野々宮神社
この『子供相撲』は江戸末期に絶え、どのように行われたものかも不明であるが、秩父地方に残る信願相撲に類するものと思われるとの事だ。
一礼之事
一当社野々宮大明神毎年九月九日武州高麗郡野々宮村鎮守御祭礼子供相撲
有之〇処此度心願二付土俵古○作法之式相改永代奉納致置○然ル上者以
後相撲世話人亦者家業人尋参リ彼是故障ヶ間敷儀申○もの有之〇ハヽ此
書付ヲ以可被申聞○又相撲破門之者与見請○ハヽ猶又厳敷申聞○為後証
之右筆付相渡シ置○依而如件・天保二卯歳八月・江戸相撲歳寄行事兼木
村庄之助正武(花押)・当社御村方相撲世話人衆中様
推測の域を出ないが、当地の出身で天平八年(七三六)に従五位下となり、やがて従三位弾正尹(だんじょういん)兼武蔵守にまで進んだ高倉福信なる者がいる。福信は、『続日本紀』に、高倉福信高句麗の王族の孫で、少年の時、都に上がり相撲の上手がいつしか内裏に聞こえて衛士となり、昇進を重ねるとあるため、あるいはこの福信の故事にあやかって始められた『子供相撲』ででもあったのであろうか。
・所在地 埼玉県日高市野々宮146
・ご祭神 天照大神 瓊々杵尊 猿田彦命 倭姫命
・社 格 旧野々宮村・楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等鎮守
旧村社
・例祭等 例大祭(獅子舞) 10月9日
埼玉県道15号川越日高線沿いに鎮座する栗坪諏訪神社を更に850m程東行し、「総合福祉センター前」交差点を左折する。その後、通称「もくせい通り」をしばらく北上すると、進行方向左手に野々宮神社の社号標柱や鳥居が見えてくる。
野々宮神社正面
当社の創建年代不明だが、京都市右京区嵯峨野に鎮座する「野宮神社」の分社といわれている。「野宮神社」は、豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する社であると伝えられていて、黒木鳥居(クヌギの木の皮を剥かないまま使用する、日本最古の鳥居の様式とも言われている)や小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられた。その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれているという。
この入口に建つ鳥居も前面黒色に覆われていて、黒木鳥居の類かもしれない。
鳥居付近に設置されている案内板
野々宮神社 所在地 日高市大字野々宮
野々宮神社は、祭神に天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っている。創立年代は不詳であるが、社家の古文書によると大宝三年(七〇三)社殿修築という記述があって、口碑、伝説などがら推察するとがなりの古社と考えられる。慶安二年(一六四九)徳川家光から賜わった社領四石五斗の安堵状なども保存されている。野々宮神社は関東地方では珍しく、狭山市に一社あるほかは近隣にはない。祭神や高麗川のほとりにあることや、拝殿内の絵馬に「奉献太祓一万度」とあるところなどから、潔斎(決済)の宮・お祓いの神であり、京都嵯峨か紫野(むらさきの)の野宮の分祠と考えられる。
例大祭は、毎年十月九日で、この際奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を見ないものである。
昭和五十七年三月 日高市 案内板より引用
参道から眺める野々宮神社とその奥に見える社叢林
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 高麗郡野々宮村』
野之宮社 天照太神・瓊々杵尊・猿田彦命・倭姫命を祭と云、慶安二年四石五斗の御朱印を賜ふ、例祭九月九日、當村及び楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等の鎭守なり、神職野之宮市正吉田家の配下なり、
野々宮神社 日高町野々宮一四六(野々宮字小竹)
武蔵野台地を流れる高麗川の沿岸に開ける野々宮は、そのたたずまいに古代の人々の生活の営みを感じさせる所である。
社家である野宮家の先祖は日向国タカサダの地より来住したとされ、代々長男は高の字を名乗りに用いるという。
また、同じ社号を持つ狭山市北入曾の野々宮神社社家の宮崎家の口碑には、先祖は神武天皇東征に従い日向国より大和に入り、やがて朝命により兄弟三人東国に派遣される。一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(当社社家先祖)に、一人は鴻巣に居を構えて、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たったという。
社記に「四十二代文武天皇の大宝三年社殿修築」の記事がある。大宝三年(七〇三)とは、同元年に施行された大宝律令によって引田朝臣祖父が武蔵国の国司として赴任した年で、当社修築はこれにかかわるものであろう。なお、当時の国府は府中であったとされている。
霊亀二年(七一六)に駿河以東七カ国の高麗人一七九九人を当地方に移して高麗郡を設置する。社伝によると高麗王若光遠乗りの折、当社近くにて落馬し、これは身の穢によるとして当社前に祓を修した。
また、野宮とは神宮に仕える斎宮が、奉仕に先立って一年間潔斎生活を送る斎殿を指している。
当社は高麗川に、入間の野々宮神社は不老川に、鴻巣の野々宮神社は荒川にと、それぞれ川辺に鎮座し、祀職は祓の伝承地日向出身と伝えている、以上のことは野々宮神社が“祓の社”としての役割を持っていることを物語るものであろう。
『明細帳』に、社殿の再建を天徳三年(九五九)とし、神田隼人・新井縫之助の建立、その後数度の再営を経て、現在の社殿は寛永三年と記している。また、内神宮と称する内陣の造営は享保一〇年である。
『風土記稿』に「野々宮社 天照大神・瓊々杵尊・猿田彦命・倭姫命を祭と云、慶安二年四石五斗の御朱印を賜ふ、例祭九月九日、当村及び楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等の鎮守なり、神職野々宮市正吉田家の配下なり」とある。猿田村は、高麗市百苗の一つ神田姓が多く、古くは高麗神社の神饌田があったと伝えている。
当社の北に、高麗川を挟んで高麗神社があるが、当社の社蔵文書に「当社高麗王の尊霊を祀る」との記事があり、高麗神社との深い関係をうかがわせる。しかし、高麗神社が高麗山大宮寺と称することに対して、当社が高麗山野々宮大宮司であったため、音読による誤解を招くと抗議する間柄に変化した時代もある。
祀職を務める野々宮家は、所蔵文書「天文十六年十一月十九日・覚之事(六所宮祭事ニ付参集覚写)」に野々宮勘子の名が残る旧家で、代々大宮司を称している。
「埼玉の神社」より引用
拝殿前にあり、四方を柵で保管されている力石 本 殿
社殿の奥は豊かな杉林が社叢林として密生している。社叢林は植生ではなく自生によって成立した樹叢であることが多いが、この社は現宮司の御先祖が武蔵国大国魂神社から杉の実を持ってきて育てた林という。また、「埼玉の神社」によると、本殿覆屋内に「琴平社・東照宮・祇園社・大山祇社・稲荷社」が祀られているというのだが、社殿奥の社叢林中にも多くの境内社や石祠が祀られていて、上記の社と同名の社も存在している(東照宮以外)。
本殿奥に祀られている石祠と境内社。左より大山祇社・特潜神社
特潜神社は、大東亜戦争時、敵海軍の泊地襲撃や、工作員潜入などに使われた軍用潜水艇・小型潜水艦で、日本の甲標的特殊潜航艇で出撃し、その際の戦死者を祀る社であるという。
稲荷大神。奥に見えるのが琴平神社 大山祇神
祇園社 道を隔てた北側に祀られている天神社
境内に設置されている「野々宮神社の文化財」の案内板
拝殿前にある相撲の土俵
野々宮神社奉納相撲場付関係資料 市指定有形民俗文化財 平成2年3日指定
拝殿前の6m四方、高さ45cmの土壇の上には、天保二年(1831)に土俵古実作法にのっとり江戸相撲歳寄行司武が築いた土俵が保存状態も良く残っています。この土俵では奉納相撲が行われていました。その他に、「嘉永2巳酉年(1849)林鐘十有一日 於当社興行」と記されている相撲番付が保存されています。土俵、番付表2枚、古文書2通、力石3個が相撲関係資料として指定されています。
「野々宮神社の文化財」の案内板より引用
歴史を感じさせてくれる重厚な社
獅子舞
市指定無形民俗文化財 昭和57年12月指定
10月9日(現在は10月3〜9日の日曜日に行っています。)の例大祭は氏子によって奉納される獅子舞が伝えられています。この獅子舞の場の「笹掛り」は、雌獅子を廻って2頭の雄獅子が蛇を奪い合って飲み込む独特のものです。
「野々宮神社の文化財」の案内板より引用
獅子舞の記
当社に獅子舞の創始された古き昔は定かではないが、現在使用している獅子頭は天狗の面に刻してある天保十一年とほゞ時を同じうするものと推定されます。加うるに当社にはその前の獅子三頭が保存されており、そこから江戸初期には既に獅子舞が行われたと思われます。
古来より勇壮にして優美と喧伝された当社の獅子舞は、かく綿々と親から子、孫と受け継がれて来ました。昭和五十年に当たり関係者相議り、古き昔を偲びせめて記憶にのぼる人々の名を録して記念とする次第であります。
拝殿脇に奉納されている額文より引用
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日高市HP」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内案内板」等
