前玉神社
「さいたま」の語源として
1 『古事記』に「前玉(さきたま)比賣命」の名が見え、行田市大字埼玉に前玉神社があつて前
玉彦命と前玉姫命が祀られているところから、「幸玉(さきたま)」からの転訛。
2 「サキ(先、前)・タマ(水辺、湿地)」の意または「多摩郡の先」
3 国境または辺境の意などの説
と様々な説があるが真相は不明だ。
この地域は関東平野の中心部にあたる加須低地に位置し北に利根川、西に荒川の本流、支流が数多く存在し、乱流が最も激しかつた地域で、縄文時代から古墳時代まで後背湿地や沼が多く、開発が非常に困難な地域ではなかったかと思われる。
所在地 埼玉県行田市大字埼玉字宮前5450
主祭神 前玉比売神(サキタマヒメノミコト)
前玉彦命(サキタマヒコノミコト)
社 格 式内社 郷社 埼玉郡総社 浅間神社・行田市埼玉鎮座
例 祭 4月15日 春祭り 例大祭
創立年代 不詳
前玉神社は埼玉県道77号行田蓮田線沿い、さきたま古墳群の外れにあり、浅間塚古墳の頂きに鎮座している。駐車場は一の鳥居からの参道の南側に十数台駐車可能なスペースが確保されており、そこに車を止め参拝を行った。
前玉神社 社号標 一の鳥居
総高4.5m、最大幅5.8m、材質 白河石
前玉神社 一の鳥居
行田市指定文化財で延宝4年(1676)建立の鳥居。
鳥居は明神系の形式で、笠木、島木が一体に作られ、両端に反増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせている。
貫は一本の石材で作られてくさびはなく、柱はややころびを持ち、台石の上に建つ。正面左側の柱の銘文によれば、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領内氏子により建立された。
長い参道が続く 二の鳥居の先にある境内
右手に手水舎、奥に三の鳥居が見える
前玉神社正面。後方高台が社殿
埼玉県名の由来
明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当所の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉郡(さきたまぐん)という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所である。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和62年4月 埼玉県
社頭掲示板より引用
新編武蔵風土記稿による前玉神社の由来
新編武蔵風土記稿では、「浅間社」として浅間社遷座にまつわる江戸時代の口承を伝えている。
浅間社
祭神木花開耶姫命にして、「延喜式」に載せたる前玉神社なれば郡中の総鎮守なりと土人いへいり。
されど屈巣村の傳へには、当社は式内の社にはあらず、昔富士の行者己が命の終る時に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日終穏の日、果たして雪の降りたることあれば、成田下総守氏長奇異の思をなし、此所に塚を築き、家人新井新左衛門に命じて、忍城中にありし浅間社をここに移し、則成田氏の紋をつけて、行者の塚上に建り。されば忍城没落の後、彼新左衛門屈巣村に住せしより、子孫今の五郎左衛門に至り祭礼毎に注連竹を納むるをもて例とすと。
社地の様平地の田圃中より突出せる塚にて、周り二町程、高さ三丈余、四方に喬木生い茂り、頂上は僅に十坪程の平地にして、そこに小社を建つ。これを上ノ宮と云、夫より石階数十級を下り、又社あり。これを下ノ宮と云。
相傳ふ、此塚は天正の頃下総守氏長の築きし塚といへど、其様殊に古く、尋常のものにはあらず。上古の人の墳墓地なるも知るべからず、されば当社の鎮座も古きことにて、彼行者の霊社なりと云は、尤便事にて取べからざつは勿論なり。成田氏の紋を記せるは、天正の頃彼の家より造立してかくせしにや。されど天保天和等の棟札のみを蔵て、余に證すべきこともなければ、詳かなることは知るべからず。
例祭は5月晦日、6月朔日・14日・15日なり。
本社の外に拝殿、神楽殿あり
高台から見た社殿 社殿は参道に対して直角、南側に向いている
前玉神社へ登る石段の両脇に万葉の歌を刻んだ石灯籠が建っている。説明板によると、元禄10年(1697)に氏子たちが奉納した灯籠とのことだ。今では見にくくなっているが、万葉集の「小埼沼」と「埼玉の津」の歌が、それぞれに刻まれている。万葉歌碑としては最も古いと考えられている。
石灯籠の案内板
埼玉(さきたま)の、小埼(をさき)の沼に、鴨(かも)ぞ、羽(はね)霧(き)る、おのが尾に、降り置ける霜を、掃(はら)ふとにあらし 巻9-1744
(意味:埼玉の小埼(の沼の鴨が、羽ばたいて水を飛ばしている。あれは、羽に降り積もった霜を払い落としているのだろうなぁ)
佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも音な絶えそね 巻14-3380
(意味:さきたまの津にある船は風が強いので今にも綱が切れそうだ。船の綱は切れようとも、私への言葉は絶やさないでくれ)
小埼(をさき)の沼」は、現在の埼玉県行田市埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群から東に2.5kmほど行ったところにある小さな沼である。古代には、行田市大字埼玉あたりを表す地名として「さきたま」が用いられた。この付近に湖 沼があちこちに散らばり、また利根川や荒川に臨む渡し場も随所にあったとされている。
拝 殿 拝殿内部撮影
また前玉神社は浅間塚古墳の上に鎮座している。
社内にある浅間塚古墳の案内板
浅間塚古墳
高さ8.7メートル、直径58メートルの円墳であり、市内の八幡山古墳、白山神社古墳と並行する7世紀前半の築造と思われる。最近まで古墳なのか、それとも後世に築造された塚なのか、議論 されていたが、1997年と1998年の発掘調査で幅10mの周濠が確認され、古墳であることが明らかになっている。変形が激しく、元々は新撰武蔵国風土記稿に記されている大きさから、前方後円 墳であったという説もある。(現地案内板では円墳説を採っている)
出土品に関しては不明。墳頂には延喜式の式内社である前玉神社(さきたまじんじゃ)が鎮座している。そのため、この古墳の周りには歌碑などが多い。
前玉神社の祭神は前玉比売神、前玉彦神の2神であるが、前玉彦神は別名天忍人命とも言う。この天忍人命は先祖神、天火明命の曾孫にあたる。海人族である天火明命から天香語山命-天村雲命-天忍人命という系図となり、尾張氏、海部氏、掃守氏の祖にあたるともいう。系図によっては、天香語山命の父、つまり天火明命の位置に、前玉彦神(天忍人命)とするものがあって、天香語山命(高倉下命)の兄の天筑摩命(あめのちくまのみこと)を「掃部直祖」としている。天忍人命と同神とされている前玉彦神、天前玉命は、豊玉比瑪の弟の振魂命の子、つまり豊玉比売の甥にあたり、産屋に奉仕するということからして、こちらの系図もなかなか魅力的だ。
ちなみに「先代旧事本紀」によると、この天火明命は天照国照天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるあまひあかりくしたまにぎはやひのみこと)であり、物部氏の祖とされるニギハヤヒとも言われている。
武蔵国北東内陸部に位置している埼玉郡だが、内海の津である「埼玉の津」を通じて海人族である天火明命を祖とする物部氏やその一族である尾張氏等らと交流が我々が思っている以上に深ったのかもしれない。