古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

豊田本白髭神社

 川越市豊田本(とよだほん)地域は、市中央部の入間川右岸側の沖積平野に位置する平坦な地である。地内は網の目のように多数の河道跡があり、ほぼ全域が扇状地や氾濫平野の中の微高地で、水田などの農地が多い農業地域となっている。その農地は耕地整理(圃場整備)されておらず、区画が不整形で境界(畔)が入り組んでいて、集落は南北に縦貫する市道の大田街道に沿ってやや広い帯状に分布している。地域の南辺の低地を赤間川が流れ、他にいくつもの小河川も流れているという。
        
            
・所在地 埼玉県川越市豊田本1212
            
・ご祭神 白鬚大明神(猿田彦大神)
            
・社 格 旧豊田本村・豊田新田鎮守 旧村社
            
・例祭等 記元祭 2月11日 春祈祷 4月15日 天王様 7月14日
                 
秋日待 10月15日 新嘗祭 11月23日
 大袋新田氷川神社から入間川街道を北東方向に進み、関越自動車道に達する手前の十字路を左折する。通称「太田街道」と呼ばれる市道を1.4㎞程北上した先の十字路を右折したその進行方向左側に豊田本白髭神社の正面鳥居が見えてくる。
 正面鳥居の周辺には適当な駐車スペースはないようで、境内社殿の東側には「豊田本公民館」が隣接して建っており、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                 
豊田本白髭神社正面
『日本歴史地名大系』 「豊田本村」の解説
 野田村・脇田村の南西、入間川と新河岸川の間の台地および低地に立地。豊田村・豊田本郷とも記す。村名は天文元年(一五三二)没の地内曹洞宗善長寺の開基豊田隼人に由来という(風土記稿)。当村から北方小室村にかけては古代条里の遺構が残る。小田原衆所領役帳に御家門方の北条長綱(幻庵)御新造の所領として「六十貫九百六十四文 河越卅三郷豊田」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。

 正面鳥居の右側に一際目立つ富士塚(写真左)。こちらは石段もあり正面で、浅間社の石祠が祀られている。そして境内から見上げる富士塚(同右)。残念ながら草に覆われ、塚の所々に見える石碑の詳細が分かりづらい。「埼玉の神社」によると、「富士講記念碑」のほか、「阿夫利神社」「磐長姫神社」「金刀比羅神社」などがあるという。
       
         草に覆われた富士塚に比べてきちんと整えられてある境内
 当社の氏子区域は豊田本で、地域名の「豊田」の由来は、戦国時代の武将である小笠原安元の家臣、豊田隼人が開発したことによるという。この豊田隼人は、地域内にある曹洞宗善長寺の開基で、天文元年(1532)没したという。

『新編武蔵風土記稿 豊田本村』
善長寺 曹洞宗龍ヶ谷龍穩寺の末、豐田山と號す、開山は本寺七世節庵良筠、天文十三年十月廿八日示寂、開基は豐田隼人、法名善長天文元年八月廿一日死すと、されど此人は元三州に住し、小笠原攝津守安元に屬し、御入國の時安元郡內入閒川村の地を賜はりし故、家臣隼人移てこゝに居れり、しかるに此人の家より失火し、村內及び奧富村も此災に罹りしかば、隼人こゝに居ること能ずして、當所に來りこの村を開發せし故、村名となれりなどいへど、小笠原氏の譜を案に攝津守安元は天正十七年十一月晦日三州に於て卒せしと云へば、安元の男太郞左衞門安勝御入國の後、入閒川村を賜りしなるべし、然れば天文元年に死せる豐田氏の入閒川村に住せしと云は、其謂れ疑ふべきに似たれど、姑く傳るまゝを記せり、本尊正觀音を客殿に安ず、正德二年の銘をえりたる鐘を客殿の軒にかけたり、稻荷社 白山社

『風土記稿』によると、豐田隼人は元三河国に住み、小笠原攝津守安元の家臣であったという。安元の没年が天正17年(1589)であり、主君の徳川家康が関東に領地替えされた前年にあたるため、入間川村の地を領地として賜わったのは、安元の三男太郞左衞門安勝の時代ではなかったかと推測している。ただし、そうなると豐田隼人の没年である天文元年(1532)に全くあわないので、困った編集者たちは、とりあえず伝わっているところは書いておきましょう、とのスタンスで記載しているのであろう。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 豊田本村』
 白髭社 村内及び新田の鎭守にして、勸請の年歴は傳へざれど、寛永三年の棟札あれば大抵推て知べし、神主山畑豐前は勝呂住吉の武士にて、勝呂雅樂が配下也、


 白髭神社  川越市豊田本一二一二(豊田本字表)
 社伝によると当社の創立は、長禄元年三月二二日とされ、本村の新井帯万が祀ったことによるという。社蔵の棟札八枚のうち「白鬚大明神・武刕入間郡河越」とのみ判読できる棟札(縦五二センチメートル・横一三センチメートル)は、『風土記稿』に載る「寛政三年の棟札」か、あるいは『明細帳』に載る「大永年中頃ノ棟札存在スト雖年暦朽損」のどちらかであると考えられる。
 祀職は『風土記稿』に「神主山畑豊前(中略)勝呂雅楽が配下」とあり、棟札を見ると、寛文七年「神子太郎兵衛」、天和二年「神主三良右門」、元禄一〇年「神主三郎右衛門 遷宮師林蔵院」、享保一二年「社主山畑三郎右衛門 祈主林蔵院榮範法印」、延享四年「祠官山畑左近 導師伊勢守高麗重章」とあり、その変遷がうかがえる。現在、山畑護が奉仕する。
 明治五年に村社となり、同四一年には豊田新田の八坂社、中耕地の稲荷社、表の白山社を本殿に合祀した。八坂社は天明五年仲茂右衛門の勧請と伝え、文化一一年の棟札があり、白山社は貞享元年神主山畑長兵衛と新井織部ら村民が協力して創建したと伝える。
 明治四一年に東の稲荷社を合祀し、更に同四二年に当社の境内にあった菅原社(天保元年勧請)大己責社(文久三年勧請)浅間社(万延元年勧請)阿夫利社(天保六年勧請)琴平社の五社を本殿に合祀した。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿前に掲示されている社の由来等の案内板 
   
社殿左側に祀られている境内社・福壽稲荷神社           社殿右側奥にある祭器庫
        
                    本 殿
 当社の祭りには、昭和30年代まで、川越市中福の神楽や氏子の長男が組織する獅子舞、及び獅子の役者になれない子供達による囃子などが行われていたという。
当地の獅子舞は、狭山市柏原から習ったと伝えられ、主に氏子の長男により演じられたが、後継者の不足から中止され、今は獅子道具を境内に飾りつけるだけとなっている。これにかかわる信仰としては、舞うときに落ちた獅子頭の毛を持ち帰って、神棚に供える風習があった。
        
 社殿と福壽稲荷神社の間には、倒木され空洞化しているのであろう老木の中から新たな若葉が芽吹いている。風雪に耐えながらも生きようとする自然の逞しさを実感するとともに、現代に生きている我々に何か大切なことを教えているようにも感じる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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大袋新田氷川神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市かし野台1-13
            
・ご祭神 素盞鳴命
            
・社 格 不明
            
・例祭等 例祭 4月15日 夏祭り 7月15日 秋祭り 10月15日等
 川越市かし野台地域は、川越市南西部の武蔵野台地の縁に位置する。北で山城、北東で大袋新田、南東で南台、南で狭山市新狭山、西で藤倉と接する。南東境に国道16号が、中央部に入間川街道が通る。北部には赤間川が台地の縁に沿って流れている。
        
                 
大袋新田氷川神社正面
 増形白山神社から500m程南東方向に続く道を進み、十字路を右折する。この十字路の斜向かいには、可愛い看板が設置されている歯科医院があり、そこを目印にすると分かりやすい。その後、道なりに南行し、赤間川を越えた先の入間川街道に達する丁字路の右側角地に大袋新田氷川神社は鎮座している。街中にあり、鎮座地のかし野台一丁目は市街化調整区域となっていて、そのためか、社もすっきり整備され落ち着いた雰囲気がある。
        
    入間川街道沿いに鎮座し、街中にありながらも境内は落ち着いた雰囲気が漂う。
『日本歴史地名大系』大袋新田村の解説
 大袋村の南、赤間川・新河岸川に挟まれた低地および台地上に立地。南東には山城村・藤倉村を隔てて飛地があり、境界は錯綜している。慶長年中(一五九六―一六一五)に小田原北条氏の旧臣横山次右衛門によって開発されたといい、慶長一二年・正保四年(一六四七)・元禄七年(一六九四)に検地が実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三二石余・畑高一七四石余、ほかに野銭永三貫五文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三二七石余、反別田七町八反余・畑三七町五反余、ほかに開発分高五〇石余(反別田一町二反余・畑五町八反余)・武蔵野分高四四石余(反別畑一一町六反余。

 当社の氏子区域は大袋新田のうち小字を原新田と呼ぶ地区で、古い集落は中央部を縦貫する旧入間川街道沿いにある。古くは農家が大部分を占めていたが、昭和30年代からの宅地化に伴い、現在農家は一割ほどでその他は勤め人に変わっているという。
        
                    拝 殿 
 氷川神社  川越市大袋新田(大袋新田字原新田)
 鎮座地大袋新田は、新河岸川流域の低地・台地に位置し、北を大袋と隣接する。大袋の地名は入間川が袋のように流れ込んでいたことに由来し、戦国期にその名が見える。慶長年間、小田原北条氏の浪人横山次右衛門が芝地を開墾して大袋村に属したことが、当地の地名の由来と伝えられる。
 当社は、現大袋新田六四番地に祀っていたものを明治初期に現在地に移転したという。旧社地には現在稲荷神社があり、四軒稲荷と呼ばれ、古くから旧社地に隣接する旧家内田家四軒の氏神とされている。このことから当社の創立に内田家がかかわったことも考えられるが、その史料に欠け推測の域を出ない。『風土記稿』には「氷川社 村民の持」とのみ記す。
 祭神は素盞鳴命である。一間社流造りの本殿には、高さ四〇センチメートルの石塔が納まり、「本宮氷川大明神 天保十一年三月 世話人助右衛門」と刻まれ、併せて竹の根元を材として作った蛇を安置する。
 大正一〇年ごろ、大袋の白髭神社への合祀の働きかけがあったが、氏子の強い要望で行われず、今日に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
        社殿の左側に祀られている境内社や氷川大明神御宝前3基等
 
     境内社 三峰社と稲荷社           
氷川大明神御宝前3基
        
                   境内の一風景
 このあたりは古くから干ばつ被害の頻繁な地といわれ『新編武蔵風土記稿 大袋新田村』にも「陸田多くして水田は少し、用水は増形村より出る清水を引来れど常に旱損あり」と載せ、往時の氏子の生活をうかがわせる。本殿に祀られている「竹で作られた蛇」もこのような自然的背景から生じた「水の神」信仰に基づく奉納品と思われる。
 大正時代までは日照りが続くと雨乞いの神事が行われ、作神と信仰する群馬県の榛名神社までお水をもらいに行き、一同参列の上、宮司による厳粛な祈祷がされ、その後、笹をこの水に浸して、参列者の頭から振りかけて行事は終了となる。この雨乞い神事は、氏子の願いが通じることが多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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増形白山神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市増形228
            
・ご祭神 菊理姫命 伊弉諾尊 伊弉冉尊
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 2月17日 春祈祷 4月20日 天王祭 7月14日
                 
秋日待 10月17日 勤労感謝祭 11月23日 等
 入間川沿いに広がる埼玉県川越市西部の増形地域。この増形という地名由来として、この地の形が「枡(ます)」の形(四角)をしているので、その地名となったと伝えている。古い地名であり、『風土記稿』には天正15年7月北条家印判状に「増形村」と載せているとある。
              
 この地域は田畑が半々であり、入間川の近くは水田、台地の上では畑作である。昔はこの畑がほとんど桑原の時があり、養蚕が盛んであった。蚕が上がるたびに、上がり饅頭を各戸で作り、眉を数個、糸で連ねて神社拝殿に下げて報賽の印にしたという。
 氏子数は増形地域全幾で、近年の宅地化により戸数は急増し、更に2022年、川越市と県による「川越増形地区産業団地」が完成し、昔ながらの長閑な農村風景も変わりつつある。
 増形白山神社はこの増形地域のほぼ東側の台地上に鎮座する社である。
        
                  
増形白山神社正面
『日本歴史地名大系』 「増形村」の解説
 中川を隔てて藤倉村の北西、入間川右岸の低地および台地上に立地。南は下奥富村(現狭山市)。永正元年(一五〇四)八月山内上杉顕定が対立していた扇谷上杉朝良の拠る河越を攻撃するため上戸に出陣したため、北条早雲は扇谷上杉氏加勢のため出陣し、九月二〇日から二二日にかけて「益形」に着陣している(宗長手記)。天正一五年(一五八七)七月晦日北条氏直は豊臣秀吉の侵攻に備えて「増形小代官百姓中」に壮者一人を選び八月二〇日までに注進すること、弓・鑓・鉄砲のうちいずれかの武具を八月晦日までに整えることなどを命じている(「北条家定書写」武州文書)。
        
              綺麗に整理されている社の周辺一帯
 この地域に鎮座する白山神社は、地元の方々から「白山様」と呼ばれ親しまれながらも厚く崇高されている社である。この白山様は女性の夏季様なので荒い事が嫌いだといわれ、このため祭典時に芝居やお神楽は喜ばれるが、相撲は行われない。
 また、天王様が合祀してあるが、神輿を担いだり暴れたりする祭りは古くからしてはいけないという。更に昔、近隣の村で現上尾市平方の八枝神社のお獅子様が当地を通過する際に、白山様が怒るというので遠回りしてもらったという。氏子から白山様は村人のあらゆる願い事を聞いて下さるありがたい神様であると尊ばれている。
 
            入り口付近に聳え立つご神木(写真左・右)
  イチョウやケヤキ等の木々に囲まれた327坪余りの境内は、氏子の潤いの場となっている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 増形村』
 白山社 明暦三年五月勧請、本地十一面観音、修験成就院持、

 白山神社  川越市増形二二八(増形字道山)

 増形の村の中央、台地上に鎮座する当社は、菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祭神とし、 加賀国一の宮白山比咩神社から分霊したと伝える。
『明細帳』によると、明暦三年五月、覚尊という僧が字葛茂川(現在、場所不詳)から現在地に遷宮したと金幣に記してあったという。
『風土記稿』に「明暦三年五月勧請、本地十一面観音、修験成就院持」と載せる。
 成就院は増形山本妙(明)寺と号し、当社の別当であった。社蔵の享保一七年、天保四年の拝殿再建の棟札には「増慶山宗圓」「別当増形山廣徳院」と記すが、成就院の事と思われる。明治の初めに覚尊から一〇代目の彰純は復飾して姓を関山と名乗り神職となる。現宮司教純はこの裔に当たる。
 明治五年に村社となり、同四一年に字一本榎の八坂神社、字泥辺の厳島神社を合祀した。このうち八坂神社は天王様と称して疫病除けの神といわれ、合祀後、社殿は当社境内に移し、末社愛宕稲荷疱瘡社の社殿とした。また、厳島神社は弁天様と呼び、池の傍らにあって女性の神様といわれ、合祀後、社殿は明治四三年の大水で流されてしまったという。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額         拝殿前に設置されている社の掲示板 
       
           境内に設置されている「白山神社拝殿改築記念碑」
                白山神社拝殿改築記念碑
             当社は石川県石川郡鶴来町鎮座の白山比咩
                       神社の分祀であると伝えられる。創立年月は
                       不詳であるが、明暦三年当社の別当、増形山
                       本明寺祐純法印が、旧字、葛茂川より現在地
                       に移転するという。明治五年村社に列し、明
                       治四十一年増形字一本榎八坂神社、同、字泥
                       辺厳島神社の二社を合祀する。明治四十二年
                       神撰幣帛料供進神社に指定される。昭和二十
                            八年六月五日、宗教法人となる。
                       旧拝殿は天保四年の改築で、大正七年草葺
                       屋根を瓦葺とする。老朽化が進み、拝殿の改
                       築が、昭和六十二年一月十八日、氏子の総意
                       により決起される。改築委員会が結成され、
                       氏子のみならず崇敬者各位からも、多額のご
                       芳志が寄せられる。改築委員を中心に総力を
                       あげて、この大事業に取り組み、三年有余の
                           歳月を費して、ついに完成される。
                        はからずも、御大典奉祀の時、氏子崇敬者
                       各位の功績を永く久しく伝えるものである。
                                     (以下略)

        
                    本 殿
 当社の祭りの中で、4月・7月・10月の祭日には、中福地域から神楽師(根岸家・市指定無形文化財)が来て夕方から神楽から奏し、境内に露店が出て賑わう。神楽は三番(そう)から始まり数曲を行う。昔はこれが唯一の娯楽で、大八車に神楽道具を積んで神楽師が来るのが楽しみだったという。
「川越市HP」市指定文化財 中福の神楽
 種   別 市指定文化財:無形民俗
 指定年月日 昭和50年6月9日
 入間・北足立・多摩地方には、東京都府中市の大国魂神社の宮司が始めたと伝えられる相模流神楽が伝承されている。
 中福の神楽はこの相模流に属し、根岸家が代々元締をつとめている。
 曲目は一曲一座形式で、「墨江三柱大神」「三穂崎魚釣」「八岐太蛇」「神田種蒔」「猿田大神」などがあるが、始めに「三番」と称して墨江三柱大神の舞を奉納し、猿田大神の舞で終わるのが通例である。
 神楽は神社の祭りなどに招かれると、出方と称して親戚や近在の人を頼んで一座を組む。
 現在は地元の中福稲荷神社の春祈祷(4月19日)を始め、増形白山神社の祭礼などで頼まれると神楽を奉納している。
 なお、明治末から昭和初期に根岸勝広、馨氏が彫った神楽面が残されており、市の有形民俗文化財に指定されている。

        
         境内に祀られている境内社・愛宕社、その右側には御嶽社。
  境内の御嶽神社は作神といわれ、農業守護の神であるという。特に祭りは行っていない
        ようだが、当地の御嶽講が本社から受けた神札を祀っている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川越市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・記念碑文」等

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大袋白髭神社

 百度参り(ひゃくどまいり)は、日本の民間信仰で、神仏に祈願するために同一の社寺に百度参拝することである。お百度(おひゃくど)ともいう。百度参りの祈願の内容は、多くは個人的なものであり、その内容が切実なものである場合に、一度の参拝ではなく何度も参拝することでより、心願が成就するようにと願ったものである。
 元々は、近くの氏神神社や有名な社寺に、百日間毎日参拝するというもので、これを百日詣という。それが簡略化され、また、百日もかけていられない急を要する祈願があって、一日に百度参るという形で百日詣の代わりとするようになった。
 百度参りの方法は、社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。俗にこれを「お百度を踏む」という。
 社寺の入口近くに、その目標となる「百度石」という石柱が立てられていることがある。回数を間違えないように、小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いたり、百度石に備えつけられているそろばん状のもので数を数えたりする。
 川越市大袋地域に鎮座する白髭神社の境内にもこの百度参りのための百度石や、拝殿にもその数を数えるそろばん状の箱も置いてある。
        
            
・所在地 埼玉県川越市大袋258
            
・ご祭神 猿田彦命 清寧天皇
            
・社 格 旧大袋郷産土神 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 2月17日 春祭り 4月15日 天王様 7月14日 
                 
秋日待 10月15日 勤労感謝祭 11月23日
 池辺熊野神社から直線距離にて500m程南側に鎮座する大袋白髭神社。「大袋」という地域名の由来は昔入間川が袋のように流れていたことによるという。既に戦国期にその地名は見えていて、古くから開けていたことが分かる。
 この地は、市街地を控えて宅地化されつつあるが、まだ農村の面影が所々残る地域であり、古くは米麦や茶と並行して養蚕を行っていたという。
       
             大袋白髭神社正面の一の鳥居と社号標柱
 参道は道路沿いにはなく、民家の間に一対の幡立て用のポールが建ち、その道を進んだ先に鳥居等がある場所に達することが出来る。但し、鳥居の位置も微妙に参道に近すぎていて、写真のアングルもこのように斜めからしか撮影できなかった。
        
           一の鳥居を過ぎた先にある両部鳥居の二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「大袋村」の解説
 豊田本村・豊田新田の南、入間川右岸の低地および台地上に立地。村名はかつて当地付近まで入間川が蛇行し、袋のような形であったことに由来するという(風土記稿)。応永三年(一三九六)一〇月一八日書写の大般若経(栃木県日光市輪王寺蔵)巻二四九の奥書に「河越庄大袋」とみえる。享徳三年(一四五四)末、鎌倉公方足利成氏は対立する関東管領山内上杉憲忠を謀殺、享徳の大乱が始まった。翌年五月一四日「武州大袋原」で足利成氏方と戦った豊島内匠助(泰秀の弟)の戦功が上杉房顕より賞されている(七月六日「上杉房顕感状」豊島宮城文書)。

 二の鳥居を過ぎた先が境内。社叢林もあり       参道左側にある手水舎
    つつ、同時に開放感のある広い境内     手水舎の左側には百度石が建っている。
        
           社殿の手前で、参道に対して右側にある土俵跡
「埼玉の神社」において、当地は古くから相撲が盛んであったといい、当時の相撲は農閑期の余興として行っていたもので、拝殿前に参道敷石がないのは、そのあたりを土俵とした名残であるという。拝殿には年号不明の古い相撲番付額が掛かっていて、昔は盛んにやっていたのであろう。最近では、大正13年・昭和27年に行ったようであるが、その際に、関取が泊まった家も残るなど、僅かに昔の賑やかさが偲ばれる。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 大袋村』
 白髭社 永祿年中勸請の由、增形村本明寺の持なり、藥師堂 稻荷社


 白髭神社  川越市大袋二五八(大袋字前畑)
 猿田彦命・清寧天皇を祭神とする当社は、永禄一一年三月二三日字広町(通称ガッサラ塚)から現在地へ移転したと伝え、『風土記稿』は「永禄年中勧請の由、増形村本明寺の持なり」と記している。また、一説に多磨郡新井村の九右衛門なる者が創建したともいう。
 広町の跡地は雑木林で、古くは八幡社があったと伝えているが、今は何もなく、ただ、立ち入ると罰が当たるといわれている。
 別当は隣村増形の白山神社同様成就院本明寺というが、天和三年の「奉造立白髪大明神宮」の棟札には「社主正覺院權大僧都法印 成就院權大僧都」とし、享保一二年の「奉造立白鬚大明神宮」の棟札には「法印宗圓・別当行寶院」と記してある。宗円は本明寺六世であるが、正覚院 行宝院は不明である。「髭」の字の変遷もまた不明である。
 明治五年に旧来の鎮守により村社となり、大正四年には大字山城字欠下の八坂神社・白髭神社、字株梗木の神明社、大袋新田字愛宕側の愛宕神社、同境内社白山社を無格社であったことにより合祀した。しかし、無格社とはいえ信仰ある他村の神社を合祀するのは無理があったため、これらの神社は戦後再び戻された。合祀は、一説に、山城の八坂社と、大袋新田の愛宕社と高橋の山王様であったともいわれ、そのため、祭りに七歳の子が初めて獅子を舞う時には、この三社を巡ったという。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
         境内に設置されている市指定文化財の本殿の案内板と石碑
        
                    本 殿
『川越市HP』において、平成19年8月10日に「市指定有形文化財・建造物」として指定を受けている本殿は、覆屋内の切石積基壇の上に据えられた一間社の建築である。屋根は木瓦葺で、正面に千鳥破風と軒唐破風(のきからはふ)を付けた入母屋造の珍しい形式を採用している。建築年代については、史料がないので明らかではないが、基壇の西側側面に「慶応四戊辰年 九月吉日」の年紀と寄付者の名前が刻まれていることから、慶応4年(1868)に造営されたものと考えられている。
 本殿の建築は、身舎(もや)、向拝ともに江戸彫りの巧みな彫刻で満ち溢れている。身舎の三面を飾る彫刻板や向拝の中備(なかぞなえ)に嵌め込まれた迫力ある竜だけではなく、四手先に張り出した縁腰組下にまで獅子、麒麟、亀などの霊獣彫刻が彫られ、見応えのある建築であるとの事だ。
             
                                     本殿内部
        
           境内東側の道路沿いに祀られている境内社・稲荷社
        
              境内北側奥に祀られている八坂神社
 この八坂社において「天王様」が7月14日に行われている。天保8年村中に悪病が流行した際に、この社は創建されたところから、疫病除けの行事とされている。
「天王様」と「秋日待」の二つの祭事において、この地で伝承されてきた獅子舞を境内で演じた。天王様は素足にて、秋日待には草鞋で舞うのを例として、演目には「入れ端」「コノミヤハ」「雌獅子隠し」などがあるという。
        
                          境内から眺める広々とした社の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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正一位鎌足稲荷神社

「池辺公園」から入間川沿いに北東方向に進み、関越自動車道の高架橋を潜ったすぐ先に「埼玉県営川越水城公園」がある。池辺公園は、第一に不法投棄問題を解決するため、続いて残された自然を生かした河川敷公園へと整備するのが目的で、自然環境が豊かな部分には手をつけない方針との事で、自然を残しながら、散策や軽運動に利用できるよう、園路や小規模広場の配置を見込んでいるという。
 それに対して川越水城公園は、水と緑の空間を創出することを目的として、昭和63年(1988年)に主にプール施設として開設された芝生広場や散策路などが楽しめる緑豊かな県営公園である。園内では、春のサクラ並木や秋の紅葉など、四季折々の自然が楽しめ、さらには、ボート池(4月上旬から11月上旬まで)、テニス場(夏季プール期間を除く)など、年間を通じてさまざまな利用ができる、総合的なレクリエーション施設となっている。
 このように、埼玉県川越市にある池辺地域は、入間川右岸沿いにある広大な河川敷を利用した公園がつくられているが、それぞれの公園化に至る目的や用途がさりげなく違うことも興味深いことだ。
        
             
・所在地 埼玉県川越市池辺840
             
・ご祭神 宇迦之御魂大神
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元朝祭り 1月1日 初午祭り 3月最初の午の日
                  
二の午祭り 次の午の日 星祭り 12月15日
 池辺熊野神社から一旦入間川の土手方向に戻り、河川敷に沿って通じる道を北方向に進む。関越自動車道の高架橋付近に達した後、橋下のトンネルを潜った先にある「川越水城公園」を左手に見ながら楕円を描くように道なりに800m程進むと、公園入口手前付近の進行方向右側に正一位鎌足稲荷神社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。
 
  道を隔てて左側が
川越水城公園、右側に     看板左側にこじんまりと纏まった社
 
社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。        の境内が見える。

 この池辺地域は「埼玉の神社 
池辺熊野神社」において、「当地は入間川右岸に開ける水田地帯で、地名池辺は大きな池の傍らに開かれたことに由来するという。“酒樽いけれ(埋めれ)ば井戸になる”といわれたほどの湿地帯で(中略)近くを流れる入間川は度々決壊し、低地である当地に水害をもたらし、その都度住民は疾病に苦しめられた」との記載があり、『新編武蔵風土記稿 池邊村』にも同様の記述がある。
『新編武蔵風土記稿 池邊村』
 往古當所に大なる池ありしに、其傍を開て一村となせし故村名となれりと、其池の形は埋れて今は〇の跡のみ殘れり、村の廣さ東西五町餘、南北も大抵同じ(中略)陸田多く水田少し、用水は增形村より出る清水を引來れども、動もすれば旱損あり、(中略)
 堤 入間川の水除なり、增形村より小ヶ谷村に續けり、
 梶原淵 廣さ一反、水丈は〇に三四尺、名義は土人の傳あれど取るべきことにも非れば載せず、中に小嶋ありて辨才天の社を安ぜり、按に往古此邊大なる池ありしと云へば、押堀・梶原二の淵は彼池の遺跡ならんと土人いへり、
※ 〇…読解不可の旧字体で引用できず。
 
 
川越水城公園との道から一本東側内にある       民家の間の道幅の狭い路地を進みきると
      路地に建つ一の鳥居         参道は斜め左方向となり、二の鳥居が建つ。
                       因みに参道の先正面に見える建物は社務所
        
             参道の先に見える二の鳥居・三の鳥居
        
                四の鳥居の先に見える拝殿
        
                    拝 殿
 稲荷神社  川越市池辺八四〇(池辺字南重林宝)
 当社の鎮座する池辺は、入間川右岸に位置する農業地域で、集落を取り囲む様に水田や桑畑が人勝手いる。池辺の名の起こりは、『風土記稿』によれば、その昔、当所に大きな池があり、その傍らを開いて一村をなしたことによるとある。この話が伝える池は、現在は跡形もないが、当地は低地であるため、かつては池があちこちにあった。しかし、後年、耕地整理のために埋め立てられ、今では押堀など、地名にその名残を留めるにすぎない。
 この池辺地区の東北端に当社は鎮座しており、保食命を祀る。詳しい由緒は知られていないが、正しくは正一位鎌足稲荷と呼ぶとされ、松山の箭弓稲荷神社(現東松山市)の分霊で、池辺の開村のころから祀られていると伝えられる。
 鎮座地の地名を重林宝という。これは社記によれば、正元年中に天台宗最明寺及び七堂をこの地に建立した鎌倉の臣福山某が、当地に老杉が鬱然としていたところから名付けられたもので、以後当社を重林宝鎌足稲荷と号したと記載されている。
 本殿は一間社流造りであり、境内には、社殿のほかに神職の控え所とタイゴジョと呼ばれる建物が建っている。祀職は、もと地内の三明院が別当であったが、神仏分離の後は、豊田本の白鬚神社社家の山畑家が務めている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
     境内に設置されている社の案内板      社殿左側にある
神名碑・石祠・奉納碑
        
               拝殿の奥に祀られている石祠群



参考資料「新編武蔵風土記稿」
「日本工業経済新聞社HP」「ホットスタッフ川越パークHP」
    
「小江戸川越ウエブ」「かわごえ環境ネット」「境内案内板」等 

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