玉敷神社
社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいうが真偽は不明だ。江戸時代までは「久伊豆大明神」とも称されており、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていた。
かつての旧埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の氏神で、元荒川流域に分布する久伊豆〔ひさいず〕神社の総本社と目されている。大宝3年(703)多治比真人三宅麿〔たじひのまひとみやけまろ〕によって創建されたと伝えられるが、一説には成務天皇6年(136)の創祀ともいう。延喜式では小社に列する。かつては現社地より北方に鎮座していたが、天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵により全焼、古記録・社宝等悉く烏有に帰した。後、騎西城大手門前に再建されたが、元和の頃(1620頃?)現在の地に遷座したという。
所在地 埼玉県加須市騎西552
主祭神 大己貴命
社 格 式内社(小) 県社 埼玉郡総鎮守騎西領総氏神
創 建 伝大宝3年(703年) 一説に成務天皇6年(136年)
別 名 久伊豆大明神
例 祭 12月1日
玉敷神社が鎮座する旧騎西町は埼玉県北東部、利根川水系の後背湿地帯にある小さな町で、古くは私市(きさいち)と書かれ、武蔵七党の一つ私市党の根拠地であり、東部の根小屋(ねごや)に私市城を築いた。集落は、自然堤防上にあり、典型的な列村形態をなしている。いわゆる往還沿いに発達した市場町だったようだ。
一の鳥居の右側にある玉敷神社社号標 一の鳥居から長い参道が続く
二の鳥居を過ぎて三の鳥居の先に拝殿がある。
社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいうが真偽は不明だ。江戸時代までは「久伊豆大明神」とも称されており、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていた。
玉敷神社は加須市騎西庁舎の北西、国道122号線を入ってすぐ左側にこんもりとした森があり、そこの一角に鎮座している。駐車場は隣接してある玉敷公園内にありそこに駐車する。(数十台駐車可能)。
かつての旧埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の氏神で、元荒川流域に分布する久伊豆〔ひさいず〕神社の総本社と目されている。大宝3年(703)多治比真人三宅麿〔たじひのまひとみやけまろ〕によって創建されたと伝えられるが、一説には成務天皇6年(136)の創祀ともいう。延喜式では小社に列する。かつては現社地より北方に鎮座していたが、天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵により全焼、古記録・社宝等悉く烏有に帰した。後、騎西城大手門前に再建されたが、元和の頃(1620頃?)現在の地に遷座したという。
玉敷神社の境内に向かう途中に「旧河野邸」がある。
文学博士である河野省三氏は国学者で神道学者でもあり、國學院大学総長を務めた。明治15年に騎西町で生まれ、國學院師範部を卒業後に玉敷神社の宮司とな り、その後、国学や神道を研究し権威として活躍され、昭和27年に71歳で埼玉県神社庁長となり、昭和36年には国学・神道学者として紫綬襃章を受章し た。昭和38年に死去。
生家が玉敷神社であったことから、この地が旧宅の跡地であったようだ。
また拝殿の手前左側には神楽殿が存在する。
国指定重要無形民俗文化財 玉敷神社神楽
江戸神楽の源流をなすといわれる玉敷神社神楽。素朴な中にも、雅な舞を伝える。鷲宮神社の鷲宮催馬楽神楽から江戸の里神楽に発展する途中の姿を残す貴重なもので、埼玉県の無形民俗文化財である。
この神楽の発生は定かでないが、正保(1644~48)の元号を記した面や、享保4年(1719)に神楽を奉納した記録がある。また、古く当神社は正能地区に鎮座しており、その氏子が連綿と神楽師をつとめている。このことから、その成立は江戸時代初期まで遡るものであろう。
演目は番外を含め17座。題材は神話によるものや、演劇的な舞で構成される。楽は笛・太鼓・羯鼓をもちいる。
加須市教育委員会(現地案内板説明文より
さすが久伊豆神社総本山的なずっしりと存在感のある社。煌びやかな神社とはまた違い、出雲大社の社殿のような、木目を基調とした独特な色合いといい、歴史の重さを感じさせてくれる風格さえ漂わせている。
玉敷神社
鎮座地 埼玉県北埼玉郡騎西町(きさいまち)大字騎西552番地
ご祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
またのお名を『大国主命』(おおくにぬしのみこと)
お名前の音がインドの招福の神、「大黒天」とも通じることから「だいこくさま」とも呼ばれ、「七副神」の神として親しまれている ・詩歌、医道、豊作、商売繁盛の神さまとして深く信仰されている
ご神徳
厄除開運・縁結び・安産
創建 大宝3年(703) 第42代・文武天皇の治世(一説には第13代・成務天皇6年 136年とも言う)
社殿
本殿・幣殿(社殿奥側)文化13年(1816)建築
拝殿(社殿手前)明治31年(1898)修築
*「神楽殿」は天保7年(1836)の建築
外周を飾る彫り物は、当時、江戸三名工の一人と言われた五代目後藤茂右衛門の手によるものである
ご由緒
当社は平安時代初期の延長5年(927)に公布された法制の書である『延喜式』にその名を記す(*「式内社」)由緒ある古社である。
*全国に2861社ある「式内社」(しきないしゃ)の内の1社以来、人々の広い尊崇を集めてきたが、天正2年(1574)の戦国期、越後の上杉謙信が関東に出兵した際に放った火がもとで社殿(当時は、現在地より北方数百メートルの正能村一現騎西町正能一に鎮座)や古記録・宝物などことごとく炎上・焼失した。
江戸時代に入り、根古屋村(現騎西町根古屋)にあった騎西城(廃城)の大手門前に一時再建されたが、程なくして(1620頃)現在の地に移転され、今日に至っている。
当社は、江戸時代「玉敷神社・久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヶ村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれてきた。このことから、各地に「久伊豆社」(ひさいずしや)と称するご分霊社が数多く建立されることともなった。久伊豆社のご本社的な存在である
当社のこ神宝を貸し出す「お獅子さま」やご神水の信仰も有名である。
主な祭礼 1/1歳且祭・2/1初春祭・2月節分年越祭
5/5春季大祭・7/15夏季大祭・12/1例祭
・2/1,5/5,7/15,12/1の年4回、祭典終了後(午後)『玉敷神社神楽』(埼玉県指定無形民俗文化財)を奉奏
社頭掲示板より引用
ところで天正2年(1574)に上杉謙信が私市城を攻略した際に、現在地よりも北方の正能村(現騎西町正能)に鎮座していた玉敷神社はその兵火にかかり消失した。その後、根古屋村(現騎西町根古屋)の騎西城大手門前に再建された(現在前玉神社が鎮座)が、寛永期(1620ごろか)に延喜式内社宮目神社社域に社殿を造営し遷座した。玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社(式内社)であった。現在は玉敷神社の境内社となっている。
宮目神社(式内社) 祭神:大宮能売命(おおみやのめのかみ)
玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社であった。式内社・宮目神社の論社で、現在は玉敷神社の境内社となっている。平成13年4月に林立していた白樫が倒壞し社殿に直撃。社殿が大破したために同年6月に社殿竣工。
大宮能売命
『古語拾遺』によると、太玉命の御子神で、本来は神祇官の御坐祭神八座の一つで、大殿祭祝詞に「御膳に邪気なく、延臣に過ならしめる神」とあり、君臣の間を和らげる神、神と人との間を執り持つ神とされている。大宮能売命は物事が無事に運ぶよう、うまく調整する力を持ち、その立ち振る舞いが優美で愛嬌があるとされる神で、そうした性格から、旅館の神、市場や百貨店の神として、接客業界の人々を中心に信仰を集めている。
大宮能売命の父神である太玉命は、出自は『記紀』には書かれていないが、『古語拾遺』などでは高皇産霊神(たかみむすび)の子と記されていて、忌部氏の遠祖の一柱と言われている。この太玉命に率いられた神々は、各地の忌部の祖となっている。
天日鷺命 阿波忌部の祖
手置帆負命 讃岐忌部の祖
彦狭知命 紀伊忌部の祖
天目一箇 筑紫・伊勢忌部の祖
神武天皇の御代、この神の神裔である天富命(あめのとみのみこと)が、阿波国の忌部を率いて東国(安房)を開拓している。
つまり、比企郡淡州神社にも触れたが、この埼玉郡にも阿波の一族に関係する社が多数存在するということだ。
また拝殿を取り囲むように境内社が数社存在する。以下の通り
八坂社、松尾社、厳島社、白山神社、稲荷神社、琴平神社、神馬社
玉敷神社の大銀杏
玉敷神社の境内には、2本の大イチョウがあり、いずれも幹まわり約5mを越え、樹齢は約500年、樹高は約30メートルといわれる。今でも樹勢はさかんで、秋の加須市から有形民俗文化財(天然記念物)として指定されている。
また例年5月には玉敷神社公園内で藤まつりが盛大に行われる。
藤棚の前の時計台(上段)、また観る人を圧倒するほどの立派な大藤(下段)で、天然記念物に指定されている。樹齢400年の大藤。幹回り4.8m、枝振り700平方メートル、花房は1mに達し、薄紫の花が薫風に揺れる様は、まさに壮観である。
明神様の御神湯
当社の境内には井戸があり、その水は霊験あらたかで薬水お助け水と呼ばれていた。ある時、20年間の長きにわたって病床にいた明神の氏子が祈祷したところ、明神の水を温めて入浴するようとのお告げがあった。そこで神水を風呂に入れて繰り返し入浴したところ一ヵ月あまりで全快した。彼は風呂屋を始め、神湯として人々に勧めたという。
以後、昭和40年代にいたるまで明神の水でお風呂をたてるとどんな難病でも治るといわれ、特に皮膚病・傷に効果があった。入浴に際しては、風呂の縁に腰掛けないこと、風呂場に唾をはかないこと、歌を歌わないこと等の決まりがあった。
また、入浴料は任意の賽銭とされ、その賽銭が風呂の維持費に当てられた。往時は入浴をした後に、神水を一升瓶に入れて持ち帰る人も多かったが、今では風呂は無くなったが、境内には神水の井戸が残されており、現在でも「貰い水」に訪れる信者は多い。