馬内諏訪社
加須市西部の志多見の国道122号交点より、市街地方面へ東行し、加須駅入口を経由し、中央二丁目から南西方向に向きを変えて、旧北埼玉郡騎西町で国道122号と再び交差し、鴻巣市の国道17号天神交差点に至る。
2020年に加須市が合併10周年を迎えたため、記念行事の一環として市内の道路愛称の公募が行われ、本県道の不動尊入口交差点から、埼玉県道128号熊谷羽生線(別線)の加須・行田市境付近までが「志多見砂丘通り」と命名された。
この「志多見砂丘通り」沿いで、志多見砂丘の東端部高台に鎮座しているのが馬内諏訪社である。
・所在地 埼玉県加須市馬内50
・ご祭神 神建御名方命 大日孁貴命 別雷命
・社 格 旧馬内村鎮守・旧村社
・例祭等 初詣元旦祭 1月1日 春季恒例祭 4月7日
秋季恒例祭 10月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1359216,139.5728003,17z?hl=ja&entry=ttu
串作諏訪神社から一旦北上し。埼玉県道128号熊谷羽生線との交点を右折し、同県道を加須市街地方向に進む。2.4㎞程先にある「志多見」交差点より埼玉県道38号加須鴻巣線に名称変更となるが、その県道を更に1.4㎞程進むと、進行方向左手には志多見砂丘独特の高台が見え、その砂丘東端部にあたる場所に馬内諏訪社は静かに鎮座している。
県道沿いで、鳥居のすぐ西側手前に専用駐車場(2.3台ほど駐車可能)があり、そこに停めてから参拝を開始する。
馬内諏訪社正面
道路沿いに設置されている掲示板
鎮座地は、志多見砂丘の東端部高台にある。この場所は「中川低地の河畔砂丘群・志多見砂丘」で、加須市の地域文化財に指定されている。そのためか、境内・県道沿いには、「貴重な陸内砂丘地である事、土砂の持ち込みはしない事、ゴミ等は捨てない事。植樹や手入れも行わない事」等の掲示板が設置されている。
鳥居を過ぎるとすぐ左側にある神興庫 鳥居の先にある石段を登る。
やや傾斜が高い為、石段の先が把握しずらい。
石段を登り終える右側には社の案内板が設置されている。
石段を登り終えると、境内は左右に広い空間があるが、奥行はあまりないようだ。砂丘地の地形を利用して境内は作られているようだ。正面には社務所があり、参道はそこから左右に分かれていて、左側に行くと社殿に通じ、右側には富士浅間大神の石碑や一対の灯篭が設置されている。
社務所右側に祀られている富士浅間大神の石碑 富士浅間大神の石碑右側にある灯篭
やはり所々に砂地面が見える。 燈篭の先は下り坂となり、砂丘面もなくなる。
改めて社殿方向を撮影。社殿はもう一段高い面に鎮座している。
社務所と高台の傾斜面との間にある庚申塔群。
拝 殿
諏訪社
所在地 加須市大字馬内五〇番地壱
祭 神 神建御名方命・大日孁貴命・別雷命
沿 革
当社の創建年月日は明らかでない風土記によれば馬内の鎮守で延命寺持ちとされる。
明治五年(一八七二)三月神仏分離令に伴ふ社格の制度によって村社に列し同四十年三月字西浦地区の無格社・神明社及び本村地内の雷電社を合祀している。
境内には天明七年(一七八七)六月吉日在銘の疱瘡神社(祠)が合祀されている。
又、浅間社及び川圦社・千方神社も合祀されているが、合祀年月日は不明である。
埼玉県立文書館に所蔵されている県行政文書「神社明細帳」によれば、当社の概要は次のように 記されている。
社 殿 本殿 内殿
境 内 二五〇坪「朱書」昭和二十四年 三月二十五日 二五九坪
氏 子 一二六戶
境内神社 浅間社(祭神・木花開耶姫命) 川圦社(祭神・安德天皇)
境内社石洞
(天満宮・疱瘡神・神明社熊野宮・八幡宮・稲荷大明神・御岳石尊・九頭龍大権現)
社 宝 石燈籠 (嘉永四年建) 石段(大正十一年建) 鳥居(昭和十二年建)
社務所 (昭和二十四年建) 御輿殿(昭和五十一年建)
宮 司 荒木健治
年中行事 初詣元旦祭 一月一日 春季恒例祭 四月七日 秋季恒例祭 十月十五日
附 記
天明八年六月奉建された(棟木記入)社殿、二百有余年の歳月を経て老朽化し、平成八年社務所と共に修復した
境内案内板を引用
拝殿の右側隣に、11基の石祠が並んで祀られている(写真左・右)。
正式には11基だが、左側から3番目は石祠自体が破損して判別不能。
『新編武蔵風土記稿 馬内村』の項には
諏訪社 村の鎮守なり、
千方社 雷電社 神明社 川入明神社 八幡社 九頭龍権現社 道祖神社 熊野社 天神社 稲荷社 以上延命寺の持、
と記されている。
そのうち判別できる石祠は、右から(?)頭龍権現社・天(満?)社・庖瘡神社・神明社・×・×・熊野社・八幡社・×・×。
社殿の左隣には木花咲耶姫命の石碑あり(写真左・右)。
この石碑の回りにも多数石碑があったが、雑草等の繁殖により判別できなかった。
雑草等を排除したら、もしかしたら富士塚のような形態であったかもしれない。
石段上部から鳥居・県道方向を撮影
参考資料「新編武蔵風土記稿」「加須市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等