古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上之村神社

在地    埼玉県熊谷市上之16
主祭神    上之村神社・大己貴命 事代主命

             
摂社 雷電神社・火大雷大神 大雷大神 別雷大神
社  格     旧郷社 
    
由  緒    當社創立ノ年度詳カナラズ應永年中忍ノ城主成田左京亮家時神威ヲ
                   
崇メ社殿ヲ再建シ爾来奕葉崇敬シテ神田若干ヲ附ス其後天正十八年
               
成田家忍退城ノ翌年東照公巡狩トシテ通路アリ社木森々トシテ生茂
        
     リ煩ル幽境ノ景況ヲ覧セラレテ時ノ侯人伊奈備前守ヲシテ神社ノ来
        
     由ヲ諮問セラル従テ翌慶長九年ニ及ンテ社領三十石境内数町諸役免
        
     許神供祭禮修造等不可懈怠ノ?朱印ヲ寄附セラレタリ明治六年郷村
        
     社々格選定ノ際當社ヲ以テ旧第十五区拾九ケ村ノ郷社ニ列セラル明
        
     治四十年四月二日神饌幣帛料供進指定神社トス
例  祭     七月廿何、廿八日両日 例大祭

        
地図リンク
 国道17号線の上之(雷電神社)交差点から入ったところに鎮座する。駐車場は神社の境内手前右側にある。ただし17号線からは摂社である「大雷神社」と大きく書かれて、その下に上之村神社と申し訳なさそうに案内板に明記されている。ネームバリューの関係からだろうか。ところで、上之村神社の読みは「うえのむら」と全国神社名鑑などにあるが、氏子の方に聞くと「かみのむら」だそうだ。

  上之村神社の社叢の前には「社前の堤」と言われる堤が存在する。

 
                       「社前の堤」案内板とその遠景
社殿の堤(堤の由来)

 応永年中(1394-1428)成田郷の領主成田家時が従者と館の東にある森の小祠の前を芦毛の馬に乗って通った時、何に驚いたか馬がハネ上り家時は落馬 してしまった。何んの神様の祟りかと、附近の老人に聞いてみると、この社は久伊豆神社と雷電権現で、この神様は芦毛の馬に乗ることから、神前を芦毛の馬に 乗って通る者は必ず神罰を蒙る伝えがあり、そのためだったという。
 家時はこの神威に驚き乗馬の芦毛を神馬として奉納以来当社を崇敬し直接神前を通るのは勿体ないとこの堤を築かせたという。

 
社前の堤を過ぎると、江戸時代の両部鳥居が見える
            
                        熊谷市指定文化財建造物 上之村神社鳥居
                                  指定年月日  平成九年十一月三日
                                  所 在 地   熊谷市大字上之十九番地
 この鳥居は、上之村神社正面にあって、木造の両部鳥居形式のものです。
 平成七年の解体修理の際に、柱のほぞから、願主と大工の名前とともに、寛文四年(1664)六月十二日の建造を示す墨書が発見されています。
 建造以来すでに三三○年以上も経っている当鳥居は、笠木や控柱の上に板屋根を設けるなど耐久性にも充分考慮された、市内最古の木造鳥居として重要です。
            
                           参道 思った以上に長い。古の神社の風情を感じる。
           
                        
                          上之村神社、大雷神社 拝殿

           
 
          上之村神社 本殿                      雷電神社 本殿
上之村神社本殿と雷電神社の周囲は瑞垣に囲われており、正面には立派な門が取り付けられている。 


上之村神社本殿・
雷電神社本殿

 上之村神社は、古くは久伊豆神社と称し、室町時代、城主成田氏の崇敬が厚く、応永年間(1394~1418)に成田家時が社殿を再建したと伝えられています。
 江戸時代に入り、慶長九年(1604)に徳川家康から三十石の朱印地を与えられ、明治二年(1869)には村名をとって上之村神社と改称しています。
 本殿の構造は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は銅板葺(もと茅葺)です。軒回りの蟇股(かえるまた)・手挟(てばさき)などに十二支の彫刻が彫られていて、木割は雄大です。
 雷電神社は上之村神社の摂社で、本殿の構造は蟇股の彫刻など一部を除き、上之村神社とほとんど同じです。木割は上之村神社に比べて繊細で、規模もやや小さなつくりです。
 社務所に保存されている旧本殿の扉には、「(観音)奉修造雷電宮御宝前戸扉大壇那藤原朝臣長泰 武州崎西郡忍保宮山之内※年戊午五月吉日願主※」という 銘文が記されています。戊午の年は永禄元年(1558)と推定され、この年に忍城主成田長泰が、雷電神社の内陣の扉を修理し寄進したことが考えられます。
 指定名称は歴史的な背景から考えて雷電神社となっていますが、現在は、大雷神社と称されています。
 両本殿の建築年代については、上之村神社本殿は、江戸時代初期と推定され、雷電神社本殿は彫刻類の絵の様式から、それよりやや古いと推定されています。
 両本殿とも建築当初の姿をよく残し、桃山末期から江戸初期の建築様式を伝える貴重な建造物です。
 平成九年三月
   埼玉県教育委員会
   熊谷市教育委員会

 
        諏訪社                合祀社                 合祀殿
 上之村神社拝殿の周りには多数の境内社がある。写真中央の合祀社は拝殿奥右側にあるが祭神は不明で、右写真の合祀殿の祭神は夷神社と荒神社、事任神社、天神社、住吉神社が祀られている。

          
また一の鳥居の手前左側には富士塚がある。塚の頂には富士嶽神社鎮座し、他に醫薬大神や道了山、高尾山、小御嶽神社、猿田彦大神、食行霊神・角行霊神などの名が見える。

 境内は広く開放感がある。また時間がゆっくりしていて居心地がとても良い。熊谷の地で、このような社があったとは正直驚いた。
 また神社の説明書きや由緒等の案内板も多数あり、よく理解できた。神社の近くには遊具等の遊び場もあり、数名の親子連れやお孫さんと一緒に遊んでいるお年寄りもいて微笑ましく思った。
 境内は整理が行き届いていて、参内中不愉快なゴミ等全くなかった。寺院風の煌びやかな神社ではないが、その神社の持つ素朴さや質実さは俗に言う「いい味が出ている神社」なのではないかと参内時間中感じた。ともかく不思議と神社全体の雰囲気が良いのだ。

 上記で紹介したが、「上」は大和言葉で「ウエ、カミ、カサ」と言われていた。この「カサ」は笠族の笠原氏と深い関係が有り、この名称から上之地区は笠原氏の居住地区ではなかったかと推察されるが事の真相はいかがなものだろうか。また和名抄武蔵国賀美郡は「上」郡とも呼ばれていた。都に近い理由から付けられた名称らしいがそれだけだろうか。またこの上之となにか関連性があるのだろうか。


 

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