古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

泉井神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町泉井320
              
・ご祭神 健御名方命 応神天皇
              
・社 格 旧上泉井村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭/ささら獅子舞 10月第2日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.995511,139.315043,18z?hl=ja&entry=ttu
 熊井黒石神社から一旦東方向に進み、「上熊井農産物直売所・ちょっくま)付近の丁字路を左折する。通称「亀小通り」を北上、鳩山町立亀井小学校を過ぎた「泉井地区集落センター」に隣接して泉井神社は鎮座している。因みに「泉井」と書いて「いずい」と読む。
 社の隣にある泉井地区集落センターには十分な駐車スペースがあり、そこの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
               
亀小通り沿いに鎮座する泉井神社
『日本歴史地名大系』 によると、嘗て泉井地域は上泉井・下泉井・大橋の三村に分かれていたといい、泉井神社が鎮座していた地は上泉井村と云った。この村は、下泉井村の西、泉井川の上流域に位置し、南は熊井村。当村および下泉井村・大橋村の三村は嘗て一村で、泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降に三村に分村したとされる。泉井の地名は地内に湧水が多かったことによると伝える。松山領に属していた。
        
                石段上に立つ泉井神社の鳥居
 泉井神社の創建については詳細不明であるが、治承年間(11771181)に比企掃部允が創建したと伝えられている。
 この比企掃部允は平安時代後期の武士で、源頼朝の乳母である比企尼の夫。比企氏の出自には諸説あるが、『埼玉叢書』所載「比企氏系図」によれば父を波多野遠義の孫の藤太遠泰とし、比企氏の母系子孫にあたる薩摩藩による「武蔵国王孫比企氏系図」によれば父は武蔵介宗職で、早世した兄・宗員の跡を襲ったとする。
 比企掃部允は武蔵国比企郡の代官で、源為義・義朝に仕えたとする説がある。諸系図は比企氏を源氏類代の家人とし、源義家以来の鎌倉館の留守を祖父の代より務め、また保元の乱で為義が敗死すると郡内の岩殿丘陵に隠居して仏事に務めたとしている。
 妻の比企尼が乳母を務めた源頼朝が平治の乱で敗れて伊豆国に流罪になると、妻とともに比企領に下向して頼朝の衣食の便宜を図ったという。
       
           境内の片隅に、孤高の如き屹立する
鳩山町景観樹木である「モミ」の巨木
        
           拝殿までにはもう一段石段を登らなければならないが、
             その石段の手前で左側にある「
合祀記念碑」
        *地面に近い刻字の中に解読できない文字もあり、その場合は〇で表記した。

                                    
合祀記念碑
          
本殿ハ元無格社諏訪八幡ノ両座祭神ハ建御名方命應神
          
天皇ノ二柱ヲ奉祀スルナリ然ルニ明治三十九年勅令
          
第二二〇号ヲ以テ神社合祀ノ件御發布アラセラレ〇○
          
旨ニ基ヅキ合祀出願明治四十年五月十四日指令地〇○
          一二七六号ノ四ヲ以テ認可セラル是ニ於テ字櫻坂一二
          三九番元村社黒石神社祭神大己貴命字愛宕一〇二三番
          元無格社稲荷神社祭神倉稲魂命仝字一〇〇九番元無格
          社愛宕神社祭神軻遇突智命ノ三神ヲ合祀シ社號ヲ村社
          泉井神社ト改稱明治四十三年二月十九日指令〇○第〇
          七六号ノ五ヲ以テ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル〇
                          テ茲ニ其由ヲ録ス
                     
昭和二丁卯年三月(以下略)

 石段を挟んだ反対側には、
鳩山町指定無形文化財である「泉井神社獅子舞」の案内板がある。
        
                        「
泉井神社獅子舞」の案内板
 鳩山町指定無形文化財 泉井神社獅子舞
 指定 昭和五十二年五月十八日
 所在 大字泉井 泉井神社
 長禄元年(一四五七)七月、諏訪大明神を勧請して祭祀し、悪魔退散、無病息災、五穀豊穣を祈願したのが、この獅子舞のはじまりである(明治四十年、近隣三社を合祀し、社号を諏訪八幡神社から泉井神社に改めた)。
 獅子舞は、三頭の嗣子、猿田彦、花笠、行司、万燈、笛、唄とからなるササラ獅子舞で、毎年十月の第二日曜日に奉納される。
 現在、氏子全員により獅子舞保存会を結成し、保存に努めている。
 平成二十四年三月 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                 石段上に見える拝殿
        
                                        拝 殿
 泉井神社 鳩山町泉井三二〇
 当社は元来「諏訪大明神」と称していた。『明細帳』によれば、天徳二年(九五八)に健御名方命を字蛇子沢の地に勧請したが、長禄元年(一四五七)七月に至り、神幣が字正南の地に飛んで来たことから、これを神のお告げであるとして遷座を行った。これが現在の鎮座地である。その後、元禄十年(一六九七)に字北ヶ谷に勧請した八幡神社を合祀して相殿としたことから宝暦八年(一七五八)一二月に社殿を再建したという。
『風土記稿』には「諏訪八幡合社 村の鎮守なり、宝泉寺持」とある。これに見える宝泉寺は宝珠山と号する真言宗の寺院で、当社西方五〇〇mほどの地にあったが、明治期に入って廃寺になったようで、跡地には地蔵尊が残されている。
 明治初年の社格制定に際して当社は無格社となり、字桜坂の黒石社の方が村社となった。
 しかし、明治四十年の合祀に際しては当社がその中心となり、黒石社をはじめとして字愛宕の無格社愛宕社・稲荷社の三社が当社に合祀された。これにより社号の八幡神社・諏訪神社合殿を村名を採って泉井神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                        本 殿
 
    社殿左側にある境内社・御嶽山        本殿右側奥に境内社・稲荷神社
        
                                   境内の一風景

 ところで、熊井黒石神社から「亀小通り」の北上途中、東側の高台附近に『南比企窯跡群(みなみひきかまあとぐん)』といわれる遺跡がある。南比企窯跡群は、鳩山町を中心に嵐山町・ときがわ町・東松山市の一部にかけて広がり、6世紀初頭から10世紀前半頃まで須恵器や瓦を生産した。
 奈良時代中頃(8世紀中頃)には武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、南へ約40km離れた国分寺まで運ばれ、最盛期の窯の数は500基ほどあったと言われ、東日本最大級の規模という。
 その「南比企窯跡群(律令制期東国屈指の大窯跡群)」の東側の一画を占め、当窯跡群の中核を成す、鳩山町のほぼ全域に広がる窯跡群の総称を「鳩山窯跡群」という。

 6世紀初頭に東松山市高坂の丘陵東裾で須恵器の窯として操業を開始し、7世紀後半には鳩山町の石田遺跡や赤沼古代瓦窯跡などで勝呂廃寺(坂戸市)の瓦や須恵器を生産するようになります。 そして、8世紀半ばになると鳩山町の新沼窯跡を中心に武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、生産された瓦は南へ約40km離れた国分寺へ運ばれたという。
 泉井地域に所在する遺跡はこの「新沼窯跡」で、昭和34年に発掘調査され、武蔵国分寺創建期の瓦を生産した窯跡として知られていた。平成22年から実施された発掘調査により、26基もの窯跡の存在が明らかとなった。大半は8世紀中頃から後半の武蔵国分寺創建期のものであるが、一部で9世紀中頃の須恵器が出土していることから当該期の窯跡も存在すると考えられる。出土瓦の中には、古代の郡名を記した瓦「郡名瓦」が多く含まれているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「鳩山町役場HP 鳩山窯跡群」「境内案内板・記念碑文」等
 

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高野倉八幡神社

 鳩山町高野倉地域は、地内中央部を流れる越辺川支流鳩川の最上流水源地帯にあたり、鳩川両岸に水田が、三方を囲む丘陵部には畑が細長く広がる農業地域である。ゴルフ場の開発も盛んで西部の丘陵には越生ゴルフクラブ、南部の丘陵には日本カントリークラブのゴルフ場がある。
 高野倉八幡神社は、この高野倉の鎮守として北部の丘陵斜面に祀られていて、社を含めた周囲一帯は「高野倉ふれあい自然公園」という里山公園が広がっていて、自然に囲まれた環境で散歩するのにおすすめである公園だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町高野倉545
             
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
             
・社 格 旧村社。旧名 鬼子母神社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9929694,139.2996226,16z?hl=ja&entry=ttu
 熊井黒石神社から北にある鳩川沿いの道路を北西方向に進み、途中「百地蔵通り」に合流し、道なりに進むと「高野倉ふれあい自然公園」の横看板が見えるので、そこを右折すると、公園内斜面上に高野倉八幡神社は鎮座している。
 公園内には舗装はされていないが、駐車スペースは確保されていて、そこから斜面上に徒歩にて歩いて行くと、高野倉八幡神社が見えてくる。
        
              「高野倉ふれあい自然公園」案内板
 鳩山町にある新しく整備された公園のようで、平日でもあり、ゆったりと散策できる穴場的な公園。公園内には「鳩山町景観樹木」に指定されている大きなもみの木が2本林立している。また、入口付近には御堂山があり、高野倉八十八ヵ所、八幡神社のイチイガシ(町指定天然記念物)に隣接し、鳩山の「四季」が堪能出来る里山公園である。
            
  駐車場からでもすぐ目視できる程、近くの斜面上に屹立しているイチイガシ。樹勢も旺盛。
       町指定天然記念物であり、同時に高野倉八幡神社のご神木でもある。
            因みに「イチイガシ」は「一位樫」と書く。
        
               近くに案内板が設置されている。
 鳩山町指定記念物 八幡神社のイチイガシ
 指定 昭和五四年四月二五日
 所在 大字高野倉八幡神社
 この大木は、樹高約二〇m、樹齢が四百年とも六百年とも言われ、八幡神社の御神木として地元の方々によって大切に守られてきました。平成五年九月一六日に、現名称に変更いたしました。
 イチイガシの天然分布は九州に最も多く、北限は茨城県で、埼玉県、群馬県、栃木県、福島県では全く発見されていません。このことは、八幡神社のイチイガシが、昔、なんらかの理由で植栽されたもので、さらには、八幡神社の歴史観と併せて、極めて貴重な天然記念物であると言えます。
 平成六年三月 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用

 
 イチイガシの左側脇に通っている道は社に通じる参道にもなっているようだ(写真左・右)。理由は分からないが、この社には鳥居がなく、社号標も見当たらなかった。
        
                  高野倉八幡神社境内
        なだらかな丘陵地面の境内からまた一段高い場所に鎮座する社。
 現代の技術によりしっかりと公園全体が管理された中に鎮座している社ではあるが、時に里山ならではの原風景も木々の中に垣間見られる。そして境内に立ち周囲を見渡すと、何故か時が止まっているような雰囲気さえ醸し出すから不思議な感覚だ。
        
                     拝 殿
 高野倉八幡神社の創建年代等は不詳であるが、社記では仁寿元年(851)の創建と伝えている。明治維新前までは「鬼子母神」などと称し、正圓寺の境内として当社は扱われていた。境内に残された御神木の「イチイガシ」は、温暖性植物でその分布の中心は、九州や四国、紀伊半島などの暖かい地方に分布の中心があり、高野倉の例は、自生北限をはるかに超えた、関東地方でも房総安房を除くとほとんど例のないと言われる、たいへん貴重な樹木であることから人工的に植樹されたものと思われ、樹齢600年とも伝えられることから、創祀年代もその頃ではないかとも推測されている。

 ところで「鬼子母神」は仏教を守護する善女神の一人。多くの子をもっていたが,常に他人の子を奪って食べるので,仏が鬼子母の子を隠して,子を食う罪をさとした。以後仏教に帰依し,その守護神となったという。日本では主として,安産,保育の神として信仰され、ときに盗難よけの神ともされる。単独で信仰されるほか,密教では「普賢十羅刹女 (ふげんじゅうらせつにょ) 」図中にも加えられている。
『新編武蔵風土記稿』においてこの社は、「鬼子母神」と称していたが、其の後「八幡神社」と改称する。その八幡神社と改称した理由などは不詳との事だ。
        
                     本 殿
 
 高野倉八幡神社には二基境内社が祭られている。社殿石段下で参道に対して左側にひっそりと祀られている石祠(写真左)、本殿奥右側にある境内社(同右)。どちらも木製の標があるのだが、薄くて解読不能。石祠のほうは「天満(?)天(?)〇」と読めなくもない。
        
                           社殿下参道よりイチイガシを撮影

 ところで「高野倉ふれあい自然公園」の入り口付近には、百地蔵や八十八ヶ所石塔、大師堂跡などが残されていて、「お堂山」と呼ばれる山頂までは散策できなかったが、古い時代から信仰の地だったようで、今も地域の方々によって大切にされている様子が窺える。
 
                 八十八カ所石塔が斜面に沿って並んでいる(写真左・右)。

         阿弥陀堂          お地蔵様には手を合わせ祈願させて頂いた。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鳩山町HP」
    「
百科事典マイペディア」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「公園内案内板」等

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熊井黒石神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1015
             
・ご祭神 日本武尊
             
・社 格 旧熊井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9862534,139.311396,16z?hl=ja&entry=ttu
 熊井毛呂神社から進路を北西方向にとると、埼玉県道41号東松山越生線に合流、更に西方向に進む。途中左手方向で、小高い丘上に上熊井農産物直売所「ちょっくま」が見えるが、そこからは200m程先に上熊井集落センターがあり、その右隣に熊井黒石神社の石製の鳥居が見えてくる。
 熊井毛呂神社同様、熊井地域は周囲一面豊かな緑が生い茂り、田畑風景が広がる長閑な空間。熊井黒石神社正面は丘陵地面となっているようだ。
        
                  熊井黒石神社正面
『日本歴史地名大系 』「熊井村」の解説
 [現在地名]鳩山町熊井
 大豆戸の北西、越辺川支流鳩川の流域に位置し、東は大橋村、西は高野倉村。応安元年(一三六八)七月、越生兵庫助は当地などの本知行分を報恩(法恩)寺(現越生町)に寄進している(報恩寺年譜)。田園簿によれば田高四〇一石余・畑高二三九石余で幕府領。元禄郷帳では高六六三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領。ほかに万願寺領がある。「風土記稿」成立時には旗本三家と幕府領の相給。本検地は元和六年(一六二〇)・貞享元年(一六八四)に行われ、天明六年(一七八六)には持添新田(幕府領)の検地が行われた。
               
『新編武蔵風土記稿 熊井村条』
「按に入間郡今市村法恩寺の年譜録、慶安元年七月越生兵庫助田畑を以て、法恩寺へ寄付せし條に云、武蔵国比企郡内熊井云云、田畑在家等事、越生兵庫助本知行分也と見えたれば、当村は貞治・応安の頃越生氏の領地にして、後報恩寺領たりしこと知るべし」
 黒石明神社
 村の鎮守なり、本地佛十一面觀音を安ず、妙光寺持、下三社同、
 妙光寺
 慶安二年寺領九石の御朱印を賜ふ、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、熊井山不動院と號す、開山竺翁は弘安九年の示寂にて、其月日は失へり、本尊不動を安ず、傳教大師の作れる所と云、
 熊井地域には、黒石神社と毛呂神社が二社地域の鎮守様として鎮座している。そのうち、黒石神社が村の鎮守社、一方毛呂神社は産土神(うぶすなかみ)として、大切に今でも祭られている。他の地域でもあまり見られない祭祀体系だ。
        
                            鳥居前で一礼してから参拝開始
 熊井黒石神社の参道の隣には車でも通行可能なルートも存在しているのだが、ここは基本通り徒歩にて参拝。なだらかな登り斜面ではあるが、疲れる程ではない。しかし思っていた以上に長い参道ではある。
 
 参道は長く、100m程あるのではなかろうか(写真左・右)。しかし途中踊り場も設置されているので、気持ちよく参拝に望めた。当日雨交じりの天候ではあったが、それが却って参道両側に広がる豊かな森林浴を体全体浴びながら、少しずつだが確実に近づく神様への崇拝の念が高まるような面持ちとなるのだから不思議な感覚だ。
        
                 目の前に見えてくる社殿

 熊井黒石神社の創建年代等は不詳であるが、『明細帳』は祭神を日本武尊とし、由緒は「尊東夷征伐還御ノ還御休憩アリシト依テ勧請スト云、創建不詳、思フニ其頃村落未開ナリシモ尊ヲ勧請、未開土地モ開キ居民モ繁殖ニ至ヤ、因テ尊ヲ鎮守ト崇ムト右旧記ナシト雌モ古来人口ニ伝テ存ス」と記している。
 当社の別当を務めていた妙光寺は、熊井太郎忠基の子孫が開基、竺翁(弘安
91286年寂)が開山したとされることから、熊井氏が当社の創建に関与したことが推測されている。

 熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう。
「本朝武功正伝」によると一ノ谷の戦いで功を立てた。『武蔵国郡村誌』によると熊井(現在の埼玉県比企郡鳩山町)には忠基の館跡があり、そこには忠元が甲冑を埋めた鎧塚がある。義経が頼朝と不仲になり奥州に逃れたため、忠基は奥州藤原秀衡の元へ向かったというが、詳細は不明。但し、宮城県には今も熊井忠基の子孫を名乗る熊井姓の人たちがいるとの事だ。
        
                     拝 殿
        
  境内には新しく改築した社殿のみ。その社殿右側に「黒石神社竣工記念碑」が立っている。

 黒石神社竣工記念碑
 黒石神社は熊井村氏子に敬われてきた鎮守である。 創立年代は未詳であるが「鳩山風土記稿」等によると明治四十年に愛宕社 八幡社 神明社の三社を本社に合祀 八幡社の社殿を移築し従来の拜殿につなげ社務所とした。
 更に大正三年に境内にあった愛宕社 天神社の二社を本社に合祀 その後 維持管理を行ってきたが歴史ある社殿 鳥居も老朽化が進み、このたび氏子の総意により改修工事を実施 財源は上熊井大字会計より充当した 社殿 参道 鳥居 幟旗竿その他の附帯工事など施工し ここに完成を祝し記念碑を建立して後世に伝えるものとする。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                      拝殿から下界を見下ろすような位置から撮影

 境内周囲は手水舎と社殿のみであり、さっぱりとした印象。但しそれがこの社の神聖性を増しているようにも感じた。何もないと言ってしまえばそれまでだが、「余計なものは取り払う」精神も日本独特の考え方である。
 それ以上にこの長い参道には深い感銘を受けた。古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。また神は目に見えないものであり、元来神の形は作られなかったことを考えてみると、この長い参道をも含めたこの広い空間こそが神が宿るお社でもあるのだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等

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小島智方神社

『日本歴史地名大系』 「小島村(おじまむら)」の解説
本庄台地の末端から烏(からす)川・利根川の沖積低地にかけて位置し、東の本庄宿から続く中山道が台地の末端部を通る。「和名抄」にみえる賀美郡小嶋郷の遺称地とされ、中世には小嶋郷に含まれていた。村域の北部を元小山川が東流し、北部の低地部と西の下野堂(しものどう)村地内に複雑な小字境界が入交じっている。下野堂村のなかに飛地がある一方、北側の低地には同村・杉山村・新井村の飛地があり、飛地の中にさらに飛地があるなど、それぞれ村の成立からみて分村を繰返した結果であると考えられる。
『新編武蔵風土記稿 小島村条』
「小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる」

 古代賀美郡は、新田郷・小島郷・曽能郷・中村郷の4郷で構成されていた。『和名抄』に賀美郡小島郷を載せ、「乎之万(おしま)」と訓じていて、現在の小島地域とその周辺地域が古代の小島郷にあたると思われる。
 また古代末期頃に出現した武蔵七党丹党一族に小島氏があり、この小島地域周辺を書領していたという。
*丹党小島氏 武蔵七党系図
「秩父黒丹五基房―小島四郎重光―五郎光成―六郎光高―五郎左近光頼(弟光泰)―五郎左衛門経光―六郎光重(弟に五郎光綱、二郎光行、四郎経定)―六三郎末光(弟六郎入道宗光)。光高の弟四郎俊光―四郎二郎光村―小三郎信俊(弟経時)―孫六郎光経(弟七郎季光)」
 道興准后の文明十八年廻国雑記に「をしまの原」と見える。嘗て児玉郡小島(尾島とも記す)は賀美郡石神・七本木各地域に接していたので、この地のことであろう。
        
               
・所在地 埼玉県本庄市小島179
               
・ご祭神 天児屋根命
               
・社 格 不明
               
・例祭等 春祭り 423日 大祓式 720日
                    
秋の大祭 1123日 奉告祭 125日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2555494,139.160708,17z?hl=ja&entry=ttu
 田中一之神社から一旦南下し、国道17号に合流後右折し、上里方向に進む。その後上里町との境近くにある「万年寺」交差点を右折、200m程先にある元小山川に架かる橋を渡る手前の路地を左折する。元小山川沿いの道を進み、農業用ハウスを左手に見ながら暫く進むと、浄水場付近で周囲が田畑風景に代わり、左側遠方に小島智方神社が見えてくる
 駐車スペースはないので、社号標柱北側の路肩に停めてから急ぎ参拝する。
        
                                小島智方神社正面 
 鳥居前面には、正面の社殿が見えない位に、欅の大木が聳え立つ。樹齢は想像もつかない位に古そうで、まさにご神木そのもの。他のサイトを確認すると700800年ともいう。幹の中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためのベルトが締められている。但し周りの枝葉は元気に伸ばしていて、その生命力には驚きを感じる。年鳥居前で一礼して、更にご神木にもお礼せざるをえない程の貫禄と存在感がこのご神木にはある。
            
                         小島智方神社・大欅のご神木 
                   
               大欅のご神木の近くにある「智方神社新築記念碑」
 智方神社新築記念碑
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である千方修理大夫を祀った社と考えられる。また藤原の祖、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢七、八百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年十月に斎行された伊勢神宮第六十一回式年遷宮を奉祝記念して建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                               境内に設置されている案内板
 智方神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  本庄市小島一七九
 聖護院門跡道興が、『廻国雑記』に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ愛におしまか原をきてとへはわか松しまは程そ遥けき」と詠んだのは、文明十八年(一四八六)のことであった。この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
 当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白幣の幣串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
『風土記稿』小島村の項に、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。字の名称の起こりにもなっている万年寺については、『風土記稿』にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。(以下略)
                                      案内板より引用
 道興准后(どうこうじゅごう)は室町時代の僧侶で、関白近衛房嗣の子である。文明18年〜19年(148687年)にかけては聖護院末寺の掌握を目的に東国(若狭国から越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国、其の後武蔵国、甲斐国、奥州)を廻国し、後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。
 当時小島地域は上野国に属していて、「おしまの原」という所で休んだという。この「おしまの原」が本庄市小島地域といわれていて、冒頭紹介した『新編武蔵風土記稿』にもそのことは記載されている。
 因みに案内板に記載されている「茂木氏」は、児玉郡誌に「字万年寺の智方神社は徳川時代に至り、豪士茂木伊賀守・社殿を改築せり」と記載されている。
 
      拝殿左側に石祠が二基           拝殿右側にも石祠が二基
            これらの境内社・石祠の詳細は不明である。
        
                            社殿右側奥にある御嶽社
 塚頂の石碑には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が、その右側の石碑に不動明王が祀られている。左側の石祠は詳細不明。
        
                  御嶽神社遷座記念碑
 御嶽神社遷座記念碑
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
 創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年327日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
 しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林1391番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。 

                                     記念碑文より引用 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄市の地名」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
  

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田中一之神社


        
              
・所在地 埼玉県本庄市田中134
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧田中村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 319日 夏祭り 715日 
                   秋祭り 
113日 新嘗祭 1219
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2527484,139.1883378,18z?hl=ja&entry=ttu
 久々宇稲荷神社の信号のある十字路を左折し、西方向に850m程進んだ先の細い十字路を右折するとすぐ左手に田中一之神社が見えてくる。
 隣接している医王寺の北側にある専用駐車場をお借りして、参拝を行う。
        
                                  
田中一之神社正面
 本庄市田中地域は仁手地域の西側で、利根川南岸の自然堤防上に位置し、『新編武蔵風土記稿 田中村』において民戸80戸余、村の北境を流れる利根川に沿って「川除(かわよけ)」の堤があった。この「川除」とは、堤防などの水害防止施設をいい、この一之神社の由緒にも「真近に烏川・利根川が流れる氾濫原」「昔利根川大洪水のとき」と記されていて、大河川近くにある地域だけに昔から水害多発地帯であったのであろう。
 正保国絵図に田中村のみが記されるが、元禄年中改定図には田中村と「田中村内前田村」がみえ、後者は前田中集落をさしている。前出「風土記稿」には小名として「川岸田中」「前田中」を載せている。この小名の「前田中」について、同署には「元禄図には田中村の内前田村と記し、其のさま一村の如くなれど、小名前田中のことにて、別に一村をなせしにはあらず」と記している。寛永18年(1641)の検地帳(本庄市立歴史民俗資料館蔵)によると検地代官は南条金左衛門で、田三町一反余・畑一六町余・屋敷七反余、利根川に接しているものの畑地の圧倒的に多い村である。
 
     鳥居の左側に並ぶ庚申塔群        
鳥居の向かい側にある御嶽塚

 田中村の小名には「古社(ふるやしろ)」があり、以前ここに神社があったことを示しており、嘗て村の鎮守社である一之神社がここにあったのではないかと推定される。「地名と歴史」によれば、昔は正月十四日に子供達の祭りである「ドンド焼き」が行なわれたという。
        
                     拝 殿
 一之神社の創立年代は不詳ながら、嘗て利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体が流れてきて、当地の川岸に打ち寄せられたのを村人が発見し、その地に小祠を立て「一宮明神」と称して鎮祭した。
 その後、江期の社号額に「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されていたが、明治初期に、一宮明神社の社名では本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。
        
                境内に設置されている案内板
 一之神社 御由緒   本庄市田中一三四
 ▢御縁起(歴史)
 当社の鎮座する田中は、真近に烏川・利根川が流れる氾濫原に開けた集落で、寛永年間(一六二四~四四)に烏川の瀬替えによって上野国那波郡より武蔵国に所属したという。
 その創建については『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳かならざれども、往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体流れ来り、当地川岸に打寄られ有りしを発見し、里人小祠を造って一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」と記されている。また、『本庄市史』には、田中の地内にある「古社」の地は現在の一之神社があった所と伝える旨が載せられている。
『風土記稿』田中村の項には「医王寺 新義真言宗、賀美郡七本木村西福寺末、蓮台山弥勒院、本尊は不動、一宮明神社 村の鎮守 稲荷社 薬師堂 大日堂」と記されており、化政期(一八〇四~三〇) には医王寺の境内に祀られていたことがわかる。また、享保十七年(一七三二)の「(梵字)奉造立一宮大明神御宸殿一社」と記される棟札には、医王寺の住職と思われる「願主法印賢清」の名が見える。
 社頭に掲げられている江期の社号額には、「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されているが、明治初年の書き上げの際に一宮明神社の社名で
は本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
  拝殿左側には石祠や庚申塔・道祖神       道祖神等の右並びにある境内石祠群
      が祀られている。                右端は戸隠神社
        
                  境内社・稲荷神社
       
                  境内社・稲荷神社の右奥にあるご神木(写真左・右)
           ご神木の根本付近には石祠・社日神が祀られている。
        
                         一之神社と別当寺である醫王寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄市の地名」
    「境内案内板」等
 

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