豊田本白髭神社
・所在地 埼玉県川越市豊田本1212
・ご祭神 白鬚大明神(猿田彦大神)
・社 格 旧豊田本村・豊田新田鎮守 旧村社
・例祭等 記元祭 2月11日 春祈祷 4月15日 天王様 7月14日
秋日待 10月15日 新嘗祭 11月23日
大袋新田氷川神社から入間川街道を北東方向に進み、関越自動車道に達する手前の十字路を左折する。通称「太田街道」と呼ばれる市道を1.4㎞程北上した先の十字路を右折したその進行方向左側に豊田本白髭神社の正面鳥居が見えてくる。
正面鳥居の周辺には適当な駐車スペースはないようで、境内社殿の東側には「豊田本公民館」が隣接して建っており、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
豊田本白髭神社正面
『日本歴史地名大系』 「豊田本村」の解説
野田村・脇田村の南西、入間川と新河岸川の間の台地および低地に立地。豊田村・豊田本郷とも記す。村名は天文元年(一五三二)没の地内曹洞宗善長寺の開基豊田隼人に由来という(風土記稿)。当村から北方小室村にかけては古代条里の遺構が残る。小田原衆所領役帳に御家門方の北条長綱(幻庵)御新造の所領として「六十貫九百六十四文 河越卅三郷豊田」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。
正面鳥居の右側に一際目立つ富士塚(写真左)。こちらは石段もあり正面で、浅間社の石祠が祀られている。そして境内から見上げる富士塚(同右)。残念ながら草に覆われ、塚の所々に見える石碑の詳細が分かりづらい。「埼玉の神社」によると、「富士講記念碑」のほか、「阿夫利神社」「磐長姫神社」「金刀比羅神社」などがあるという。
草に覆われた富士塚に比べてきちんと整えられてある境内
当社の氏子区域は豊田本で、地域名の「豊田」の由来は、戦国時代の武将である小笠原安元の家臣、豊田隼人が開発したことによるという。この豊田隼人は、地域内にある曹洞宗善長寺の開基で、天文元年(1532)没したという。
『新編武蔵風土記稿 豊田本村』
善長寺 曹洞宗龍ヶ谷龍穩寺の末、豐田山と號す、開山は本寺七世節庵良筠、天文十三年十月廿八日示寂、開基は豐田隼人、法名善長天文元年八月廿一日死すと、されど此人は元三州に住し、小笠原攝津守安元に屬し、御入國の時安元郡內入閒川村の地を賜はりし故、家臣隼人移てこゝに居れり、しかるに此人の家より失火し、村內及び奧富村も此災に罹りしかば、隼人こゝに居ること能ずして、當所に來りこの村を開發せし故、村名となれりなどいへど、小笠原氏の譜を案に攝津守安元は天正十七年十一月晦日三州に於て卒せしと云へば、安元の男太郞左衞門安勝御入國の後、入閒川村を賜りしなるべし、然れば天文元年に死せる豐田氏の入閒川村に住せしと云は、其謂れ疑ふべきに似たれど、姑く傳るまゝを記せり、本尊正觀音を客殿に安ず、正德二年の銘をえりたる鐘を客殿の軒にかけたり、稻荷社 白山社
『風土記稿』によると、豐田隼人は元三河国に住み、小笠原攝津守安元の家臣であったという。安元の没年が天正17年(1589)であり、主君の徳川家康が関東に領地替えされた前年にあたるため、入間川村の地を領地として賜わったのは、安元の三男太郞左衞門安勝の時代ではなかったかと推測している。ただし、そうなると豐田隼人の没年である天文元年(1532)に全くあわないので、困った編集者たちは、とりあえず伝わっているところは書いておきましょう、とのスタンスで記載しているのであろう。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 豊田本村』
白髭社 村内及び新田の鎭守にして、勸請の年歴は傳へざれど、寛永三年の棟札あれば大抵推て知べし、神主山畑豐前は勝呂住吉の武士にて、勝呂雅樂が配下也、
白髭神社 川越市豊田本一二一二(豊田本字表)
社伝によると当社の創立は、長禄元年三月二二日とされ、本村の新井帯万が祀ったことによるという。社蔵の棟札八枚のうち「白鬚大明神・武刕入間郡河越」とのみ判読できる棟札(縦五二センチメートル・横一三センチメートル)は、『風土記稿』に載る「寛政三年の棟札」か、あるいは『明細帳』に載る「大永年中頃ノ棟札存在スト雖年暦朽損」のどちらかであると考えられる。
祀職は『風土記稿』に「神主山畑豊前(中略)勝呂雅楽が配下」とあり、棟札を見ると、寛文七年「神子太郎兵衛」、天和二年「神主三良右門」、元禄一〇年「神主三郎右衛門 遷宮師林蔵院」、享保一二年「社主山畑三郎右衛門 祈主林蔵院榮範法印」、延享四年「祠官山畑左近 導師伊勢守高麗重章」とあり、その変遷がうかがえる。現在、山畑護が奉仕する。
明治五年に村社となり、同四一年には豊田新田の八坂社、中耕地の稲荷社、表の白山社を本殿に合祀した。八坂社は天明五年仲茂右衛門の勧請と伝え、文化一一年の棟札があり、白山社は貞享元年神主山畑長兵衛と新井織部ら村民が協力して創建したと伝える。
明治四一年に東の稲荷社を合祀し、更に同四二年に当社の境内にあった菅原社(天保元年勧請)大己責社(文久三年勧請)浅間社(万延元年勧請)阿夫利社(天保六年勧請)琴平社の五社を本殿に合祀した。
「埼玉の神社」より引用
拝殿前に掲示されている社の由来等の案内板
社殿左側に祀られている境内社・福壽稲荷神社 社殿右側奥にある祭器庫
本 殿
当社の祭りには、昭和30年代まで、川越市中福の神楽や氏子の長男が組織する獅子舞、及び獅子の役者になれない子供達による囃子などが行われていたという。
当地の獅子舞は、狭山市柏原から習ったと伝えられ、主に氏子の長男により演じられたが、後継者の不足から中止され、今は獅子道具を境内に飾りつけるだけとなっている。これにかかわる信仰としては、舞うときに落ちた獅子頭の毛を持ち帰って、神棚に供える風習があった。
社殿と福壽稲荷神社の間には、倒木され空洞化しているのであろう老木の中から新たな若葉が芽吹いている。風雪に耐えながらも生きようとする自然の逞しさを実感するとともに、現代に生きている我々に何か大切なことを教えているようにも感じる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
