古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

東粂原鷲宮神社


        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町東粂原367
            
・ご祭神 天穂日命 宇迦能御魂命
            
・社 格 旧久米原村鎮守 旧村社
            
・例祭等 元旦祭 例祭 716日に近い日曜日 秋例祭 109
 東粂原地域は、大宮台地の東縁部に位置し、概ね「東武動物公園」以北(中央部の「ふれあい動物の森」等の周辺部は同地域に属しているが)から北西方向に伸びる細長い地域である。
 途中までの経路は、瓜田ヶ谷愛宕神社を参照。社の西側で、南北に通じる道路を600m程北上した先にある十字路を右折し暫く進むと、進行方向左手に東粂原鷲宮神社の朱の鳥居が見えてくる。
        
                東粂原鷲宮神社参道入口
『日本歴史地名大系』 「久米原村」の解説
 須賀(すか)村の西に位置し、日光御成道が西部を通過する。大宮台地の東縁に位置し、台地と低地が入組み複雑である。比高は一―三メートル。中世には鎌倉街道中道が通ったと考えられ、戦国時代頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「武蔵州太田庄久米原市」がみえる。天正一八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)に岩付領「久目原之内」とみえ、三貫文が鷲宮神社(現鷲宮町)の社領で、北条氏から鷲宮甲斐守・同満寿に安堵されている。田園簿によると田高二九〇石余・畑高三七〇石余、うち岩槻藩領三一一石余・旗本水野領三五〇石。同藩領分は城付地で、高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数四五(うち本百姓二〇)・人数二七八(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
        
 鎮座地の東粂原地域は、昔は隣接する西粂原地域と一村で、「久米原村」と称していた。それが、江戸時代の化政期(180430)頃、村内のうち、一橋家領分を西粂原、下総佐倉藩領及び旗本渥美・細井相給分を東粂原と私称するようになり、幕末に至って分村したという
『新編武蔵風土記稿 久米原村』
 久米原村は日光御成道の係れる地なり、江戸よりの里數庄名用水等前村に同じ、今村内を私に二分して、一橋殿領知の方を西久米原村と唱へ、私領の方を東久米原とも呼べり、(中略)今は一橋殿の領知と堀田相模守・渥美九郎兵衛・細井金之丞の知る所なり、 
        
 社殿に通じる参道左側の一区画には、多くの庚申塔や灯籠・石祠等が固まって祀られている。
 
    並んで祀られている庚申塔五基        明治八年(1875)造立の常夜灯二基と
                        その隣にある天明(1783)造立の手洗石
 庚申塔五基は左三基の青面金剛には案内板によれば、左から元禄9年(1696)・貞享3年(1686)・寛永5年(1628)と造立年代が記載されている。因みに残りの二つの庚申塔は、左から天保10年(1839)・文化8年(1811)に造立。

 清瀧不動尊と階段上に祀られている天地開闢       紙垂が巻かれている石碑は川大神
 天地開闢は国狭槌尊・国常立尊・豊斟渟尊       右側にあるのは伊勢参宮記念碑
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 久米原村』
 鷲明神社 二宇 是も一は明智寺持、一は大聖院持、末社 稻荷 諏訪
 明智寺 新義眞言宗、東村西光院末、久内山平等院と號す、開山祐源寂年を知らず、本尊藥師を安ず、
 大聖院 同末なり、明王山と號す、本尊不動を安ず、
       
      社殿の左側に祀られている雷電宮 雷電宮の隣に祀られている神明宮
        
                  神明宮の右側に設置されている案内板と獅子蔵
 まちしるべ23
 東粂原鷲宮神社  所在地  宮代町大字東粂原字宿屋敷
 東粂原鷲宮神社は、かつて東粂原村の村社で、祭神は天穂日命・宇迦能御魂命の二柱を祀る。
 当社には、延享二年(一七四五)頃より始まったと伝えられる、町の無形民俗文化財に指定されている獅子舞が、毎年七月十六日(現在はその日に近い日曜日)に行われている。 三頭の獅子を中心に、 梵天を始めとし八通りからなる優雅な舞が社前にて奉納される。かつては、村内にあった雷電社や稲荷社の祭礼にも奉納されていたという。
 鷲宮神社のある東粂原地区には、中世(鎌倉時代・室町時代)奥州への本道である鎌倉街道(中道)が通っており、延文六年(一三六一)の「市場之祭文」には、久米原に市が立ったことが記されている。
 また、付近にある大聖院は、明治初頭に廃寺となったが、 その後、 須賀小学校の前身である西條学校(久米原学校)の校舎として利用された。
                                       案内板より引用

        
                                    本 殿
 東粂原地域は、中世には鎌倉街道の宿場として栄えていたといわれ、当社の境内がある字を「宿屋敷」というのもその名残りであるという。戦国時代ごろに成立したと推定される「市場之祭文写(武州文書)」にも、「武蔵州太田庄久米原市」と記されていることから、当時既に村として開けていたことがうかがえる。東粂原の地内は、大きくは「前組」と「後組」の二つに分けられ、前組は入ノ前耕地・前川耕地・渋谷耕地、後組は寺前大崎耕地・大崎団地・宿屋敷耕地・堀口耕地と、更に細分されている。
 
氏子の間では「わしっさま」の通称で親しまれている当社は、天穂日命を祭神とし、現在では、神仏習合の名残はあまりないが、昭和48年に焼失した社殿には卍の紋が刻まれており、別当であった大聖院との関わりを伺わせるものであったようだ。
      
      本殿左側奥に鎮座する御手洗神社   
本殿右側奥に鎮座する稲荷神社

 当社の例祭には、氏子自慢の獅子舞の奉納がある。この獅子舞は、江戸時代の延享2年(1745)頃、古利根川が氾濫し、作物はとれず疫病も流行する状況に至った時、当地の氏子らが、神々の怒りを招いたためと考え、その怒りを鎮めるために獅子舞を習いうけ、奉納したことに始まるといわれている。以後山王様・雷電社・鷲宮の三社に獅子舞を奉納。明治以降、三社は鷲宮神社に合祀され、716日を祝日と定めて奉納し、現在に至っている。
 これに対して、秋例祭は通称「甘酒祭り」といい、当番が甘酒を作って参詣者に振る舞う。甘酒は宿の家で前日の8日に「ハンギリ」という直径1m、深さ50㎝程の桶に米と麹を入れて作ったが、昭和48年の火災によって「ハンギリ」も消失してしまったという。
       
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
宮代町HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等
   

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小久喜久伊豆神社

 嘗て白岡市を取り巻く地域は「鬼窪郷」と云い、実ヶ谷・新宿・小久喜・白岡・黒浜・江ヶ崎等がこの地域内にあたる。その由来として、平安後期から鎌倉期に活躍した武蔵七党の野与党(のいよとう=のよとう)系の一族である野興四郎胤宗が、篠津村(現在の白岡市篠津)に居住した後に分派して名乗った「鬼窪」氏の在地名から来ているという。
 この鬼窪氏には南鬼窪氏と北鬼窪氏と二つの流れがある。 北鬼窪氏の祖は、野与六郎基永の系譜をひき、野与小六郎行基の嫡男である鬼窪六郎定綱で、南鬼窪氏の祖は北鬼窪氏の野与小六郎行基の弟九郎大夫経長の孫にあたる鬼窪四郎行親であり、南鬼窪氏の拠点は小久喜久伊豆神社周辺といわれている。
『新編武蔵風土記稿 小久喜村』には、「旧家者文平、氏を鬼窪と称す、先祖を鬼窪尾張守と呼び、天正十九年正月八日歿し、寿光院秋月斉孤居士と号す、今の文平迄十代当村に住し、名主役を奉り、彼が家より別れし家五軒在りと云、家系を伝へざれば其の家の事実、詳ならず」と記されていて、『風土記稿』の編集された時期に、既に五軒の分家があったと記載されていて、現在でも「鬼久保」を称する旧家が存在するという。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市小久喜2
             
・ご祭神 大己貴命 豊宇気姫命 南方刀美神
             
・社 格 旧小久喜村鎮守 旧村社
             
・例祭等 臨時大祭 4月第2日曜日(小久喜ささら獅子舞)
 小久喜(こぐき)地域は、白岡市中部に位置する概ね「C」の字の形をした地域で、南部など一部は大宮台地上(白岡支台)に位置する。地域内の南部から北部にかけてJR東日本東北本線(宇都宮線)が通り、白岡駅が置かれている。東で岡泉・千駄野に、南で実ケ谷・蓮田市黒浜に、西で白岡・蓮田市南新宿に、北で白岡・寺塚に接する(大字界が錯綜しているため、飛地との隣接は省略)。東部の低地周辺などの一部を除き住宅地となっている。
 因みに、
「小久喜」の地名の由来としては、「クキ」は小高い場所を指し、小高い地で薪などの燃料がとれたことからという。
 JR白岡駅西口の埼玉県道145号白岡停車場南新宿線を南西方向に進み、「ファッションセンターしまむら 白岡店」を通り越した先の十字路を左折すると、すぐ右手方向に小久喜久伊豆神社は見えてくる。
        
          白岡駅西口から直線距離にして500m程しか離れておらず、
          周囲を住宅街・商業施設等に囲まれた中に鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「小久喜村」の解説
 千駄野村の西に位置し、西は新宿村(現蓮田市)。大宮台地白岡支台に位置し、地内の西山が標高一七メートルと現町内で最も高く、北東部に向けてゆるやかに傾斜している。東側は旧日(につ)川流路跡の低地であり、台地と低地との区分は一〇メートルの等高線とほぼ一致する。隼人堀川が北境の寺塚(てらつか)村からくる庄兵衛(しようべえ)堀川と篠津村境からの栢間堀を合流し、下野田村に流下する。黒沼用水は北西の白岡村から北東に流れて屈曲し、少し南に流れて岡泉村に流れる。西から北東に向かって幸手道が通る。
       
            鳥居の両脇に守り神のように設置されている石碑 
          左側には庚申塔(写真左)、右側には青面金剛(同右)
        
    かつて白岡駅の駅舎が西口のみだったことから商業施設は駅西側に集中している
     地域内にあって、鬱蒼とした社叢林に囲まれた中に社は静かに鎮座している。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 小久喜村』
 箕輪郷私市庄と唱ふ、當村元は古久鬼と記せしが一旦荒廢し、寛永年中再起して村落をなせし時、今の如く改しと云、
 久伊豆社 村の鎭守なり 〇諏訪社 〇稻荷社 以上の三社村持
 壽樂院 禪宗曹洞派、白岡村興善寺末、大高山と號す、本尊釋迦を安ず、

 久伊豆社  白岡町小久喜二(小久喜字西山)
 現在の白岡町に当たる地域は、中世に鬼窪郷と称し、鎌倉­―南北朝期にかけて活躍した野与党に属する鬼窪氏の本拠地であった。
 当社の氏子総代を務める鬼窪清家は、この鬼窪氏の末裔と伝え、『風土記稿』によれば、先祖の鬼窪尾張繁政が天正十九年(一五九一)に没したという。一説には、鬼窪家が屋敷を構える辺りは、鬼窪郷の南に住したとされる南鬼窪氏の居館跡とも伝えられている。
 当社は。鬼窪家の約二〇〇メートル南西に鎮座しており、古くから小久喜村の鎮守として祀られている。当社近くの曹洞宗寿楽院は、元亀二年(一五七一)に鬼窪尾張繁政によって開基されたと伝えられており、当社の創建も草分け名主である鬼窪家によって行われたことは想像に難くない。ちなみに、久伊豆という社名を『風土記稿』から拾うと、元荒川流域に南北六〇社が分布し、その範囲は武蔵七党の私市党・野与党の勢力範囲と一致し、久伊豆神社に私市・野与両党の武士団が関与していたことをうかがわせる。
『風土記稿』には小久喜村の神社について、「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇稲荷社、以上の三社村持」と載せている。
 明治八年に村社となり、大正二年には字西山の稲荷社と諏訪社、字三谷の稲荷社の無格社三社を当社に合祀した。
 祭神は、大己貴命・豊宇気姫命・南方刀美神の三柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                     本 殿
          
                        社殿前に設置された社や当地獅子舞の案内板     
 小久喜地域には獅子舞が伝承されている。その起源は、大正十一年に鬼久保家が当社に奉納した「獅子連中例記」によれば、文政11年(1828)に、深作村(現さいたま市見沼区深作)から伝承されたものという。
 この獅子舞は別名「竜獅子」といい、この舞を奉納すれば雨が降ると伝えられ、日照りの続いたときは、付近の沼で雨乞いの獅子舞を奉納したことも度々あったという。
 
元々は大正期に合祀された諏訪社に伝わっていたもので、合祀後当社で行われるようになった。従って、かつては諏訪社の祭日であった7月27日に行われていたが、合祀により当社の9月27日の例祭に変更となり、更にこの日が台風の襲来に当たることが多かったので、昭和56年から花見の時期を選んで4月第2日曜日を臨時大祭と称して行われるようになったという経緯がある。
 獅子舞当日、大獅子・中獅子・女獅子の3頭の獅子と笛吹き、ささら摺(ず)り、天狗、歌方などで構成される。獅子舞の奉納は隔年の4月上旬に「ささら獅子舞保存会」によって行われる。舞の種類は「初手庭(しょてにわ)」「中庭」「幣掛(へいががか)り・鶴の巣籠(すごも)りの舞(女獅子隠{めじしかく}し)」「注連古喜(しめこぎ)・鶴の巣籠りの舞」などがある。
 午前中には社殿前で宮参りが行われ、午後からシバと呼ばれる土俵の上で獅子舞が奉納される。舞の間には地元の南小学校郷土研究部の子ども達による舞も披露される。最後に神社拝殿前で祈祷(きとう)獅子が奉納される。
 種   別 市指定無形民俗文化財
 指定年月日 昭和50111
        
                
社殿の左側に設置されている獅子舞等の文化財指定の標柱
  標柱の奥に見える公園らしき場所には、小久喜区民会館と共に獅子舞奉納時の舞庭がある。       
 
   社殿左側に祀られている石祠二基        本殿奥に祀られている愛宕大権現の石祠
    左から三峯大権現・天神宮
        
    社殿の右側には、元禄二年奉納の青面金剛・庚申塔・庚申塔が並び祀られている。
        
           境内にある神楽殿、左側奥に見えるのは祭具庫
        
                社殿から見た参道の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」

  

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彦兵衛浅間神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市彦兵衛159
             ・ご祭神 木花咲耶姫命 岩長姫命
             ・社 格 旧彦兵衛新田村鎮守
             ・例祭等 元旦祭 夏の祭礼 71日 秋の祭礼 9月の二百二十日
 彦兵衛地域は白岡市南東部に位置し、幕末の時点では「彦兵衛新田」と称し、埼玉郡に所属していた。現在、地域は南と北に大きく大小二つに区域に分かれていて、北部は上野田・下野田・太田新井に囲まれ、南部は岡泉・太田新井の間にあって南でさいたま市岩槻区鹿室に接している。地内は住宅地と工場が混在するが、主に農地となっている。
 途中までの経路は岡泉鷲神社を参照。「岡泉」交差点を左折し、埼玉県道65号さいたま幸手線を1km程北上した進行方向左側に墓地があり、その手前の舗装されていない路地を進むと彦兵衛浅間神社の鳥居が見えてくる。
        
                彦兵衛浅間神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「彦兵衛村」の解説
 隼人堀川の左岸、下野田村の南に位置し、西は同村と岡泉村、中央に上野田村の飛地がある。村内を日光御成道が走る。百間領のうち。もと上野田村の持林で三卿の一家である一橋領であった(風土記稿)。一橋家では町人請負で新田開発を進めることとなり、宝暦一二年(一七六二)に入札が行われ(「入札書付控覚帳」富士庫家文書)、幸手領の彦兵衛・新平・忠左衛門・吉右衛門・友七の五人に落札した。五人共同で開発を開始し、入植者を募りながら逐次進められ、寛政五年(一七九三)までに開発を完了している。
 また『白岡町史』に「此の地は鷲の郷と唱え、上野田村の飛地にして一橋中納言の林なりしが、宝暦13年(1763)武州葛飾郡幸手領の民、彦兵衛、新平の二人これを新墾し、彦兵衛新田と称せり」とあることから、開墾者の名をとったものであるという。
        
        舗装されていない参道を進むと小高い塚上に社は祀られている。
    積雪が残る周囲の雰囲気が却って幻想的で、身が引き締まった心持で参拝を望めた。
        
                 彦兵衛浅間神社社殿
『新編武蔵風土記稿 彦兵衛新田村』
 淺間社 村の鎭守とす、玉寶院の持、 末社 下淺間(中略)
 玉寶院 羽黒行人派修驗、足立郡小針領家村大聖院の配下、本尊不動を安ず、〇不動堂 玉寶院持

 浅間神社  白岡町彦兵衛一五九(彦兵衛字清左衛門)
 当社の鎮座する彦兵衛は、白岡町の南東部に位置し、南側の太田新井・岡泉の間に飛び地がある。
 当地は、元来彦兵衛新田と称していた。『風土記稿』の彦兵衛新田の項には、「此地は昔上野田村の持地にて、一橋殿の林なりしを、宝暦十三年(一七六三)葛飾郡幸手領の民、彦兵衛・新平と云二人にて新墾し、其頃は猶上野田村にて、進退せしが、其後一村に分かちしと云」と記され、東北に隣接する上野田村から分村して成立した様子がうかがえる。
 創建については、『郡村誌』彦兵衛新田の項に「浅間社(中略)安永三年(一七七四)の創立(以下略)」とある。また、本田が富士山を模したものと思われる小高い塚の上に建てられている。江戸期には、富士山に登拝する「お山参り」が広がり、江戸を中心にして、各地に富士講が結ばれ、富士山を象った富士塚が造成された。この塚に登ることによって、富士山を登拝するのと同じ御利益があるとされた。当社の場合も、この信仰によって祀られたと考えられる。
 また、明治期前には、羽黒派修験の玉宝院が別当を務めていたが、廃寺となり現存していない。当社参道の入口に墓地があり、この寺の跡地と思われる。
 内陣には、明治十五年の年紀が刻まれた石祠が奉安されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 彦兵衛新田村』には、末社として「下浅間」を載せている。この社について『明細帳』には「往古末社二下浅間神社アリシカ祭神一ナルヲ以テ本社二合社スト言云フ」と記されている。 
 
  塚下に祀られている高屋坐大神の石碑       境内南側にある伊勢参宮記念碑

 現在境内にある明治四十年の「伊勢太々記念碑」は、かつて当地で行われていた伊勢講の名残であり、伊勢の神宮に参拝し、太々神楽を奉納するもので、大正初期まで行われていたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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太田新井 太田神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市太田新井334
             
・ご祭神 建御名方命 天穂日命
             
・社 格 旧太田新井村鎮守
             
・例祭等 お歩射(オビシャ) 115日 火防の祭礼 327
                  
祭礼 721
 太田新井地域は、白岡市南東端に位置する。西で岡泉・彦兵衛、北で上野田・下野田、東で南埼玉郡宮代町逆井・金原および春日部市内牧、南でさいたま市岩槻区鹿室に接する。地内は主に大宮台地の慈恩寺支台(内牧台地)の北端に位置し、一部で住宅地も見られるが、主に耕地や水田などの農地が占める地域である。
        
 太田新井 太田神社はこの地域の更に南部に鎮座している。途中までの経路は岡泉鷲神社を参照。埼玉県道78号春日部菖蒲線を南東方向に進行し、同県道154号蓮田杉戸線が交差する「岡泉」交差点から直線距離にして1㎞程南東方向の集落からはかなり離れた場所に社は静かに鎮座している。
        
               太田新井 太田神社参道入口
『日本歴史地名大系』 「太田新井村」の解説
 彦兵衛(ひこべえ)村の南にある。黒沼用水・隼人堀川が流れ、また日光御成道が通り道幅四間に杉並木があった。百間(もんま)領のうち。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏による検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高一九石余・畑高二八二石余、同藩領。同藩の高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数四四(うち本百姓三一)・人数二一六、太田新井新田の家数一六(うち本百姓一一)・人数九一(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
 

      一の鳥居から真っ直ぐに伸びる参道の先にある二の鳥居(写真左・右)
       二の鳥居の左側には「合祀 太田神社」と刻印された標柱がある。
 南西方向に伸びる参道ゆえに社殿は西向きとなっているかと思いきや、二の鳥居の先には
   社殿は見えず、右方向に参道は曲がっていて、実は社殿はすぐ右側に見えている。
        
         二の鳥居と背を向いている社殿の独特の配置が特徴的な社
        
                      二の鳥居の先に配置されている狛犬
 狛犬は、獅子に似た日本の想像上の動物で、通常神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多いのだが、この社の狛犬は守るべき社殿が後ろ側になく、どことなく寂しそうである。
 
  二の鳥居の手前で参道左側にある青面金剛    狛犬の先で参道左側に密られている天王宮
 
    天王宮から参道は右に曲がり、       再度曲がる地点に祀られている
 石碑が建つところで再度右に折れ曲がる。   大黒天・稲荷大明神、と従軍記念碑二基
        
                    拝 殿
 太田神社 白岡町太田新井三三四(太田新井字原)
 太田新井の地名は、一説には村内にあった岩付太田誌の陣屋に住んだ太田道灌により名付けられたという。村の開発の年代については明らかでないが、開発当初は六軒であったと伝えている。
『風土記稿』には、太田新井村の神社について「鷲明神社二宇 共に安楽寺の持なり、〇諏訪社 村民の持、〇天神社 太田道灌の草創と云伝ふ、〇八幡社 以上村民持」と載せ、鷲明神社二社と諏訪社の計三社が村の鎮守であった。しかし、実際には、この三社は村内の三つの耕地(村組)のそれぞれの鎮守で、本田-鷲明神社、宿新井-鷲明神社、原-諏訪社という形で祀られ、村の鎮守として位置付けられる神社はなかった。このうち、原の「土橋(どばし)山」と呼ばれる高台に鎮座する諏訪神社が元々の当社で、元は旧家の氏神であったが、後に原の鎮守になったと伝えられており、恐らく『風土記稿』に見える「村民の持」は旧家の土地に祀られていたことを示すのであろう。ちなみに、同家は当社の参道入口の手前に居を構え、当主は一五代を数える。
 大正二年に本田と宿新井のそれぞれの鷲ノ宮神社(旧鷲明神社)を合祀した。この時の合祀先の選定は籤引きにより決したという。大正五年には社号を地名にちなんで太田神社と改めた。この時に総代の一人が境内東側の山林を寄附して境内を広げたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
         本 殿                本殿内部
        
             二の鳥居から正面一の鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」

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