古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

狐塚氷川鹿島大神宮


        
             
・所在地 埼玉県久喜市狐塚217
             
・ご祭神 素盞鳴尊 武甕槌命
             
・社 格 旧狐塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭礼 415日 秋祭礼 1015
 国道125号線から「佐間」交差点を直進し、埼玉県道316号阿佐間幸手線を南東方向に3.6㎞程進むと、県道沿いに狐塚氷川鹿島大神宮が見えてくる。鳥居から社殿に至る参道の両側は、樹木もなく、開放感のあるのどかな場所に社は鎮座している。
        
                
狐塚氷川鹿島大神宮正面       
『日本歴史地名大系』 「狐塚村」の解説
 中里村の南西に位置し、東を島川が流れる。川沿いに堤防(島中囲堤)がある。元亨四年(一三二四)二月八日の下河辺荘公事注文案(金沢文庫文書)に「キツ子ツカ」の地名がみえ、称名寺(現神奈川県横浜市金沢区)領であったことがわかる。田園簿に村名がみえ、田高一八石余・畑高一七九石余で、幕府領。元禄郷帳では高一六五石余。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも幕府領。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
 
社の入口付近で参道右側に設置されている案内板    参道右側周辺にある高秀寺の墓地 

 
               参道途中に建つ鳥居(写真左)。
      鳥居の社号額には「氷川大明神・鹿島大神宮」と刻まれている(同右)。
 当地には幾つもの沼がある。これは、利根川の氾濫により生じたものであり、水損地帯であることを物語っている。
 当社の神威を語る話も、水害にかかわるものが多い。明治四十三年、他社に合併することになり、幣束を持ち出したところ大水が出たので中止した。また、昭和二十二年の大洪水の折には、中川の昭和橋付近で逆流した水によって神社周辺が最も水勢の激しい所となったが、神様のお力で社は流されなかったという。
 このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
 
 参道を進み境内に入ると左側に「
狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑」があり(写真左)、右側には御嶽山座王大権現・八海山大頭羅神王・三笠山刀利天宮と刻まれた石碑、その右側手前には山口数馬霊神と刻まれた石碑がある(同右)。
 狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑
 一、名 称  氷川神社 鹿嶋大神宮
 一、所在地  栗橋町大字狐塚四番二一七番地
 一、所有者  埼玉県神社庁
 一、祭 神  素盞鳴尊 武甕槌命
 一、創立沿革 往古より之あり、元禄十丁丑年除税地と相
        成り、及々大破した
ので天保十四年中、氏
        子力を協せて再建せり。明治六年
村社と許
        可。同四十三年
三月二十五日、同村同字四
        番無格社御嶽
神社を合併す。大正五年九月
        十四日、本殿改造許可。同年十一月
十五日
        工事落成
        昭和二十二年九月 洪流により鳥居流失(中略)
 一、行事祭礼 四月十五日、十月十五日
           
春秋二回の祭礼を行なう。
        部落三班に分れ輪番制で祭礼を行なう。
 一、地 勢  字のほぼ中央を南北に貫く県道幸手杓子木
        線の東側に位置し、南は中川
堤塘北方には
        内池が清澄な水を湛えているが、西方は水
        田が開けている。
社殿の後方に杉は鎮守の
        森を形成していたが近年公害により枯死し
        現在は
数本を残すだけとなって居る。
     以上が昭和六十四年迄の元神社の概況であり、
        町の資料による。(以下略)                  
記念碑文より引用 
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡狐塚村』
 島川 村の東を流る、川幅十二間、川に傍て堤あり、又此川に渡船場あり、水原のことは嶋川村の條に辨す。
 鹿島社 村の鎭守なり、泉福寺持、
 泉福寺 新義眞言宗、内國府間村正福寺末、月光山藥王院と云、本尊藥師を置、


 氷川神社  栗橋町狐塚五八二(狐塚字五番)
 当地の地名狐塚は、古いころ田の神として狐を祀った塚があったからと伝える。地内には、高秀寺と当社の別当であった泉福寺の二寺があり、『風土記稿』高秀寺の項に、「鐘楼 延宝三年(一六七五)鋳造の鐘を懸く」とあり、また、泉福寺は「鐘楼 延宝九年の鐘を懸く」とある。現在、両寺とも鐘は見られないが、当社の隣にある清澄な水を湛える内池には、お寺の鐘が沈んでいるとの話が伝わっている。これにより、当地の開発年代は不明ながらも、延宝のころには鐘を懸ける寺が二か所もある村であったことが知られる。
『明細帳』に「往古ヨリ是アリ、元禄十年(一六九七)ノ検地二除税ノ旨ガアル、社殿ハ天保十四年(一八四二)再建」とある。
『風土記稿』には、氷川神社の記載はなく鹿島社として載る。これには口碑によると、昔当地が下総国に属していたころは、一の宮香取神社を祀り、次に常陸国から当地へ入植があり、その国の神である鹿島神社が祀られ、江戸期に入って武蔵国へ編入されるに及んで武蔵の氷川神社を勧請したものであるという。そのため、氏子は社名を鹿島社とも氷川社とも呼ぶ。なお、社号額は「鹿嶋大明神・日川大明神」と二神を併記し、二間社の本殿に二社の金幣が祀られている。
『明細帳』に「明治四十三年三月二十五日、同村同字四番無格社御嶽神社ヲ合併ス」とあり、現在拝殿内に祀られている。 
                                                「埼玉の神社」より引用
        
              拝殿の足元に置かれている嘗ての社号額
        
                     社の東側にある「狐塚ヘルシーパーク」
      地域名「狐塚」からきているのであろうか。何気に狐の銅像があったりする。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板・記念碑文」等

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間鎌稲荷神社


         
             
・所在地 埼玉県久喜市間鎌159
             
・ご祭神 保食命
             
・社 格 旧間鎌村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 間鎌八幡神社から北西行すると500m程、「間鎌稲荷会館」の東側隣に間鎌稲荷神社は鎮座している。
        
                  
間鎌稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「間鎌村」の解説
 松長村の南東に位置する。天正一七年(一五八九)五月晦日の某印判状写(武州文書)によると、先年下総関宿(せきやど・現千葉県関宿町)で戦功があったとして巻島主水助が「間釜之内にて十貫文」を小田原北条氏(氏照か)より宛行われている。田園簿に村名がみえ、田高九石余・畑高一〇八石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一四一石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも一橋領。
        
             開放感のあり境内も手入れの行き届いた社 
       
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌村』
 稻荷社 村の鎭守なり、村持、

 稲荷神社  栗橋町間鎌一五九(間鎌字砂畑)
 当社は、栗橋町の中央や北西寄りの間鎌にある。間鎌の地名は、島の中の淵を表す、あるいは淵のあった所であるなどの説がある。
 神社の辺りの集落を本田と呼び、当地の草分けで「長屋門」の家号を持つ籠宮(こみや)家がある。当社は籠宮家の先祖が氏神として祀ったものを、後に本田の鎮守にしたものであるという。口碑に「籠宮本家に屋敷神がいないのは本田の鎮守に祀ってしまったからだ」とある。籠宮家については明らかにできないが、同家のある耕地は本田のうち砂畑という所で、八軒で入植したと伝えている。
『明細帳』に「元祿十丁丑歳(一六九七)十二月中除税地トナリ鎮座有之、其ノ前鎮座ノ年暦干支記録伝聞等詳ナラズ」とある。
 当社の本殿棟札に「奉再建稲荷大明神社一宇 右天下泰平国土安全氏子安隠也 天明八戌申歳(一七八八)九月 武州葛飾郡間鎌村氏子中 遷宮導師迎盛院快興」がある。これによると、当社は字本田の鎮守というよりも、大きく間鎌村の鎮守であったと思われる。
 嘉永三年(一八五〇)、当所氏子中奉納の農作業風景を描いた絵馬は、牛での耕作・田植え・草取り・刈り取り・振り棒打ち・風選(ふうせん)・懐詰めと、順序を追って描かれ、往時の様子をうかがわせる。
 なお、境内には寮と呼ぶ建物があり、阿弥陀如来と不動明王を安置している。
                                   「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」によると、当社の祭りには「おおぜいれ」と「こぜいれ」があり、各々「大祭礼」「小祭礼」の意味とも思われ、「おおぜいれ」は間鎌全体の祭りであり、「こぜいれ」は字本田のみの祭りであるという。この区別の起こりは、当社が本田の鎮守であると共に間鎌全域の鎮守としての位置付けられていることに関係するとみられるが、明治期に村社となったことによるものかそれ以前かは不明である。
「おおぜいれ」は、4月15日の春祭りと10月15日の秋祭りをいい、秋祭りは特に「秋のおおぜいれ」と呼んでいる。春秋共に本田の当番が赤飯を炊き、本田の氏子が上げる赤飯と一緒に神前に供え、これを下げて子供たちにお供物として配る。また、直会には間鎌全戸が参加する習わしがある。因みに直会の会場は、昭和34年に境内に大ケヤキを売却し、稲荷会館を建ててからは、こちらで行っている。
        
            水塚上で拝殿前左側に祀られている地神尊
   地神尊の奥に見える建物は、阿弥陀如来と不動明王を安置している「寮」であろうか。

 一方、「こぜいれ」は、初午や3月17日の地神尊をいう。初午は、子供達を集めて太鼓をたたかせ、菓子を配り、大人たちは当番を中心に、神前でお神酒上げと称して神饌(しんせん)とお神酒を供えて拝礼し、稲荷会館で直会を行うという。また、
地神尊は、境内にある石祠「地神尊」を祭るもので、作神として敬い、お神酒上げと直会をするという。
        
             稲荷会館の南側に隣接して祀る幾多の供養塔や地蔵様
      左から念仏供養塔・地蔵様・十九夜塔・甲子待供養塔・光明真言供養塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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間鎌八幡神社・間鎌天神社

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代の間鎌(まがま)は「間鎌村」と「間鎌新田村」の二村に分かれていた。このうち、間鎌村は本村であることから本田(ほんでん)と呼ばれ、稲荷神社を鎮守として祀っていた。これに対して枝村である間鎌新田村は、八幡神社を鎮守として字前新田に祀り、更に天神社を字後新田に祀っていたという。
 この「間鎌」は「まがま」と読み、なかなかの難読地名の一つと考えられるが、この地名の由来として、「釜」や「鎌」が湾曲した土地をあらわし、津波や洪水で浸食や崩壊があった場所と言う説や、島の中の淵を表し、あるいは淵のあった所である等、河川に関連した地名であることは確かなようだ。
間鎌八幡神社】
        
             
・所在地 埼玉県久喜市間鎌3313
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧間鎌村前新田鎮守 旧無格社
             
・例祭等 祭典 4月・10月各15日 浅間様(初山)630日 他
 河原代香取神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を1.2㎞程北西方向に進み、丁字路を右折する。周囲一帯豊かな田畑風景の広がる中、農道を北東方向に進行、途中ポツンと「久喜市佐間浄水場」を眺めながら700m程進んだ民家が点在する集落に入った最初の十字路の先に間鎌八幡神社が見えてくる。因みに社の西側に隣接し久喜市立栗橋西中学校がある。
 社の東側に沿って北東方向に通じる道があり、かつて「坂東道」と呼ばれていたようだ。
        
                  
間鎌八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「間鎌新田」の解説
 間鎌村の東にある。田園簿に村名がみえ、田高三石余・畑高一三四石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一二三石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっている。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)、幕末の改革組合取調書などには記載がなく、幕末までには間鎌村に合併した新田として把握されることが多くなったものと思われる。
        
                  石段上に建つ拝殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌新田』 記載なし。

 八幡神社  栗橋町間鎌三六五(間鎌字砂河原)
 栗橋町のほぼ中央に位置する間鎌に当社は鎮座し、誉田別命を奉斎している。間鎌は周囲の村落より低地になっているが、それは古くは大河が当地を流れていたためで、今でも地面を四〇㌢㍍ほど掘ると、川の跡が出るという。
 間鎌には、本田・前新田・後新田の三耕地があり、当社は前新田の鎮守である。一方、本田は稲荷神社、後新田は天神社をそれぞれ鎮守として祀っており、村社は本田の稲荷神社であった。創建の年代については、確かなことはわからないが、新田の開発とほぼ同じころと考えられており、本殿とされている高さ九五㌢㍍、間口二八㌢㍍の石祠は、創建時に建立されたものと伝えている。しかし、残念なことに、銘文が全く刻まれていないで、その来歴を知ることはできない。
 戦国期の天正十七年(一五八九)、小田原北条氏が、関宿合戦の恩賞として巻島主水助に「間釡之内十貫文」を与えたという古文書があることから、本田は既に戦国期には村落を成していたと思われるが、本田と新田の旧家の間につながりがほとんど見られず、むしろ新田の開発は、江戸期に他所から移って来た人々によって行われたとみられる。したがって、当社の創建も江戸期の始めから中ごろのことではなかろうか。また、『風土記稿』には記載されていないことから、当初は石祠だけの小さな社であったと考えられる。
                                   『埼玉の神社』より引用
 当社は、無格社ではあったが、間鎌前新田の鎮守として信仰が厚く、昭和の初め頃、村社であった本田の稲荷神社に合祀する話が出た時も、氏子の反対により実現には至らなかった。但し、当社の氏子は、本田の稲荷神社の氏子にもなっていて、稲荷神社の春秋の祭典には、前新田の氏子を代表して、当社の氏子総代が参列しているという。
        
              拝殿の左側に祀られている石祠三基
                
左から辨財天宮、稲荷大明神、稲荷大明神・稲荷大明神
        
               拝殿右側奥に祀られている浅間宮
 浅間社の祭典は「初山」もしくは「浅間様」とも呼ばれ、生後一年に満たない子供を参詣させるとその子は健康に育つといわれ、氏子区域以外からも参詣があるという。
        
         社殿の東側で水塚下にある
地蔵尊と光明真言百万遍供養塔
       
       
               境内に聳え立つイチョウ等の巨木
           久喜市指定の保護樹木に指定されているようだ。
 氏子の間で、当社と共に信仰されてきた神仏として、「坂東様」と呼ばれる小さな祠と石祠がある。祠の中には「納経墳」と刻まれた石碑があり、石祠については「納経墳弥助 行者 天保四巳九月□日」と刻まれている。石祠については、その昔、弥助という行者が仏様を背負って諸国を巡っている途中、当地で没したため、村人が懇ろに埋葬して墓碑を立てたものであるという伝えが残っており、元は現在の場所から北東に100mほどの所にあったが、栗橋西中学校の建設に伴い近年移転したという。
        
                    坂東様
 この行者の墓が坂東様と呼ばれるのは、当社の脇を通る道が関宿に通じる「坂東道」という街道であったことによるという。しかし、行者の墓と納経墳とが、同時期のものかどうかは、判然としていない。
 坂東様には、性病や下(しも)の病に効くという信仰があり、かつては毎年四月に御真言とか縁日といい、付近の人々が太鼓をたたいて念仏踊りを奉納するなど、賑やかな行事であったが、諸般の事情からまもなく中止となり、今なお再開されていないという事だ。


間鎌天神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市間鎌5301
             ・ご祭神 菅原道真公(推定)
             ・社 格 旧間鎌村後新田鎮守
             ・例祭等 初参り 11日 春のお神酒上げ 415
                  秋のお神酒上げ 1015日 1125
 間鎌八幡神社から北東に伸びる道を400m程進むと、進行方向右手の道路沿いに「間鎌天神会館」が見え、その会館の奥で目立たない場所に間鎌天神社が静かに鎮座している。 
        
                  間鎌天神社正面
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌新田』
天神社 村の鎭守なり、

 天神社  栗橋町間鎌五三〇-一(間鎌字後新田)
 当社の鎮座地は、後新田の北端に位置し、境内の北端には領主佐竹氏が、国替えの折に一夜にして作ったと伝える坂東道(ばんどうみち)がある。
 当社が間鎌新田村の鎮守となったのは、本村の間鎌村から分村した後のことであると思われる。また『元禄郷帳』には、当社の除地を載せていることから、江戸時代前期には、既に当社が祀られていたことがわかる。更に『風土記稿』には「民家二十四」とあり、化政期(一八〇四-三〇)の氏子数が確認できる。
 勧請には、二つの説がある。一つは、本村である間鎌村の旧家、鈴木家邸内の屋敷神を、当地に勧請したとする説で、本村と新田の関係から当社の創建を伝えている。また、一つは、隣村の字仁蔵(にぞう)に居を構えた豪農、岡野家で祀る岡野天神を勧請したとする説である。
 なお、当社の末社である稲荷社は、本村である間鎌村の鎮守、稲荷神社から勧請されたものといわれている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
            拝殿の手前で左側に祀られている末社・稲荷社
        
                  社殿からの一風景
 当社の北側を通る坂東道の沿道には、かつて「坂東宿」という宿場が置かれ、江戸初期に「栗橋宿」が整備され、当地の宿場住民がそちやへ移住するまでは、賑わいを見せた所であったという。当地に隣接する前新田には、この坂東道で行き倒れになった坂東様と呼ばれた行者「弥助」を祀ったと伝える「納経塚」が今も残されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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新井香取神社


        
                         ・所在地 埼玉県久喜市新井272
                         ・ご祭神 経津主命 天穂日命
                         ・社 格 旧新井村鎮守
                         ・例祭等 初祭り 110日 春祭り 415日 
もや刈り 720
                              
秋祭り 1015
 久喜市新井地域は河原代地域の南西側に位置し、埼玉県道316号阿佐間幸手線の南側に沿って接している地域で、広大な田畑風景に囲まれた農業地域でもある。その地域のほぼ中心に新井香取神社は鎮座し、地図を確認すると、河原代香取神社の南西方向で、近距離に社は建っている。一見ログハウス調の「新井集会所」に隣接していて、そこの駐車スペースをお借りしていから参拝を開始した。
        
                  新井香取神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井村」の解説
 島川村の東に位置し、村の南を島川が流れる。川沿いには堤防(島中囲堤)がある。田園簿に村名がみえ、田高五〇石余・畑高二一九石余で、幕府領。元禄郷帳では高三〇三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本酒井領で、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも同じ。「風土記稿」によると家数三七。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。八甫(はっぽう)村(現鷲宮町)との間の広大な河川敷を両村で草刈場としていたが、宝永七年(一七一〇)当村はその境をめぐって訴訟に及んだものの、その訴えは退けられた(文久元年「八甫村諸記録写」霊樹寺文書)。
        
            開放感ある田畑風景の中にポツンと鎮座する社
                低地に鎮座している為なのか、水塚上に社は建っている。
 鎮座地の新井が農業地域であることから、古来、農耕神として信仰されている。また、個人的に病気平癒や災難除けなどを祈願する人もあり、特に戦時中は出征にあたって武運を祈願する人が多かったという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 新井村』
香取社 村の鎭守なり、東福院持、
東福院 新義眞言宗、内國府間村正福寺末、香意山觀音寺と號す、本尊不動を置、


 香取神社  栗橋町新井二七二(新井字宮廻り)
 広々とした田畑に囲まれ、新井のほぼ中央に鎮座する当社は『明細帳』に「往古ヨリ村内鎮守二勧請シ有之元禄十丑年(一六九七)検地其以前ヨリ除税地トナリ」と記されている。

 水害から守るために築かれた水塚の上に建つ社殿は、慶応元年(一八六五)に再建されたものである。本殿は二間社流造りで、共に同じ型の幣束(高さ五七㌢㍍)が納められている。これは『郡村誌』に「香取・鷲宮社」と見えるように、二社の合殿であるためで、大正六年に香取神社と称しているが、祭神は現在でも経津主命(香取神社)・天穂日命(鷲神社)の二柱である。いつごろ香取神社と鷲神社が併せ祀られるようになったかは不明であるが、その背景には、寛永年間(一六二四-四四)以前は当地が香取神宮を一の宮とする下総国に属していたことと、鷲宮町の大社である鷲宮神社の信仰圏との関係が考えられる。
 なお、『風土記稿』新井村の項には「香取社 村の鎮守なり、東福寺持」と載り、鷲神社の名は見えないが、これは記載を漏らしたものと解すべきであろう。
 江戸時代に別当であった東福寺は、神仏分離後に廃寺となり、昭和十七年、狐塚の高秀寺に合併した。しかし、その堂宇は合併後も残され、今日も観音堂の名称で氏子に親しまれている。
                                   「埼玉の神社」より引用

 
石段途中の右側に設置されている力石の案内板  水塚上に建つ拝殿の右側に祀られる天満宮
        
            社殿の右側奥に祀られている境内社・稲荷神社
 新井という地名は、一般には新たな開発地を表すといわれているが、当地では地名起源として興味深い話が伝わっている。それは、当地に新井姓が多いところから付けられたというもので、この姓が多いのは、県内でも特に新井姓が多いといわれる秩父・本庄方面から集団で移住したためであるという。この移住は、江戸初期ごろで、その子孫の家々は、いずれも十三、四代を数えている。 
        
                 新井香取神社 遠景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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北広島天神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市北広島923
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧廣島村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春と秋のお日待 315日・1015
 河原代香取神社から北東に伸びる道路を南栗橋駅方向に進む。閑静な一戸建て住宅街が延々と続くこの地一帯は、おそらく市街地調整区域となっているのであろう。その住宅地の中を1㎞程進行した丁字路を左折し暫く進むと、その突当たり付近の右側角地に北広島天神社が見えてくる。
 
 赤い鳥居の手前に建つ伊勢参宮記念碑(写真左)。実のところ、この写真では見えないが、社の正面には一般車両が横づけされ、うまく写真に納められなかったため、このようなアングルとなってしまった。住宅地の一角に鎮座する社ゆえか、境内は決して広くはないが、社殿に続く参道の両側には社叢林が覆い、手入れも行き届いていて、地域の方々からの信仰の厚さも感じられる(同右)。

『日本歴史地名大系』「広島村」の解説
河原代(かわらだい)村の北東にあり、正保国絵図・田園簿では広島新田とみえる。田園簿によると田高二六〇石余・畑高二三二石余で、幕府領。元禄郷帳では高一八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本久津見領。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。

 当社の氏子区域である北広島に限らず、島中と呼ばれる一帯は低湿地であるため、排水の設備が十分でなかった昔は、少し雨が降ると水浸しとなる有様で、そこに住む人々の苦労は並大抵ではなかった。当時は、氏子の多くは川海老やナマズ・鮒などの川魚を獲り、それを町場(白岡・蓮田方面)に売って生計を立てていた。ゆえに米は貴重品であり、米だけのご飯を炊くのは1020日の恵比須講の日だけであったため、その日は盛大に恵比須講を祝ったそうである。
 ところが、大正から昭和にかけて、河川改修が行われ、排水の設備も整ってくると、農業が盛んになり、米や麦が多く生産できるようになった。そして、長い間農業地域として発展をそげ、戸数も増えていく。ところが、昭和61年に、隣接する中里地域に東武日光線の南栗橋駅が新設され、それに伴い当地も市街地区域の指定を受け、今度は市街地へと、その姿が再び大きく変わろうとしているとの事だ。

        
            参道を進む中、左側に見える力石2基と案内板
         案内板の内容は河原代香取神社と同じで、使用年度は不明。
 地元古老の現認によると、力自慢の若者が鍛錬や娯楽の為に持ち上げたとの説明書きがある。
        
                                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿 廣島村』
 天神社 村の鎭守なり、金剛院持、 〇八幡社 持同じ、〇六所明神社 伊坂村迎盛院持、〇神明社 川口村圓光寺持、 大日堂 〇香取社三 一は遠藤内村寶積院持、一は狐塚村泉福寺持、
 金剛院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺持、自在山と號す、本尊不動を置、 地藏堂

 天神社  栗橋町北広島九二三(北広島字天神裏)
 中川と権現堂川に挟まれた低湿地地帯は島中(しまなか)と呼ばれ、その中には栗橋をはじめとして幾つもの村が形成されてきた。当社が鎮座する北広島もそうした村の一つであり、地名は島中の中でも比較的広くて平坦な地であったことに由来するという。したがって、元来は広島村と称していたが、明治十二年に北葛飾郡に編入されるに当たり、郡内に同一村名の村があったため、北広島村と改称した。ちなみに、他方の広島村は現在の吉川町にあり、当地に対して南広島と称している。
 当社は、この北広島の守護神として創建され、『風土記稿』にも「天神社 村の鎮守なり、金剛院持」と載せられている。『風土記稿』は、そのほか、村内の諸社として金剛院持ちの八幡社、伊坂村迎盛院持ちの六所明神社、川口村円光寺持ちの神明社、遠藤内村宝積院持ちの香取社、狐塚村泉福寺持ちの香取社を挙げているが、これらの神社はいずれも無格社として、明治十九年から四十三年にかけて村社であった当社に合祀された。また、当社及び八幡社の別当としてその名が挙がっている金剛院は、当社の一五〇㍍ほど西北にあった真言宗の寺院であるが、神仏分離に伴い、明治の初めに廃寺となり、現在は地蔵堂だけを残している。
 なお、明治時代に当社に合祀された諸社は、その後いつのころか八幡社を除いて旧地に復し、各々耕地の人々によって祀られている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
拝殿手前の参道左側にある「北広島天神社社殿竣  同じく参道右側にある伊勢参宮記念碑二基
 工記念碑」と伊勢参宮記念碑・伊勢両宮皇大神

 北広島天神社社殿竣工記念碑
 往古より霊験灼たかな守り神として当地に鎮座し、地区住民の心の拠り所として深く慕われて来た北広島天神社社殿が、平成十四年九月二日夜八時頃時を同じく北広島地蔵堂と共に不審火で全焼してしまいました。
 地区住民は茫然とし日常生活も手が付かないという状態でしたが気を取り戻し再建に向け動き出しました。
 再建に当たり区長を初めとする三役、総代、組長、有志に依り構成された建設委員会に基づき再建会議を開催し、天神社そして地蔵堂の順に再建を図ることを決定し、八坂神社染谷宮司にもご意見を伺いながら再建内容の検討を進めてまいりました。
 最終的には、再建会議出席者全員の総意の下、天神社については新たに地区住民から寄付金を集める事はせず、この度の火災に依り保険会社から支払われた保険金約一千百万円の保険金の範囲内で再建しようという事になりました。

 再建のための建築工事は大利根町の染谷工務店にお願いし、平成十五年五月四日に起工となり、同年十二月十四日、関係各位のご支援とご協力の下、待ちに待った竣工の日を迎えました。当日は天候にも恵まれ地区住民一同歓喜に咽ぶ一日となりました。
 ここにこの事業の竣工に当たりその趣旨と経過を略記すると共に再びこのような悲しみを地区住民が味わう事の無いよう祈願し、後世のためこの碑を建立する次第でございます。
                                      記念碑文より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等

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