古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大袋新田氷川神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市かし野台1-13
            
・ご祭神 素盞鳴命
            
・社 格 不明
            
・例祭等 例祭 4月15日 夏祭り 7月15日 秋祭り 10月15日等
 川越市かし野台地域は、川越市南西部の武蔵野台地の縁に位置する。北で山城、北東で大袋新田、南東で南台、南で狭山市新狭山、西で藤倉と接する。南東境に国道16号が、中央部に入間川街道が通る。北部には赤間川が台地の縁に沿って流れている。
        
                 
大袋新田氷川神社正面
 増形白山神社から500m程南東方向に続く道を進み、十字路を右折する。この十字路の斜向かいには、可愛い看板が設置されている歯科医院があり、そこを目印にすると分かりやすい。その後、道なりに南行し、赤間川を越えた先の入間川街道に達する丁字路の右側角地に大袋新田氷川神社は鎮座している。街中にあり、鎮座地のかし野台一丁目は市街化調整区域となっていて、そのためか、社もすっきり整備され落ち着いた雰囲気がある。
        
    入間川街道沿いに鎮座し、街中にありながらも境内は落ち着いた雰囲気が漂う。
『日本歴史地名大系』大袋新田村の解説
 大袋村の南、赤間川・新河岸川に挟まれた低地および台地上に立地。南東には山城村・藤倉村を隔てて飛地があり、境界は錯綜している。慶長年中(一五九六―一六一五)に小田原北条氏の旧臣横山次右衛門によって開発されたといい、慶長一二年・正保四年(一六四七)・元禄七年(一六九四)に検地が実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三二石余・畑高一七四石余、ほかに野銭永三貫五文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三二七石余、反別田七町八反余・畑三七町五反余、ほかに開発分高五〇石余(反別田一町二反余・畑五町八反余)・武蔵野分高四四石余(反別畑一一町六反余。

 当社の氏子区域は大袋新田のうち小字を原新田と呼ぶ地区で、古い集落は中央部を縦貫する旧入間川街道沿いにある。古くは農家が大部分を占めていたが、昭和30年代からの宅地化に伴い、現在農家は一割ほどでその他は勤め人に変わっているという。
        
                    拝 殿 
 氷川神社  川越市大袋新田(大袋新田字原新田)
 鎮座地大袋新田は、新河岸川流域の低地・台地に位置し、北を大袋と隣接する。大袋の地名は入間川が袋のように流れ込んでいたことに由来し、戦国期にその名が見える。慶長年間、小田原北条氏の浪人横山次右衛門が芝地を開墾して大袋村に属したことが、当地の地名の由来と伝えられる。
 当社は、現大袋新田六四番地に祀っていたものを明治初期に現在地に移転したという。旧社地には現在稲荷神社があり、四軒稲荷と呼ばれ、古くから旧社地に隣接する旧家内田家四軒の氏神とされている。このことから当社の創立に内田家がかかわったことも考えられるが、その史料に欠け推測の域を出ない。『風土記稿』には「氷川社 村民の持」とのみ記す。
 祭神は素盞鳴命である。一間社流造りの本殿には、高さ四〇センチメートルの石塔が納まり、「本宮氷川大明神 天保十一年三月 世話人助右衛門」と刻まれ、併せて竹の根元を材として作った蛇を安置する。
 大正一〇年ごろ、大袋の白髭神社への合祀の働きかけがあったが、氏子の強い要望で行われず、今日に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
        社殿の左側に祀られている境内社や氷川大明神御宝前3基等
 
     境内社 三峰社と稲荷社           
氷川大明神御宝前3基
        
                   境内の一風景
 このあたりは古くから干ばつ被害の頻繁な地といわれ『新編武蔵風土記稿 大袋新田村』にも「陸田多くして水田は少し、用水は増形村より出る清水を引来れど常に旱損あり」と載せ、往時の氏子の生活をうかがわせる。本殿に祀られている「竹で作られた蛇」もこのような自然的背景から生じた「水の神」信仰に基づく奉納品と思われる。
 大正時代までは日照りが続くと雨乞いの神事が行われ、作神と信仰する群馬県の榛名神社までお水をもらいに行き、一同参列の上、宮司による厳粛な祈祷がされ、その後、笹をこの水に浸して、参列者の頭から振りかけて行事は終了となる。この雨乞い神事は、氏子の願いが通じることが多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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増形白山神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市増形228
            
・ご祭神 菊理姫命 伊弉諾尊 伊弉冉尊
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 2月17日 春祈祷 4月20日 天王祭 7月14日
                 
秋日待 10月17日 勤労感謝祭 11月23日 等
 入間川沿いに広がる埼玉県川越市西部の増形地域。この増形という地名由来として、この地の形が「枡(ます)」の形(四角)をしているので、その地名となったと伝えている。古い地名であり、『風土記稿』には天正15年7月北条家印判状に「増形村」と載せているとある。
              
 この地域は田畑が半々であり、入間川の近くは水田、台地の上では畑作である。昔はこの畑がほとんど桑原の時があり、養蚕が盛んであった。蚕が上がるたびに、上がり饅頭を各戸で作り、眉を数個、糸で連ねて神社拝殿に下げて報賽の印にしたという。
 氏子数は増形地域全幾で、近年の宅地化により戸数は急増し、更に2022年、川越市と県による「川越増形地区産業団地」が完成し、昔ながらの長閑な農村風景も変わりつつある。
 増形白山神社はこの増形地域のほぼ東側の台地上に鎮座する社である。
        
                  
増形白山神社正面
『日本歴史地名大系』 「増形村」の解説
 中川を隔てて藤倉村の北西、入間川右岸の低地および台地上に立地。南は下奥富村(現狭山市)。永正元年(一五〇四)八月山内上杉顕定が対立していた扇谷上杉朝良の拠る河越を攻撃するため上戸に出陣したため、北条早雲は扇谷上杉氏加勢のため出陣し、九月二〇日から二二日にかけて「益形」に着陣している(宗長手記)。天正一五年(一五八七)七月晦日北条氏直は豊臣秀吉の侵攻に備えて「増形小代官百姓中」に壮者一人を選び八月二〇日までに注進すること、弓・鑓・鉄砲のうちいずれかの武具を八月晦日までに整えることなどを命じている(「北条家定書写」武州文書)。
        
              綺麗に整理されている社の周辺一帯
 この地域に鎮座する白山神社は、地元の方々から「白山様」と呼ばれ親しまれながらも厚く崇高されている社である。この白山様は女性の夏季様なので荒い事が嫌いだといわれ、このため祭典時に芝居やお神楽は喜ばれるが、相撲は行われない。
 また、天王様が合祀してあるが、神輿を担いだり暴れたりする祭りは古くからしてはいけないという。更に昔、近隣の村で現上尾市平方の八枝神社のお獅子様が当地を通過する際に、白山様が怒るというので遠回りしてもらったという。氏子から白山様は村人のあらゆる願い事を聞いて下さるありがたい神様であると尊ばれている。
 
            入り口付近に聳え立つご神木(写真左・右)
  イチョウやケヤキ等の木々に囲まれた327坪余りの境内は、氏子の潤いの場となっている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 増形村』
 白山社 明暦三年五月勧請、本地十一面観音、修験成就院持、

 白山神社  川越市増形二二八(増形字道山)

 増形の村の中央、台地上に鎮座する当社は、菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祭神とし、 加賀国一の宮白山比咩神社から分霊したと伝える。
『明細帳』によると、明暦三年五月、覚尊という僧が字葛茂川(現在、場所不詳)から現在地に遷宮したと金幣に記してあったという。
『風土記稿』に「明暦三年五月勧請、本地十一面観音、修験成就院持」と載せる。
 成就院は増形山本妙(明)寺と号し、当社の別当であった。社蔵の享保一七年、天保四年の拝殿再建の棟札には「増慶山宗圓」「別当増形山廣徳院」と記すが、成就院の事と思われる。明治の初めに覚尊から一〇代目の彰純は復飾して姓を関山と名乗り神職となる。現宮司教純はこの裔に当たる。
 明治五年に村社となり、同四一年に字一本榎の八坂神社、字泥辺の厳島神社を合祀した。このうち八坂神社は天王様と称して疫病除けの神といわれ、合祀後、社殿は当社境内に移し、末社愛宕稲荷疱瘡社の社殿とした。また、厳島神社は弁天様と呼び、池の傍らにあって女性の神様といわれ、合祀後、社殿は明治四三年の大水で流されてしまったという。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額         拝殿前に設置されている社の掲示板 
       
           境内に設置されている「白山神社拝殿改築記念碑」
                白山神社拝殿改築記念碑
             当社は石川県石川郡鶴来町鎮座の白山比咩
                       神社の分祀であると伝えられる。創立年月は
                       不詳であるが、明暦三年当社の別当、増形山
                       本明寺祐純法印が、旧字、葛茂川より現在地
                       に移転するという。明治五年村社に列し、明
                       治四十一年増形字一本榎八坂神社、同、字泥
                       辺厳島神社の二社を合祀する。明治四十二年
                       神撰幣帛料供進神社に指定される。昭和二十
                            八年六月五日、宗教法人となる。
                       旧拝殿は天保四年の改築で、大正七年草葺
                       屋根を瓦葺とする。老朽化が進み、拝殿の改
                       築が、昭和六十二年一月十八日、氏子の総意
                       により決起される。改築委員会が結成され、
                       氏子のみならず崇敬者各位からも、多額のご
                       芳志が寄せられる。改築委員を中心に総力を
                       あげて、この大事業に取り組み、三年有余の
                           歳月を費して、ついに完成される。
                        はからずも、御大典奉祀の時、氏子崇敬者
                       各位の功績を永く久しく伝えるものである。
                                     (以下略)

        
                    本 殿
 当社の祭りの中で、4月・7月・10月の祭日には、中福地域から神楽師(根岸家・市指定無形文化財)が来て夕方から神楽から奏し、境内に露店が出て賑わう。神楽は三番(そう)から始まり数曲を行う。昔はこれが唯一の娯楽で、大八車に神楽道具を積んで神楽師が来るのが楽しみだったという。
「川越市HP」市指定文化財 中福の神楽
 種   別 市指定文化財:無形民俗
 指定年月日 昭和50年6月9日
 入間・北足立・多摩地方には、東京都府中市の大国魂神社の宮司が始めたと伝えられる相模流神楽が伝承されている。
 中福の神楽はこの相模流に属し、根岸家が代々元締をつとめている。
 曲目は一曲一座形式で、「墨江三柱大神」「三穂崎魚釣」「八岐太蛇」「神田種蒔」「猿田大神」などがあるが、始めに「三番」と称して墨江三柱大神の舞を奉納し、猿田大神の舞で終わるのが通例である。
 神楽は神社の祭りなどに招かれると、出方と称して親戚や近在の人を頼んで一座を組む。
 現在は地元の中福稲荷神社の春祈祷(4月19日)を始め、増形白山神社の祭礼などで頼まれると神楽を奉納している。
 なお、明治末から昭和初期に根岸勝広、馨氏が彫った神楽面が残されており、市の有形民俗文化財に指定されている。

        
         境内に祀られている境内社・愛宕社、その右側には御嶽社。
  境内の御嶽神社は作神といわれ、農業守護の神であるという。特に祭りは行っていない
        ようだが、当地の御嶽講が本社から受けた神札を祀っている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川越市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・記念碑文」等

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大袋白髭神社

 百度参り(ひゃくどまいり)は、日本の民間信仰で、神仏に祈願するために同一の社寺に百度参拝することである。お百度(おひゃくど)ともいう。百度参りの祈願の内容は、多くは個人的なものであり、その内容が切実なものである場合に、一度の参拝ではなく何度も参拝することでより、心願が成就するようにと願ったものである。
 元々は、近くの氏神神社や有名な社寺に、百日間毎日参拝するというもので、これを百日詣という。それが簡略化され、また、百日もかけていられない急を要する祈願があって、一日に百度参るという形で百日詣の代わりとするようになった。
 百度参りの方法は、社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。俗にこれを「お百度を踏む」という。
 社寺の入口近くに、その目標となる「百度石」という石柱が立てられていることがある。回数を間違えないように、小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いたり、百度石に備えつけられているそろばん状のもので数を数えたりする。
 川越市大袋地域に鎮座する白髭神社の境内にもこの百度参りのための百度石や、拝殿にもその数を数えるそろばん状の箱も置いてある。
        
            
・所在地 埼玉県川越市大袋258
            
・ご祭神 猿田彦命 清寧天皇
            
・社 格 旧大袋郷産土神 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 2月17日 春祭り 4月15日 天王様 7月14日 
                 
秋日待 10月15日 勤労感謝祭 11月23日
 池辺熊野神社から直線距離にて500m程南側に鎮座する大袋白髭神社。「大袋」という地域名の由来は昔入間川が袋のように流れていたことによるという。既に戦国期にその地名は見えていて、古くから開けていたことが分かる。
 この地は、市街地を控えて宅地化されつつあるが、まだ農村の面影が所々残る地域であり、古くは米麦や茶と並行して養蚕を行っていたという。
       
             大袋白髭神社正面の一の鳥居と社号標柱
 参道は道路沿いにはなく、民家の間に一対の幡立て用のポールが建ち、その道を進んだ先に鳥居等がある場所に達することが出来る。但し、鳥居の位置も微妙に参道に近すぎていて、写真のアングルもこのように斜めからしか撮影できなかった。
        
           一の鳥居を過ぎた先にある両部鳥居の二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「大袋村」の解説
 豊田本村・豊田新田の南、入間川右岸の低地および台地上に立地。村名はかつて当地付近まで入間川が蛇行し、袋のような形であったことに由来するという(風土記稿)。応永三年(一三九六)一〇月一八日書写の大般若経(栃木県日光市輪王寺蔵)巻二四九の奥書に「河越庄大袋」とみえる。享徳三年(一四五四)末、鎌倉公方足利成氏は対立する関東管領山内上杉憲忠を謀殺、享徳の大乱が始まった。翌年五月一四日「武州大袋原」で足利成氏方と戦った豊島内匠助(泰秀の弟)の戦功が上杉房顕より賞されている(七月六日「上杉房顕感状」豊島宮城文書)。

 二の鳥居を過ぎた先が境内。社叢林もあり       参道左側にある手水舎
    つつ、同時に開放感のある広い境内     手水舎の左側には百度石が建っている。
        
           社殿の手前で、参道に対して右側にある土俵跡
「埼玉の神社」において、当地は古くから相撲が盛んであったといい、当時の相撲は農閑期の余興として行っていたもので、拝殿前に参道敷石がないのは、そのあたりを土俵とした名残であるという。拝殿には年号不明の古い相撲番付額が掛かっていて、昔は盛んにやっていたのであろう。最近では、大正13年・昭和27年に行ったようであるが、その際に、関取が泊まった家も残るなど、僅かに昔の賑やかさが偲ばれる。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 大袋村』
 白髭社 永祿年中勸請の由、增形村本明寺の持なり、藥師堂 稻荷社


 白髭神社  川越市大袋二五八(大袋字前畑)
 猿田彦命・清寧天皇を祭神とする当社は、永禄一一年三月二三日字広町(通称ガッサラ塚)から現在地へ移転したと伝え、『風土記稿』は「永禄年中勧請の由、増形村本明寺の持なり」と記している。また、一説に多磨郡新井村の九右衛門なる者が創建したともいう。
 広町の跡地は雑木林で、古くは八幡社があったと伝えているが、今は何もなく、ただ、立ち入ると罰が当たるといわれている。
 別当は隣村増形の白山神社同様成就院本明寺というが、天和三年の「奉造立白髪大明神宮」の棟札には「社主正覺院權大僧都法印 成就院權大僧都」とし、享保一二年の「奉造立白鬚大明神宮」の棟札には「法印宗圓・別当行寶院」と記してある。宗円は本明寺六世であるが、正覚院 行宝院は不明である。「髭」の字の変遷もまた不明である。
 明治五年に旧来の鎮守により村社となり、大正四年には大字山城字欠下の八坂神社・白髭神社、字株梗木の神明社、大袋新田字愛宕側の愛宕神社、同境内社白山社を無格社であったことにより合祀した。しかし、無格社とはいえ信仰ある他村の神社を合祀するのは無理があったため、これらの神社は戦後再び戻された。合祀は、一説に、山城の八坂社と、大袋新田の愛宕社と高橋の山王様であったともいわれ、そのため、祭りに七歳の子が初めて獅子を舞う時には、この三社を巡ったという。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
         境内に設置されている市指定文化財の本殿の案内板と石碑
        
                    本 殿
『川越市HP』において、平成19年8月10日に「市指定有形文化財・建造物」として指定を受けている本殿は、覆屋内の切石積基壇の上に据えられた一間社の建築である。屋根は木瓦葺で、正面に千鳥破風と軒唐破風(のきからはふ)を付けた入母屋造の珍しい形式を採用している。建築年代については、史料がないので明らかではないが、基壇の西側側面に「慶応四戊辰年 九月吉日」の年紀と寄付者の名前が刻まれていることから、慶応4年(1868)に造営されたものと考えられている。
 本殿の建築は、身舎(もや)、向拝ともに江戸彫りの巧みな彫刻で満ち溢れている。身舎の三面を飾る彫刻板や向拝の中備(なかぞなえ)に嵌め込まれた迫力ある竜だけではなく、四手先に張り出した縁腰組下にまで獅子、麒麟、亀などの霊獣彫刻が彫られ、見応えのある建築であるとの事だ。
             
                                     本殿内部
        
           境内東側の道路沿いに祀られている境内社・稲荷社
        
              境内北側奥に祀られている八坂神社
 この八坂社において「天王様」が7月14日に行われている。天保8年村中に悪病が流行した際に、この社は創建されたところから、疫病除けの行事とされている。
「天王様」と「秋日待」の二つの祭事において、この地で伝承されてきた獅子舞を境内で演じた。天王様は素足にて、秋日待には草鞋で舞うのを例として、演目には「入れ端」「コノミヤハ」「雌獅子隠し」などがあるという。
        
                          境内から眺める広々とした社の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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正一位鎌足稲荷神社

「池辺公園」から入間川沿いに北東方向に進み、関越自動車道の高架橋を潜ったすぐ先に「埼玉県営川越水城公園」がある。池辺公園は、第一に不法投棄問題を解決するため、続いて残された自然を生かした河川敷公園へと整備するのが目的で、自然環境が豊かな部分には手をつけない方針との事で、自然を残しながら、散策や軽運動に利用できるよう、園路や小規模広場の配置を見込んでいるという。
 それに対して川越水城公園は、水と緑の空間を創出することを目的として、昭和63年(1988年)に主にプール施設として開設された芝生広場や散策路などが楽しめる緑豊かな県営公園である。園内では、春のサクラ並木や秋の紅葉など、四季折々の自然が楽しめ、さらには、ボート池(4月上旬から11月上旬まで)、テニス場(夏季プール期間を除く)など、年間を通じてさまざまな利用ができる、総合的なレクリエーション施設となっている。
 このように、埼玉県川越市にある池辺地域は、入間川右岸沿いにある広大な河川敷を利用した公園がつくられているが、それぞれの公園化に至る目的や用途がさりげなく違うことも興味深いことだ。
        
             
・所在地 埼玉県川越市池辺840
             
・ご祭神 宇迦之御魂大神
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元朝祭り 1月1日 初午祭り 3月最初の午の日
                  
二の午祭り 次の午の日 星祭り 12月15日
 池辺熊野神社から一旦入間川の土手方向に戻り、河川敷に沿って通じる道を北方向に進む。関越自動車道の高架橋付近に達した後、橋下のトンネルを潜った先にある「川越水城公園」を左手に見ながら楕円を描くように道なりに800m程進むと、公園入口手前付近の進行方向右側に正一位鎌足稲荷神社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。
 
  道を隔てて左側が
川越水城公園、右側に     看板左側にこじんまりと纏まった社
 
社のお手製の看板と社の境内が見えてくる。        の境内が見える。

 この池辺地域は「埼玉の神社 
池辺熊野神社」において、「当地は入間川右岸に開ける水田地帯で、地名池辺は大きな池の傍らに開かれたことに由来するという。“酒樽いけれ(埋めれ)ば井戸になる”といわれたほどの湿地帯で(中略)近くを流れる入間川は度々決壊し、低地である当地に水害をもたらし、その都度住民は疾病に苦しめられた」との記載があり、『新編武蔵風土記稿 池邊村』にも同様の記述がある。
『新編武蔵風土記稿 池邊村』
 往古當所に大なる池ありしに、其傍を開て一村となせし故村名となれりと、其池の形は埋れて今は〇の跡のみ殘れり、村の廣さ東西五町餘、南北も大抵同じ(中略)陸田多く水田少し、用水は增形村より出る清水を引來れども、動もすれば旱損あり、(中略)
 堤 入間川の水除なり、增形村より小ヶ谷村に續けり、
 梶原淵 廣さ一反、水丈は〇に三四尺、名義は土人の傳あれど取るべきことにも非れば載せず、中に小嶋ありて辨才天の社を安ぜり、按に往古此邊大なる池ありしと云へば、押堀・梶原二の淵は彼池の遺跡ならんと土人いへり、
※ 〇…読解不可の旧字体で引用できず。
 
 
川越水城公園との道から一本東側内にある       民家の間の道幅の狭い路地を進みきると
      路地に建つ一の鳥居         参道は斜め左方向となり、二の鳥居が建つ。
                       因みに参道の先正面に見える建物は社務所
        
             参道の先に見える二の鳥居・三の鳥居
        
                四の鳥居の先に見える拝殿
        
                    拝 殿
 稲荷神社  川越市池辺八四〇(池辺字南重林宝)
 当社の鎮座する池辺は、入間川右岸に位置する農業地域で、集落を取り囲む様に水田や桑畑が人勝手いる。池辺の名の起こりは、『風土記稿』によれば、その昔、当所に大きな池があり、その傍らを開いて一村をなしたことによるとある。この話が伝える池は、現在は跡形もないが、当地は低地であるため、かつては池があちこちにあった。しかし、後年、耕地整理のために埋め立てられ、今では押堀など、地名にその名残を留めるにすぎない。
 この池辺地区の東北端に当社は鎮座しており、保食命を祀る。詳しい由緒は知られていないが、正しくは正一位鎌足稲荷と呼ぶとされ、松山の箭弓稲荷神社(現東松山市)の分霊で、池辺の開村のころから祀られていると伝えられる。
 鎮座地の地名を重林宝という。これは社記によれば、正元年中に天台宗最明寺及び七堂をこの地に建立した鎌倉の臣福山某が、当地に老杉が鬱然としていたところから名付けられたもので、以後当社を重林宝鎌足稲荷と号したと記載されている。
 本殿は一間社流造りであり、境内には、社殿のほかに神職の控え所とタイゴジョと呼ばれる建物が建っている。祀職は、もと地内の三明院が別当であったが、神仏分離の後は、豊田本の白鬚神社社家の山畑家が務めている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
     境内に設置されている社の案内板      社殿左側にある
神名碑・石祠・奉納碑
        
               拝殿の奥に祀られている石祠群



参考資料「新編武蔵風土記稿」
「日本工業経済新聞社HP」「ホットスタッフ川越パークHP」
    
「小江戸川越ウエブ」「かわごえ環境ネット」「境内案内板」等 

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池辺熊野神社

 川越市池辺地域に鎮座する熊野神社は鎌倉時代の創建という。当時、水害や疫病に悩まされており、近くの「三明院」と相談して「天王社」を祀ったのが起源である。そういう経緯により、三明院が別当寺となっていた。因みに、別当である三明院は、「観池山地蔵寺」と号しているが、かつては「三日月山」と称していて、何時の頃か「日」と「月」を合わせて三明院に改称し現在に至ったようだ。
『新編武蔵風土記稿 池邊村』
 熊野社 村の鎭守にて、三明院の持、天王社 同寺の持、下同、 山王社 稻荷社
 三明院 新義眞言宗勝呂大智寺の末、觀池山地藏寺と號す、昔は三日月山と號せしを、何の頃か觀池山と改め、かの日月の二字を合して三明院となせしと云、當寺世代の內宥慶元和七年六月十八日寂すと云ことを傳るのみなれば、開山の年歷は詳ならず、されど此以前の草創なることは知べし、中興開山隆惠、享保九年八月十三日寂、本尊大日を安置せり、七社稻荷社 藥師堂

 因みに地域名「池辺」は「いけのべ」と読む。この地名は昔ここに大きな池があったことから来ているといい、当社のすぐ北東にある「梶原淵」と呼ばれる弁天池は、その大きな池の一部が残ったものだと伝えている。この梶原淵は、鎌倉時代初期に活躍した武将で、鎌倉幕府の有力御家人である梶原景時がこの村の池で馬に水を飲ませたという伝承・伝説から名付けられたという。
 明治初期の近代社格制度において、当地の「村社」は同じ三明院が別当寺を務めた「熊野社」が列せられ、当社は「八坂神社」に改称して「無格社」となった。1907年(明治40年)の神社合祀により、村社の熊野神社をはじめとする3社が合祀され、当社を「熊野神社」に改称して村社となった。社名が「熊野神社」なのに、祭神が素盞嗚尊なのは、これらの経緯による。
        
             
・所在地 埼玉県川越市池辺261-1
             ・ご祭神 素盞嗚尊
             ・社 格 旧池辺村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元朝祭 春祭り 4月15日 夏祭り 7月14・15日
                  秋祭り 10月14・15日
 的場八坂神社や的場若宮八幡神社が鎮座する川越市的場地域を二分するように入間川に沿って北東から南西方向に走る埼玉県道114号川越越生線を南西方向に進み、的場地域を過ぎた入間川に架かる八瀬大橋の先にある「八瀬大橋南」交差点を左折する。入間川右岸に沿って続く道路の進行方向左手側には「池辺公園」と呼ばれる自然豊かな河川敷公園が続き、その中を700m程北行した先の十字路を右折し、暫く道なりに進むと左側に池辺熊野神社が見えてくる。 
        
                  池辺熊野神社正面
『日本歴史地名大系』 「池辺村」の解説
 豊田本村の西、入間川右岸の低地に立地。村名はかつて池であった地の周辺を開発したことに由来といい、押堀淵・梶原淵などの沼は池の旧跡という(風土記稿)。「親玄僧正日記」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)正応六年(一二九三)八月二日に「武蔵国池辺郷東方」とみえ、同年七月二九日将軍久明親王より山城醍醐寺に寄進されている。享徳四年(一四五五)七月一三日古河公方足利成氏方について戦った二階堂信濃三郎は「池野辺郷」ほかの所領安堵を申請している(「二階堂信濃三郎申状写」喜連川家御書案留書)。
        
                    拝 殿
 熊野神社  川越市池辺二六一(池辺字南宿)
 当地は入間川右岸に開ける水田地帯で、地名池辺は大きな池の傍らに開かれたことに由来するという。“酒樽いけれ(埋めれ)ば井戸になる”といわれたほどの湿地帯で、鎌倉期の武将梶原景時が馬に水を飲ませた伝説のある梶原淵を中心に数多くの池があり、近くを流れる入間川は度々決壊し、低地である当地に水害をもたらし、その都度住民は疾病に苦しめられた。
 古老によると「度重なる水害と疫病に悩まされた里人は、三明院(真言宗観池山地蔵寺)と相談して天王社を祀ったという。何でも鎌倉時代だった」と、当社創建の事情を語っている。
『風土記稿』池辺村の項には「熊野社 村の鎮守にて三明院の持、天王社 同寺の持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により、両社は三明院の管理を離れ、熊野社は村社、当社は八坂神社と改称し、無格社となった。明治四〇年、権現脇にあった村社熊野神社をはじめとして、字山王の日枝神社、字南宿の厳島神社を当社に合併し、社名を熊野神社と改めた。
 なお、熊野神社については、社蔵文書に「真言宗三明院住職神務を執り古記等同院にて秘蔵仕来候処、元治元甲子年十二月廿三百同院火災にて焼失し創立年紀等不詳、御一新に至り神仏区分之制に依り三明院神務を解き、明治五年村社に列せらる」の記載がある。
                                   「埼玉の神社」より引用

       拝殿に掲げてある扁額          境内に設置されている社の案内板
 熊野神社(歴史は上記「埼玉の神社」と同じなので略す)
 信仰
 当社は古くから天王様と呼ばれ、疫病除けの神として信仰を集めていたが、合し後は社名変更に伴い、「おくまんさま」と呼ばれ、何でもかなえてくれる神様として氏子の崇敬が厚く、家庭内にとどまらず地内に変事があった時には必ずお参りする。
祭りは、元朝祭・四月十五日の春祭り・七月十四十五日の夏祭り・十月十四十五日の秋祭りである。
 春祭りは、春祈祷とも呼ばれ、五穀豊穣を祈願する。 戦前までは鶴ヶ島村脚折の神楽の奉納があった。この神楽は、おじいさん・おばあさん・娘の三人で行うもので、娘が幣束と鈴を手に持って舞った後、四方へ矢を放ったという。氏子の家では草餅を作って祝った。
 夏祭りは天王様とも呼ばれ、はやり病が村内に入らないようにと、無病息災を祈るものである。十四日には重量四十貫、担ぎ手三十名を要する神輿の渡御があり村中を練り歩いたが、担ぎ手が減った戦後からは境内に神輿を飾るだけとなっている。秋祭りは穀物の実りに感謝する祭りであるという。
 氏子
 責任役員は、宮世話人と総代からなり、宮世話人は三名が選ばれ任期三年である。また、総代は区長が兼ね、任期は二年で三月の役員総会の時に交替する。
 運営費は、権現山と呼ばれる社有林から切り出される薪を売却し、その代金を充てていたが、戦後は神社費と称して宮世話人が各戸から一定額を八月と十二月に分けて集めている。
 埼玉の神社(入間 北埼玉 秩父)より抜粋
 昭和六十一年四月八日発行
 発行者埼玉県神社庁
                                       案内板より引用

       
                    本 殿
       
        本殿左側にある物置庫等。一番奥に神興庫らしき建物がある。
 案内板の信仰の項で、「夏祭りは天王様とも呼ばれ、(中略)十四日には重量四十貫、担ぎ手三十名を要する神輿の渡御があり村中を練り歩いたが、担ぎ手が減った戦後からは境内に神輿を飾るだけとなっている」と載せている。この神興庫には、その秋祭りで使われる神輿があるのかもしれない。
             
         拝殿左側に聳え立つ巨木。ご神木の如きその堂々たるお姿


  
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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