禄郷帳・天保郷帳では高一五〇石余であるが、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などには記載がなく、幕末頃までに高柳村に含めて把握されることが多くなったものと思われる。
 
      石段左側に建つ石碑          石段の右側に祀られている石祠
   「境内献納記念碑」であろうか。            天満宮
        
              
塚上に鎮座する高柳新田八幡神社
 八幡神社  栗橋町高柳一〇三(高柳字弥八)
 高柳村の枝村である高柳新田は、元和六年(一六二〇)に新井弥八によって開発されたと伝えられる。当社は、この高柳新田の一集落である新田耕地の鎮守として創建され、社殿は水害を避けるために高さ二㍍の盛り土の上に建てられている。
 境内献納記念碑によると、当社は天明八年(一七八八)に大林寺の境内に勧請されたことに始まる。これを裏付ける資料としては、同年の棟札が現存し、その墨書に「奉請八幡大菩薩右左眷属諸神将 宮殿造営寄附新田惣村中 天明八年申仲春吉旦 招賢山大林寺世話人新井弥市 斎藤平右衛門 田嶋浅右衛門 山野江治右衛門(以下略)」とある。天明年間といえば、ようやく新田の経済力が充実してきた時期であり、この造営には、独立した鎮守を持ちたいという村人の願いが込められていたことであろう。更に、慶応三年(一八六七)には、騎乗の八幡大明神像が本殿に納められた。
 明治初年に大林寺が廃寺となると、その境内は私有地となり、当社も社地を失う結果となった。その後、氏子は社地の返還を願い果たせずにいたところ、日露戦争に際して当地出身者に一人の負傷者も出なかったことから、氏子一同は神の加護に感謝し、これを機に浄財を投じ、私有地となっていた社地一畝一〇歩を買い戻して、多年の念願を果たした。
                                   「埼玉の神社」より引用
 高柳新田八幡神社の祭神は誉田別命となっているが、『明細帳』によると、氏子の間では、八幡太郎義家とも伝えられている。これは、慶応3年に騎乗の八幡大明神像が本殿に納められたことによるもので、先の大戦でもその終結までは、武運長久の神として信仰が厚かったという。
        
                        塚下右側に安置されている地蔵・十九夜塔
        
                 社殿から集落を眺める

 高柳新田は、旧高柳村の一部が開発されて成立したものであり、当社が鎮座する字の名前にもなっている新井弥八によって開発されたと当時は、家数も少なく、耕地面積もそれほどではなかったろう。その後、開発が進むにつれ、家数も多くなり、推測するに江戸時代中期には村としての形が整ってきたと思われる。天明8年に大林寺の境内に八幡大菩薩が勧請され、新田惣村中の寄附により、社殿の造営が行われたことも、村としての意識が確立した表れではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等

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島川八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市島川21-24
              
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧島川村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春の日待 4月15日 秋の日待 10月15日
 八甫鷲宮神社の末社・諏訪神社のすぐ北側で東西に流れる北側用水を西行し、すぐ先の十字路を右折、その後中川に架かる「島川橋」を過ぎた最初の十字路を左折する。中川左岸の長閑な田畑風景を眺めながら農道を道なりに西行すると、進行方向右手に島川八幡神社の鳥居並びに境内が見えてくる。
        
              農道沿いに鎮座する
島川八幡神社
『日本歴史地名大系』 「島川村」の解説
 高柳村の東に位置し、村の南を島川が流れ、川沿いに堤防(島中囲堤)がある。元禄年中改定図(風土記稿)などにみえるように、島川は当村で古利根川より分れていたため島川の名がある。田園簿に村名がみえ、田高四四石余・畑高一一九石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本松平領。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。「風土記稿」によると家数二三。もとは八甫村(現鷲宮町)との間に橋が架けられていたが、「風土記稿」成立当時には渡船が行われており、「郡村誌」によれば島川渡と称し、渡船は三艘で私渡しであったという。
        
 地域の南端を流れる中川は、通称「島川」といい、昔はもっと川幅があり、川の中には大きな島があった。島には家が四、五軒あったが、河川改修によって島が削り取られることになった時、島の住民は川岸の土手の傍らに移る代わりに、島川という名を川に付け、川の中に島があったことを後世に伝えることを代官に約束してもらった。それが島川の名の起こりであり、島にいた人が移ったことから、この地も島川と呼ばれるようになったといわれている。
『新編武蔵風土記稿 島川村』にはこの川に関して「島川 村の南を流る、川幅前に同じ、水元は埼玉郡羽生領の惡水落なり、元祿改定の圖によれば、古利根川の枝流にて當村より分れしかば、島川の名は起りけるが、其後いつの頃か、當領高柳村より對岸埼玉郡北大桑村へ堤を築き、門樋といふものを設て、惡水を落せり、(中略)又この下流古は高須賀村、外國府間村等をへ、權現堂村に至りて利根川に入しが、享保十二年今の如く堀替ありて、高須賀村内より直に權現堂に達し、利根川に合す、元祿改の圖に〇ば當村と八甫村の邊に橋を架せり、今は爰に渡船場ありて往來を便せり」と載せている。
       
                    拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿 島川村』
 八幡社 村の鎭守なり、照明院持、
 照明院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺末、西方山阿彌陀寺と號す、本尊阿彌陀を置、


 八幡神社  栗橋町島川一〇三(島川字寺地)
 鎌倉時代の開発と伝えられる島川の集落は、中川左岸の自然堤防に沿って、東西に細長く形成されている。当社は、この島川の集落の西端に境内を持ち、氏子の家々を見守るように、東を向いて鎮座する。
『明細帳』には、「往古ヨリ当村鎮守二勧請シ之アリ元禄十丑年(一六九七)検地其以前ヨリ除税地トナリ、年月日不詳社殿再建其後大破二及ヒ天保十三年(一八四二)四月中氏子尽力シテ猶再ヒ建立、明治六年五月十六日村社トナル」と当社の由緒が記されている。この文中に見える天保十三年の再建については、境内の石灯籠の銘文にその経緯が記されており、それによると、当社の境内は低地で、しばしば水害を被っていたので、この年に村人が力を合わせて盛り土を築き、その上に社殿を建立したとのことである。現在の社殿はこの時に建てられたもので、万延元年と昭和の初めの二回、修理が施されている。
 明治維新を迎え、神仏分離が行われるまで、当社は地内の真言宗照明院の管理下にあった。境内にある阿弥陀堂はその当時の名残で、仏像が照明院に移されて、堂宇だけになった今では、春秋の祭典の後の直会の会場として利用されている。
 祭神は誉田別命で、流造りの本殿の内陣には、手に弓を持った八幡大明神像(像高三八㌢㍍)が納められている。また、末社としては、稲荷社と福寿弁才天社の二社がある。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
  社殿の左側に祀られている境内社・稲荷神社      稲荷神社内の本殿写真
 
社殿右手奥に祀られている福寿稲荷神社の石祠    社殿右手にある伊勢参宮記念碑三基
     
                境内に聳え立つご神木の如き巨木(写真左・同右)
       
                 社殿から境内の一風景
「八幡様は願えばいろいろなことを叶えてくれる」といわれ、病気平癒をはじめ、様々な祈願が寄せられる。願いが叶うと「奉納 八幡宮」と書いた紅白の布や額などが納められるのが例で、当社の拝殿にはこうした奉納物が所狭しとばかりに並んでいるとのことだ。
        
              社の南側で東西に流れている中川



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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八甫神明社・八甫稲荷社

【八甫神明社】
        
             
・所在地 埼玉県久喜市八甫2734
             
・ご祭神 天照皇太神
             
・社 格 不明
             
・例祭等 春祭り 2月15日 ササラ 7月24日 秋祭り 10月15日
 大輪神社から埼玉県道152号加須幸手線を西行し、同県道3号さいたま栗橋線と交わる「八甫」交差点を右折、暫く県道3号線を北上すると、県道沿いで左手に八甫神明社の鳥居と幟旗ポールが見えてくる。
        
               県道沿いに鎮座する八甫神明社
 当社は、江戸初期の新田開発に伴い開削された北側用水の水源に祀られ、灌漑用水の守護神として信仰されてきたという。
 また、今でこそ社の境内の立木は少なくなっているものの、かつたは杉や松が建ち並ぶこんもりとした社であったという。当時は、境内の
立木を毎年一本ずつ伐採し、氏子が自家用の薪としてもらい受ける慣例があった。このことは、当社が鎮守として意識されていたと共に、氏子の共有財産とも見なされていたことを伺わせるのだが、同時にこの伐採が社の社叢林を失う結果を招いたことも否めない事実であろう。
        
                  塚上に鎮座する社殿
『新編武蔵風土記稿 八甫村』
 神明社 光厳寺持、
 光厳寺 禪宗曹洞派、埼玉郡鷲宮村靈樹寺末、瑠璃山藥王院と稱す、本尊釋迦を安ぜり、開山鯤山良鯨慶安五年二月十七日寂す、藥師堂 白山社 鐘樓 延寶元年鑄慥の鐘をかぐ、


 神明社  鷲宮町八甫二七三四(八甫字圦前)
 当社は、鷲宮町の東北に位置する八甫の西端に鎮座している。
創建については、『明細帳』に「当社ハ伊勢神宮ノ別霊(わけみたま)二シテ万治二年(一六五九)ノ創立、幸手領北側用水路疏通ノ工竣(おわ)り、依テ用水守護神トシテ水源二鎮座スト古老ノ口碑二存セリ」と載せている。
 これに見える「水源」とは、かつて神社の南及び西側に広がっていた神明池のことと思われる。神明池は、その南西の宝泉寺池と共に湧水の池であったが、昭和二十二年のキャスリン台風による大水で消滅し、代わって拡大した宝泉寺池の水を北側用水に引くようになった。
『風土記稿』には「神明社、光厳寺持」とあり、江戸期には曹洞宗光厳寺の管理を受けていたことがわかる。
 現在、当社の覆屋となっている社殿は、元来字屋敷浦に鎮まっていた諏訪社のものであった。大正三年に、諏訪社が字宮前の八甫の鎮守である村社鷲宮社に合祀された折に譲り受けたものである。
 また、昭和二十年ごろまでは、五反ほどの社有の水田があった。しかし、太平洋戦争後の農地改革によりその大部分を失い、現在は神社の南側にわずかに残るばかりである。
 昭和四十年代になると、幹線道路の波が当地にも押し寄せ、国道四号が開通した。これにより、当社の境内と参道が分離され、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 上記「埼玉の神社」の紹介されている宝泉寺池は、八甫神明社のすぐ南西に位置する洪水洗掘の池で、かつての利根川流路の一部にあたり、江戸時代の1704年(宝永元年)7月の関東洪水によって形成されたという。宝永元年は、六月から降り続いた大雨で利根川およびその派川が満水状態となり、山地から鉄砲水も加わり各所で堤防の決壊を来たしていた。
 島川通り八甫村でも、「宝永元年申年七月朔日、洪水にて宝泉寺脇百間余、あわま耕地兵右衛門堤にて百二十間、新田にて五十間余切れ所にまかりなり、田畑ともに池になり」(八甫村記録)などとあり、江戸時代初期の〆切である宝泉寺(廃寺)脇の堤が約180㍍にわたって決壊した。その後は天明六年(一七八六)の大洪水もあって宝泉寺池は南北に216m、東西119mの区域を水面としていた。
 現在、広さは南北に200m、東西100m程であり、埋め立てなどにより湖面はかつてより狭くなった。現在、宝泉寺池は釣り場として親しまれているとのことだ。
 ただし、宝泉寺池に立ち寄れず、写真に納められなかったことは残念。
        
                    拝殿覆屋
 内陣には「奉勧請天照皇太神宮 文政十二己丑年(一八二九)六月二十五日」と記した神牌(しんぱい)が納められている。これは、古くから六十年目ごとに伊勢のお祓いが降ると伝えられ、翌文政十三年がこの年に当たることから、特別の御利益を説いた御師(おんし)の働きを感じさせるものがあるとのことだ。
 また、当社の年二回の祭りのほかに、七月二十四日にはササラがある。これは、鷲宮社の獅子舞が当社にも奉納されるもので、悪魔除け行事といわれている。昔は、村回りの際には、氏子の郭戸を巡って「悪魔祓い」を行っていたが、現在は村境にボンゼンと呼ばれる御幣を立てて舞う「辻摺り」と、八甫内の各社前で舞う「宮摺り」だけである。当社においては、参道入口で奉納されるという。

【八甫稲荷社】
        
              ・所在地 埼玉県久喜市八甫3-64。
              ・ご祭神 稲荷神(推定)
              ・社格・例祭等 不明
 八甫神明社から埼玉県道152号加須幸手線を2㎞程東行、東北新幹線の高架橋の手前にある「八甫三丁目」交差点の左側にこの社は鎮座している。偶々通りかかった際にナビにヒットした社で、一期一会の出会いに感謝し、参拝を実施。但し周囲に適当な駐車スペースもなく、路駐にて急ぎ参拝を行っている。
        
                
八甫稲荷神社(?)正面 
 ナビには「稲荷社」と表記されてはいたが、現地で一見すると、鳥居もなく、寺院的な外観。
       『新編武蔵風土記稿 
八甫村』に載っている観音寺であろうか。
        
         正面の建物の北側に祀られているこちらが稲荷神社の石祠
            石祠には「稲荷大明神」と刻印されている。
      この石祠の脇には庚申塔や青面金剛像等がズラッと並んで祀られている。
           但し、この社に関しての詳細は全く分からず不明。
        
                高架橋側にある地蔵尊三基
       真ん中の
地蔵尊の基壇部には「甲子待供養塔」と刻印されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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八甫鷲宮社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市八甫4—651
            ・ご祭神 大己貴命 天穂日命 天夷鳥命
            
・社 格 旧八甫村鎮守 旧村社
            ・例祭等 元旦祭 例祭 4月15日 鷲宮催馬楽神楽 7月24日
                 お日待 10月15日
 大輪神社の鎮座する埼玉県道152号加須幸手線「産業団地(北)」交差点を東方向に300m程進んだ先にある路地を左折すると、進行方向正面に八甫鷲宮社の鳥居が見えてくる。
 この鷲宮社が鎮座する地域名は「八甫」と書き、「はっぽう」と読む。この地域名については、当地の周りに西大輪など八ヶ村があったことから「八方」の意味とする説や、中川が利根川の本流だったころ、この辺りは八艘の船が帆を揚げて通れる大河であったことから「八帆」の意味だとする説、船運が盛んだったころ、当地近辺に八つの浦があったことから「八浦」の意だと「する説などが伝わっているという。
        
                八甫鷲宮社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「八甫村」の解説
 東大輪村の北にあり、西は鷲ノ宮村、村の北を流れる島川(現中川)の対岸は新井村(現栗橋町)。地名は八浦とも書かれ、八つの浦があったとも、帆影が八つ見えたことからとも、八ヵ村に囲まれた地から八方と称したともいう。布施美作守景尊に宛てた天正九年(一五八一)から一五年の間と推定される六月三日の北条氏照書状写(武州文書)に「八甫」とみえ、八甫から上流に上る商船三〇艘は咎立てをする必要はないが早く戻ること、また八甫は氏照の当知行なので他の船をむやみに通さず、今後はだれの船かを確認してから通すことなどを申渡しており、関宿(現千葉県関宿町)・古河などと同じく氏照の支配下にあった河岸場であったことが知られる。当地から延慶二年(一三〇九)、元亨四年(一三二四)銘など多くの板碑が発見されている。
 田園簿に八浦村とみえ、田高一九七石余・畑高七〇三石余(ただし田畑の合計高は村高と一致しない)、ほか野銭永一二三文とあり幕府領。元禄八年(一六九五)の反別寄(文久元年「八甫村諸記録写」霊樹寺文書)によれば、石盛は上田一一・中田九・下田七・下々田五、上畑・屋敷一〇で、ほかは同じく二ツ下り、総反別一一二町余・高八五六石余で、ほかに野銭場一四ヵ所の反当り永一〇〇文、雑木林銭場五九ヵ所の反当り永二五文、草銭場一ヵ所の永一五文となっている。
        
 当社は長禄年間(1457年 - 1460年)に創建された。その後、1695年(元禄8年)に白石与右衛門によって再勧請されている。与右衛門在世中の八甫村には、当時1000石の年貢が課されていた。その年貢の負担で村内が疲弊していたことから、与右衛門は村を代表して鷲宮神社に年貢軽減の祈願をしたところ、翌年から900石に年貢が軽減された。与右衛門はこれに感謝して、鷲宮神社より分霊を勧請して社殿を建てたと伝えられる。
  1874年(明治7年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
 
  境内に向かう途中で参道左側に設置されている「
八甫の獅子舞」の案内板(写真左・右)
「久喜市HP」
 鷲宮1丁目の鷲宮神社では年に6回、国指定重要無形民俗文化財の「鷲宮催馬楽神楽」が行われますが、八甫(はっぽう)の鷲宮神社でも年に1回、4月15日の祭日にあわせて鷲宮催馬楽神楽が行われます。今回は、八甫の鷲宮神社でのみ行われる特徴的な神楽の演目についてご紹介します。
 鷲宮催馬楽神楽は全12座の演目で構成されますが、そのほかにも番外の演目が伝承されていて、そのうちの一つ「天津国津狐之舞(あまつくにつきつねのまい)」が八甫の鷲宮神社でのみ行われる演目です。この演目は、狐(天狐(てんこ)・地狐(ちこ))の2人とひょっとこの面をつけた山の神の1人で舞い、狐たちが農夫に種まきを教える様子を表現しています。
 この「狐」の舞はその後、江戸の里神楽から逆輸入されたものだと考えられています。そのため、本社で演じられることはなく、ほかの演目とは調子の異なる陽気な囃子(はやし)が演奏され、舞人(まいにん)がおどけた狐に扮(ふん)して横っ飛びを行ったり、その様子を山の神が胡坐(あぐら)をかいて眺めたりと、ほかの演目では見られない特徴的な所作(しょさ)の舞が演じられます。また、舞人たちが見物人に餅などを配り、その年の災厄を祓(はら)うならわしも、この「狐」の舞の時だけに行われます。
 八甫の鷲宮神社では、天保(てんぽう)14年(1843)以降、神楽を行うようになったとされ、天保年間(1830から1843)の記録に12
座の演目の番外として「天津国津狐之舞」が挙げられていることから、江戸時代後期には八甫で「狐」の舞が行われていたことが推察されます。
        
    「八甫の獅子舞」のみならず「鷲宮社の史歴と行事」の看板も設置されている。
        
                            神楽殿
 案内板や久喜市HPに説明されているように、当社では4月15日の例祭で、土師一流催馬楽神楽が奉納されている。この例祭は、氏子の間では「だいだい」と呼ばれていて、「太々」の意味であり、当日奉奏される太々神楽にちなんだ通称である。太々神楽を見るのは、氏子の楽しみの一つであり、古くは近隣の村々からも花見がてらに多数の見物人が訪れ、広い境内がいっぱいになったという。
 また、7月下旬には鷲宮町指定無形民族文化財であるささら獅子舞も奉納されるのだが、八甫の淡中宮(あわなかみや)・上・中・下の四耕地に古くから伝わるもので、江戸期に舘林で行われた寄せザサラ(競演会)で優勝し、領主から褒美として弓を拝領したという実績を持ったとの事だ。 
             
                 拝殿前に聳え立つ老木。ご神木の類であろうか。            
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 八甫村』
 鷲宮社 村の鎭守なり、金剛院持、下三社同じ、末社稻荷 天神 〇稻荷社二 〇諏訪社
 金剛院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺の末、不動山金剛寺・号す、開山金剛房秀憲慶安五年十月八日化す、本尊彌陀 不動堂 觀音堂


 鷲宮社  鷲宮町八甫六五一(八甫字宮前)
『明細帳』は、当社の由緒について、「創立ハ長禄年度(一四五七-六〇)埼玉郡鷲宮村鷲宮神社ノ別ケ霊ヲ鎮祭、其後元禄八年(一六九五)本村白石与右衛門発願ニテ社殿建立、尚明治九年本村渡辺七左衛門義意智氏子協心同力ニテ今ノ社殿拝殿共建立セリ」と記している。このうち、長禄年間の鎮祭についての言い伝えは残っていないが、白石与右衛門については、氏子の間に次のような話が伝わる。
 その昔、開拓が進んで八甫の村が今くらいの大きさになったころ、千石の年貢が課せられていた。村人は年貢が高すぎて納めきれずに苦しんでいたが、ある年、白石与右衛門が願主となって鷲宮村の鷲宮神社に年貢の軽減を祈願し、成就の暁には鷲宮様を八甫の鎮守として勧請することを約束した。すると、次の年から年貢が九〇〇石余に減った。そこで、八甫では神様との約束どおり、鷲宮様の分霊をお迎えし、鎮守として奉斎するようになった。
 なお、当社の本殿内には、この時お迎えしたと伝えられる分霊(神璽)があるが、その箱書きには「天保十年(一八三九)九月十九日」とあり、『明細帳』の記述とは一致しない。近世における別当は金剛院(真言宗)であった。
 祭神は大己貴命・天穂日命・天夷鳥命の三柱で、明治七年に村社となり、今日に至っている。                                                                        
「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
 神楽殿の並びに祀られている天神宮等の石祠      本殿奥に祀られている石祠
      天神宮以外は不明          「埼玉の神社」によると浅間宮らしい。
        
             境内北側隅に祀られている諏訪大明神
        
                  八甫鷲宮社遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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大輪神社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市東大輪1713
            
・ご祭神 八幡宮 鷲大明神
            
・社 格 旧東・西大輪村鎮守 旧村社
            
・例祭等 お祭り 9月15日 秋祭り 10月15日
 埼玉県道3号さいたま栗橋線沿いに鎮座している西大輪神社(雷電社)から更に県道を1.6㎞程北上し、「八甫」交差点を右折する。その後、同県道152号加須幸手線を東行し「産業団地(北)」交差点の右側斜向かい角地に大輪神社の社叢林が見えてくる。
        
                  
大輪神社正面
 社号標柱には「
武蔵国櫻田鎮座 大輪神社」と刻印。また鳥居の手前には「右 嶋川舟戸屋 左 さって道」と刻まれている道祖神が建つ。写真にはないが、社号標柱の右側には伊勢参宮記念碑もある。
 社号標柱に刻印されている「櫻田」はかつて存在していた村名「桜田村(さくらだむら)」からきていて、埼玉県東部、北葛飾郡に存在した村であり、1889年(明治22年)4月1日、八甫村・西大輪村・東大輪村・外野村・上川崎村・中川崎村・下川崎村が合併し、北葛飾郡八輪野崎村(やわのざきむら)が成立し、同年、村名を改称し、桜田村となる。
 その後、1955年(昭和30年)1月1日 - 桜田村のうち八甫・西大輪・東大輪・外野・上川崎が南埼玉郡鷲宮(わしのみや)町と合併(新設合併)し、北葛飾郡鷲宮(わしみや)町となる。同日、桜田村のうち中川崎・下川崎が幸手町に編入されたという。
 因みに現在「桜田」は大字として存在していて、その地域は東大輪とやや南方向に接し、東鷲宮駅の東側に南北に広がる一地域となっている。
        
                    県道沿いに鎮座しているとは思えない位静かな境内
                  左側に見える建物は東大輪自治会館兼社務所
『日本歴史地名大系』 「東大輪村」の解説
 上川崎村の北方、西大輪村の北東にある。西大輪村とはもと一村であった。当地から永仁元年(一二九三)、建武二年(一三三五)銘などの板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、田高三八〇石余・畑高四三〇石余、幕府領、ほかに密蔵寺領高一〇石がある。元禄郷帳では高八九五石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本本多・松平二家の相給のほか密蔵寺領。「風土記稿」によると家数六九。日光道中幸手さつて宿の助郷であり、慶応二年(一八六六)当時は勤高七三四石で同宿の定助郷役を勤めている(「御用留帳」田口家文書)。
        
                木製両部鳥居の二の鳥居
          当社の二の鳥居の社号額には「正一位八幡宮・正一位鷲大明神」と書かれ、
  更に社殿が二間社であることなどからみて、古くから八幡・鷲の合殿であったと思われる。
        
            二の鳥居を過ぎた先にある一対の灯篭が2基
         手前の一対の灯籠は天和3年(1683)3月奉納のもので、
          後ろ側にある灯籠一対は、西大輪村講中による奉納。
 
  灯籠の先で参道左側にある伊勢参宮記念碑       二の鳥居の手前で参道右手にある
                      月山大神・羽黒大神・湯殿山大神 参拝記念碑
        
                    拝 殿
     拝殿の手前で参道の突き当たりの中央部に立派な御神燈が設置されている。

『新編武蔵風土記稿 東大輪村』
 八幡社 村の鎭守なり、密藏寺持、末社稻荷 愛宕
 密藏寺 新義眞言宗、山城國醍醐無量壽院末、東光山五大院と號す、本尊不動を安ず、慶安元年寺領十石の御朱印を賜はれり、 天神社 藥師堂 鐘樓 元祿八年の鑄造の鐘をかゝぐ。

 大輪神社  鷲宮町東大輪一七三一(東大輪字下口)
 当地は、古くは大輪村と称し一村であったが、寛永十八年(一六四一)の利根川改修に伴い、東大輪村と西大輪村に分かれた所である。
『風土記稿』によると、東大輪村の神社は「八幡社 村の鎮守なり、密蔵院持、末社稲荷 愛宕」とあり、西大輪村の神社は「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持、末社大六天 天神 雷電 稲荷」とある。
 東大輪村の八幡社は、貞享二年(一六八五)の『寺社書上帳』に、「東大輪村 八幡社、寛永四年(一六二七)の検地迄は御見捨地に御座候」とあるが、実際は天和三年(一六八三)奉納の石灯籠に「八幡宮・鷲宮大明神」と対で刻まれ。また鳥居の社号額にも「正一位八幡宮・正一位鷲大明神」とある。更に社殿が二間社であることなどからみて、古くから八幡・鷲の合殿であったと思われる。
 一方、西大輪村の鷲明神社は、元禄八年(一六九五)の『検地帳』によると、社地八畝歩が除地として記されている。
『明細帳』は、東大輪の八幡社由緒を「年代不詳ト雖モ山城国石清水八幡宮ヲ勧請スト古老ノ口碑二存セリ」とあり、西大輪の鷲神社の由緒は「年歴不詳ト雖モ大和国三輪明神ヲ勧請スト古老ノ口碑二存セリ」とある。
 明治四十二年、東大輪の八幡社に西大輪の鷲神社を合祀し、大輪神社と改称した。ただし、鷲神社社殿はお仮屋として旧地に残された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
『久喜市HP』によると、当社では、毎年10月15日の秋祭りの前に、稲藁で大蛇2匹を作り、鳥居に飾り付ける神事が行われる。現在、この藁蛇は東大輪上(かみ)と下(しも)の合同で作られるが、かつては東大輪と西大輪で1匹ずつ担当していたという。
 この藁蛇の製作を東大輪と西大輪の双方で請け負ってきたのは、両地区が江戸時代の初めまで大輪村という一村落で、後に分村したことに由来すると考えられる。大輪神社の祭神は、東大輪村の鎮守(ちんじゅ)である八幡宮(はちまんぐう)と西大輪村の鎮守である鷲大明神(わしだいみょうじん)を合祀(ごうし)したもので、このため東・西の大輪村の氏子(うじこ)は協力して秋祭りを行ってきた。
 実際、平成8年ごろまで、西大輪でも藁蛇を作り、かつては13日の晩に作った蛇を、その晩のうちに大輪神社の鳥居に飾り付けていて、一方、東大輪では14日の朝に蛇を作り、昼までに飾り付けを行っていた。その際、藁蛇を、西大輪は鳥居の西の柱に、東大輪は東の柱に飾り付けたという。また、西大輪の当番は14日から18日までの祭り期間中、大輪神社の留守番をしたということだ。
 大輪神社の秋祭りは、現在もその年の実りを感謝するとともに、無病息災(むびょうそくさい)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って毎年行われている。藁蛇はその象徴として地域の人々に親しまれてきた。近年、都市化の進展に伴い藁蛇を飾り付ける祭りは珍しくなり、本市でも現存しているのは、この大輪神社の藁蛇1例だけであり、貴重な祭りの一つといえよう。
            本殿の右側奥に聳え立つご神木(写真左・右)。
             ご神木の根元には稲荷大神が祀られている。
       
          社殿右側に祀られている境内社・灯籠・青面金剛像
           左から稲荷神社・灯籠(御神楽講中による奉納) 
         青面金剛像(庚申供養講中 元禄15年12月)・秋葉神社
       
                社殿から見た参道の風景 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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