池辺熊野神社
『新編武蔵風土記稿 池邊村』
熊野社 村の鎭守にて、三明院の持、天王社 同寺の持、下同、 山王社 稻荷社
三明院 新義眞言宗勝呂大智寺の末、觀池山地藏寺と號す、昔は三日月山と號せしを、何の頃か觀池山と改め、かの日月の二字を合して三明院となせしと云、當寺世代の內宥慶元和七年六月十八日寂すと云ことを傳るのみなれば、開山の年歷は詳ならず、されど此以前の草創なることは知べし、中興開山隆惠、享保九年八月十三日寂、本尊大日を安置せり、七社稻荷社 藥師堂
因みに地域名「池辺」は「いけのべ」と読む。この地名は昔ここに大きな池があったことから来ているといい、当社のすぐ北東にある「梶原淵」と呼ばれる弁天池は、その大きな池の一部が残ったものだと伝えている。この梶原淵は、鎌倉時代初期に活躍した武将で、鎌倉幕府の有力御家人である梶原景時がこの村の池で馬に水を飲ませたという伝承・伝説から名付けられたという。
明治初期の近代社格制度において、当地の「村社」は同じ三明院が別当寺を務めた「熊野社」が列せられ、当社は「八坂神社」に改称して「無格社」となった。1907年(明治40年)の神社合祀により、村社の熊野神社をはじめとする3社が合祀され、当社を「熊野神社」に改称して村社となった。社名が「熊野神社」なのに、祭神が素盞嗚尊なのは、これらの経緯による。
・所在地 埼玉県川越市池辺261-1
・ご祭神 素盞嗚尊
・社 格 旧池辺村鎮守 旧村社
・例祭等 元朝祭 春祭り 4月15日 夏祭り 7月14・15日
秋祭り 10月14・15日
的場八坂神社や的場若宮八幡神社が鎮座する川越市的場地域を二分するように入間川に沿って北東から南西方向に走る埼玉県道114号川越越生線を南西方向に進み、的場地域を過ぎた入間川に架かる八瀬大橋の先にある「八瀬大橋南」交差点を左折する。入間川右岸に沿って続く道路の進行方向左手側には「池辺公園」と呼ばれる自然豊かな河川敷公園が続き、その中を700m程北行した先の十字路を右折し、暫く道なりに進むと左側に池辺熊野神社が見えてくる。
池辺熊野神社正面
『日本歴史地名大系』 「池辺村」の解説
豊田本村の西、入間川右岸の低地に立地。村名はかつて池であった地の周辺を開発したことに由来といい、押堀淵・梶原淵などの沼は池の旧跡という(風土記稿)。「親玄僧正日記」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)正応六年(一二九三)八月二日に「武蔵国池辺郷東方」とみえ、同年七月二九日将軍久明親王より山城醍醐寺に寄進されている。享徳四年(一四五五)七月一三日古河公方足利成氏方について戦った二階堂信濃三郎は「池野辺郷」ほかの所領安堵を申請している(「二階堂信濃三郎申状写」喜連川家御書案留書)。
拝 殿
熊野神社 川越市池辺二六一(池辺字南宿)
当地は入間川右岸に開ける水田地帯で、地名池辺は大きな池の傍らに開かれたことに由来するという。“酒樽いけれ(埋めれ)ば井戸になる”といわれたほどの湿地帯で、鎌倉期の武将梶原景時が馬に水を飲ませた伝説のある梶原淵を中心に数多くの池があり、近くを流れる入間川は度々決壊し、低地である当地に水害をもたらし、その都度住民は疾病に苦しめられた。
古老によると「度重なる水害と疫病に悩まされた里人は、三明院(真言宗観池山地蔵寺)と相談して天王社を祀ったという。何でも鎌倉時代だった」と、当社創建の事情を語っている。
『風土記稿』池辺村の項には「熊野社 村の鎮守にて三明院の持、天王社 同寺の持」と載せている。
明治初めの神仏分離により、両社は三明院の管理を離れ、熊野社は村社、当社は八坂神社と改称し、無格社となった。明治四〇年、権現脇にあった村社熊野神社をはじめとして、字山王の日枝神社、字南宿の厳島神社を当社に合併し、社名を熊野神社と改めた。
なお、熊野神社については、社蔵文書に「真言宗三明院住職神務を執り古記等同院にて秘蔵仕来候処、元治元甲子年十二月廿三百同院火災にて焼失し創立年紀等不詳、御一新に至り神仏区分之制に依り三明院神務を解き、明治五年村社に列せらる」の記載がある。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額 境内に設置されている社の案内板
熊野神社(歴史は上記「埼玉の神社」と同じなので略す)
信仰
当社は古くから天王様と呼ばれ、疫病除けの神として信仰を集めていたが、合し後は社名変更に伴い、「おくまんさま」と呼ばれ、何でもかなえてくれる神様として氏子の崇敬が厚く、家庭内にとどまらず地内に変事があった時には必ずお参りする。
祭りは、元朝祭・四月十五日の春祭り・七月十四十五日の夏祭り・十月十四十五日の秋祭りである。
春祭りは、春祈祷とも呼ばれ、五穀豊穣を祈願する。 戦前までは鶴ヶ島村脚折の神楽の奉納があった。この神楽は、おじいさん・おばあさん・娘の三人で行うもので、娘が幣束と鈴を手に持って舞った後、四方へ矢を放ったという。氏子の家では草餅を作って祝った。
夏祭りは天王様とも呼ばれ、はやり病が村内に入らないようにと、無病息災を祈るものである。十四日には重量四十貫、担ぎ手三十名を要する神輿の渡御があり村中を練り歩いたが、担ぎ手が減った戦後からは境内に神輿を飾るだけとなっている。秋祭りは穀物の実りに感謝する祭りであるという。
氏子
責任役員は、宮世話人と総代からなり、宮世話人は三名が選ばれ任期三年である。また、総代は区長が兼ね、任期は二年で三月の役員総会の時に交替する。
運営費は、権現山と呼ばれる社有林から切り出される薪を売却し、その代金を充てていたが、戦後は神社費と称して宮世話人が各戸から一定額を八月と十二月に分けて集めている。
埼玉の神社(入間 北埼玉 秩父)より抜粋
昭和六十一年四月八日発行
発行者埼玉県神社庁
案内板より引用
本 殿
本殿左側にある物置庫等。一番奥に神興庫らしき建物がある。
案内板の信仰の項で、「夏祭りは天王様とも呼ばれ、(中略)十四日には重量四十貫、担ぎ手三十名を要する神輿の渡御があり村中を練り歩いたが、担ぎ手が減った戦後からは境内に神輿を飾るだけとなっている」と載せている。この神興庫には、その秋祭りで使われる神輿があるのかもしれない。
拝殿左側に聳え立つ巨木。ご神木の如きその堂々たるお姿
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
