古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

泉井神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町泉井320
              
・ご祭神 健御名方命 応神天皇
              
・社 格 旧上泉井村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭/ささら獅子舞 10月第2日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.995511,139.315043,18z?hl=ja&entry=ttu
 熊井黒石神社から一旦東方向に進み、「上熊井農産物直売所・ちょっくま)付近の丁字路を左折する。通称「亀小通り」を北上、鳩山町立亀井小学校を過ぎた「泉井地区集落センター」に隣接して泉井神社は鎮座している。因みに「泉井」と書いて「いずい」と読む。
 社の隣にある泉井地区集落センターには十分な駐車スペースがあり、そこの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
               
亀小通り沿いに鎮座する泉井神社
『日本歴史地名大系』 によると、嘗て泉井地域は上泉井・下泉井・大橋の三村に分かれていたといい、泉井神社が鎮座していた地は上泉井村と云った。この村は、下泉井村の西、泉井川の上流域に位置し、南は熊井村。当村および下泉井村・大橋村の三村は嘗て一村で、泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降に三村に分村したとされる。泉井の地名は地内に湧水が多かったことによると伝える。松山領に属していた。
        
                石段上に立つ泉井神社の鳥居
 泉井神社の創建については詳細不明であるが、治承年間(11771181)に比企掃部允が創建したと伝えられている。
 この比企掃部允は平安時代後期の武士で、源頼朝の乳母である比企尼の夫。比企氏の出自には諸説あるが、『埼玉叢書』所載「比企氏系図」によれば父を波多野遠義の孫の藤太遠泰とし、比企氏の母系子孫にあたる薩摩藩による「武蔵国王孫比企氏系図」によれば父は武蔵介宗職で、早世した兄・宗員の跡を襲ったとする。
 比企掃部允は武蔵国比企郡の代官で、源為義・義朝に仕えたとする説がある。諸系図は比企氏を源氏類代の家人とし、源義家以来の鎌倉館の留守を祖父の代より務め、また保元の乱で為義が敗死すると郡内の岩殿丘陵に隠居して仏事に務めたとしている。
 妻の比企尼が乳母を務めた源頼朝が平治の乱で敗れて伊豆国に流罪になると、妻とともに比企領に下向して頼朝の衣食の便宜を図ったという。
       
           境内の片隅に、孤高の如き屹立する
鳩山町景観樹木である「モミ」の巨木
        
           拝殿までにはもう一段石段を登らなければならないが、
             その石段の手前で左側にある「
合祀記念碑」
        *地面に近い刻字の中に解読できない文字もあり、その場合は〇で表記した。

                                    
合祀記念碑
          
本殿ハ元無格社諏訪八幡ノ両座祭神ハ建御名方命應神
          
天皇ノ二柱ヲ奉祀スルナリ然ルニ明治三十九年勅令
          
第二二〇号ヲ以テ神社合祀ノ件御發布アラセラレ〇○
          
旨ニ基ヅキ合祀出願明治四十年五月十四日指令地〇○
          一二七六号ノ四ヲ以テ認可セラル是ニ於テ字櫻坂一二
          三九番元村社黒石神社祭神大己貴命字愛宕一〇二三番
          元無格社稲荷神社祭神倉稲魂命仝字一〇〇九番元無格
          社愛宕神社祭神軻遇突智命ノ三神ヲ合祀シ社號ヲ村社
          泉井神社ト改稱明治四十三年二月十九日指令〇○第〇
          七六号ノ五ヲ以テ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル〇
                          テ茲ニ其由ヲ録ス
                     
昭和二丁卯年三月(以下略)

 石段を挟んだ反対側には、
鳩山町指定無形文化財である「泉井神社獅子舞」の案内板がある。
        
                        「
泉井神社獅子舞」の案内板
 鳩山町指定無形文化財 泉井神社獅子舞
 指定 昭和五十二年五月十八日
 所在 大字泉井 泉井神社
 長禄元年(一四五七)七月、諏訪大明神を勧請して祭祀し、悪魔退散、無病息災、五穀豊穣を祈願したのが、この獅子舞のはじまりである(明治四十年、近隣三社を合祀し、社号を諏訪八幡神社から泉井神社に改めた)。
 獅子舞は、三頭の嗣子、猿田彦、花笠、行司、万燈、笛、唄とからなるササラ獅子舞で、毎年十月の第二日曜日に奉納される。
 現在、氏子全員により獅子舞保存会を結成し、保存に努めている。
 平成二十四年三月 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                 石段上に見える拝殿
        
                                        拝 殿
 泉井神社 鳩山町泉井三二〇
 当社は元来「諏訪大明神」と称していた。『明細帳』によれば、天徳二年(九五八)に健御名方命を字蛇子沢の地に勧請したが、長禄元年(一四五七)七月に至り、神幣が字正南の地に飛んで来たことから、これを神のお告げであるとして遷座を行った。これが現在の鎮座地である。その後、元禄十年(一六九七)に字北ヶ谷に勧請した八幡神社を合祀して相殿としたことから宝暦八年(一七五八)一二月に社殿を再建したという。
『風土記稿』には「諏訪八幡合社 村の鎮守なり、宝泉寺持」とある。これに見える宝泉寺は宝珠山と号する真言宗の寺院で、当社西方五〇〇mほどの地にあったが、明治期に入って廃寺になったようで、跡地には地蔵尊が残されている。
 明治初年の社格制定に際して当社は無格社となり、字桜坂の黒石社の方が村社となった。
 しかし、明治四十年の合祀に際しては当社がその中心となり、黒石社をはじめとして字愛宕の無格社愛宕社・稲荷社の三社が当社に合祀された。これにより社号の八幡神社・諏訪神社合殿を村名を採って泉井神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                        本 殿
 
    社殿左側にある境内社・御嶽山        本殿右側奥に境内社・稲荷神社
        
                                   境内の一風景

 ところで、熊井黒石神社から「亀小通り」の北上途中、東側の高台附近に『南比企窯跡群(みなみひきかまあとぐん)』といわれる遺跡がある。南比企窯跡群は、鳩山町を中心に嵐山町・ときがわ町・東松山市の一部にかけて広がり、6世紀初頭から10世紀前半頃まで須恵器や瓦を生産した。
 奈良時代中頃(8世紀中頃)には武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、南へ約40km離れた国分寺まで運ばれ、最盛期の窯の数は500基ほどあったと言われ、東日本最大級の規模という。
 その「南比企窯跡群(律令制期東国屈指の大窯跡群)」の東側の一画を占め、当窯跡群の中核を成す、鳩山町のほぼ全域に広がる窯跡群の総称を「鳩山窯跡群」という。

 6世紀初頭に東松山市高坂の丘陵東裾で須恵器の窯として操業を開始し、7世紀後半には鳩山町の石田遺跡や赤沼古代瓦窯跡などで勝呂廃寺(坂戸市)の瓦や須恵器を生産するようになります。 そして、8世紀半ばになると鳩山町の新沼窯跡を中心に武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、生産された瓦は南へ約40km離れた国分寺へ運ばれたという。
 泉井地域に所在する遺跡はこの「新沼窯跡」で、昭和34年に発掘調査され、武蔵国分寺創建期の瓦を生産した窯跡として知られていた。平成22年から実施された発掘調査により、26基もの窯跡の存在が明らかとなった。大半は8世紀中頃から後半の武蔵国分寺創建期のものであるが、一部で9世紀中頃の須恵器が出土していることから当該期の窯跡も存在すると考えられる。出土瓦の中には、古代の郡名を記した瓦「郡名瓦」が多く含まれているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「鳩山町役場HP 鳩山窯跡群」「境内案内板・記念碑文」等
 

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高野倉八幡神社

 鳩山町高野倉地域は、地内中央部を流れる越辺川支流鳩川の最上流水源地帯にあたり、鳩川両岸に水田が、三方を囲む丘陵部には畑が細長く広がる農業地域である。ゴルフ場の開発も盛んで西部の丘陵には越生ゴルフクラブ、南部の丘陵には日本カントリークラブのゴルフ場がある。
 高野倉八幡神社は、この高野倉の鎮守として北部の丘陵斜面に祀られていて、社を含めた周囲一帯は「高野倉ふれあい自然公園」という里山公園が広がっていて、自然に囲まれた環境で散歩するのにおすすめである公園だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町高野倉545
             
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
             
・社 格 旧村社。旧名 鬼子母神社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9929694,139.2996226,16z?hl=ja&entry=ttu
 熊井黒石神社から北にある鳩川沿いの道路を北西方向に進み、途中「百地蔵通り」に合流し、道なりに進むと「高野倉ふれあい自然公園」の横看板が見えるので、そこを右折すると、公園内斜面上に高野倉八幡神社は鎮座している。
 公園内には舗装はされていないが、駐車スペースは確保されていて、そこから斜面上に徒歩にて歩いて行くと、高野倉八幡神社が見えてくる。
        
              「高野倉ふれあい自然公園」案内板
 鳩山町にある新しく整備された公園のようで、平日でもあり、ゆったりと散策できる穴場的な公園。公園内には「鳩山町景観樹木」に指定されている大きなもみの木が2本林立している。また、入口付近には御堂山があり、高野倉八十八ヵ所、八幡神社のイチイガシ(町指定天然記念物)に隣接し、鳩山の「四季」が堪能出来る里山公園である。
            
  駐車場からでもすぐ目視できる程、近くの斜面上に屹立しているイチイガシ。樹勢も旺盛。
       町指定天然記念物であり、同時に高野倉八幡神社のご神木でもある。
            因みに「イチイガシ」は「一位樫」と書く。
        
               近くに案内板が設置されている。
 鳩山町指定記念物 八幡神社のイチイガシ
 指定 昭和五四年四月二五日
 所在 大字高野倉八幡神社
 この大木は、樹高約二〇m、樹齢が四百年とも六百年とも言われ、八幡神社の御神木として地元の方々によって大切に守られてきました。平成五年九月一六日に、現名称に変更いたしました。
 イチイガシの天然分布は九州に最も多く、北限は茨城県で、埼玉県、群馬県、栃木県、福島県では全く発見されていません。このことは、八幡神社のイチイガシが、昔、なんらかの理由で植栽されたもので、さらには、八幡神社の歴史観と併せて、極めて貴重な天然記念物であると言えます。
 平成六年三月 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用

 
 イチイガシの左側脇に通っている道は社に通じる参道にもなっているようだ(写真左・右)。理由は分からないが、この社には鳥居がなく、社号標も見当たらなかった。
        
                  高野倉八幡神社境内
        なだらかな丘陵地面の境内からまた一段高い場所に鎮座する社。
 現代の技術によりしっかりと公園全体が管理された中に鎮座している社ではあるが、時に里山ならではの原風景も木々の中に垣間見られる。そして境内に立ち周囲を見渡すと、何故か時が止まっているような雰囲気さえ醸し出すから不思議な感覚だ。
        
                     拝 殿
 高野倉八幡神社の創建年代等は不詳であるが、社記では仁寿元年(851)の創建と伝えている。明治維新前までは「鬼子母神」などと称し、正圓寺の境内として当社は扱われていた。境内に残された御神木の「イチイガシ」は、温暖性植物でその分布の中心は、九州や四国、紀伊半島などの暖かい地方に分布の中心があり、高野倉の例は、自生北限をはるかに超えた、関東地方でも房総安房を除くとほとんど例のないと言われる、たいへん貴重な樹木であることから人工的に植樹されたものと思われ、樹齢600年とも伝えられることから、創祀年代もその頃ではないかとも推測されている。

 ところで「鬼子母神」は仏教を守護する善女神の一人。多くの子をもっていたが,常に他人の子を奪って食べるので,仏が鬼子母の子を隠して,子を食う罪をさとした。以後仏教に帰依し,その守護神となったという。日本では主として,安産,保育の神として信仰され、ときに盗難よけの神ともされる。単独で信仰されるほか,密教では「普賢十羅刹女 (ふげんじゅうらせつにょ) 」図中にも加えられている。
『新編武蔵風土記稿』においてこの社は、「鬼子母神」と称していたが、其の後「八幡神社」と改称する。その八幡神社と改称した理由などは不詳との事だ。
        
                     本 殿
 
 高野倉八幡神社には二基境内社が祭られている。社殿石段下で参道に対して左側にひっそりと祀られている石祠(写真左)、本殿奥右側にある境内社(同右)。どちらも木製の標があるのだが、薄くて解読不能。石祠のほうは「天満(?)天(?)〇」と読めなくもない。
        
                           社殿下参道よりイチイガシを撮影

 ところで「高野倉ふれあい自然公園」の入り口付近には、百地蔵や八十八ヶ所石塔、大師堂跡などが残されていて、「お堂山」と呼ばれる山頂までは散策できなかったが、古い時代から信仰の地だったようで、今も地域の方々によって大切にされている様子が窺える。
 
                 八十八カ所石塔が斜面に沿って並んでいる(写真左・右)。

         阿弥陀堂          お地蔵様には手を合わせ祈願させて頂いた。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鳩山町HP」
    「
百科事典マイペディア」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「公園内案内板」等

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熊井黒石神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1015
             
・ご祭神 日本武尊
             
・社 格 旧熊井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9862534,139.311396,16z?hl=ja&entry=ttu
 熊井毛呂神社から進路を北西方向にとると、埼玉県道41号東松山越生線に合流、更に西方向に進む。途中左手方向で、小高い丘上に上熊井農産物直売所「ちょっくま」が見えるが、そこからは200m程先に上熊井集落センターがあり、その右隣に熊井黒石神社の石製の鳥居が見えてくる。
 熊井毛呂神社同様、熊井地域は周囲一面豊かな緑が生い茂り、田畑風景が広がる長閑な空間。熊井黒石神社正面は丘陵地面となっているようだ。
        
                  熊井黒石神社正面
『日本歴史地名大系 』「熊井村」の解説
 [現在地名]鳩山町熊井
 大豆戸の北西、越辺川支流鳩川の流域に位置し、東は大橋村、西は高野倉村。応安元年(一三六八)七月、越生兵庫助は当地などの本知行分を報恩(法恩)寺(現越生町)に寄進している(報恩寺年譜)。田園簿によれば田高四〇一石余・畑高二三九石余で幕府領。元禄郷帳では高六六三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領。ほかに万願寺領がある。「風土記稿」成立時には旗本三家と幕府領の相給。本検地は元和六年(一六二〇)・貞享元年(一六八四)に行われ、天明六年(一七八六)には持添新田(幕府領)の検地が行われた。
               
『新編武蔵風土記稿 熊井村条』
「按に入間郡今市村法恩寺の年譜録、慶安元年七月越生兵庫助田畑を以て、法恩寺へ寄付せし條に云、武蔵国比企郡内熊井云云、田畑在家等事、越生兵庫助本知行分也と見えたれば、当村は貞治・応安の頃越生氏の領地にして、後報恩寺領たりしこと知るべし」
 黒石明神社
 村の鎮守なり、本地佛十一面觀音を安ず、妙光寺持、下三社同、
 妙光寺
 慶安二年寺領九石の御朱印を賜ふ、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、熊井山不動院と號す、開山竺翁は弘安九年の示寂にて、其月日は失へり、本尊不動を安ず、傳教大師の作れる所と云、
 熊井地域には、黒石神社と毛呂神社が二社地域の鎮守様として鎮座している。そのうち、黒石神社が村の鎮守社、一方毛呂神社は産土神(うぶすなかみ)として、大切に今でも祭られている。他の地域でもあまり見られない祭祀体系だ。
        
                            鳥居前で一礼してから参拝開始
 熊井黒石神社の参道の隣には車でも通行可能なルートも存在しているのだが、ここは基本通り徒歩にて参拝。なだらかな登り斜面ではあるが、疲れる程ではない。しかし思っていた以上に長い参道ではある。
 
 参道は長く、100m程あるのではなかろうか(写真左・右)。しかし途中踊り場も設置されているので、気持ちよく参拝に望めた。当日雨交じりの天候ではあったが、それが却って参道両側に広がる豊かな森林浴を体全体浴びながら、少しずつだが確実に近づく神様への崇拝の念が高まるような面持ちとなるのだから不思議な感覚だ。
        
                 目の前に見えてくる社殿

 熊井黒石神社の創建年代等は不詳であるが、『明細帳』は祭神を日本武尊とし、由緒は「尊東夷征伐還御ノ還御休憩アリシト依テ勧請スト云、創建不詳、思フニ其頃村落未開ナリシモ尊ヲ勧請、未開土地モ開キ居民モ繁殖ニ至ヤ、因テ尊ヲ鎮守ト崇ムト右旧記ナシト雌モ古来人口ニ伝テ存ス」と記している。
 当社の別当を務めていた妙光寺は、熊井太郎忠基の子孫が開基、竺翁(弘安
91286年寂)が開山したとされることから、熊井氏が当社の創建に関与したことが推測されている。

 熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう。
「本朝武功正伝」によると一ノ谷の戦いで功を立てた。『武蔵国郡村誌』によると熊井(現在の埼玉県比企郡鳩山町)には忠基の館跡があり、そこには忠元が甲冑を埋めた鎧塚がある。義経が頼朝と不仲になり奥州に逃れたため、忠基は奥州藤原秀衡の元へ向かったというが、詳細は不明。但し、宮城県には今も熊井忠基の子孫を名乗る熊井姓の人たちがいるとの事だ。
        
                     拝 殿
        
  境内には新しく改築した社殿のみ。その社殿右側に「黒石神社竣工記念碑」が立っている。

 黒石神社竣工記念碑
 黒石神社は熊井村氏子に敬われてきた鎮守である。 創立年代は未詳であるが「鳩山風土記稿」等によると明治四十年に愛宕社 八幡社 神明社の三社を本社に合祀 八幡社の社殿を移築し従来の拜殿につなげ社務所とした。
 更に大正三年に境内にあった愛宕社 天神社の二社を本社に合祀 その後 維持管理を行ってきたが歴史ある社殿 鳥居も老朽化が進み、このたび氏子の総意により改修工事を実施 財源は上熊井大字会計より充当した 社殿 参道 鳥居 幟旗竿その他の附帯工事など施工し ここに完成を祝し記念碑を建立して後世に伝えるものとする。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                      拝殿から下界を見下ろすような位置から撮影

 境内周囲は手水舎と社殿のみであり、さっぱりとした印象。但しそれがこの社の神聖性を増しているようにも感じた。何もないと言ってしまえばそれまでだが、「余計なものは取り払う」精神も日本独特の考え方である。
 それ以上にこの長い参道には深い感銘を受けた。古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。また神は目に見えないものであり、元来神の形は作られなかったことを考えてみると、この長い参道をも含めたこの広い空間こそが神が宿るお社でもあるのだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等

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熊井毛呂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1742
             
・ご祭神 大己貴命 天之穂日命
             
・社 格 旧熊井村産土神 旧村社
             
・例祭等 例大祭(熊井毛呂神社屋台囃子)7月第3土・日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9803065,139.32176,16z?hl=ja&entry=ttu
 鉢山町役場西側にある通称「椎ノ木通り」を800m程北西方向に進むと、丘陵地斜面上に熊井毛呂神社の鳥居が見えてくる。大豆戸三島神社からは北西方向で直線距離にして1㎞程しか離れていない。熊井地域の集落から離れた丘陵地の外れにひっそりと鎮座していて、まさに地域の産土神の如き社。
 駐車用専用スペースは周囲にはなく、鳥居のすぐ東側に1台分駐車可能な路肩があるのみ。そこに停めてから参拝を行う。
        
                  熊井毛呂神社正面
 熊井毛呂神社は、小鷹玄播が松山城落城後に帰農して当地を開拓、出雲伊波比神社を勧請して創建したと伝えられ、その年代は旧別当寺西福寺の開創と同じ慶長年間(1596-1615)前後と推定される。下熊井地区の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年(西福寺が別当を務めていた)日枝神社・山神社を合祀している。
              
                                                                    社号標柱 

              鳥居前で一礼してから参拝スタート。 舗装された参道を登るように進む。 
 参道は当所南方向に進むが(写真左)、途中から右方向に曲がるように進路が変わる(同右)。何か地形上の関係で参道の方向が変わるのか、とも考えたが、より深く考えてみると、参道正面延長線上に社殿を配置すると北向きとなるので、一旦参道を右方向に変えることにより、東向きにしたのではなかろうか。あくまでも筆者独自の憶測の域ではあるが。
        
                                     境内の様子
 下熊井の産土神的な社。参道の周囲が鬱蒼とした森を進む中、しっとりとした雰囲気の中、社殿に近づくにつれて、自ずと厳粛な気持ちが湧き上がるのを五感で感じる取ることができる。
        
                奥ゆかしい雰囲気のある拝殿
 毛呂神社 鳩山町熊井一七四二
 当地は、岩殿丘陵の南西部に位置し、中央部を鳩川が流れる。中央南部の丘陵上に鎮座するのが当社である。一帯は、大久保加賀守配下の小鷹玄播が松山城落城後に帰農して開いたとされる。平地が少ないため、当時は丘陵斜面を利用した焼畑耕作が主で、水田に転作する際には、最も良さそうな地を開いて平地に居住し始め、村として形を整えた。旧名主家の小鷹進家の伝えでは、先祖が名主になったのは玄幡の帰農後、比較的早かったというから江戸初期であろうか。
 当社の創建は、入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命の分霊を勧請したことによると伝える。別当の西福寺が元様八年(一六九五)と文化元年(一八〇四) の二度にわたり火災に遭い焼失したため、旧記・記録類が残っておらず、詳細は不明である。『風土記稿』熊井村の項に、「毛呂明神社 村の産神なり」と記されるのみである。西福寺は、開山の堯栄が慶長年間(一五九六-一六一五)の示寂と伝える真言宗の寺院である。
 明治四十年四月に、日枝神社と山神社を合祀した。日枝社は『風土記稿』に「山王社 慶安二年(一六四九)社領七石の御朱印を附せらる」と記され、地内では大きな社であった。合祀後、空になった同社の社殿は社務所に利用されている。ただし、昭和五十五年ごろに公会堂を建設してからは、祭典後の直会を公会堂で行うようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用


 鳩山町周辺には、小鷹(オダカ)姓が現在でも多く存在しているという。由緒によると、「小鷹玄播」なる人物が松山城落城後に帰農して当地を開拓し、出雲伊波比神社を勧請して創建したとされているが、元々この地域出身の土豪と解釈すれば、他地方出身者として、わざわざ苦労して幾多の候補地からこの地域を選び、開拓をする心身的な苦悩をする必要はない。

    拝殿の手前で左側にある神楽殿        「毛呂神社屋台囃子」の案内板
 町指定無形文化財 毛呂神社屋台囃子
 年代は詳らかではないが、この屋台囃子は悪魔退散、無病息災を願い創始されたと云われ、群馬県世良田より八坂神社の分身を勧請したのが始まりとされる。七月の例大祭には氏子の安全と繁栄を祈願し、囃子が奉納される。雅子は、「太鼓」「あたり鉦」「笛」、踊りには、「仁羽」「屋台」「数え唄」「子守唄」「祇園囃子」「鎌倉」「昇殿」「四丁目」などがある。現在、保存会を結成し伝統芸能の継承に努めている。
 昭和五二年五月一八日指定 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用
  
             本 殿                       拝殿左側に鎮座する境内社          
                      左側から稲荷社・天神宮。一番右側の石祠は不明 

    拝殿右側にも境内社が鎮座しているが(写真左・右)、どちらも詳細は不明だ。
       「埼玉の神社」では、明治404月に、日枝神社と山神社を合祀したという。
             これらの二社はそれらどちらかであろうか。

       
                 参道から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等        
  
 
 

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赤沼氷川神社

 鳩山窯跡群は鳩山町全域に散在する古代の窯跡群で、比企南丘陵の東西約5㎞・南北約4㎞に分布する律令制期東国屈指の大窯跡群である「南比企窯跡群」の東側の一画を占める。
 当窯跡群は所在する大字名を冠した大橋・赤沼・泉井・奥田・熊井等の幾つかの支群に分けられている。
 赤沼古代瓦窯跡は、7世紀に使われた窯の跡で、埼玉県内でも最古の部類に入る窯だと言われていて、埼玉県の史跡に指定されている。当初は武蔵国分寺の建立の為の窯だと考えられていたが、ここから出土した瓦との照合により、坂戸市にある勝呂廃寺の建立のために造られた瓦窯であることが分かっている。さらに、生産された瓦は小用廃寺(鳩山町)や山王裏廃寺・大西廃寺(東松山市)などの周辺寺院にも供給されたようだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町赤沼894
             
・ご祭神 建速須佐之男命 迦具土之神 大雷神
             
・社 格 旧赤沼村鎮守 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9760478,139.3438963,17z?hl=ja&entry=ttu
 鳩山町役場から東南東方向で、鳩川左岸に鎮座する。直線距離で大体1.2㎞程。今宿八坂神社から一旦埼玉県道171号ときがわ坂戸線に東行し、その後「今宿交差点」を右折する。
 同県道343号岩殿岩井線を500m進んだ十字路を左折し、鳩川に架かる「亀甲橋」を渡り、「花見堂通り」に沿って進路をとると、赤沼氷川神社の登り旗ポールが右側に見えてくるので、そこを右折し、直進すると正面に社の鳥居が見えてくる。
        
                  赤沼氷川神社遠景
      社の周辺は豊かな自然が残り、所謂「里山」の景観を成しているようだ。
『日本歴史地名大系』 「赤沼村」の解説を紹介
 [現在地名]鳩山町赤沼
 石坂村の西、越辺川の左岸に位置し、村内を南東方に流れる同川支流鳩川の流域に耕地が広がる。北は大橋村、西は大豆戸村など、越辺川対岸南東方は入間郡長岡村(現坂戸市)など。永正一四年(一五一七)五月一四日、出雲守直朝・弾正忠尊能は越生(現越生町)の山本坊に証状(写、相馬文書)を送り、入西郡出戸より上の支配を「赤治(沼カ)之今蔵坊」などに返還することを証している。田園簿によれば田高二一四石余・畑高一七七石余、幕府領。ただし、この高には南方今宿村分も含まれていたと考えられる。
 元禄郷帳作成時までに同村は分村し、元禄郷帳では高二六六石余、国立史料館本元禄郷帳では米津氏など旗本三家の相給。

『新編武蔵風土記稿 赤沼村条』
氷川社 村内の鎮守なり、實蔵院持、
雷電社 密蔵院持、
八幡社 朝日八幡と號す、村民持、
愛宕社 實蔵院持、
稲荷社 櫻木稲荷と云、村民持、
實蔵院 新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、氷川山と號す、本尊不動を安ず、開山は本寺十七世權大僧都秀長、寛文七年九月廿五日寂す、
密蔵院 同宗同末なり、赤沼山と號す、本尊大日を安ず、開山權大僧都榮瑜、延寳九年八月十八日示寂す、
「村
の四隣、東は石坂村に隣り、南は今宿及び越辺川を隔てゝ、入間郡北浅羽村に境ひ、西は大豆戸村、北は今宿の條にいへる、七ヶ村入会の秣場に接せり」

 赤沼村には、周囲七村共同の「秣場(まぐさば)」があったという。この秣場とは、山野の採草地であり、ここで刈り取られる草は、近世農業にとって主要な肥料源であった。また同時に牛馬の飼料でもあった。
 これらの秣場は、数カ村の入会地(いりあいち)となっている場合が多く、秣場利用をめぐっての争論はしばしば起こっている。また千葉周辺での新田開発は、おもに秣場として利用されていた原野を開発するかたちで進められたために秣場を必要とする村々にとって、秣場面積の減少は、生活にかかわる大問題であった。このために争論も多かったという。
千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」より引用
 この秣場を巡る騒動は、江戸時代の正徳5年(1715年)、武蔵国多摩郡府中領(現・東京都府中市および小金井市付近)において発生した府中秣場騒動(ふちゅうまぐさばそうどう)を初めとして、伊豆国加茂郡・田方郡、上総国市原郡、武蔵国都筑郡、常陸国多河郡、下総国香取郡といった関東一帯で、秣場や入会をめぐる争いがあったことが、享保5年から14年までの評定所の記録「裁許留」で確認されている。
 それを受けて、享保8年(1723年)5月、町奉行所は武蔵野地域に宛てた触で、武蔵野周辺やその他の芝地・空地での農民たちの勝手な秣採取を戒めている。
 そして、元文元年(1736年)に、大岡忠相の主導で行われた武蔵野新田の検地により、周辺の住民が秣を採取する入会地であった武蔵野は、村別所持、個人別所持へと分割され、新たな地域秩序が形成されたという。
        
                 赤沼氷川神社正面鳥居 
 赤沼氷川神社は鳩川左岸の高地に鎮座する。この鳩川(はとかわ)は、埼玉県比企郡鳩山町を流れる荒川水系の一級河川で、鳩山町大字高野倉の岩殿丘陵にある通称「笹沼」(正式名称「新沼」)に源を発し、鳩山町役場など鳩山町の中心部を東西に流れ、鳩山町大字石坂で越辺川に合流する。
 元々は農業用排水路として整備された河川であるため、蛇行は少ない。1974年(昭和49年)9月の台風被害が契機となり、河川改修事業が行なわれた。
 鳩川の名前は近年の河川改修の際に名付けられ、当時の鳩山村の「鳩」の字に因む。それまでの旧名は「赤沼川」であったという。
       
                                    境内の様子
       
                境内に設置されている案内板
 御社名  氷川神社
 御鎮座地 鳩山町大字赤沼宮山台八九四
 御祭神  建速須佐之男命
         迦具土之神
           大雷神
 御由緒
 至徳元年(一三八三)甲子八月十八日関東管領上杉安房守憲方創建して村内八十余戸の鎮守社と称す。
 貞享元年(一六八四)幕府より除地明神免として畑二反一畝二十五歩(二一六一、五平方メートル)を寄附せられる。
 明治四年(一八七一)奉還する。
 明治四十一年(一九〇八)五月九日字内峰愛宕神社を、同免山大雷神社を合祀する。
 火防の神として崇敬篤し。
 境内末社
 菅原神社・稲荷神社・三浦神社 (他二社不詳)
 比企郡神社誌より

 案内板に記載されている「上杉 憲方(うえすぎ のりまさ/のりかた)」は、南北朝・室町時代の武将。関東管領。安房守。
 父憲顕に従って成長し、その死後は兄弟の能憲・憲春と共に公方足利氏満を補佐。康暦
1/天授5(1379)年に憲春の跡を継いで関東管領となり、武蔵・上野・伊豆の守護を兼ねる。翌年には下野の小山義政討伐の大将として出陣し、永徳2/弘和2(1382)年にこれを滅ぼした。一時期辞任していたこともあるが、結局15年の長きにわたって管領の職にあり、鎌倉府の政務を主導した。鎌倉北辺の山内に住んでいたといい、憲方の流れを山内上杉氏と呼ぶが、この家の基礎は憲方の代に固まったという
       
                     拝 殿
 
          本 殿              本殿奥に祀られている石祠群
        
                              拝殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」「境内案内板」等
        

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