実ヶ谷久伊豆神社及び千駄野八幡神社
俗に地名はその土地の地形や地質、歴史などを表していて、日本人の姓とも深い関わりがあるという。筆者の考え方の根本的なスタンスとして地名の由来を考えることは、古文書等の文献資料、また考古学分野の発掘調査、さらに当時の地形考察の次に重要なコンテンツであり、それらを総合的に研究し、その結果、風土、歴史等がおぼろげながらイメージでき、いにしえに思いを馳せうる骨格の形成に欠かせないものであると考えている。
そういう意味において昨今の市町村統合によって新しく誕生した地方自治体の新名称には、何の根拠でこのような名にしたのか理解に苦しむものも確かに存在する。出来ることならば古名、旧名は弄らず最低限残す努力もしていただきたい、そんなことを感じる今日この頃だ。
所在地 埼玉県白岡市実ヶ谷553-1
御祭神 大己貴命他四柱
社 挌 旧村社
例 祭 不明
実ヶ谷久伊豆神社は白岡市役所からは丁度真南方向にあり、埼玉県道78号春日部菖蒲線を春日部市方面に進み、左側に病院があり、その向かい側にコンビニエンスがある交差点を右折する。白岡市役所を右側に見ながらその道を進むとT字路にぶつかり、左折し東北自動車道に沿って南下し、約500m弱するとY字路に達するのでそこを左側に進み約1km位で左側に社叢が見えてくる。
但しその道には適当な駐車スペースがなく、参拝するためには一旦社を過ぎてからある十字路を左折するとすぐ先に丁度社号標がある場所につくことができ、そこには車が1,2台分停めることができるスペースがあったのでそこに駐車して参拝を行った。
のどかな田園地帯の奥にこんもりとした社叢が広がる。 二の鳥居がその社叢の入口
実ヶ谷久伊豆神社の案内板 社殿の周りに点在する境内社
境内社に稲荷、天満、など六社
実ヶ谷地区は元荒川左岸の白岡台地の東端部に位置し西側を除く三方が侵食谷により囲まれた土地柄で西方には鎌倉街道が通過しているという地形。地名の中に「谷」があるのはその関係か。この案内板によると、「嘉吉元年(1441)創建、由緒を伝えるものとして日高市聖天院の鰐口(県指定文化財)がある。表に武州埼西郡鬼窪郷佐那賀谷村、裏に大工渋江満五郎、応仁二年(1468)十一月九日の銘がある。鬼窪郷野与党の有力者鬼窪氏の本拠地で当町の小久喜、実ケ谷、白岡を中心とした地域が相当する」とある。つまり野与党の有力者鬼窪氏の本拠地が小久喜を中心としたこの地域だったということが案内板から推測できる。ちなみに小久喜地区にも小久喜久伊豆神社は鎮座している。
拝 殿
本 殿
この社が鎮座する「実ヶ谷」地区は白岡駅から南東方向で、白岡市役所からは丁度真南方向にある。「実ヶ谷」と書いて「さながや」と読む。「千駄野」と共に非常に変わった名前だ。白岡市のホームページによればこの実ヶ谷地区は日勝地区に属し、村名の由来は不明であるが、『風土記稿』の久伊豆神社の記載によれば、古くから佐那賀谷(武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村)の名が見え、これが実ケ谷に転じたと考えらる。また、サナガヤのサナは昔の製鉄にちなむ地名といわれている。なまって「サナゲエ」とも呼ばれる。
江戸時代の初期は岩槻藩領で、明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。この実ヶ谷地区の中央部に実ヶ谷久伊豆神社は鎮座している。
境内の風景
境内は外側から見た社叢の印象に反して陽の光が入っていて思った以上に反していて明るかった。境内の右側、つまり東側には広い空間があり、ゲートボールなどができるように設置されていた。参拝した当日、近所のお年寄りの方たちが数多く集まってレクリエーションを楽しんでいたり、中にはお茶休憩をしていた方たちもいた。小春日和の何とも微笑ましい風景と静かな時間がこの社全体に漂っていた。
千駄野八幡神社
所在地 埼玉県白岡市千駄野字迎129-1
御祭神 誉田別命
社 挌 旧村社
例 祭 不明
千駄野八幡神社は実ヶ谷久伊豆神社から北に500mほど向かった道路沿いに鎮座する。駐車スペースは全くなく、路上駐車となってしまったので急いで参拝を行った。
白岡市のホームページによると千駄野という地名は旧日勝村の一地区で、『風土記稿』によれば、千駄野村は箕輪郷に属し、岩槻城付の村であった。地名の由来は『日勝村誌』には「本村ハ古ヨリ岩槻城附ノ村ニシテ古来荒蕪地多ク領主ニ納ムル貢租ハ僅ニ茅千駄ニ過ギザリシヲ以テ千駄野ト 称セシトイウ」とあるが、木や茅を焚いて雨乞いした所との説もある。
江戸時代には岩槻藩領に属し、明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
拝 殿
本 殿 社殿の左側にある稲荷社