古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

河原井稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町河原井140
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧河原井村氏神(推定)
             
・例祭等 元旦祭 春の祭礼 411日 夏の祭礼 629
                  
灯籠祭り 81日 秋の祭礼 1011日 大祓 1229
 久喜市菖蒲町河原井地域は、久喜市の南部にあり、菖蒲町台、除堀各地域の南側に位置し、埼玉県北東部を流れる利根川水系の一級河川である星川の自然堤防上に集落は形成されている。因みに『新編武蔵風土記稿 河原井村』では菖蒲領に載っているが、嘗ては騎西領に属する村の一つであったという。
 除堀久伊豆神社から埼玉県道78号春日部菖蒲線を東行し、すぐ先の丁字路を右折、そこから500m程南側の道幅の狭い十字路を左折すると、幸福寺の東に隣接して河原井稲荷神社は静かに鎮座している。後日、地図を確認すると、かつて参拝した白岡市・下大崎住吉神社の北側に位置していた。
        
                 
河原井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「河原井村」の解説
 星川の左岸、台村の南に位置する。菖蒲領のうちで、古くは騎西領に属したという(風土記稿)。正保四年(一六四七)川越藩の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高三六石余・畑高一三六石余。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一八五石余、反別は田方四町五反余・畑方一四町八反余、ほかに新開高四五石余、田方一町一反余・畑方三町六反余があった。
 
  境内南西部で丁字路角にある青面金剛     拝殿手前で左側に祀られている山王社

 『新編武蔵風土記稿 河原井村』に載る「
稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」の一社である山王社は、長く黒沼笠原用水の端に祀られていたが、昭和45年頃、社のそばに水道小屋を作る事になったため、移転を余儀なくされ、以後は当社の境内に移され、末社として祀られるようになったという。
 なお、大六天社に関しては、廃社になってしまったものか、今では社があったという話さえ残っていない。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 河原井村』
 稻荷社 〇山王社 〇大六天社 以上村民持、
 光福寺 曹洞宗、白岡村興禪寺末、天得山と號す、開山は本寺三世の僧存舜元龜二年三月寂す、本尊地藏を安ぜり、


 稲荷神社  菖蒲町河原井一四〇(河原井字川棚)
 河原井は、地元では「かわはらい」と呼ばれ、古くは騎西領に属する村の一つであった。その地名は、河原居の意であると解され、星川の自然堤防上に形成された集落であろうと考えられている。『風土記稿』河原井村の項に「稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」と載るように、河原井の村内には古くから稲荷・山王・大六天の三社が祀られていたが、その中でも当社は、村のほぼ中心にあり、村の氏神として信仰されてきた社である。
 当社は、恐らくは村の開発と相前後して祀られたものと推測されるが、勧請された時期は定かではない。しかし、当社の西に隣接する曹洞宗天得山幸福寺(『風土記稿』には「光福寺」と記載)の開山の僧である存舜が元亀二年(一五七一)に寂していることや、旧家の関根家は四〇〇年以上続いているといわれていることから、村の開発や当社の勧請は、室町時代の末期ごろのことではないかと考えられる。なお、鳥居に掛かる「正一位稲荷大明神」と刻まれた石額には、文政九丙戌(一八二六)十一月吉祥日」の銘があり、恐らくこのころに、改めて伏見稲荷より分霊を勧請したものと思われる。
 当社の境内には、かつたは鬱蒼と松が生い茂り、昼間でも薄暗いような所であったという。しかし、今では境内に河原井集会所もでき、明るく見通しのよい雰囲気に整備され、往時の面影は薄れてしまった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 河原井地域に住む五六戸程の人々が、当社の氏子である。当社のご祭神は倉稲魂命で、本殿には明治28年に納められた勾玉がご神体として安置されている。
 河原井地域は大きく川棚(かわたな)と武井(ぶい)の二組に分かれていて、武井は星川の後背湿地であるために田んぼが多いのだが、川棚は土嚢が砂質のために特産物である梨や柚子などの野菜や桑などを栽培している農家も多いという。
        
            社の道を隔てた西側隣にある曹洞宗・幸福寺 
        
                  子安観世音菩薩
                 河原井村女講中による奉納

 この幸福寺の角にある地蔵は、かつては霊験あらたかな子安地蔵として有名で、近在の諸地域では女人講が結成される程であったという。現在はこうした講こそなくなったが、安産・子育てや子授けを願って多くの参詣者があるという。
 毎年7月23日の縁日には「寺の灯籠」と称して神社の当番が祭りを行ってきたが、平成4年からは、寺の行事として寺総代と相談役が祭りを行っているとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
        

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除堀久伊豆神社

 久喜市除堀地域。この「除堀」という地名は「よけぼり」と読むのだが、いかにも地形が関連する難解地名であろう。『埼玉の神社』による解説によれば、「当地は、かつての荒川の乱流に削られて残った小さな台地上にあり、除堀の地名は、当社の二百㍍ほど東側で、この台地を東西に分断している江川が、水害除けのために開削されたことによると考えられる」との事だ。
        
                         ・所在地 埼玉県久喜市除堀474
                         ・ご祭神 大己貴命(推定)
                         ・社 格 旧除堀村鎮守 旧村社
                         ・例祭等 元旦祭 祈年祭 45日 例祭 419
                              塞神祭 51日 大祓 71日 秋祭 1019
 菖蒲町台久伊豆神社から一旦南下して旧国道122号線を南東方向に400m程進んだ三叉路を左折、その後、国道122号線との交点である「台九宮」交差点を直進する。埼玉県道78号春日部菖蒲線に合流後東行すること450m程で、進行方向左手に除堀久伊豆神社の鳥居が見えてくる。但し県道沿いからは少し離れた場所に鳥居はあり、注視しなければそのまま通り過ぎてしまうので、その点注意は必要だ。
        
                 除堀久伊豆神社鳥居
『日本歴史地名大系』 「除堀村」の解説
 東は笠原沼用水を境に原村、北は庄兵衛堀川を挟んで河原井沼新田、南は星川を境に下大崎村(現白岡町)。騎西領に所属(風土記稿)。寛永一一年(一六三四)の年貢割付状(茂木家文書)によると、田方二一町三反余・畑方五四町三反余、屋敷一町五反余(以上新田分も含む)、幕府領。同一六年川越藩領になり(同年「年貢割付状」同文書など)、田園簿によると田高一五六石余・畑高三九九石余。
        
       鳥居の右側手前には庚申塔が建ち、それに対してその向かい側には
             「諏訪神社・久伊豆神社・七社神社」と刻印された社号碑がある。

 当地では、明治六年に当社を村社とし、字江川東にある諏訪神社と字小中瀬の七社神社は無格社となった。更に同四十年八月には、政府の合祀政策に伴い、無格社の二社は当社に合祀された。ところが、合祀後、村内に病人や災いが相次いだため、占いをしたところ諏訪神社の合祀が原因とされたことから、昭和十年、畑となっていた元地に社殿を建て、改めて諏訪神社を祀ったので災いも治まったという話がいい伝えられている。
        
          鳥居から一般道を北上すると、社の境内が見えてくる。
                社殿の右側に見える綺麗な建物は社務所
        
          境内に設置されている「
除堀の獅子舞」の案内板
 除掘の獅子舞は、3頭の獅子が笛の音色にあわせて、お腹に付けた太鼓を鳴らしながら舞う。一般的に「ささら」と呼ばれ、毎年419日に近い日曜日(平成24年は422日)に行われる。平成20年までは、毎年419日に行われ、花宿(はなやど・当番の家)で式典を行い、村回りをしていたが、久伊豆神社の社務所の改築に伴い、平成21年からは神社で式典を行い、村回りをするようになった。
 舞を行うのは、穀物が豊かに実り、流行り病が退散し、災いを消し去ることなどを願うためである。当日は、久伊豆神社を出発し、稲荷神社・七社大権現・不動寺・諏訪神社・久伊豆神社の順で舞を行いながら村を回る。獅子は朋冠・大獅子・雌獅子の3頭で、そのほか笛方・天狗・道化等の役割があり、この獅子舞には、笹がかり・梯子がかり・花がかり・綱がかりの4種類の舞がある。
 除堀の獅子舞の起源は、約400年前に村の西の方にある池に雌獅子が1頭浮かびあがり、村人が救いあげて医王院に安置し、その年の雨乞い祈願に獅子頭をかぶり、太鼓と笛の音に乗って舞ったのが始まりと伝えられている。
 除堀の獅子舞は、昭和51年3月26日久喜市指定無形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 除堀村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、護寶院持、〇諏訪社 これも鎭守なり、光明院の持、〇七社權現社 不動寺持、
 〇光明院 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、田中山と號す、大日を本尊とせり、
 〇護寶院 當山派修驗、牛重村般昌院配下、本尊不動を安ず、

 久伊豆神社  久喜市除堀四七四(除堀字江川西)
 除堀は、かつての荒川の乱流に削られて残った小さな台地上にある。
 当地には、当社近くにあった医王院(廃寺)の建治三年(一二七七)の板碑(市指定文化財)のほか、かつては鎌倉街道が通っていたと伝えられ、宿の跡を示す「宿場」、街道に架かる橋の跡を示す「鎌倉杭(ぐい)」などの地名が残ることから、当地の開発は鎌倉時代以前と思われる。
 除堀の地名は、当社の二百㍍ほど東側で、この台地を東西に分断している江川が、水害除けのために開削されたことによると考えられる。
 当社の創建について当地では、記録も伝えもないが、当地の西に隣接する菖蒲町大字台では、昔、台の村には上と下に久伊豆神社があったので、下の久伊豆神社を除堀にあげてしまったという伝承があり、そのため、久伊豆神社の境内地の分だけ除堀から台の方へ突き出た形になっているのだといわれている。『風土記稿』除堀村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、護宝院持、諏訪社 これも鎮守なり、光明院の持、七社権現社 不動寺持」とあり、当社のほか江川の対岸に鎮座する諏訪社も鎮守であることから、台の伝承と考え合わせると、江川の開削で村が分断され、村の西側に神社がないために、村境近くに鎮座していた当社を譲り受けて鎮守としたものと思われる。
 内陣には三体の懸仏、嘉永六年(一八五三)の再建時の幣束二体、元治元年(一八六四)に伯家より受けた勧遷状と神璽筥(しんじばこ)を奉安する。
                                    「埼玉の神社」より引用
 
    境内に祀られている稲荷神社           重厚な雰囲気の本殿

 除堀久伊豆神社のすぐ東隣に不動寺薬師堂があり、そこに久喜指定有形文化財に指定されている建治板石塔婆がある
        
                  
不動寺薬師堂
       
              
建治板石塔婆(二基)とその案内板
        
 久喜指定有形文化財  建治板石塔婆
                     指定年月日 昭和四十八年三月十六日
                     所 在 地 久喜市除堀四七一
 板石塔婆は、卒塔婆(そとば)・塔婆(とうば)と呼ばれる仏教遺物の一種で、主に死者の霊をとむらい供養するための石造(せきぞう)塔婆である。板碑・青石・板仏などと言うこともある。全国的に分布し、その形態や材質はさまざまであるが、埼玉県には特に多く、荒川上流流域に産する緑泥片岩を材料とした武蔵型板石塔婆が約二万余基確認されており、市内では約二百余基発見されている。
 この建治板石塔婆は上部下部が欠損しているが、市内に現存するものでは最大の大きさである。種子は五点具足の荘厳体の梵字で「アーンク」と発音し、胎蔵界(たいぞうかい)大日如来を象徴する。その下には蓮座があり、ともに深く豪快な薬研彫(やげんぼり)である。その下部中央には「建治参季丁丑忌辰八月八日」と紀年銘があり、その左右に「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是我子」と、法華経を出展とする偈(げ)が刻まれている。
 板石塔婆で最大のものは、秩父郡長瀞町野上下郷にある応安二年(1369)銘釈迦一尊種子のもので、高さ五・三五メートルである。市内では、この板石塔婆が最大で、一六七七センチである。また最古のものは、大里郡江南村須賀広の嘉禄三年(1227)銘阿弥陀三尊画像のもので、最新のものは、戸田市妙顕寺の慶長三年(1598)銘題目三尊のものである。
 市内では北1丁目遍照院の建長七年(1255)が最も古く、建治三年(1277)の本例がこれに次ぐものである。最新のものは、本町一丁目光明寺の天正八年(1580)のものである。
 この板石塔婆は、久喜市にとって優れた板石塔婆であり、貴重な資料である。大切に保存したいものである。


除堀久伊豆神社の東側には、諏訪神社及び七社神社が鎮座している。
 
   埼玉県道87号春日部菖蒲線を東行し、江面郵便局北側に鎮座する諏訪神社(写真左・右)

 
除堀地域東側に位置し、埼玉県道87号春日部菖蒲線沿いに鎮座する七社神社(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
久喜市HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等   

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太田袋諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市太田袋586
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧太田袋村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 410日 灯籠 710日 秋祭り 1010
                  大祓 630日 1231
 久喜市太田袋地域は、同市南東部にあり、南北の境を備前前堀川・備前堀川が並行して流れ、東西域が長い区域となっており、その地域の大部分は田畑地区が占めていて、住宅地は地域中央に点在する長閑な農業地域である。
 当地名である「太田袋」は河川に関連する地名と思われるが、「嵐山町web博物誌」によると、杉山地域にも「川袋」と「大袋」があり、どちらも市の川と粕川の合流点の上の部分で、川に挾れて「袋」のような形であるから、この名前が出たと考えられている。また、「池袋」「沼袋」など袋のつく地名は、大てい水辺で二面以上が水で囲まれている所であるという……と特殊な地形や地物の地名として「袋」が紹介されている。
        
                 太田袋諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「太田袋村」の解説
 北は備前前堀川を境に下早見村、北から西は古新(ふるにつ)川を境に青柳村と対する。袋村とも称された。百間領に所属。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一一二石余・畑高一三九石余、同藩領。同藩の城付地で高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数二六(うち本百姓一七)、人数一九七(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高三二七石余、ほかに新田三五石余・野銭永三四〇文・藍瓶役鐚七二文・見取場田畑三反余があった。

 
    入口正面の一の鳥居の社号額には        一の鳥居の先に見える二の鳥居     
 しっかりと「琴平神社」と表記されている。  この鳥居には「諏訪神社」と刻印されている。
 当社は古くから村の鎮守として崇敬されてきた。一方、元々この地に鎮座していた琴平神社も霊験あらたかな神様として、古くから地元の農民や商売人から崇敬を受けていた。このため現在でも地元の人々は、当社を「こんぴら様」と称して親しんでいる。また、境内社の琴平神社は「隠居こんぴら」と称されている。
 
      参道左側にある手水舎                   社殿脇にある力石
 この力石には、
市内で最も重い百貫石や、江戸時代の力持興行「御上覧力持」の東西の両大関「三ノ宮卯之助」と「肥田文八」その他の名を記した全国的にも貴重な石等があるという。年代別では、三十六貫石の宝永三年(1706年)から天保十一年(1840年)迄の石との事だ。
        
       社殿左側脇にある
合祀記念之碑  社殿右側にある伊勢参宮記念碑
 合祀記念之碑
 武藏國南埼玉郡江面村大字太田袋
     諏訪神社淺間神社
 右二座以明治十三年三月十四日奉遷干琴平神社殿内而合祀之改社號稱諏訪神社
 大正二年四月三日建之

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 太田袋村』
 諏訪社 村の鎭護にて、諏訪院の預る所なり、
 普門院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺の末、龍光山法雲寺と稱す、開山弘尊慶長二十年四月八日寂す、本尊正觀音、行基の作と云、 熊野社 彌陀堂
 諏訪院 本寺前に同じ、藥師を本尊とす、〇寮 正觀音を安ず、行基の作と云、村民の持、

 諏訪神社(こんぴらさま)  久喜市太田袋五四八(太田袋字地蔵)
 鎮座地の太田袋は「大田袋」とも書き、中世は太田庄に属していた。
『埼玉県地名誌』におれば、「袋」とは平地を流れる河川が蛇行したり、合流することで形成された袋状の地形を指すという。このことから、当地の地名の由来も、備前堀川と備前前堀川がいずれも古利根川に合流し、袋状の地形を成していたことによるものであろう。
 口碑によると、当社は江戸時代初めに字沙汰の備前堀川の辺りに作神として祀られたことに始まるという。『風土記稿』太田袋村の項には「諏訪社 村の鎮守にて、諏訪院の預る所なり」と記されている。これに見える別当の諏訪院は葛飾郡内国府間村(幸手市北町一丁目)の真言宗正福寺の末寺であった。
 神仏分離後、諏訪院は廃寺となり、当社は村社に列した。その後、明治四十年に字沙汰の社地から村の中央に位置する字地蔵の無格社琴平神社の境内地に遷座され、合わせて琴平神社と字浅間の無格社浅間神社を合祀し、ここを当社の新たな境内地とした。遷座の理由は、琴平神社の境内地が村の中央で面積も広く、氏子が参詣しやすかったこと、更には琴平神社が当社に増す信仰を集めていたことが挙げられよう。合祀後、氏子の間から「昔から祀ってきた琴平神社を粗末に扱うと祟りがある」との声が上がり、大正四年に本殿に祀っていた琴平神社の分霊を境内に新たに建立した祠にも祀るようになった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 氏子の間では古くから「こんぴら様には天狗が住んでいる」といわれ、当社の社殿にも往時に奉納された多数の天狗面が残されている。昔は子供を叱る時に「いたずらをすると天狗様に連れていかれるぞ」と言うと、子供は怖がっていたずらを止めたものであったという。拝殿壁には天狗信仰と関連があるからか、天狗面が二対掛けられている。
 また、かつては毎月十日を「こんぴら様の縁日」といい、氏子が三々五々参拝するほか、遠方からも主に商売人が多数参拝した。先の大戦以前までは、この縁日当日は、香具師が境内に露店を出し、大変賑わったというが、その後は急速に衰え、現在縁日に参拝するには往時のにぎわいを知る古老の人々のみとなっているという。
  
     拝殿の軒下部(言い方が間違ったら申し訳ありません)に掲げてある扁額3枚
      当社の社号がまだ琴平(金毘羅)神社だった頃の名残がここにある。
        
                    本 殿
        
               本殿の左側奥に祀られている境内社
    左側から琴平神社(隠居稲荷と呼ぶ)・稲荷神社・一番右側の石祠は雷電社か?
        
            境内の様子。右側に見える建物は太田袋集会所。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
嵐山町web博物誌」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等

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吉羽稲荷社及び天神社

【吉羽稲荷神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市吉羽2220
             ・ご祭神 宇賀之御魂命
             ・社 格 旧無格社
             ・例祭等 元旦祭 初午 3月第1日曜日 甘酒祭 10月第1日曜日
 吉羽千勝神社の北で道路を隔てて「吉羽公園」があり、この公園に接して通る通称「図書館通り」を南東方向に1㎞程進んだ先が左方向にカーブするようになっており、そのまま直進。その後、青毛堀川に架かる「江口橋」を越えた進行方向右手に吉羽稲荷神社は鎮座している。
        
                  吉羽稲荷神社正面
 当社の氏子区域は、大字吉羽のうち字壱番方を中心とした高野新田と呼ばれる地域である。氏子数は先の大戦後、分家や他所からの転入によって漸次増加して、現在は45戸程である。氏子の間では、明治10年という早い時期から活動会が組織され、当稲荷神社の貴重な文化遺産の維持・保存を目的に活動が進められてきた。これを、新住民の増加に対応し、会則を整備して平成4年に再発足したのが現在の氏子会で、高野新田の住民は居住年数に関わらず、原則として会員となるそうだ。
 
   境内の隅に設置されている案内板      境内には力石も整然と展示されている。
        
                    拝 殿
 稲荷神社  久喜市吉羽二二二〇(吉羽字壱番方)
 吉羽は、古利根川と中落堀川に囲まれた低地に位置し、水田を主体とした農業地域として発展してきたが、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅に近いため、近年では住宅地となりつつある。当社の鎮座地である宇壱番方は、吉羽の中でも最も西にある字で、一般に高野新田と呼ばれ、吉羽の他の地域とは青毛堀川で隔てられていた。このため、明治末期に橋が架けられるまでは、村内でも舟で行き来しなければならないという不便な状況であった。
『風土記稿』吉羽村の項には、「千勝八幡鷲宮合社三神合祀りへ三社大明神と呼ぶ、村中の鎮守なり、密蔵院持、下二社、持同じ、○天神社○稲荷社」 とあり、千勝八幡鷲宮合社(明治期に千勝神社と改称)を村中の鎮守としている。しかし、交通の不便な地域である当地の人々は、組の鎮守である当社を、千勝神社以上に大切にしてきた。特に明治四十年ごろ、無格社であった当社を村社であった千勝神社に合祀しようという動きがあった時も、当社が遠くの神社に移されては氏子の心の拠り所が失われるとして、これを退けた。
 かつては、当社は、現在の境内から北東に三〇〇メートルほど離れた「元稲荷」と呼ばれる所に鎮座していたが、集落から離れた寂しい場所であったため、氏子の参詣の便を図り、明治期に現在の場所に遷座した。その後、昭和三年と同十年に拝殿の修理を行った。
                                   「埼玉の神社」より引用



【吉羽天神社】
        
                        ・所在地 埼玉県久喜市吉羽358
                        ・ご祭神 菅原道真公
                        ・社 格 吉羽下宿守護社 旧無格社
                        ・例祭等 元旦祭 祈年祭 225日 例祭 725
                            
二百十日 91
 久喜市吉羽地域は、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅に近いため、吉羽1丁目から5丁目は、都市計画道路 345 幸手久喜加須線の東側及び青毛堀川に囲まれた土地区画整理事業の区域が大半をしめており、道路、公園、河川等の公共施設についても、計画的に整備を図るように土地区画整理事業が行われている地域である。
 但し吉羽地域南部は、古利根川と中落堀川に囲まれた低地に位置した、水田を主体とした長閑な農業地域が未だに残っている自然豊かな場所である。
        
         文字通りの砂利道を進むと見えてくる吉羽天神社の社叢林
 吉羽稲荷神社から一旦道路を南下し、「図書館通り」に戻り、「けやき通り」の先にある丁字路を左折する。当初は舗装されている道路もいつしか砂利道へと変わり、そのまま南下するように道なりに進むと、正面にこんもりとした吉羽天神社の社叢林が見えてくる。
        
                 吉羽天神社正面鳥居
 筆者の勝手な想像であるが、久喜市在住の方々も、このような場所に社があること自体、あまり知らないのではなかろうか。境内は鬱蒼とした森に囲まれ、参拝時間は昼間であるにも関わらず、暗く、物寂しい印象。逆に地域の外れにヒッソリと佇む感があり、趣きという点においては抜群の存在感ある社であろう。
 
    なかなか味のある天神社の社号額      入り口付近に設置されている案内板
        
              鬱蒼とした森の中に静かに佇む社
        
                    拝 殿
 天神社 御由緒  久喜市吉羽三五八(吉羽字前)
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の吉羽は、古くは太田庄に属する村の一つであり、群馬県勢多郡富士見村の萩林(しゅうりん)庵が所蔵する銅造阿弥陀如来立像の応永三十四年(一四二七)五月十五日背面銘に「武蔵国太田庄南方吉羽郷」と見えるのが、その地名の初出と思われる。吉羽では、村全体で鎮守として千勝八幡鷲宮合社(現千勝神社)を祀ってきたが、これと別に、村組などで祀る神社もあった。
 当社は、吉羽のうちの「下宿」の人々が組内の守護神として祀ってきた社で、『風土記稿』羽村の項にも密蔵院持ちの社としてその名が載る。創建についての伝えはないが、下宿で一番の旧家である折原栄家は当社で二十代ほど続いていることから考えると、吉羽郷と呼ばれていた時代に、同家の祖たちが開発した際に勧請したものではないかと思われる。そのためか、住民の信仰は厚く、社格は無格社であったが、明治末期に政府の合祀政策が強く進められた時期にあっても、村社の千勝神社へ合祀するといった声は全く聞かれなかった。
 なお、神仏分離まで別当であった密蔵院は、真言宗の寺院であったが、明治三十三年に焼失し、同四十年に妙智寺と合併して、高輪寺となった。一方、当社では明治二十九年に社殿の大規模な修復を行ったが、その際、一時千勝神社に仮殿を作って遷座していた。現在社殿の北東にある建物は、その時仮殿として使われていた建物である。
                                      
境内案内板より引用
 
  社殿左側に祀られている稲荷神社の石碑        社殿の奥にある「裏天神」
        
               精巧な彫刻が施されている本殿
 当社の祭神は菅原道真公で、本殿の内陣には美しく彩色された木造天満天神像が安置されており、その像の台座には「文政二己卯年(一八一九)二月再興之」「明治十四年巳七月粉色之」といった銘文がある。今では、天満天神は学問の神といわれ、受験時期には合格を祈って参詣する中学生や高校生の姿をよく見かけるが、昔は針子(はりこ)が裁縫の上達を願って信仰し、毎月五日に針子が参詣する習わしがあったようだ。拝殿に掛かる針子の図の絵馬は、当時の針子の師匠が奉納したものであるという。
 
    社殿手前右側に祀られている       妙義山神社等の手前に設置されている 
  妙義山神社とその右側奥にある観音堂          「吉羽天神社碑」
 
   境内北側で塚上に祀られている浅間神社    浅間神社の塚下に祀られている猿田彦大神
        
                社殿から見た境内の一風景
 725日(現在では725日近くの日曜日)に行われる当社の例祭には獅子舞が奉納されているが、口碑によれば、江戸時代の中頃に京都から神勅を受けて始められたものといい、大獅子・雄獅子・雌獅子の三頭が五穀豊穣・天下泰平・家内安全を願って毎年舞ってきたが、先の大戦後は次第に衰退し、昭和34年頃を最後に途絶えてしまったそうだ。その後、1962年(昭和37年)頃の獅子舞に関する録音テープが発見され、1982年(昭和57年)より徐々に復興され現在に至っている。この獅子舞は久喜市の無形民俗文化財の一つである。
 
この他に、かつて火渡り行事が125日に行われていたが、今日では行われていない。この行事には「火渡りをすると長生きをする」という伝承があるということだ。

「久喜市HP」吉羽天神社の獅子舞
 吉羽天神社の獅子舞は、いい伝えによると250年ほど前に京都より神勅を賜り始められたといいます。戦後になり一時中断していましたが、昭和57年から部分的に復活されるようになりました。725日の直前の日曜日に行われます。
 獅子は、大獅子・雄獅子・雌獅子と呼ばれます。獅子のほかに、天狗・万灯持ちなどの諸役があります。
 神社での「シメ飾りの舞」の奉納が済むと、村まわりに出発します。そして、村の辻々で棒術と「入庭の舞」を奉納します。


 吉羽天神社から東方向には同じ地域の諏訪神社が鎮座している。同じ砂利道で、道幅は狭いが、社自体はつい最近改築されて綺麗であり、境内も程よく手入れされている。
        
               ・所在地 埼玉県久喜市吉羽1029
               ・ご祭神 建御名方神
               ・社 格 旧無格社

   境内に設置されている伊勢参拝記念碑            本殿二基
       と改修築記念碑             どちらも諏訪神社でろうか。
 当社は、祭礼の際に立てる幟に「三落鎮護之神」とあるように、吉羽の中でも沼向(現在は諏訪と称する)・高田・腰巻(現在は高田に合併)の三集落の鎮守として祀られてきた。
 吉羽では、地区ごとに神社を祀っているが、社格制定に際しては、 最も規模の大きい千勝八幡・鷲宮合社が村社となったため、当社は無格社となった。更に明治40年ごろ、吉羽の中心に近い方がよかろうとの判断から、当社は一旦字高田に移されたが、その後、疫病が氏子の間に蔓延したため、字諏訪の旧地に復することになったという。 
       
                 吉羽諏訪神社全景
       
       社の東側を縦断するように走る首都圏中央連絡自動車道(圏央道) 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「久喜市HP」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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吉羽千勝神社

 久喜市吉羽地域は、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅の東側に位置していて、『久喜市HP』によれば、久喜市吉羽地域の中でも特に吉羽1丁目から5丁目は、都市計画道路 345 幸手久喜加須線の東側及び青毛堀川に囲まれた土地区画整理事業の区域が大半をしめており、道路、公園、河川等の公共施設についても、計画的に整備を図るように土地区画整理事業が行われている地域であるようだ。この土地区画整理事業の効果の推進増進、並びに快適な住宅環境の形成、維持、保全することを目標とすると記述されている。
 この吉羽地域の住宅街区の一角に静かに社は鎮座している。鑑みるに、戦後、時代の推移に伴い久喜市が特に首都圏域内の市街化区域との指定を受けて以来、急速に都市計画化が進められ、住宅地の開発、土地区画整理事業の実施に伴い、昭和五十年から二年余にわたり神社々殿、境内諸施設および参道の石鳥居の移設等々の工事、整備が行われ、現在に至っているという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市吉羽131
             
・ご祭神 千勝大神(大己貴命)八幡大神 鷲宮大神
             
・社 格 旧吉羽村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初午 221日 青屋祭 7月第一日曜日 他
 JR東日本鉄道及び東武伊勢崎線が乗り入れ、接続駅となっている久喜駅の「東口大通り」を700m程東行した先にある交差点を左折、その後、通称「太田小通り」を北上するように進むと、「吉羽公園」の南側手前に吉羽千勝神社は見えてくる。
        
                  吉羽千勝神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉羽村」の解説
 野久喜・古久喜・青毛の三ヵ村の南にある。南は中落堀川を境に和戸・国納(現宮代町)の二村。現群馬県勢多郡富士見村萩林(しゅうりん)庵所蔵の銅造阿弥陀如来立像の応永三四年(一四二七)五月一五日付背面銘に「武蔵国太田庄南方吉羽郷」とみえる。永禄一三年(一五七〇)正月六日の梶原政景書状(三戸文書)にみえる「吉場」は当地と考えられ、梶原政景から三戸駿河守に宛行われている。百間領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によると田高三六六石余・畑高三二八石余、幕府領。
『日本歴史地名大系』 「西村」の解説
「風土記稿」に「吉羽村ノ内に差入リタレハ、村ノ広サ及四境ノ村々別ニイヒカタシ」とあるように、吉羽村の中に点在する。百間もんま領に所属。検地は吉羽村に同じ(同書)。田園簿によれば田高八二石余・畑高八七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本三上領で、同領として幕末まで続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
『日本歴史地名大系』 「吉羽西村新田」の解説
 吉羽・西両村地先の古利根川西畔にあった。三方が吉羽・西の二村に接し、両村と複雑に入組んでいた。当村は寛延二年(一七四九)茨島村(ばらじまむら・現杉戸町)の佐右衛門が開発、同一一年神尾若狭守春央が検地のうえ流作場新田と称した。吉羽・西の両村の持添新田であったが、安永元年(一七七二)久保田十左衛門が再び検地を実施して一村として村立てし、幕府領に組込まれた(風土記稿)。
        
             鳥居の左側手前に設置されている社の掲示板
 吉羽千勝神社の歴史
 いつの時代に造られたかは不詳ですが、吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村・西村の人々によって祀られてきました。
元来は千勝・八幡・鷲宮三社合祀のため「三社大明神」と号していましたが、神仏分離を経た明治3年に「千勝神社」となり明治6年に村社となりました。
 1946年(昭和21
年)の「神社の国家管理解除」により無格となりましたが、現在も地域住民の心の拠り所として崇められています(以下略)。
                                    「掲示板」より引用
        
             手入れも行き届いていて広々とした境内
 千勝神社はかつて埼玉郡吉羽村(明治合併以後は大字吉羽)の村社であり、所在地は吉羽土地区画整理事業が行われる以前は大字吉羽字西1545であったが、2002年(平成14年)1026日の町名変更により吉羽1丁目311と改められた。吉羽土地区画整理以前の境内地面積は1948年(昭和23年)の時点で1042坪を有していた。神社は本来現在地よりも南に位置し、参道も100m以上あったが、1970年(昭和45年)頃の神社東側道路の拡幅工事や周辺開発などで、神社そのものを北方へと移動させるなどの工事が行われたという。
 
  参道左側に祀られている境内社・八坂神社   八坂神社の並びに祀られている雷電宮の石祠
        
                    拝 殿
 千勝神社(さんじゃさま)  久喜市吉羽一五四五(大字吉羽字西)
 吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村及び隣接する西村の人々によって祀られてきた当社は、元来は三社大明神と号していたが、神仏分離を経た明治三年、社名を現行の千勝神社と改め同六年に村社となった。
 そのため比較的若い人や戦後に他所から転入して来た人は、当社を「千勝様」と呼んでいるが、年配の人は「三社様」と呼んでいる。こうした経緯にも示されているように、当社は、実際は千勝神社・八幡神社・鷲宮神社の三社合殿なのである。
『風土記稿』吉羽村の項の「千勝八幡鷲宮合社 三社合祀ゆへ三社大明神とよぶ、村中の鎮守なり、密蔵院持」という記事は、このような当社の祭祀状況を端的に示しており、本殿の内陣には今もこの三社の神像と宝暦十三年(一七六三)十二月に神祇官領吉田家から受けた三社の幣帛が安置されている。神像は、墨書によれば三体共に氏子によって文化十年(一八一三)六月に奉納されたもので、千勝大明神像と鷲宮大明神像は座像で、八幡大明神像は騎乗の像である。
 また、江戸時代に当社の別当であった密蔵院は、真言宗の寺院で、当社の東側に隣接していたが、神仏分離後は廃寺になった。その後、密蔵院の堂は焼失したといわれ、その跡地には太田村の役場が置かれていた。久喜市への合併後は役場も廃され、跡には、現在の太田集会所が建設され、地元住民の集いの場として活用されている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 祭礼は7月最初の酉の日とされている。酉の日に行われる理由として、この吉羽の千勝神社に鷲宮神社が合祀されていることに由来し、「昔、鷲宮神社の祭神が沼の向こうから賊に追われ、逃れる途中で千勝神社に宿泊し、この日が酉の日であったため酉の日に祭事が行われるようになった。」という伝承もある。行事としては大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)の各家で朝に赤飯を炊き、それを子供が親戚の家に配り、昼には小麦饅頭を作り、夜にはうどんを打ち食す、晩には神社の境内および周辺の家々の道沿いに当番の人が作った灯籠が立てられ明かりがともされる、というものであった。
 この祭礼の翌日に、大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)では「ナイダー」という行事が行われており、流行病が地区に入らないよう悪魔除けを目的にした行事である。午前10時に男手が集まり、神社より長い数珠を皆で運び、高輪寺に置かれている鉦を先頭に叩きながら「ナイダー ナイダー」と唱え耕地を巡回するというものである。1979年(昭和54年)頃までは名主・地主・大尽の順に廻り、その後は道なりに全戸を巡回していたが、次第に戸数が増えた関係上、全戸巡回は取り止め、8か所の辻を回り最終的に中落堀川に至り行事の終着地とするようになったという。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社  稲荷神社の右側並びに八王子大権現の石祠あり
        
          雷電宮に対して参道の向かい側に祀られている妙見宮
        
                    妙見宮近郊に聳え立つご神木の如き巨木




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「社前掲示板」等


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