下広谷白山神社
・所在地 埼玉県川越市下広谷1155
・ご祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理姫尊
・社 格 不明
・例祭等 元旦祭 春祈祷 4月3日 天王様 7月14日
御日待 10月14日
川越市下広谷地域は同市北西部にあり、大谷川流域の低地および台地に立地している。嘗ては鶴ヶ島市の上広谷、並びに五味ヶ谷両地域とで一村を成していたという。
小堤八幡神社から一旦埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線に戻り、「小堤」交差点を右折する。その後、鶴ヶ島市方向に850m程進んだ、押しボタン式信号のある交差点のすぐ先の丁字路を右折、そのまま道なりに北行すると、つきあたりとなり、ほぼ正面に下広谷白山神社が鎮座する場に到着できる。敷地内に専用駐車場が数台分完備されているのは有難い。
下広谷白山神社正面
『日本歴史地名大系』 「下広谷村」の解説
小堤村の北西、大谷川流域の低地および台地に立地。高麗郡に属した。もと上広谷村・五味ヶ谷村(現鶴ヶ島市)と一村であったが、まず五味ヶ谷村が分村し、次いで広谷村が慶安元年(一六四八)の検地により上・下に分村したという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に小田原衆の御宿隼人佑の所領として「廿六貫五百卅六文 入西勝之内広野」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿に広谷村とみえ、田高三〇六石余・畑高二七八石余・野高六石、ほかに野銭永二貫六八〇文、川越藩領と旗本三家の相給。
下広谷地域の北東部には、県指定記念物である「大堀山館跡」があり、室町期から戦国期にかけての館跡と考えられる史跡である。現状は、山林及び宅地となっている。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「下広谷村古跡三ケ所」の項に「土人城の跡と唱えて何人の居跡なることを伝へず」との記載があり、当館跡はそのうちの一つと考えられる。周辺には戦国期の城館跡がいくつかあり、隣接する首都圏中央連絡道の建設に伴う発掘調査によって、15世紀中葉から15世紀後半、及び16世紀代と推定される遺構が検出されているが、築造年代・築造者・城主とも明らかではない。
大堀山館跡は、面積は約396,000平方メートル(約9,160坪)程で、三重の堀・土塁に囲まれた「方形館」と考えられる。本郭とされる部分は東西約90メートル、南北約55メートルで、堀の上幅は約3メートル、深さ約1.5メートル、土塁上端までは2.3メートルを測る。出土した陶磁器などの遺物は15世紀後半とみられ、そのころ武蔵北部を戦場とした山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の争乱に関係する城館跡群の一つとして、重要な史跡であるという。
入り口付近に設置されている案内板
白山神社
所在地 埼玉県川越市大字下広谷一一五五番地
社 名 白山神社
御祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理媛尊
徳川時代の作と言われる観音様一体
社 殿 本殿 拝殿 幣殿
境内地 100.9坪
祭 儀 一月一日 元旦祭 四月三日 春祈祷
七月一四日 天王様 十月十四 日御日待
当白山神社は神代より降り積る雪のいや自く、古より越のしらやま、と詩や歌に詠まれた富士山、立山と並んで日本の三名山と仰がれる霊峰白山に鎮まります白山比咩大神、石川県石川郡鶴来町に奉斎されている白山本宮加賀一の宮白山比咩神社より分社されて当地に祭られて今日に及んで居ます。(中略)
奈良時代霊亀二年(一二六三年前)に駿河など七ヶ国に住む高麗人千七百九十九人を武藏に移して入間郡を分割して高麗郡となるに及んで、広谷村も武蔵国高麗郡となる。従って霊亀以前すでに集落を形成して居た事が明らかで、当時より産土神として村人たらに崇められていた。又、暦応元年当時の板石塔婆(六四〇年前)、正保年間の地蔵様(三三四年前)、元禄時代の位碑 等、その後の資料は続いて出ています。
慶安元年広谷村が上広谷、下広谷に分かれて居りますが、享保年間に立て替え棟札があり(二六二年前)其の後、文政年間(一五七年前) 再建と梁に刻み込まれて居り更に明治十六に立て替えられた。
当白山神社も昭和二十七年二月宗教法人として発足した。なお現在の本殿を除き拝殿、幣殿を五十三年に新しく立て替えました。祭儀には御祈願を執行し御神楽を奉奏して邪気悪風を除き災害を防御し熱病を祓い給い天下の逆乱を治め家内安全、福禄寿徳を蒙る事枚挙に遑あらず、蒼生の作物、草木の片葉に至るまでその恩澤に浴し、神徳無量に遠近より参拝者の多きをもって、右の記録を後世に伝える由縁であります。
平成十一年十二月吉日 氏子中
案内板より引用
拝 殿
白山神社 川越市下広谷一一五五(下広谷字子ノ神前)
当社の鎮座地である下広谷は川越市北部に位置し、古くは鶴ヶ島町の上広谷、並びに五味ヶ谷とで一村を成していた。
村の開拓にかかわる口碑に、鎌倉期に坂本と名乗る一族が当地に流れ着き、その時、当地には腹の中の子を入れても一三人しかいなかったという。坂本一族の末裔である小林家は江戸期名主を務め、当社は同家の屋敷鎮守であったこと、更に現在でも同家が永代総代を務めていることなどから、当社の創始は、坂本一族がこの地の開拓に際し、加賀一の宮白山比咩神社の分霊を祀ったことによると思われる。
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理姫尊の三柱で、内陣に江戸期の作であるといわれる聖観音像(二一センチメートル)を安置している。
社殿は享保年間と文政年間に建て替えたと伝えられ、更に下って明治一六年に再建している。また、昭和五三年に総工費二千万円を費し拝殿・幣殿を再建している。
明治四一年に字子ノ神前の八坂神社・稲荷神社及び字庚申塚の白山神社を合祀している。『明細帳』には字庚申塚の熊野神社、字大前の八幡神社もそれぞれ合祀したことを載せているが、熊野神社は元地に社殿が現存し、前野・大畑両家が管理しており、八幡神社の本殿及び神体は野崎家が保存している。
「埼玉の神社」より引用
白山信仰(はくさんしんこう)は、加賀国、越前国、美濃国(現石川県、福井県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰であり、加賀国白山比咩神社を総本社とする白山神社は各地に鎮座し、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としている。
白山が信仰の対象として仰がれるようになったのは、大化(645~650)前代のことであろう。つまり白山信仰は、白山に源を発する九頭竜(くずりゅう)川(福井県)、手取(てどり)川(石川県)、長良(ながら)川(岐阜県)流域の人々の間から、また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したものと考えられる。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。
現在、白山神社は日本各地に2,700社余り鎮座するが、特に石川・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多く分布する。
左より境内社・稲荷神社・八坂神社 本 殿
ところで、「埼玉の神社」によると、「鎌倉期に坂本と名乗る一族が当地に流れ着いた」と載せているのだが、この「坂本」苗字のこの一族はどこの出身であったのであろうか。もしかすると、この一族は滋賀県大津市坂本地域の出身で、白山修験者ではなかったかとも考えられる。
大津市坂本は延暦寺のすぐ東側にあり、中世には加賀白山比咩神社の前身である白山寺白山本宮や、美濃国の白山中宮長滝寺(現長滝白山神社)、越前国の霊応山平泉寺(現平泉寺白山神社)が延暦寺の末寺になっていたことから、天台宗や白山修験の普及とともに各地に勧請されたという。但し決定的な物的証拠はなく、あくまで筆者の推測の域を出ない点はお断りしておこう。
社殿から境内の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」
「Wikipedia」「日本大百科全書(ニッポニカ)」等