古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

正一位鎌足稲荷神社

「池辺公園」から入間川沿いに北東方向に進み、関越自動車道の高架橋を潜ったすぐ先に「埼玉県営川越水城公園」がある。池辺公園は、第一に不法投棄問題を解決するため、続いて残された自然を生かした河川敷公園へと整備するのが目的で、自然環境が豊かな部分には手をつけない方針との事で、自然を残しながら、散策や軽運動に利用できるよう、園路や小規模広場の配置を見込んでいるという。
 それに対して川越水城公園は、水と緑の空間を創出することを目的として、昭和63年(1988年)に主にプール施設として開設された芝生広場や散策路などが楽しめる緑豊かな県営公園である。園内では、春のサクラ並木や秋の紅葉など、四季折々の自然が楽しめ、さらには、ボート池(4月上旬から11月上旬まで)、テニス場(夏季プール期間を除く)など、年間を通じてさまざまな利用ができる、総合的なレクリエーション施設となっている。
 このように、埼玉県川越市にある池辺地域は、入間川右岸沿いにある広大な河川敷を利用した公園がつくられているが、それぞれの公園化に至る目的や用途がさりげなく違うことも興味深いことだ。
        
             
・所在地 埼玉県川越市池辺840
             
・ご祭神 宇迦之御魂大神
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元朝祭り 1月1日 初午祭り 3月最初の午の日
                  
二の午祭り 次の午の日 星祭り 12月15日
 池辺熊野神社から一旦入間川の土手方向に戻り、河川敷に沿って通じる道を北方向に進む。関越自動車道の高架橋付近に達した後、橋下のトンネルを潜った先にある「川越水城公園」を左手に見ながら楕円を描くように道なりに800m程進むと、公園入口手前付近の進行方向右側に正一位鎌足稲荷神社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。
 
  道を隔てて左側が
川越水城公園、右側に     看板左側にこじんまりと纏まった社
 
社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。        の境内が見える。

 この池辺地域は「埼玉の神社 
池辺熊野神社」において、「当地は入間川右岸に開ける水田地帯で、地名池辺は大きな池の傍らに開かれたことに由来するという。“酒樽いけれ(埋めれ)ば井戸になる”といわれたほどの湿地帯で(中略)近くを流れる入間川は度々決壊し、低地である当地に水害をもたらし、その都度住民は疾病に苦しめられた」との記載があり、『新編武蔵風土記稿 池邊村』にも同様の記述がある。
『新編武蔵風土記稿 池邊村』
 往古當所に大なる池ありしに、其傍を開て一村となせし故村名となれりと、其池の形は埋れて今は〇の跡のみ殘れり、村の廣さ東西五町餘、南北も大抵同じ(中略)陸田多く水田少し、用水は增形村より出る清水を引來れども、動もすれば旱損あり、(中略)
 堤 入間川の水除なり、增形村より小ヶ谷村に續けり、
 梶原淵 廣さ一反、水丈は〇に三四尺、名義は土人の傳あれど取るべきことにも非れば載せず、中に小嶋ありて辨才天の社を安ぜり、按に往古此邊大なる池ありしと云へば、押堀・梶原二の淵は彼池の遺跡ならんと土人いへり、
※ 〇…読解不可の旧字体で引用できず。
 
 
川越水城公園との道から一本東側内にある       民家の間の道幅の狭い路地を進みきると
      路地に建つ一の鳥居         参道は斜め左方向となり、二の鳥居が建つ。
                       因みに参道の先正面に見える建物は社務所
        
             参道の先に見える二の鳥居・三の鳥居
        
                四の鳥居の先に見える拝殿
        
                    拝 殿
 稲荷神社  川越市池辺八四〇(池辺字南重林宝)
 当社の鎮座する池辺は、入間川右岸に位置する農業地域で、集落を取り囲む様に水田や桑畑が人勝手いる。池辺の名の起こりは、『風土記稿』によれば、その昔、当所に大きな池があり、その傍らを開いて一村をなしたことによるとある。この話が伝える池は、現在は跡形もないが、当地は低地であるため、かつては池があちこちにあった。しかし、後年、耕地整理のために埋め立てられ、今では押堀など、地名にその名残を留めるにすぎない。
 この池辺地区の東北端に当社は鎮座しており、保食命を祀る。詳しい由緒は知られていないが、正しくは正一位鎌足稲荷と呼ぶとされ、松山の箭弓稲荷神社(現東松山市)の分霊で、池辺の開村のころから祀られていると伝えられる。
 鎮座地の地名を重林宝という。これは社記によれば、正元年中に天台宗最明寺及び七堂をこの地に建立した鎌倉の臣福山某が、当地に老杉が鬱然としていたところから名付けられたもので、以後当社を重林宝鎌足稲荷と号したと記載されている。
 本殿は一間社流造りであり、境内には、社殿のほかに神職の控え所とタイゴジョと呼ばれる建物が建っている。祀職は、もと地内の三明院が別当であったが、神仏分離の後は、豊田本の白鬚神社社家の山畑家が務めている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
     境内に設置されている社の案内板      社殿左側にある
神名碑・石祠・奉納碑
        
               拝殿の奥に祀られている石祠群



参考資料「新編武蔵風土記稿」
「日本工業経済新聞社HP」「ホットスタッフ川越パークHP」
    
「小江戸川越ウエブ」「かわごえ環境ネット」「境内案内板」等 

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池辺熊野神社

 川越市池辺地域に鎮座する熊野神社は鎌倉時代の創建という。当時、水害や疫病に悩まされており、近くの「三明院」と相談して「天王社」を祀ったのが起源である。そういう経緯により、三明院が別当寺となっていた。因みに、別当である三明院は、「観池山地蔵寺」と号しているが、かつては「三日月山」と称していて、何時の頃か「日」と「月」を合わせて三明院に改称し現在に至ったようだ。
『新編武蔵風土記稿 池邊村』
 熊野社 村の鎭守にて、三明院の持、天王社 同寺の持、下同、 山王社 稻荷社
 三明院 新義眞言宗勝呂大智寺の末、觀池山地藏寺と號す、昔は三日月山と號せしを、何の頃か觀池山と改め、かの日月の二字を合して三明院となせしと云、當寺世代の內宥慶元和七年六月十八日寂すと云ことを傳るのみなれば、開山の年歷は詳ならず、されど此以前の草創なることは知べし、中興開山隆惠、享保九年八月十三日寂、本尊大日を安置せり、七社稻荷社 藥師堂

 因みに地域名「池辺」は「いけのべ」と読む。この地名は昔ここに大きな池があったことから来ているといい、当社のすぐ北東にある「梶原淵」と呼ばれる弁天池は、その大きな池の一部が残ったものだと伝えている。この梶原淵は、鎌倉時代初期に活躍した武将で、鎌倉幕府の有力御家人である梶原景時がこの村の池で馬に水を飲ませたという伝承・伝説から名付けられたという。
 明治初期の近代社格制度において、当地の「村社」は同じ三明院が別当寺を務めた「熊野社」が列せられ、当社は「八坂神社」に改称して「無格社」となった。1907年(明治40年)の神社合祀により、村社の熊野神社をはじめとする3社が合祀され、当社を「熊野神社」に改称して村社となった。社名が「熊野神社」なのに、祭神が素盞嗚尊なのは、これらの経緯による。
        
             
・所在地 埼玉県川越市池辺261-1
             ・ご祭神 素盞嗚尊
             ・社 格 旧池辺村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元朝祭 春祭り 4月15日 夏祭り 7月14・15日
                  秋祭り 10月14・15日
 的場八坂神社や的場若宮八幡神社が鎮座する川越市的場地域を二分するように入間川に沿って北東から南西方向に走る埼玉県道114号川越越生線を南西方向に進み、的場地域を過ぎた入間川に架かる八瀬大橋の先にある「八瀬大橋南」交差点を左折する。入間川右岸に沿って続く道路の進行方向左手側には「池辺公園」と呼ばれる自然豊かな河川敷公園が続き、その中を700m程北行した先の十字路を右折し、暫く道なりに進むと左側に池辺熊野神社が見えてくる。 
        
                  池辺熊野神社正面
『日本歴史地名大系』 「池辺村」の解説
 豊田本村の西、入間川右岸の低地に立地。村名はかつて池であった地の周辺を開発したことに由来といい、押堀淵・梶原淵などの沼は池の旧跡という(風土記稿)。「親玄僧正日記」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)正応六年(一二九三)八月二日に「武蔵国池辺郷東方」とみえ、同年七月二九日将軍久明親王より山城醍醐寺に寄進されている。享徳四年(一四五五)七月一三日古河公方足利成氏方について戦った二階堂信濃三郎は「池野辺郷」ほかの所領安堵を申請している(「二階堂信濃三郎申状写」喜連川家御書案留書)。
        
                    拝 殿
 熊野神社  川越市池辺二六一(池辺字南宿)
 当地は入間川右岸に開ける水田地帯で、地名池辺は大きな池の傍らに開かれたことに由来するという。“酒樽いけれ(埋めれ)ば井戸になる”といわれたほどの湿地帯で、鎌倉期の武将梶原景時が馬に水を飲ませた伝説のある梶原淵を中心に数多くの池があり、近くを流れる入間川は度々決壊し、低地である当地に水害をもたらし、その都度住民は疾病に苦しめられた。
 古老によると「度重なる水害と疫病に悩まされた里人は、三明院(真言宗観池山地蔵寺)と相談して天王社を祀ったという。何でも鎌倉時代だった」と、当社創建の事情を語っている。
『風土記稿』池辺村の項には「熊野社 村の鎮守にて三明院の持、天王社 同寺の持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により、両社は三明院の管理を離れ、熊野社は村社、当社は八坂神社と改称し、無格社となった。明治四〇年、権現脇にあった村社熊野神社をはじめとして、字山王の日枝神社、字南宿の厳島神社を当社に合併し、社名を熊野神社と改めた。
 なお、熊野神社については、社蔵文書に「真言宗三明院住職神務を執り古記等同院にて秘蔵仕来候処、元治元甲子年十二月廿三百同院火災にて焼失し創立年紀等不詳、御一新に至り神仏区分之制に依り三明院神務を解き、明治五年村社に列せらる」の記載がある。
                                   「埼玉の神社」より引用

       拝殿に掲げてある扁額          境内に設置されている社の案内板
 熊野神社(歴史は上記「埼玉の神社」と同じなので略す)
 信仰
 当社は古くから天王様と呼ばれ、疫病除けの神として信仰を集めていたが、合し後は社名変更に伴い、「おくまんさま」と呼ばれ、何でもかなえてくれる神様として氏子の崇敬が厚く、家庭内にとどまらず地内に変事があった時には必ずお参りする。
祭りは、元朝祭・四月十五日の春祭り・七月十四十五日の夏祭り・十月十四十五日の秋祭りである。
 春祭りは、春祈祷とも呼ばれ、五穀豊穣を祈願する。 戦前までは鶴ヶ島村脚折の神楽の奉納があった。この神楽は、おじいさん・おばあさん・娘の三人で行うもので、娘が幣束と鈴を手に持って舞った後、四方へ矢を放ったという。氏子の家では草餅を作って祝った。
 夏祭りは天王様とも呼ばれ、はやり病が村内に入らないようにと、無病息災を祈るものである。十四日には重量四十貫、担ぎ手三十名を要する神輿の渡御があり村中を練り歩いたが、担ぎ手が減った戦後からは境内に神輿を飾るだけとなっている。秋祭りは穀物の実りに感謝する祭りであるという。
 氏子
 責任役員は、宮世話人と総代からなり、宮世話人は三名が選ばれ任期三年である。また、総代は区長が兼ね、任期は二年で三月の役員総会の時に交替する。
 運営費は、権現山と呼ばれる社有林から切り出される薪を売却し、その代金を充てていたが、戦後は神社費と称して宮世話人が各戸から一定額を八月と十二月に分けて集めている。
 埼玉の神社(入間 北埼玉 秩父)より抜粋
 昭和六十一年四月八日発行
 発行者埼玉県神社庁
                                       案内板より引用

       
                    本 殿
       
        本殿左側にある物置庫等。一番奥に神興庫らしき建物がある。
 案内板の信仰の項で、「夏祭りは天王様とも呼ばれ、(中略)十四日には重量四十貫、担ぎ手三十名を要する神輿の渡御があり村中を練り歩いたが、担ぎ手が減った戦後からは境内に神輿を飾るだけとなっている」と載せている。この神興庫には、その秋祭りで使われる神輿があるのかもしれない。
             
         拝殿左側に聳え立つ巨木。ご神木の如きその堂々たるお姿


  
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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松永神社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市松永1-3-21
            ・ご祭神 天香香背男命 須佐之男命(推定)
            ・社 格 旧松長村鎮守 旧村社
            ・例祭等 元旦祭 1月2日 地神様 3月10日 春祭り 4月15日
                 お日待 10月15日 甘酒祭り 12月1日
 佐間八幡神社の北側を通る国道125号線(及び埼玉県道3号川越栗橋線との重複路線)を北東方向に700m程進んだ先にある「佐間東」交差点を左斜め方向に進路変更する。その後、松永地域の中央部を東西に分けるように縦断している道を600m程進行した先の丁字路を左折し、暫く道なりに進むと進行方向右手に松永神社の鳥居が見えてくる。
 地図を確認すると、埼玉県立栗橋北彩高等学校の道を隔てた南側に社は鎮座している。
        
                  松永神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「松長村」の解説
 伊坂村の南に位置。松永とも書く。村の東を古利根川が流れ、川沿いに古堤がある。日光御廻(おまわり)道のほか、鎌倉街道であったという古道が通る。「風土記稿」によれば、天正年間(一五七三―九二)紀州から来た慶長という者が開発したと伝える(その子孫七郎右衛門は名主を務める)。田園簿に村名がみえ、田高一石余・畑高一三八石余で、幕府領。元禄郷帳では一七二石余で幕末まで変わらない。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも一橋領。
 今日の松永地域は、住宅地として他所からの転入者も多くなってきているのだが、この社周辺は、昔懐かしい雰囲気が今なお残っている。まさに地域の鎮守様といった第一印象。
        
                参道左側に見える建物は松永会館
 当社は『新編武蔵風土記稿』において、村の鎮守と記載されているには「熊野神社」であった。
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡松長村』
 熊野社 村の鎭守なり、名主七郎右衛門が先祖、慶長本國紀州より寫して勧請する所なり、寶藏院持下四社持同じ、
 〇星宮明神社 〇天神社 〇香取社 〇稻荷社
 寶藏院 新義眞言宗、下總國香取郡前林村東光寺末、醫王寺と云、本尊不動、開山賴存寬永十六年二月十八日寂す、
 その後、当社は星宮神社を母体として香取神社が合祀され、社名も「星宮神社香取神社合殿」と改称され、明治6年に村社となっている。このような社名等の変遷の理由は、熊野神社は名主である鈴木家の氏神としても性格が強く、同時に、当社に比べ、社としての規模も小さかったためと考えられる。因みに『郡村誌』松永村の項には、村内の神社について「星の宮社」一社しか記載されていないようだ。
        
                    拝 殿
 松永神社  栗橋町松永三四五(松永字星之宮)
 松永の開発について、古老は「はじめ草加、村上、倉橋の三人が開拓を行い、次いで永正二年(一五〇五)に紀伊の国から郷氏鈴木三郎慶長という者がこの地にやってきて村を開いた」と伝えている。  (※)『風土記稿』は天正二年(一五七四)としている。
 更に古老は、「草加・村上・倉橋の三人を祀ったのが現在当社の境内にある地神尊で、その後、鈴木三郎慶長が、開村の年の十一月に、古くから祀られていた土地の神である地神尊の傍らに氏神として熊野神社を奉斎し、次いで村内に、星宮神社・香取神社・天神社を創建した」とも伝えている。ただし、現存する地神尊の石祠は再建されたものらしく、天保二年(一八三一)と刻まれている。また、熊野神社をはじめとする四社は、『風土記稿』によれば、いずれも、真言宗の宝蔵院持ちの社であり、熊野神社が鎮守であった。
 当社は、この四社のうちの星宮神社が母体となっており、幕末にそこに香取神社が合祀されて、星宮神社香取神社合殿とよばれるようになり、明治六年には村社となった。
また、同四十三年には、熊野神社・天神社・稲荷神社の三社を境内に合祀した(ただし稲荷神社は旧地に復している)。その後、大正三年に社号を松永神社と改め、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
            拝殿の手前で参道左側に祀られている雷電社
 雷電宮は、元禄十年(一六九七)の創建で、かつたは水の神として厚く信仰され、近郷の者が雨乞いのために正装で参拝したものであったという。なお、同社の社殿内には神輿があり、古くは神輿渡御を伴う祭りも行われたともいう。
        
                      雷電社の並びに祀られている石祠・石碑群
         
左から(?)・天神宮・稲荷大明神・熊野大権現・地神尊
 当社では、元旦祭(1月2日)・地神様(3月10日)・春祭り(4月15日)・お日待(10月15日)・甘酒祭り(12月1日)の年5回祭りが行われている。そのうち、宮司によって祭典が奉仕されるのは、春の祭りとお日待だけで、他の祭りは、お神酒を供えて氏子だけで参拝するとの事だ。
 地神様とは、境内にある地神尊の祭りで、これは、先住者に感謝の意を表す祭りといわれ、お神酒を供えて、氏子銘々が参拝するという。
   
   社殿の左側に祀られている境内社       社殿の右側に祀られている境内社
       日枝社・日枝社               天神社・秋葉社
 また、12月1日に行われる「甘酒祭り」は、元来はその名の通り、実際に甘酒を作り、神前に供え、行事終了後はそれを皆で飲むという祭りであった。しかし戦後の農地改革により社有田が没収され、原料となる米が取れなくなったことから、名称だけは存続されたものの、現在のような参拝するだけの祭りとなっているという。
        
           松永会館の手前で道路側にある力石2基など
        
            正面鳥居のすぐ右側にある宝蔵院跡の観音堂



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等

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狐塚氷川鹿島大神宮


        
             
・所在地 埼玉県久喜市狐塚217
             
・ご祭神 素盞鳴尊 武甕槌命
             
・社 格 旧狐塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭礼 4月15日 秋祭礼 10月15日
 国道125号線から「佐間」交差点を直進し、埼玉県道316号阿佐間幸手線を南東方向に3.6㎞程進むと、県道沿いに狐塚氷川鹿島大神宮が見えてくる。鳥居から社殿に至る参道の両側は、樹木もなく、開放感のあるのどかな場所に社は鎮座している。
        
                
狐塚氷川鹿島大神宮正面       
『日本歴史地名大系』 「狐塚村」の解説
 中里村の南西に位置し、東を島川が流れる。川沿いに堤防(島中囲堤)がある。元亨四年(一三二四)二月八日の下河辺荘公事注文案(金沢文庫文書)に「キツ子ツカ」の地名がみえ、称名寺(現神奈川県横浜市金沢区)領であったことがわかる。田園簿に村名がみえ、田高一八石余・畑高一七九石余で、幕府領。元禄郷帳では高一六五石余。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも幕府領。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
 
社の入口付近で参道右側に設置されている案内板    参道右側周辺にある高秀寺の墓地 

 
               参道途中に建つ鳥居(写真左)。
      鳥居の社号額には「氷川大明神・鹿島大神宮」と刻まれている(同右)。
 当地には幾つもの沼がある。これは、利根川の氾濫により生じたものであり、水損地帯であることを物語っている。
 当社の神威を語る話も、水害にかかわるものが多い。明治四十三年、他社に合併することになり、幣束を持ち出したところ大水が出たので中止した。また、昭和二十二年の大洪水の折には、中川の昭和橋付近で逆流した水によって神社周辺が最も水勢の激しい所となったが、神様のお力で社は流されなかったという。
 このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
 
 参道を進み境内に入ると左側に「
狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑」があり(写真左)、右側には御嶽山座王大権現・八海山大頭羅神王・三笠山刀利天宮と刻まれた石碑、その右側手前には山口数馬霊神と刻まれた石碑がある(同右)。
 狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑
 一、名 称  氷川神社 鹿嶋大神宮
 一、所在地  栗橋町大字狐塚四番二一七番地
 一、所有者  埼玉県神社庁
 一、祭 神  素盞鳴尊 武甕槌命
 一、創立沿革 往古より之あり、元禄十丁丑年除税地と相
        成り、及々大破した
ので天保十四年中、氏
        子力を協せて再建せり。明治六年
村社と許
        可。同四十三年
三月二十五日、同村同字四
        番無格社御嶽
神社を合併す。大正五年九月
        十四日、本殿改造許可。同年十一月
十五日
        工事落成
        昭和二十二年九月 洪流により鳥居流失(中略)
 一、行事祭礼 四月十五日、十月十五日
           
春秋二回の祭礼を行なう。
        部落三班に分れ輪番制で祭礼を行なう。
 一、地 勢  字のほぼ中央を南北に貫く県道幸手杓子木
        線の東側に位置し、南は中川
堤塘北方には
        内池が清澄な水を湛えているが、西方は水
        田が開けている。
社殿の後方に杉は鎮守の
        森を形成していたが近年公害により枯死し
        現在は
数本を残すだけとなって居る。
     以上が昭和六十四年迄の元神社の概況であり、
        町の資料による。(以下略)                  
記念碑文より引用 
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡狐塚村』
 島川 村の東を流る、川幅十二間、川に傍て堤あり、又此川に渡船場あり、水原のことは嶋川村の條に辨す。
 鹿島社 村の鎭守なり、泉福寺持、
 泉福寺 新義眞言宗、内國府間村正福寺末、月光山藥王院と云、本尊藥師を置、


 氷川神社  栗橋町狐塚五八二(狐塚字五番)
 当地の地名狐塚は、古いころ田の神として狐を祀った塚があったからと伝える。地内には、高秀寺と当社の別当であった泉福寺の二寺があり、『風土記稿』高秀寺の項に、「鐘楼 延宝三年(一六七五)鋳造の鐘を懸く」とあり、また、泉福寺は「鐘楼 延宝九年の鐘を懸く」とある。現在、両寺とも鐘は見られないが、当社の隣にある清澄な水を湛える内池には、お寺の鐘が沈んでいるとの話が伝わっている。これにより、当地の開発年代は不明ながらも、延宝のころには鐘を懸ける寺が二か所もある村であったことが知られる。
『明細帳』に「往古ヨリ是アリ、元禄十年(一六九七)ノ検地二除税ノ旨ガアル、社殿ハ天保十四年(一八四二)再建」とある。
『風土記稿』には、氷川神社の記載はなく鹿島社として載る。これには口碑によると、昔当地が下総国に属していたころは、一の宮香取神社を祀り、次に常陸国から当地へ入植があり、その国の神である鹿島神社が祀られ、江戸期に入って武蔵国へ編入されるに及んで武蔵の氷川神社を勧請したものであるという。そのため、氏子は社名を鹿島社とも氷川社とも呼ぶ。なお、社号額は「鹿嶋大明神・日川大明神」と二神を併記し、二間社の本殿に二社の金幣が祀られている。
『明細帳』に「明治四十三年三月二十五日、同村同字四番無格社御嶽神社ヲ合併ス」とあり、現在拝殿内に祀られている。 
                                                「埼玉の神社」より引用
        
              拝殿の足元に置かれている嘗ての社号額
        
                     社の東側にある「狐塚ヘルシーパーク」
      地域名「狐塚」からきているのであろうか。何気に狐の銅像があったりする。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板・記念碑文」等

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間鎌稲荷神社


         
             
・所在地 埼玉県久喜市間鎌159
             
・ご祭神 保食命
             
・社 格 旧間鎌村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
 間鎌八幡神社から北西行すると500m程、「間鎌稲荷会館」の東側隣に間鎌稲荷神社は鎮座している。
        
                  
間鎌稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「間鎌村」の解説
 松長村の南東に位置する。天正一七年(一五八九)五月晦日の某印判状写(武州文書)によると、先年下総関宿(せきやど・現千葉県関宿町)で戦功があったとして巻島主水助が「間釜之内にて十貫文」を小田原北条氏(氏照か)より宛行われている。田園簿に村名がみえ、田高九石余・畑高一〇八石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一四一石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも一橋領。
        
             開放感のあり境内も手入れの行き届いた社 
       
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌村』
 稻荷社 村の鎭守なり、村持、

 稲荷神社  栗橋町間鎌一五九(間鎌字砂畑)
 当社は、栗橋町の中央や北西寄りの間鎌にある。間鎌の地名は、島の中の淵を表す、あるいは淵のあった所であるなどの説がある。
 神社の辺りの集落を本田と呼び、当地の草分けで「長屋門」の家号を持つ籠宮(こみや)家がある。当社は籠宮家の先祖が氏神として祀ったものを、後に本田の鎮守にしたものであるという。口碑に「籠宮本家に屋敷神がいないのは本田の鎮守に祀ってしまったからだ」とある。籠宮家については明らかにできないが、同家のある耕地は本田のうち砂畑という所で、八軒で入植したと伝えている。
『明細帳』に「元祿十丁丑歳(一六九七)十二月中除税地トナリ鎮座有之、其ノ前鎮座ノ年暦干支記録伝聞等詳ナラズ」とある。
 当社の本殿棟札に「奉再建稲荷大明神社一宇 右天下泰平国土安全氏子安隠也 天明八戌申歳(一七八八)九月 武州葛飾郡間鎌村氏子中 遷宮導師迎盛院快興」がある。これによると、当社は字本田の鎮守というよりも、大きく間鎌村の鎮守であったと思われる。
 嘉永三年(一八五〇)、当所氏子中奉納の農作業風景を描いた絵馬は、牛での耕作・田植え・草取り・刈り取り・振り棒打ち・風選(ふうせん)・懐詰めと、順序を追って描かれ、往時の様子をうかがわせる。
 なお、境内には寮と呼ぶ建物があり、阿弥陀如来と不動明王を安置している。
                                   「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」によると、当社の祭りには「おおぜいれ」と「こぜいれ」があり、各々「大祭礼」「小祭礼」の意味とも思われ、「おおぜいれ」は間鎌全体の祭りであり、「こぜいれ」は字本田のみの祭りであるという。この区別の起こりは、当社が本田の鎮守であると共に間鎌全域の鎮守としての位置付けられていることに関係するとみられるが、明治期に村社となったことによるものかそれ以前かは不明である。
「おおぜいれ」は、4月15日の春祭りと10月15日の秋祭りをいい、秋祭りは特に「秋のおおぜいれ」と呼んでいる。春秋共に本田の当番が赤飯を炊き、本田の氏子が上げる赤飯と一緒に神前に供え、これを下げて子供たちにお供物として配る。また、直会には間鎌全戸が参加する習わしがある。因みに直会の会場は、昭和34年に境内に大ケヤキを売却し、稲荷会館を建ててからは、こちらで行っている。
        
            水塚上で拝殿前左側に祀られている地神尊
   地神尊の奥に見える建物は、阿弥陀如来と不動明王を安置している「寮」であろうか。

 一方、「こぜいれ」は、初午や3月17日の地神尊をいう。初午は、子供達を集めて太鼓をたたかせ、菓子を配り、大人たちは当番を中心に、神前でお神酒上げと称して神饌(しんせん)とお神酒を供えて拝礼し、稲荷会館で直会を行うという。また、
地神尊は、境内にある石祠「地神尊」を祭るもので、作神として敬い、お神酒上げと直会をするという。
        
             稲荷会館の南側に隣接して祀る幾多の供養塔や地蔵様
      左から念仏供養塔・地蔵様・十九夜塔・甲子待供養塔・光明真言供養塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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