八甫鷲宮社
・所在地 埼玉県久喜市八甫4—651
・ご祭神 大己貴命 天穂日命 天夷鳥命
・社 格 旧八甫村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 例祭 4月15日 鷲宮催馬楽神楽 7月24日
お日待 10月15日
大輪神社の鎮座する埼玉県道152号加須幸手線「産業団地(北)」交差点を東方向に300m程進んだ先にある路地を左折すると、進行方向正面に八甫鷲宮社の鳥居が見えてくる。
この鷲宮社が鎮座する地域名は「八甫」と書き、「はっぽう」と読む。この地域名については、当地の周りに西大輪など八ヶ村があったことから「八方」の意味とする説や、中川が利根川の本流だったころ、この辺りは八艘の船が帆を揚げて通れる大河であったことから「八帆」の意味だとする説、船運が盛んだったころ、当地近辺に八つの浦があったことから「八浦」の意だと「する説などが伝わっているという。
八甫鷲宮社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「八甫村」の解説
東大輪村の北にあり、西は鷲ノ宮村、村の北を流れる島川(現中川)の対岸は新井村(現栗橋町)。地名は八浦とも書かれ、八つの浦があったとも、帆影が八つ見えたことからとも、八ヵ村に囲まれた地から八方と称したともいう。布施美作守景尊に宛てた天正九年(一五八一)から一五年の間と推定される六月三日の北条氏照書状写(武州文書)に「八甫」とみえ、八甫から上流に上る商船三〇艘は咎立てをする必要はないが早く戻ること、また八甫は氏照の当知行なので他の船をむやみに通さず、今後はだれの船かを確認してから通すことなどを申渡しており、関宿(現千葉県関宿町)・古河などと同じく氏照の支配下にあった河岸場であったことが知られる。当地から延慶二年(一三〇九)、元亨四年(一三二四)銘など多くの板碑が発見されている。
田園簿に八浦村とみえ、田高一九七石余・畑高七〇三石余(ただし田畑の合計高は村高と一致しない)、ほか野銭永一二三文とあり幕府領。元禄八年(一六九五)の反別寄(文久元年「八甫村諸記録写」霊樹寺文書)によれば、石盛は上田一一・中田九・下田七・下々田五、上畑・屋敷一〇で、ほかは同じく二ツ下り、総反別一一二町余・高八五六石余で、ほかに野銭場一四ヵ所の反当り永一〇〇文、雑木林銭場五九ヵ所の反当り永二五文、草銭場一ヵ所の永一五文となっている。
当社は長禄年間(1457年 - 1460年)に創建された。その後、1695年(元禄8年)に白石与右衛門によって再勧請されている。与右衛門在世中の八甫村には、当時1000石の年貢が課されていた。その年貢の負担で村内が疲弊していたことから、与右衛門は村を代表して鷲宮神社に年貢軽減の祈願をしたところ、翌年から900石に年貢が軽減された。与右衛門はこれに感謝して、鷲宮神社より分霊を勧請して社殿を建てたと伝えられる。
1874年(明治7年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
境内に向かう途中で参道左側に設置されている「八甫の獅子舞」の案内板(写真左・右)
「久喜市HP」
鷲宮1丁目の鷲宮神社では年に6回、国指定重要無形民俗文化財の「鷲宮催馬楽神楽」が行われますが、八甫(はっぽう)の鷲宮神社でも年に1回、4月15日の祭日にあわせて鷲宮催馬楽神楽が行われます。今回は、八甫の鷲宮神社でのみ行われる特徴的な神楽の演目についてご紹介します。
鷲宮催馬楽神楽は全12座の演目で構成されますが、そのほかにも番外の演目が伝承されていて、そのうちの一つ「天津国津狐之舞(あまつくにつきつねのまい)」が八甫の鷲宮神社でのみ行われる演目です。この演目は、狐(天狐(てんこ)・地狐(ちこ))の2人とひょっとこの面をつけた山の神の1人で舞い、狐たちが農夫に種まきを教える様子を表現しています。
この「狐」の舞はその後、江戸の里神楽から逆輸入されたものだと考えられています。そのため、本社で演じられることはなく、ほかの演目とは調子の異なる陽気な囃子(はやし)が演奏され、舞人(まいにん)がおどけた狐に扮(ふん)して横っ飛びを行ったり、その様子を山の神が胡坐(あぐら)をかいて眺めたりと、ほかの演目では見られない特徴的な所作(しょさ)の舞が演じられます。また、舞人たちが見物人に餅などを配り、その年の災厄を祓(はら)うならわしも、この「狐」の舞の時だけに行われます。
八甫の鷲宮神社では、天保(てんぽう)14年(1843)以降、神楽を行うようになったとされ、天保年間(1830から1843)の記録に12座の演目の番外として「天津国津狐之舞」が挙げられていることから、江戸時代後期には八甫で「狐」の舞が行われていたことが推察されます。
「八甫の獅子舞」のみならず「鷲宮社の史歴と行事」の看板も設置されている。
神楽殿
案内板や久喜市HPに説明されているように、当社では4月15日の例祭で、土師一流催馬楽神楽が奉納されている。この例祭は、氏子の間では「だいだい」と呼ばれていて、「太々」の意味であり、当日奉奏される太々神楽にちなんだ通称である。太々神楽を見るのは、氏子の楽しみの一つであり、古くは近隣の村々からも花見がてらに多数の見物人が訪れ、広い境内がいっぱいになったという。
また、7月下旬には鷲宮町指定無形民族文化財であるささら獅子舞も奉納されるのだが、八甫の淡中宮(あわなかみや)・上・中・下の四耕地に古くから伝わるもので、江戸期に舘林で行われた寄せザサラ(競演会)で優勝し、領主から褒美として弓を拝領したという実績を持ったとの事だ。
拝殿前に聳え立つ老木。ご神木の類であろうか。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 八甫村』
鷲宮社 村の鎭守なり、金剛院持、下三社同じ、末社稻荷 天神 〇稻荷社二 〇諏訪社
金剛院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺の末、不動山金剛寺・号す、開山金剛房秀憲慶安五年十月八日化す、本尊彌陀 不動堂 觀音堂
鷲宮社 鷲宮町八甫六五一(八甫字宮前)
『明細帳』は、当社の由緒について、「創立ハ長禄年度(一四五七-六〇)埼玉郡鷲宮村鷲宮神社ノ別ケ霊ヲ鎮祭、其後元禄八年(一六九五)本村白石与右衛門発願ニテ社殿建立、尚明治九年本村渡辺七左衛門義意智氏子協心同力ニテ今ノ社殿拝殿共建立セリ」と記している。このうち、長禄年間の鎮祭についての言い伝えは残っていないが、白石与右衛門については、氏子の間に次のような話が伝わる。
その昔、開拓が進んで八甫の村が今くらいの大きさになったころ、千石の年貢が課せられていた。村人は年貢が高すぎて納めきれずに苦しんでいたが、ある年、白石与右衛門が願主となって鷲宮村の鷲宮神社に年貢の軽減を祈願し、成就の暁には鷲宮様を八甫の鎮守として勧請することを約束した。すると、次の年から年貢が九〇〇石余に減った。そこで、八甫では神様との約束どおり、鷲宮様の分霊をお迎えし、鎮守として奉斎するようになった。
なお、当社の本殿内には、この時お迎えしたと伝えられる分霊(神璽)があるが、その箱書きには「天保十年(一八三九)九月十九日」とあり、『明細帳』の記述とは一致しない。
祭神は大己貴命・天穂日命・天夷鳥命の三柱で、明治七年に村社となり、今日に至っている。 「埼玉の神社」より引用
本 殿
神楽殿の並びに祀られている天神宮等の石祠 本殿奥に祀られている石祠
天神宮以外は不明 「埼玉の神社」によると浅間宮らしい。
境内北側隅に祀られている諏訪大明神
八甫鷲宮社遠景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
