古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大田天神山古墳

 かつて深谷市の北部に位置する利根川右岸一帯は低地地帯で、利根川の洪水によりできた氾濫原にあたり、瀬(水の流れが急な所)や島(中州のこと)という地名が多く、俗に『四瀬八島』という言葉も残っていて、南西島・北西島・大塚島・内ヶ島・高島・矢島・血洗島・伊勢島と瀧瀬・小和瀬・横瀬・中瀬の地域名をもつ地域とされている。
 この地帯は、利根川のしばしばの氾濫により、常に被害を受けた為、旧郷社で、旧榛沢郡総鎮守社である島護産泰神社をこれらの守護神として信仰したことにより「島護」の名がついたという。地名にはその土地の歴史が刻まれていて、風土や歴史を物語るという。大事にしたいものである。
 女体山古墳や太田天神山古墳(男体山古墳)がある地域名も「内ヶ島」といい、かつては渡良瀬川や利根川、またその各河川の支流等が入り乱れていた地域であったと推測できる。そして、その一帯の水運流通(経済)を一手に管理する集団のトップがこの古墳に埋葬されている人物であったのかもしれない。
        
            
・所在地 群馬県太田市内ケ島町1606-1ほか
            
・形 状 前方後円墳
            
・規 模 墳丘長210m
                 
後円部径120m 高さ16.5m 前方部幅126m 高さ12m
            
・築造時期 5世紀前半-中期頃(推定)
            
・史 跡 国指定史跡 年月日 昭和16年1月27日
                       
平成22年8月5日(追加指定)
            
※参拝日 2026年1月11日
 大田天神山古墳は、東武伊勢崎線太田駅の東約1.2kmにある古墳で、女体山古墳のすぐ南西側にあり、両古墳はほぼ同じ時期に造られていることや、同じ方向を向いて造られていること、設計企画に同じ尺度を用いている可能性があることなどから、2つの古墳の葬られた人たちの間には密接な関係があったと考えられている。
        
             
太田天神山古墳中央部東側にある入口道からスタート
            写真左側のくびれ部付近には鳥居が見える。
 
    入口に対して左側が前方部        同じく入り口に対して右側は後円部
 さすが墳丘長210㍍の大きさを体感できるスケールのある古墳。東日本では最大、全国でも30位以内(近畿地方を除くと3位)の規模を誇る大前方後円墳で、東日本では墳丘長が200㍍を超す唯一の古墳として知られている。また、大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長とされているが、他の説もあり明らかではないとの事だ。
        
             東側のくびれ部に建つ目塚天満宮の鳥居
       
            鳥居の左側に設置されている当古墳の案内板
 史跡 天神山古墳
・所 在 地 太田市大字内ケ島字天神1606ほか
・指定年月日 昭和16年(1941)1月27日
 別名男体山とも呼ばれ、東日本最大、全国でも27.8位の規模を誇る大前方後円墳である。
 墳丘の全長210m、後円部直径120m、同高さ16.8m、前方部前端幅126m 高さ12mである。
周囲には二重の周堀が巡らされ、墓域は長さ364m、幅288mに及ぶ。また北東と西に陪塚を持つ。
 墳丘は三段築造で、表面を渡良瀬川系の川原石で葺き上げている。
 主体部は堅穴式であるが、既に盗掘を受けており、後円部南鋸付近に大型の長持形石棺の一部が露出している。
 墳丘部及び中堤帯には円筒埴輪が、また後円部墳頂には器材埴輪が樹立していたと考えられる。
 築造時期は5世紀中頃と推定され、被葬者は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。
 平成元年3月31
日                              案内板より引用

 天神山古墳
 平地ニ營造セラレタル前方後圓墳ニシテ略西南ニ面シ封土全長約六百九十三尺、後圓部徑約五百十四尺、前方部幅四百三十二尺ヲ有シ群馬縣下ニ於ケル最大ノ古墳ナリ表面ニ葺石存シ周圍ニ幅約百二十尺ノ環隍阯アリテ現在水田ヲナシ其ノ外側ニモ環隍阯ノ一部存シ二重隍ヲ示セリ封土ハ少シク毀損セラルル所アリト雖尚ヨク舊態ヲ保テリ
                             「文化遺産オンラインHP」より引用

 
  くびれ部頂上付近に鎮座する目塚天満宮     天満宮近くに祀られている石祠等
 くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、「天神山古墳」の古墳名は同神社に由来するとの事だ。
 因みに当古墳は、1938年(昭和13年)の『上毛古墳綜覧』では「九合村69号墳」として登載されていたが、1941年(昭和16年)1月27日に「天神山古墳」として国の史跡に指定されている。
        
             目塚天満宮から一段高い後円部を望む。

 上毛野地域(かみつけの 現・群馬県域)では、太田天神山古墳登場以前までは東毛の首長(別所茶臼山古墳)と西毛の首長(浅間山古墳・白石稲荷山古墳)とが個々に存在したが、やがて東毛の首長が伸長し、女体山古墳や天神山古墳が出現するに至り、上・下毛野地域のみならず北武蔵地帯に及ぶ支配を確立して築造した古墳と筆者は推測している。



参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「文化遺産オンラインHP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「古墳内案内板」等

        

 

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太田市内ヶ島町 女体山古墳


        
            
・所在地 群馬県太田市内ケ島町1506-1
            
・形 状 帆立貝形古墳(又は造り出し付き円墳)
            
・規 模 墳丘長106m
                 
後円部径84m 高さ7m 造り出し部幅18m 高さ1m
            
・築造時期 5世紀中頃(推定)
            
・史 跡 国指定史跡 (指定年月日) 昭和2年4月8日
                   ※参拝日 2026年1月11日
 国道407号線を北上し、「太田市役所南」交差点を右折、1.7㎞程東行した「内ケ島」交差点を左折し群馬県道2号前橋舘林線を右側に女体山古墳が見えてくる。ざっくりいうと「大田イオンモール」のすぐ西側にある。古墳前に駐車スペースが若干あるということのようだが、交差点の向かい側にはコンビニエンスもあり、そこの一角をお借りし、買い物をしてから古墳散策を行った。
        
                           県道沿いにある
女体山古墳
 太田市内ケ島町地域は、市東南側に位置し、金山丘陵の南に広がる沖積平野に残るローム層からなり、古代の行政区分である新田郡と山田郡の境界付近に位置しており、奈良・平安時代には新田郡に属していたものと考えられている。
        
              
女体山古墳正面造り出し部を撮影
               
造り出し部は幅18m、長さ16m
 
   古墳正面前部に設置されている案内板         案内板の右側にある標柱
 国指定史跡 女体山古墳
 所 在 地 太田市大字内ケ島字女体1506ほか
 指定年月日 昭和2年(1927)4月8日
 隣接する男体山(天神山古墳の別名)に対して女体山と呼ばれる円丘部に方形の造り出し部を付けた形で帆立貝形古墳という形式である。
 墳丘の全長106m、円丘部直径84m、高さ7m、造り出し部は幅18m、長さ16mである。帆立貝形古墳としては奈良県北葛城郡河合町の乙女山古墳(墳丘全長128.6m)に次いで全国第2位の規模を有する。周囲に幅11~19mの周堀を持つ。墳丘表面には川原石が葺かれ、円筒埴輪が巡らされている。
 主体部(埋葬施設)は竪穴式のものと推定される。未発掘と伝えられるが、墳頂付近に削平の跡があり盗掘を受けているものと考えられる。
 築造時期は5世紀中頃で、天神山古墳よりやや先行する時期と考えられている。
 平成2年(1990)3月31
日 太田市教育委員会                      案内板より引用
 
   墳頂部はなだらかな平面が続く。            
墳頂部に祀られている石祠二基
 周囲に幅11~19mの周濠をもち、墳丘表面には河原石が葺かれ、円筒埴輪がめぐらされている。主体部(埋葬施設)は竪穴式のものと思われ、墳頂付近に削った跡があることから盗掘を受けていると推定される。築造時期は5世紀中ごろで、天神山古墳よりやや先行する時期。天神山古墳と女体山古墳はともにきわだった規模をもち、ほぼ同一時期に、同一方向を向いて築造されていることから、両古墳の被葬者には密接な関係があると考えられている。1927年(昭和2)に国の史跡に指定された。
        
          女体山古墳から東方向を望むと、太田天神山古墳が見える。


参考資料「
国指定史跡ガイド」「日本歴史地名大系」「太田市HP」「太田市観光物産協会HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「古墳内案内板」等

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倉賀野浅間山古墳

 倉賀野浅間山古墳が所在する前橋・高崎台地は、火山性泥流堆積層(前橋泥流)により形成された台地で、北西から南東へ緩やかに傾斜している。台地は榛名山南麓に沿って東流する烏川、榛名山南東麓斜面に発し東流する井野川等の河川や支流の影響を受け開折された自然堤防が発達した幅広い微高地や後背湿地を形成し、微高地には集落跡や古墳・館跡などが立地し、後背湿地には水田跡などが数多く点在する。
 当古墳は烏川左岸段丘上にあり、烏川の形成した崖線から800m北方に位置し、西側を烏川の支流である粕沢川に東側を無名小河川に画された北西から南東に伸びる幅300mほどの微高地上に立地している。
 国指定史跡に指定されている当古墳は全長約171.5mの前方後円墳で、標高85mの平坦地上に立地している。築造は4世紀後半から5世紀初頭と推定され、県内最大の太田市天神山古墳(全長210m、5世紀中頃)に次ぐ規模を誇り、ひいては関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳で、築造された当時は東日本最大の古墳であった。
        
             
・名  称 浅間山古墳
             
・所 在 地 群馬県高崎市倉賀野町313ほか
             
・形    状 前方後円墳
             
・規    模 墳丘長171.5m 高さ14.1m
             
・指定種別 国指定史跡 昭和2年4月8日 令和3年3月26日(追加指定)
                                
令和3年10月11日(追加指定)
 大鶴巻古墳・小鶴巻古墳の北西方向に位置する全長171.5mの前方後円墳。一旦上記2古墳から北上し、「上町西」交差点を左折、群馬県道121号和田多中倉賀野線に合流後し350m程進んだ丁字路を左折すると、進行方向正面にこんもりとした林の囲まれた当古墳が見えてくる。
 因みに「浅間山」の名称は、明治時代まで墳頂に富士浅間社を祭っていたのがその由来となっているようだ。
『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』において、この古墳は『県下では太田天神山古墳に次ぐ大前方後円墳で、墳丘全長一七四㍍、後円部径一〇八㍍、同高一四㍍、前方部前幅七八㍍、同高七㍍、幅三〇㍍の周堀をめぐらせており、形は大変優美な姿をしている。主体部は未発掘だが、五世紀代の古墳と推定されている。前述の大鶴卷・小鶴卷古墳等と共に、千数百年以前にこの地方に君臨した大豪族の墳墓と考えられる。あるいは、山ノ上碑等にその名を見せる「佐野三家」一族に関係あるかと思われるが、今後の研究に俟つ』と、この古墳の規模について若干の差異はあるものの、上記のような説明文を載せている。
        
                倉賀野浅間山古墳後円部正面
              
 令和4年度から令和6年度までの調査成果により、浅間山古墳の外堀はほぼ全周することが確認された。形状は墳丘の東西側の幅が狭く、後円部の西側が大きく外に広がっていた。外堀の一部が広がる理由については、墳丘を構築する際に追加で土が必要になったため余分に掘削したことなどが考えられるが、今後の検討課題となっているという。いずれにしても、4世紀後半頃において二重の周堀は全国的にも最先端の構造であり、墳丘の規模や形状も含めた研究から、ヤマト王権と深い関わりがあったことが推察されているという。
        
                倉賀野浅間山古墳の案内板
 国指定史跡 浅間山古墳
 浅間山古墳は、烏川左岸の台地上に位置する四世紀後半から五世紀初頭に築造された前方後円墳です。墳丘は前方部が二段、後円部が三段の築造で、斜面には葺石があります。墳丘周囲には内堀と外堀の二重周堀があります。内堀は馬蹄形で、その外側に葺石を持つ中堤(ちゅうてい)が築かれ、さらにその外側に外堀が廻っていることが確認されています。
 同一段丘上には、前方後円墳の大鶴巻古墳・小鶴巻古墳、円墳の大山古墳・庚申塚古墳などの古墳及び方形周溝墓が多数築造されており、浅間山古墳周辺地域が古墳出現期から五世紀後半にかけて充実した墓域を形成していたことがわかります。
 浅間山古墳は築造時、東日本で最大の前方後円墳でした。現在も太田市に存在する太田天神山古墳(墳丘長210m)に次いで県内第二位の規模を誇り、高崎市内で最大規模のものです。
 浅間山古墳の規模
 墳丘長 :171.5m
 前方部 :長さ66.3m、高さ5.5m
 後円部 :長さ105.0m、高さ14.1m
 内堀の幅:30.8m(前方部)、31.3m(後円部)
 中堤の幅:9〜10m
 外堀の幅:56〜65m
 全  長:南北332m、東西210m(外堀を含む古墳の全体の規模)
 ※ 令和3年5月現在の調査結果による推定規模(以下略)
                                       案内板より引用
 
            後円部(写真左)から前方部(同右)を望む。
 倉賀野浅間山古墳は、大和の佐紀楯列古墳群の佐紀陵山古墳(奈良市・全長209m)と親和性の高い類似形の平面形を呈しており、また、近郊の下佐野遺跡群などで滑石や緑色凝灰岩を用いた玉造製作工房跡が確認されたことによって、当古墳の築造時期とほぼ同時期の、倉賀野地域に早い段階で玉造集団が移住・定着し、新たな祭祀体制への備えが存在していたことが考えられているとの事だ。
 どちらにしても、当古墳は、現在の群馬が古墳時代において「ヤマト」との関係をより強固に結び付ける歴史を物語る古墳であり、それが一地域の力の結集によって具現化された大型前方後円墳の一つである。このような重要な古墳が、その全貌を今もほぼ形状を保ったままで残存していることに大きな価値がある。市街地化が急速に進む現代にあって、これだけの大型古墳が周堀の形状も綺麗に地割として残っている点は、群馬県でも稀有といい、古墳時代からの歴史を如実に伝えることのできる歴史文化遺産といえよう。 


参考資料「
高崎市文化財調査報告書429:倉賀野浅間山古墳HP」
    「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「遺跡案内板」等   
                     

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大鶴巻古墳・小鶴巻古墳

 かつて古墳時代、高崎市東南部の烏川流域の下佐野町地域から倉賀野町地域にかけての左岸段丘上には、300基近い大型の前方後円墳・円墳が広く分布しており、特に烏川左岸の粕沢川流域には『倉賀野古墳群』と総称される古墳群が形成される。近接する東方井野川下流域の古墳群ともあわせると、付近一帯は古墳時代のほぼ全期間にわたるきわめて大規模な古墳分布地帯である。
 この大規模古墳群には、突出した規模を誇る前方後円墳である倉賀野浅間山古墳を盟主墳とし、粕沢川左岸に築造時期が近接する前方後円墳である大鶴巻古墳が、右岸には同じく前期円墳と考えられる庚申塚古墳・大山古墳等が築造されている。古墳時代前期において大型墳が集中する現象は稀有であり、倉賀野古墳群の優位性が際立っているのだが、古墳時代中期になると、5世紀後半に築造されたと推測される主体部に舟形石棺を有する小鶴巻古墳等幾らかの遺跡は確認できるが、倉賀野浅間山古墳周辺において遺跡数は大幅に減少し、烏川左岸縁辺部においても同様な傾向となる。
        
            ・名  称 大鶴卷古墳
            
・所 在 地 群馬県高崎市倉賀野町661番地ほか
            
・形  状 前方後円墳
            
・規  模 墳丘長123m 高さ10.5m
            
・指定種別 国指定史跡(昭和2年4月8日指定)
 倉賀野神社の南西方450㍍ほどに大鶴卷・小鶴卷の二大古墳がある。『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』による「鶴巻」という名称の由来は、弓弦を巻く弦巻であるとか、鶴舞の転訛などの説があるが定かでない。古老の話では、この辺一帯は鶴の飛来地であったというから、あるいは「鶴舞」説が正しいかも知れないとの事だが、真偽の程はわからない。
 大鶴卷古墳は、墳丘全長123㍍、後円部径72㍍、同高さ10.5㍍で、2段築成(後円部は3段の可能性有り)で葺石・埴輪を備え、幅約25㍍の周堀をめぐらせる大前方後円墳である。4世紀から5世紀前半頃の築造と推定されている。
        
                  史跡 大鶴卷古墳
              案内板は西側前方部と後円部とのくびれ部付近に設置されている。
        
                 大鶴卷古墳の案内板
 史跡 大鶴巻古墳
 この古墳は、烏川左岸の段丘上に築かれた全長一二三mの前方後円墳で平坦地に土地を二段に盛り上げてつくられています。ただし、後円部の墳頂下五mのあたりで等高線の間隔がゆるやかになる部分が見られることから三段築成の可能性もあります。後円部の径が七二m、高さ十.五mであるのに対し、前方部の長さ五一m、前端幅五四m、高さ六.五mと、後円部に比較して前方部の幅が狭く、未発達という特徴を持っています。墳丘のまわりには楯型の周濠をめぐらし、地割りにその痕跡が残るなどよく原型をとどめています。墳丘の表面には埴輪や葺石として用いられた川原石が認められます。主体部は明らかにされていませんが、竪穴系の埋葬施設があったと考えられ、墳丘・周堀りの形状や採集された埴輪の特徴から四世紀から五世紀初頭にかけてつくられたことが推測されます。
 所在地 高崎市倉賀野町六六一番地ほか
 指 定 昭和二年四月八日
 高崎市教育委員会                               案内板より引用

        
                   後円部を撮影
 
  後円部の楯型の周濠も綺麗に保存されていて、よく原型をとどめている(写真左・右)。

 大鶴巻古墳の出土品として、円筒埴輪や鰭付き円筒埴輪があるが、これらは黒斑を有し突帯突出率も高いものになる。これら埴輪や墳丘・周堀の形状から、大鶴巻古墳は4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定されている。

        
             
・名 称 小鶴卷古墳
             
・形 状 前方後円墳
             
・規 模 墳丘長87m 後円部径約50m 前方部幅約40m
 小鶴卷古墳は大鶴卷古墳の北に接し、墳丘全長約87㍍、後円部径約50㍍、前方部前幅約40㍍、幅約20㍍の周堀を有する前方後円墳で、一見するだけでは87㍍という墳丘長には正直見えない程、採土のためかなり変形しているようだが、貴重な歴史的な遺物であるため大鶴卷古墳と併せて末永く保存してほしいものである。後円部墳頂において凝灰岩製刳抜式石棺が見つかっており、これを基に大鶴巻古墳に続く5世紀後半の築造と推定されている。
        
             後円部付近に設置されている案内板
 小鶴卷古墳
 この古墳は大鶴卷古墳と共に、五世紀後半のものと推定される前方後円墳で、倉賀野古墳群を代表する首長墓の一つでもあります。墳丘全長約87m、後円部径約50m、同高約6m、前方部は前幅約40m、同高約2.5mで、幅約20mの周堀を有しています。
 後円部蓋の頂上中心部に舟形石棺と考えられる凝灰岩製の刳抜式石棺が安置されております。その石棺の蓋の部分の既掘穴(盗掘の穴)から見ると、内部には赤色塗彩がなされているとの報告もありますが、詳細は不明です。
 前方部は現在、共同墓地、畑地となっていますが、後円部高と比較して低平です。周堀は在宅化で原型の把握が困難ですが、堀と墳丘を一周していることは確認できます。出土する埴輪片は窖窯(あなかま)焼成で、外面に縦ハケの調整が施されています。
                                       案内板より引用
        
               道路沿いから眺めるように撮影


参考資料「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「案内板」等

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七輿山古墳

 七輿山古墳(ななこしやまこふん)の名称の由来には次のような悲しい伝承が伝わっている。
 七輿山古墳からほど近い群馬県高崎市吉井町池字御門にある日本三大古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている人物と同一とされる「多胡羊太夫」の伝承・伝説に基づいている。
 天児屋根命の子孫、大織冠鎌子5世の孫である藤原将監勝定の嫡男である八束羊太夫宗勝は、和銅7年(714年)に元明天皇より片岡・緑野・甘楽郡より300戸を賜った。
 それまでに毎日、奈良まで(和銅を持って)天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復していた。それは斉明天皇の御代から元正天皇の養老元年(717年)まで63年間に及んだ。
 太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣した。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と呼ばれるに至ったという。
        
               
・名 称 七輿山古墳
               
・所在地 群馬県藤岡市上落合831-1他
               
・規 模 全長145m 高さ16m 形 状 前方後円墳
               
・築 造 6世紀前半
               
・指 定 国指定史跡 昭和2(1927)年6月14日
                    
*追加指定 平成8(1996)年9月26日
 七輿山古墳は、上落合地域西境から北境を流れる鏑(かぶら)川と、同地域東境を北流する鮎(あゆ)川に形成された河岸段丘上に造られた三段築成の大型の前方後円墳で、全長150m、前方部幅106m、後円部径87m、前方部と後円部の高さは16mを計る。
 藤岡市上落合地域は、藤岡市の北西寄りに位置し、古墳の東側には鮎川に沿って南北方向に群馬県道173号金井倉賀野停車場線が延びていて、また美土里・小野地区と高崎市吉井町を繋ぎ甘楽方面へ抜ける同県174号道下栗須馬庭停車場線が「上落合」交差点にて交わっている。その交差点からすぐ南側にある「上落合南」交差点を西行し、暫く進むと、左側に「七輿の門」という専用駐車場があり、七輿山古墳はその専用駐車場から正面に見えてくる。
        
        「
七輿の門」駐車場のすぐ東側にある「七輿山 宗永寺」の社号標柱
               正面参道から徒歩にて出発する
『日本歴史地名大系』 「上落合村」の解説
 鏑(かぶら)川が西境から北境を流れ、東境を北流する鮎(あゆ)川を東北端で合する。南は三木村・白石村、西は多胡郡岩井村(現多野郡吉井町)と接する。村名は両河川の合流(落合う)地にちなむといい、東方の烏川と神流川が合流する落合村(落合新町、現多野郡新町)に対し上落合としたという(「国志」など)。南部に国指定史跡の七輿山古墳、北部に県指定史跡の伊勢塚古墳があり、ほかに六〇基余の古墳が確認されており、南接する白石にも多数の古墳があるので、古代豪族が居住していたと推定される。
 
    宗永寺参道から七輿山古墳を撮影           後円部に近づく。        
    写真の左側は後円部にあたる。             
 墳丘には自由に登る
ことは出来たのだが、今回は時間の関係で周濠付近の散策のみ。それでも、河岸段丘という地形を利用して造られた三段築成の大型の前方後円墳は、周囲一面周濠を巡らせているため、その大きさを認識しやすい。
        
                      後円部に設置されている案内板
 国指定史跡 七輿山古墳
 所在地 群馬県藤岡市上落合八三一-一ほか
 所有者 国ほか
 この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。 大きさは全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、高さは前方部・後円部高さは16mです。 四回にわたる範囲確認調査で、墳丘の周りに内堀・中堤帯・外堀・外堤帯・埴輪列が明らかになりました。 また、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡っています。 出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪のほかに人物・馬・盾などの形象埴輪があります。 特に、円筒埴輪は七条凸帯を融資、径50㎝、高さ1.1mの大型品です。
古墳の埋葬施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られたものと考えられます。
        
   後円部の中腹で、先端部にあたる場所は古墳が削られていて、石仏が安置されている。
       よく見るとどの石仏の首はない状態で、近くで撮影しようとしたが、
           薄気味悪さも手伝い、この位置からの撮影となった。
        
                             後円部から前方部を撮影
 群馬県藤岡市が県立歴史博物館と早稲田大学との合同調査を行っていた七輿山古墳について、墳丘の長さは6世紀代の古墳としては全国3位規模の150mだったことが判明した。合同調査は平成30年、最先端のGPS(衛星測位システム)測量と地下探査レーダーを駆使して実施。2日には、正式な学術報告が公開されている。
 七輿山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、規模はこれまで145mとされていたが、27万ヶ所を測定するなどして5m長かったことが明確になったという。
        
         前方部。この古墳が三段築成の大型の前方後円墳であることが分かる。
        
                        前方部から後円部を撮影。
 古墳の墳丘は緑地で松・桜等の疎林で覆われていて、地元の協力により美観が保たれ、「藤岡八景」の一つになっている。
 昭和47年から4回にわたる範囲確認調査で、内堀・中堤・外堀・外堤・葺石・埴輪列が確認されている。特に、中堤は古墳主軸線の前方部方向と前方部南西方向の隅に方形状の造り出しが付設されていた。また、中堤の平坦面には2列の埴輪列が検出されているという。
        
                       「七輿の門」付近に設置されている案内板

『武蔵国造の乱』は、『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条の記載によれば、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていて、小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。
 更に、『日本書記』によれば、安閑天皇2年(535)5月には大和朝廷から上毛野国の「緑野屯倉」を設置したと載せていて、この「緑野屯倉」は現藤岡市緑野・倉屋敷付近と推測されている。
 
 
         「七輿の門展示室」に解説・展示されているパネル板

 当時、「上毛野君氏」の勢力の中心地であったと推定される高崎市周辺の南東約10㎞の地内にあたり、これは前年の武蔵国造の乱で敗北した上毛野君氏が、大和政権に屈服した結果として設置されたものであるという説もあるが、ハッキリとは解明されてはいない。

 というのも『日本書記』では、上毛野君小熊が助けの求めに応じた記載はなく明らかでないこと、小熊が処罰を受けた記載がなく、むしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないこと等の反論もある。
               

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