古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小島智方神社

『日本歴史地名大系』 「小島村(おじまむら)」の解説
本庄台地の末端から烏(からす)川・利根川の沖積低地にかけて位置し、東の本庄宿から続く中山道が台地の末端部を通る。「和名抄」にみえる賀美郡小嶋郷の遺称地とされ、中世には小嶋郷に含まれていた。村域の北部を元小山川が東流し、北部の低地部と西の下野堂(しものどう)村地内に複雑な小字境界が入交じっている。下野堂村のなかに飛地がある一方、北側の低地には同村・杉山村・新井村の飛地があり、飛地の中にさらに飛地があるなど、それぞれ村の成立からみて分村を繰返した結果であると考えられる。
『新編武蔵風土記稿 小島村条』
「小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる」

 古代賀美郡は、新田郷・小島郷・曽能郷・中村郷の4郷で構成されていた。『和名抄』に賀美郡小島郷を載せ、「乎之万(おしま)」と訓じていて、現在の小島地域とその周辺地域が古代の小島郷にあたると思われる。
 また古代末期頃に出現した武蔵七党丹党一族に小島氏があり、この小島地域周辺を書領していたという。
*丹党小島氏 武蔵七党系図
「秩父黒丹五基房―小島四郎重光―五郎光成―六郎光高―五郎左近光頼(弟光泰)―五郎左衛門経光―六郎光重(弟に五郎光綱、二郎光行、四郎経定)―六三郎末光(弟六郎入道宗光)。光高の弟四郎俊光―四郎二郎光村―小三郎信俊(弟経時)―孫六郎光経(弟七郎季光)」
 道興准后の文明十八年廻国雑記に「をしまの原」と見える。嘗て児玉郡小島(尾島とも記す)は賀美郡石神・七本木各地域に接していたので、この地のことであろう。
        
               
・所在地 埼玉県本庄市小島179
               
・ご祭神 天児屋根命
               
・社 格 不明
               
・例祭等 春祭り 423日 大祓式 720日
                    
秋の大祭 1123日 奉告祭 125日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2555494,139.160708,17z?hl=ja&entry=ttu
 田中一之神社から一旦南下し、国道17号に合流後右折し、上里方向に進む。その後上里町との境近くにある「万年寺」交差点を右折、200m程先にある元小山川に架かる橋を渡る手前の路地を左折する。元小山川沿いの道を進み、農業用ハウスを左手に見ながら暫く進むと、浄水場付近で周囲が田畑風景に代わり、左側遠方に小島智方神社が見えてくる
 駐車スペースはないので、社号標柱北側の路肩に停めてから急ぎ参拝する。
        
                                小島智方神社正面 
 鳥居前面には、正面の社殿が見えない位に、欅の大木が聳え立つ。樹齢は想像もつかない位に古そうで、まさにご神木そのもの。他のサイトを確認すると700800年ともいう。幹の中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためのベルトが締められている。但し周りの枝葉は元気に伸ばしていて、その生命力には驚きを感じる。年鳥居前で一礼して、更にご神木にもお礼せざるをえない程の貫禄と存在感がこのご神木にはある。
            
                         小島智方神社・大欅のご神木 
                   
               大欅のご神木の近くにある「智方神社新築記念碑」
 智方神社新築記念碑
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である千方修理大夫を祀った社と考えられる。また藤原の祖、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢七、八百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年十月に斎行された伊勢神宮第六十一回式年遷宮を奉祝記念して建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                               境内に設置されている案内板
 智方神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  本庄市小島一七九
 聖護院門跡道興が、『廻国雑記』に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ愛におしまか原をきてとへはわか松しまは程そ遥けき」と詠んだのは、文明十八年(一四八六)のことであった。この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
 当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白幣の幣串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
『風土記稿』小島村の項に、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。字の名称の起こりにもなっている万年寺については、『風土記稿』にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。(以下略)
                                      案内板より引用
 道興准后(どうこうじゅごう)は室町時代の僧侶で、関白近衛房嗣の子である。文明18年〜19年(148687年)にかけては聖護院末寺の掌握を目的に東国(若狭国から越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国、其の後武蔵国、甲斐国、奥州)を廻国し、後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。
 当時小島地域は上野国に属していて、「おしまの原」という所で休んだという。この「おしまの原」が本庄市小島地域といわれていて、冒頭紹介した『新編武蔵風土記稿』にもそのことは記載されている。
 因みに案内板に記載されている「茂木氏」は、児玉郡誌に「字万年寺の智方神社は徳川時代に至り、豪士茂木伊賀守・社殿を改築せり」と記載されている。
 
      拝殿左側に石祠が二基           拝殿右側にも石祠が二基
            これらの境内社・石祠の詳細は不明である。
        
                            社殿右側奥にある御嶽社
 塚頂の石碑には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が、その右側の石碑に不動明王が祀られている。左側の石祠は詳細不明。
        
                  御嶽神社遷座記念碑
 御嶽神社遷座記念碑
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
 創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年327日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
 しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林1391番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。 

                                     記念碑文より引用 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄市の地名」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
  

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田中一之神社


        
              
・所在地 埼玉県本庄市田中134
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧田中村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 319日 夏祭り 715日 
                   秋祭り 
113日 新嘗祭 1219
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2527484,139.1883378,18z?hl=ja&entry=ttu
 久々宇稲荷神社の信号のある十字路を左折し、西方向に850m程進んだ先の細い十字路を右折するとすぐ左手に田中一之神社が見えてくる。
 隣接している医王寺の北側にある専用駐車場をお借りして、参拝を行う。
        
                                  
田中一之神社正面
 本庄市田中地域は仁手地域の西側で、利根川南岸の自然堤防上に位置し、『新編武蔵風土記稿 田中村』において民戸80戸余、村の北境を流れる利根川に沿って「川除(かわよけ)」の堤があった。この「川除」とは、堤防などの水害防止施設をいい、この一之神社の由緒にも「真近に烏川・利根川が流れる氾濫原」「昔利根川大洪水のとき」と記されていて、大河川近くにある地域だけに昔から水害多発地帯であったのであろう。
 正保国絵図に田中村のみが記されるが、元禄年中改定図には田中村と「田中村内前田村」がみえ、後者は前田中集落をさしている。前出「風土記稿」には小名として「川岸田中」「前田中」を載せている。この小名の「前田中」について、同署には「元禄図には田中村の内前田村と記し、其のさま一村の如くなれど、小名前田中のことにて、別に一村をなせしにはあらず」と記している。寛永18年(1641)の検地帳(本庄市立歴史民俗資料館蔵)によると検地代官は南条金左衛門で、田三町一反余・畑一六町余・屋敷七反余、利根川に接しているものの畑地の圧倒的に多い村である。
 
     鳥居の左側に並ぶ庚申塔群        
鳥居の向かい側にある御嶽塚

 田中村の小名には「古社(ふるやしろ)」があり、以前ここに神社があったことを示しており、嘗て村の鎮守社である一之神社がここにあったのではないかと推定される。「地名と歴史」によれば、昔は正月十四日に子供達の祭りである「ドンド焼き」が行なわれたという。
        
                     拝 殿
 一之神社の創立年代は不詳ながら、嘗て利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体が流れてきて、当地の川岸に打ち寄せられたのを村人が発見し、その地に小祠を立て「一宮明神」と称して鎮祭した。
 その後、江期の社号額に「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されていたが、明治初期に、一宮明神社の社名では本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。
        
                境内に設置されている案内板
 一之神社 御由緒   本庄市田中一三四
 ▢御縁起(歴史)
 当社の鎮座する田中は、真近に烏川・利根川が流れる氾濫原に開けた集落で、寛永年間(一六二四~四四)に烏川の瀬替えによって上野国那波郡より武蔵国に所属したという。
 その創建については『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳かならざれども、往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体流れ来り、当地川岸に打寄られ有りしを発見し、里人小祠を造って一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」と記されている。また、『本庄市史』には、田中の地内にある「古社」の地は現在の一之神社があった所と伝える旨が載せられている。
『風土記稿』田中村の項には「医王寺 新義真言宗、賀美郡七本木村西福寺末、蓮台山弥勒院、本尊は不動、一宮明神社 村の鎮守 稲荷社 薬師堂 大日堂」と記されており、化政期(一八〇四~三〇) には医王寺の境内に祀られていたことがわかる。また、享保十七年(一七三二)の「(梵字)奉造立一宮大明神御宸殿一社」と記される棟札には、医王寺の住職と思われる「願主法印賢清」の名が見える。
 社頭に掲げられている江期の社号額には、「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されているが、明治初年の書き上げの際に一宮明神社の社名で
は本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
  拝殿左側には石祠や庚申塔・道祖神       道祖神等の右並びにある境内石祠群
      が祀られている。                右端は戸隠神社
        
                  境内社・稲荷神社
       
                  境内社・稲荷神社の右奥にあるご神木(写真左・右)
           ご神木の根本付近には石祠・社日神が祀られている。
        
                         一之神社と別当寺である醫王寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄市の地名」
    「境内案内板」等
 

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久々宇稲荷神社

本庄市の地名」によると、本庄市久々宇地域は、北に利根川が東西に流れ、東側から南側が仁手地域、非市側は田中地域に接していて、利根川支流である烏川の氾濫原に位置している。
 因みに「久々宇」と書いて「くぐう」と読む。これも難解地名の一つに挙げられる。
 久々宇の地名は歴史が古く、戦国時代頃より名前が見える。「地名と歴史」には、忍城主成田氏の家臣団を記録した「成田家分限帳」に、久々宇の地名が見えるとある。地名の由来として「地名と歴史」では、ククヒ(くぐい・鵠)からきたもので、それは白い白鳥の古い呼び方という。
 北側を利根川が流れることから、昔は白鳥が沢山渡来した土地で、そこからついた地名かもしれない、との事だ。
 江戸時代後期に書かれた『新編武蔵風土記稿』によれば、戸数が68戸で、用水は小山川から引き入れたという。村鎮守社は当稲荷社と記載されている。
        
              
・所在地 埼玉県本庄市久々宇172
              
・ご祭神 字迦之御魂命
              
・社 格 旧久々字村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 43日 例祭 113日 新嘗祭 1210
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2507151,139.2013579,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を本庄市街地方向に進行し、「東台5丁目」交差点を右折、850m程進んだ十字路手前の右側に久々宇稲荷神社は鎮座している。
 周辺には専用駐車場、社務所、自治会館等はないので、社のすぐ北側にある「円融寺」の駐車スペースを利用し、急ぎ参拝を行う。
        
                  
久々宇稲荷神社正面
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたと云われ、那波一族の流れを汲むという。久々宇氏の在所であり、天正10年(1582)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(1624~44)に烏川変流により武蔵国に属することになった。
        
               道路沿いに掲げてある古い案内板
 稲荷神社  所在地 本庄市大字
久々宇一七二番地
 祭神 
字迦之御魂命 外二柱
 当社、創立の時代はあきらかでないが、当所開拓のころから、村人たちの信仰あつく、祭神はまたの名を保食神(うけもちのかみ)といって、五穀の祖神といわれているので、開拓者の守護神として、まことにふさわしい社である。
 本社は徳川時代の建物であったが、その後幾度も改築され、明治五年に村社になった。
 昭和六十一年三月  埼玉県 本庄市
                                      案内板より引用
        
                           朱が基調である一の鳥居
 
    一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    南方向に参道が伸びるが、途中で右側に折れ       
                          曲がり社殿に至る配置となっている。
       
                                       拝 殿

 拝殿の左側には御嶽山大神社等の石碑が鎮座      拝殿手前で右側に設置されている案内板

 稲荷神社御由緒  本庄市久々宇一七二
  ▢縁起
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたが、烏川の変流によって寛永年問(一六二四~四四)から武蔵国に所属するようになった。この辺りは、中世には群馬県伊勢崎市を本拠にする那波一族の流れを汲む久々宇氏の在所であり、天正十年(一五八二)の『成田氏分限帳』にも「久々宇大和元昌」「久々宇八弥」の名が見えるが、度重なる利根川や烏川の氾濫で地形さえも変わっているためか同氏に関する旧跡や伝説など残っていない。
 このように、河川の氾濫に悩まされてきた土地柄であったためか、当社の創建にかかわるような資料は現存せず、口碑なども伝わっていない。しかし、祭神が五穀の祖神とされる字迦之御魂命であり、『風土記稿』久々字村の項にも「稲荷社 村の鎮守、村持」と記されているように、古くから村の鎮守として村民が大切に祀ってきたことなどから考えると、村の開発を行った草分けの人々が、村の発展を願って勧請したことに始まるものと推測される。
 明治五年には村社となり、同四十年には政府の合祀政策に従って字榎下の無格社皇太神社及びその境内社の琴平神社、字諏訪下の無格社諏訪神社及びその境内社の不二山神社と天神社、字諏訪下の浅間社の六社を合祀した。なお、これらの諸社の跡地は、今では畑となっており、神社のあった痕跡は見られない。(以下略)
                                      案内版より引用 
       
             社殿右側奥に屹立するご神木(写真左・右)
 社殿の右側は幾多の境内社・石祠・石碑が並んで祀られている。不思議とその境内社・石祠群は、南北に通る道路に対して背を向けるように配置されて祀られている。
 
   左側から琴平神社・水神社・皇太神宮           諏訪神社・八坂神社・天手長男神社
 
    天手長男神社の右隣にある社は不明        天神社・白山神社・不明
        
                       一番右側には「稲荷神社由来」の石碑がある。
 稲荷神社由来
 当村は元来、上野国に属していたと云われ、那波一族の流れを汲む、久々字氏の在所であり、天正十年(一五八二)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(一六二四~四四)に烏川変流により武蔵国に属することになったと云う。この様な状況から当社の創建年代は明らかではないが、祭神が「五穀の祖神」とされる「宇迦之御魂 」であり、古くから村の開拓を行った人々が五穀豊穣と村の発展を願って建立し、大切に祀ってきたと推測される。
 明治五年村社となり同四十年合祀令により字榎下の皇大神宮と琴平神社、字諏訪下の諏訪神社、不二山神社、浅間神社、天神社の合祀した。又、その他の諸社もその時に合祀したと推測される。
 又、現在の社殿の建立年代は資料がないので不明であるが平成七年(一九九五)に改修した。大幟は平成二年に再調、平成十七年水道の設置、同二十二年に天手長男大神の幟を再調した。
 今年(
平成二十四年氏子の賛同を得て大幟竿のアルミポールに改修し、併せて浅間神社、鳥居、末社上屋の修復、諏訪神社、皇大神宮、水神社、琴平神社を新調し先人の徳に感謝し今後の村の発展と平安を願うものである。(以下略)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄の地名」「境内案内板・石碑文」等

 

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八幡山種池神社及び雉岡城

八幡山種池神社】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山336-2
             ・ご祭神 倉稲御魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 初午 2月初旬 祈年祭 315日 例大祭 1013
                  新穀感謝祭 1210日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1939455,139.1280878,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町市街地方向に進み、八高線「第二深谷街道踏切」を越えて「児玉小学校」交差点を右折すると、JR八高線児玉駅に到着する。児玉駅を起点として西方向に伸びる駅前通りである埼玉県道191号児玉停車場線に左折して合流、そのまま道なりに進む。国道462号線との合流地点である「児玉駅入口」交差点を右折し、その後「児玉高校入口」を左折し、100m程進むと左側に八幡山種池神社の社号標柱が見えてくる。
 
現在は八幡山公園となっている「雉岡城」の東側に鎮座していて、城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地から、時の城主等から深く崇拝されたという。
 社の境内は南北に長いが決して広くない。しかし社殿から見て右側手前には駐車スペースも確保されているので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
       
        入口に置いてある社号標柱         南北に位置する社
        
                                           八幡山種池神社正面
 
      石段上に鎮座する拝殿            石段脇にある案内板

 種池神社 御由緒  本庄市児玉町八幡山三三七
 □御縁起(歴史)
 当社の創建の年代は定かではないが、かつては境内に霊水として知られる湧水があり、近辺の住民の間には四季を問わず湧出するこの池の水によって生活している者が多く、氏子は籾を播く前には必ずここで種籾を洗ったものであった。よって、この湧水に神威を感じ、五穀の祖神である稲荷大神を勧請したのが当社の始まりで、「種池」の称もこの湧水に由来する。
 また、延徳年間(一四八九九二) に雉岡城を当地に築き、その城主となった夏目豊後守定基も深く当社を崇敬し、社殿を再興したという。更に、横地左近将監吉晴、松平玄蕃頭清宗、地頭田備後守といった、その後の城主や地頭も当社を厚く崇敬した。雉岡城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地も、こうした城主らによる崇敬のあったことを感じさせるものである。
『風土記稿』や『郡村誌』に「稲荷社」と載るように、当社は元来は稲荷神社と称していたが、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したのを機に、社号を種池神社と改めた。しかし、昭和五年ごろ、当社の象徴であった湧水は諸般の事情から埋め立てられ、その後は跡に井が設けられて飲み水などに用いられていたが、衛生上の理由から近年はそれも廃止された。ちなみに、境内左の駐車場が湧水のあった場所である。
 □御祭神と御神徳
 ・倉稲御魂命…五穀豊穣、商売繁昌
                                      案内板より引用
 

        
 拝殿の周囲には多くの境内社が鎮座する。『風土記稿』や『郡村誌』では、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したと記載されている。これらの境内社もそのうちのどちらかであろう。


「古は当国七党の一、児玉党の所領する事は児玉町に弁ず。文明の頃は夏目豊後守定基領し、其後永禄中に至ては、横地左近忠春の所領にして、天正十八年御打入ありて松平玄番頭清宗に賜り、慶長六年三州へ得替さられて、同七年戸田藤五郎に賜り、天明六年子孫中務の時上りて御料となりしより今に然り」と『新編武蔵風土記稿』は記している。
 慶長七年戸田藤五郎重元(5千石)の知行地となった際に八幡山町に陣屋を設け、支配をすることとなったというが、現在はそのころの遺構等ない。


【雉岡城】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446
             ・遺 構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等
             ・分類・構造 平城 戦国時代初頭築造(推定)
             ・指定文化財 埼玉県史跡(雉岡城跡)

 雉岡城(きじがおかじょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山446他に所在していた日本の城。丘陵地に築かれており、旧字雉岡の地名をとってつけられた城のため、別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と言う。

 45郭で構築された平城で、『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』等によれば、築造時期は戦国時代初期といわれ、当初は山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した。因みに定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。
 その後永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようで、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城した。徳川時代には松平家清が居城していたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えている。
        
          県道191号を西方向道なりに進むと雉岡城跡に到着する。
   正面入り口付近に設置されている「「県指定史跡 雉岡城跡と周辺の文化財」の掲示板
        
             正面入口にある「雉岡城跡」の看板
             看板周辺には駐車場も完備されている。

  地形的に見ても、この城の東側には鎌倉街道上道が南北に通っており、築城目的として、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられているつまり、当初は五十子陣の支城としての役割があり、五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。
 
 現在は公園として整備されているが、城跡という箏で、いたる所に 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等の遺構が見える(写真左)。
 思った以上に城跡は広い。また途中見かけた案内板(同右)に見入ってしまった。

 埼玉県指定史跡 雉岡城跡  昭和十三年三月三十一日指定
 雉岡城は、八幡山城とも呼ばれ、十五世紀頃に時の関東管領であった山内上杉氏によって築城されたと言われています。東西約二百七十メートル、南北約四百三十メートルに及ぶ城域を持ち、鎌倉街道上道と上杉道の分岐点という交通の要衝に立地しています。
 十四世紀初めまでに成立した歌謡集「宴曲抄」には「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」という歌が収められています。このことから、十四世紀までに雉が岡の地に武士の居館が存在していたと推定されます。
 雉岡城は、築城後、関東管領山内上杉氏及び夏目定基(なつめさだもと)、定盛(さだもり)を城主としていましたが、後北条氏の武蔵進出に伴って雉岡城も後北条氏の支配下におかれました。そして鉢形城主北条氏邦の命により横地左近忠春が雉岡城の城代となりました。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏討伐に伴って落城し、徳川家康の関東入国後、松平氏が城主となりました。その後、城主の松平家清が慶長六年(1601)に三河国吉田城(愛知県豊橋市)に転封となり、雉岡城は廃城となりました。
                                      案内板より引用


 散策途中、本丸南側の曲輪を囲む堀の底に、「夜泣き石(親子石)」と呼ばれる石があり、案内板はその曲輪の脇に設置されていた。「夜泣き石」と言われる悲しい言い伝えである。 

 夜泣き石(親子石)
 この石には、次のような伝説があります。
 昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、取り調べもしないで、お仕置井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。
 そのとき、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、夜になるとお小夜の泣き声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
 また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの石を祀り、女達に慰めの言葉をたやさぬようにと頼み、髪を切って喪に服したと言い伝えられています。(児玉の民話より)
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
       

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稲沢稲聚神社

 本庄市児玉町稲沢地域は、本庄市南西部端部に位置し、「本泉地区」の北部にあり、小山川支流稲聚川の北側斜面に集落が存在している。近世では上稲沢村・中稲沢村・下稲沢村の三村に分かれていた。
 稲沢という地名の由来に関して、確かな記録もないため、はっきりとは分からないが、中稲沢に鎮座する古社の稲沢稲聚神社との関係も考えられる。稲沢稲聚神社の社伝によれば、稲聚川の水源付近に昔から豊富な湧き水があって、下流の住民が水田耕作に多大な恩恵を受けたことから、この地に稲聚神社を創建し、社周辺一帯を稲沢と呼ばれるようになったと云われている。
 上記
稲沢稲聚神社はその稲沢地域に根を下ろした鎮守様であり、阿那志河輪神社同様に、「式外社」別名国史現在社(げんざいしゃ)」「国史所載社(しょさいしゃ)」とも称されている由緒ある社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町稲沢360
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2月初午 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1642982,139.0759228,15z?hl=ja&entry=ttu
 河内金鑽神社から南西方向に進路を取り、埼玉県道44号秩父児玉線合流後400m程県道を進むと、押しボタン式の信号があるT字路に到着する。そこを右折し、道なりに進む。道幅が狭い道路で右側は崖が続くため、進路があっているのか、時に心細くなる時間帯もあるが、そこは辛抱。暫く進むと稲沢地域の集落が見え、尚も西方向に進路をとる。小山川支流稲聚川に沿って道路が続いているようだが、その川の上流部が右方向に進路が変わる地点に稲沢稲聚神社は鎮座している。
 社周辺には大きな杉の大木が多数聳え立ち、遠目からも目視できるので、県道から右折する道さえ間違わなければ、社までは1本道である。県道から社までの距離は1.4㎞ほどであろうか。
 社の東側には「稲澤山村センター」があり、駐車スペースもしっかりと確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                  稲沢稲聚神社 正面
       
        鳥居の手前には社号標・社碑が立つ。 社号標の奥にある稲聚神社碑。

「稲聚神社碑」には創立年代から碑文設置当時までの歴史等が記されていたのだろうが、残念ながら長年の風雪等により、半分以上文字欠損状態となっている。それでも僅かな文字等の確認によると、「稲聚神社のご祭神は稲荷の大神にして倉稻魂神」「六国史の一つである日本三代実録における神階は文徳天皇の天安元年正六位上」「清和天皇貞観十七秊從五位下」「稲澤と全く同じきなり古書に稲取と書」「後小松天皇の應永の頃大旱魃」あたりが記されている。
        
                     案内板
     自然災害の影響か、御由緒案内板の一部が剥がれ、一部解読が不可能な部分がある。
     一部欠損した部分は、ほかのHPを確認することにより、対応できた。

 稲聚神社 御由緒  本庄市児玉町稲沢三六〇
 □御縁起(歴史)
『郡村誌』が「四方に山を帯ひ渓水村の中央を貫流す。地形高低あり運輸車を用ゆ可からす唯馬を用ゆ」とその地勢を描写しているように、稲沢に身馴川(小山川)の支流である稲聚川の流域に位置する山村である。その地内は、かつては上稲沢・中稲沢・下稲沢の三村に分かれていたが、明治五年に合併して一村となった。
 当社は、この上・中・下稲沢三か村の鎮守であり、また『三代実録』に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれている。その由緒は、境内の「稲聚神社伝来碑」によれば「大同三年(八〇八)の創建で、天安元年(八五七)に神階正六位上に列し、貞観十七年(八七五)には従五位下に昇格した。その後、応永六年(一三九九)の旱魃の際、丹生神社を合祭した」という。 更に『明細帳』は、丹生神社の勧謂は、この旱魃で流末の各村から「当社の位置は大和(現奈良県)の吉野川における水徳の神丹生川上神社と同じである」との声があったことを契機とするものであり、尊崇が深いためついには稲聚神社は客社のようになっていると記している。『風土記稿』にも、当社は上稲沢村の項に「丹生社 上中下稲沢村の鎮守とす、満福寺持」と載り、古くから丹生神社としての信仰の方が強かったことがわかる。明治維新後は、神仏分離により満福寺の管理を離れ、社号を稲荷神社と改称して村社となり、明治二十 八年には社号を稲聚神社に改めた。
 □御祭神と御神徳

 倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用
        
                                一の鳥居
 
 鳥居の社号額には「稲聚神社・丹生神社」と記載がある(写真左)。一の鳥居の先には石製の二の鳥居があるが、そこの社号額にも一の鳥居同様に「稲聚神社・丹生神社」と書かれている(同右)。
        
                                       拝 殿
 
  拝殿の扁額も「稲聚神社」「丹生神社」        拝殿の右側には九頭竜神が鎮座。 
     と並列に掲げられている。

 案内板によると、応永6年(1399年)に干ばつを鎮めるため、大和国の丹生川上神社を勧請、合社した。よって、稲聚神社には稲聚神社と丹生神社が記載されている。当時は丹生神社の信仰がより強かったため、以降社名が「丹生社」に改称される。
 その後明治元年(1868年)の神仏分離により社名を「稲荷神社」に改称するが、明治28年(1895年)には創立当初の社名「稲聚神社」に復称したという。
       
 境内には杉の巨木・老木が多数あるが、その中でも社殿右側手前にあるご神木は圧倒的な存在感がある。


 ところで稲沢稲聚神社は六国史の一つである『日本三代実録』《卷二十七貞觀十七年(八七五)十二月五日甲寅》によると、「五日甲寅。授長門國從四位下住吉荒魂神四位上。近江國從五位下小丈神從五位上。正六位上坂神從五位下。武藏國正六位上河輪神。稻聚神。飛騨國正六位上本母國都神。釼緒神。上野國正六位上丹生神並從五位下」と記載があり、貞觀十七年(875)に正六位上の神階を阿那志河輪神社と共に受けていて、それが根拠となり、「国史見在社(こくしげんざいしゃ)」別名「式外社」の社として時の朝廷から承認されている。

 国史見在社(こくしげんざいしゃ)は六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載があるが、『延喜式神名帳』に記載がない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。 式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられてきた。
 六国史は延喜式神名帳以前に成立、編纂された歴史書、または勅撰史書であり、日本において単に国史と言えば、六国史のことを指す場合がある。各史書の成立年は以下の通りとなる。
『日本書紀』…養老4年(720年)
『続日本紀』…延暦16年(797年)
『日本後紀』…承和7年(840年)
『続日本後紀』…貞観11年(869年)
『日本文徳天皇実録』…元慶3年(879年)
『日本三代実録』…延喜元年(901年)

『延喜式(えんぎしき)』は、六国史の後に編集された、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、律令の施行細則をまとめた法典であり、成立年は延長5年(927年)。『延喜式神名帳』は『延喜式』に纏められた巻九・十のことを指し、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧であり、延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2,861社、鎮座する神の数は3,132座である。

 式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定基準には当然ながら、当時の政治色意図が強く反映されていると考えられる。一方、延喜式神名帳に登載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社、正式な社殿がなかった神社等と思われるが、正確にはその選定の定義は分からない。
 その中でも、『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史に神名・社名の見える神社を国史見在社(こくしけんざいしゃ・国史現在社とも)といい、式内社とともに由緒ある神社として尊重されている。
             
 社の入口・社号標柱の右隣には、おそらく古い年代に製造されたであろう柱があり、そこには「国史現在」、その右脇には同じ式外社である「河輪」と刻印されている。


 旧武蔵国に式外社・国史見在社として認識されていた社は五社で、以下の社となる
倭文一神社…埼玉県比企郡吉見町久米田鎮座。現在久米田神社。旧村社。
若雷神社…神奈川県横浜市港北区鎮座。旧村社。
伊多之神社…東京都あきる野市五日市鎮座。現在阿伎留(あきる)神社。旧郷社。
河輪神社…埼玉県児玉郡美里町阿那志鎮座。旧村社。
稲聚神社…埼玉県本庄市児玉町稲沢鎮座。 旧村社。


 式内社・式外社共に1100年前に史書等で官社として記載されている社という箏は、当然それ以前からの創建であり、社自体も歴史を綴っていたことを朝廷が認めたわけであるのだから、延喜式が成立以前、少なくとも数百年単位の由緒は必要と思われる。
 稲沢稲聚神社の案内板による縁起(歴史)にも、創建時期は「大同三年(808)と記しているが、もしかしたら妥当な年代かもしれない。1000年前という途方もない年代を経た由緒ある社という箏だ。
        
 県道から稲沢地域に向かう途中に建てられている石碑群。周辺手入れもなされていて、また社日様も紙垂等で祀られていて、その四方には縄を巻き、結界を成しているのであろう。当然縄には紙垂を巻いていたと思われる。
 道路の向かい側には稲聚川が流れていて、この集落と河川との深いかかわりもこのような石祠群のおかれた場所を鑑みると、地域の方々の、信仰の深さを垣間見た気がして、思わず車を停めて手を合わせた次第だ。

参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」等

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