志多見日枝神社
志多見砂丘は会の川砂丘の一部を形成し、約7千年前に赤城おろしによって運ばれた砂によって形作られた河畔砂丘(内陸砂丘)である。この砂丘は会の川の自然堤防に合わせおおよそ東西に発達していて、会の川砂丘の中では志多見砂丘が最も規模の大きい砂丘となっており、長さ約2500m・幅約300m・高さ約5m~10mを有していた。標高は所在地南側の水田が約15mなのに対し、砂丘は約20m程となっており、標高最高点は26.8mである。志多見砂丘は古くからの形状が保たれ、砂丘上には赤松林が所在しているがこれは砂丘上に形成される特異な植生であり、加須低地に森林の発達した場所が少ないことなどから学術上貴重な場所となっている。
このため、志多見砂丘は1956年(昭和31年)9月24日に加須市指定名勝に指定され、1976年(昭和51年)3月30日に加須市志多見県自然環境保全地域に指定されている。また、2014年3月11日に「中川低地の河畔砂丘群」として県指定文化財に指定されたという。
・所在地 埼玉県加須市志多見1374
・ご祭神 大山咋命 木花咲耶姫命 軻遇突智命
・社 格 旧志多見村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日 夏祭り 7月第1日曜 秋祭り 10月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1341967,139.5549785,18z?hl=ja&entry=ttu
埼玉県道38号加須鴻巣線と国道122号線との交点である「志多見」交差点を南下し、100m程進んだ先にある右斜め方向にある道路に進路を変え、そのまま道なりに真っ直ぐ進むと、進行方向右側に明蔵院、並びに志多見日枝神社の鳥居が見えてくる。
志多見日枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「志多見村」の解説
北は会の川を境とし、南は阿良川(あらかわ)村、西は串作(くしつくり)村と接する。会の川南岸に発達した河畔砂丘は、周囲より四―六メートルも高く志多見砂丘とよばれ、アカマツが多く植林されている。天正六年(一五七八)三月七日の木戸元斎願文(奈良原文書)に「志田見郷」とみえ、羽生城主木戸忠朝の次男木戸元斎が、羽生城回復のうえは上野国三夜沢(みよさわ)大明神(現群馬県宮城村赤城神社)に河俣(現羽生市)、志田見、常木(現羽生市)の三郷から三貫文と神馬三疋を寄進すると祈願している。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「志多見荒河(中略)此郷何三分一」とあり、同社領があった。羽生領に所属(風土記稿)。
鎮座地である「志多見」は「しだみ」と読む。この地域は市内南西部に位置し、会ノ川右岸の自然堤防上に形成された志多見砂丘にあり、地名はこの地が低湿地で水に浸っており、浸水(しだみず)と呼ばれていたためという。
社伝によると、天正四年(1567)の創始と伝わり、利根川上流から社殿が流れ着いたといい、また一説には川越から分霊したとも、江戸城から分祀したともいわれている。
社号標柱
鳥居の右側に設置されている案内板 案内板の右隣にある「日枝神廟復地之記」
「日枝神廟復地之記」
武藏國埼玉郡志多見村日技大神者闐村之域隍
神也廟地舊凡四百歩明治六年癸酉有令剖其二
百三歩爲官地以低價與之貫族某矣而域内狭隘
不便於祭祀也邨人愁之協議一夕出金若干活○
所受之貫族某復之本地矣而祭典若○○〇○○
同不費再議者出于其克誠也乎人誠心供之則神
感應淳之誠心感應相待而敬神之道至為云
明治九年丙子六月 本邨根岸復撰文
北斎小花○一書
長い参道の先に、森の中に隠れた社殿が僅かに見える。
境内は広く、参道は長い。社は、その会ノ川右岸の自然堤防上に形成された「志多見砂丘」上に鎮座している。国道が近くに通っているにも関わらず、境内一帯は至って静かである。また周囲を見渡すと、境内北側から西側にかけて社を囲むように社叢林が覆う、その佇まいは否が応でも古き歴史を感じてしまう。
参道右側にある社務所。神楽殿も併設されているのであろうか。
社殿は会ノ川右岸の自然堤防上に形成された志多見砂丘上に鎮座
『新編武蔵風土記稿 志多見村』
山王社 村の鎭守なり 〇淺間社 以上明藏院持 〇愛宕社 明王寺持
明藏院
新義眞言宗、正能村龍花院末、富士山と號す、開山法印宥存は享保十二年六月廿七日寂す、本尊は藥師なり、
明王寺
当山派の修驗、江戸青山鳳閣寺の配下なり、愛宕山五丈院と號す、
石段下に祀られている白山大神の石碑 石段の中段附近にある御嶽山大権現の石碑
拝 殿
日枝神社のいわれ
創建 天正四年(一五七六)六月
祭神 大山咋命………山王社(国土鎮護の神)
木花咲耶姫命…浅間社(湧水の神)
軻遇突智命……愛宕社(防火鎮火の神)
例祭 元日 春(四月十五日) 夏祭り(七月第一日曜) 秋(十月十五日)
沿革
古いことは不明であるか、新編武蔵風土記稿によると、山王社は志多見村の鎮守なりと記され、明治初年の神社明細帳には天正四年六月村民により鎮座されたことが記されている。
浅間社が文化五年(一八〇八)三月創立され、後本殿に合祀された。
愛宕社が明治初年に合祀されて、 境内社なった。江戶時代よりの愛称山王様も明治になり日枝神社として、多くの人の信仰を集め今日に至っている。
境内には御神燈、手洗い石、幟立石等の寄進や、石鳥居、神廟復地の記碑、神楽殿等々あり、手洗い石の一つは元禄十年奉納のもので、加須市内最古のものである。
平成十二年(二〇〇〇)六月吉日 新井正夫書
鳥居右側にある案内板より引用
拝殿の左側に鎮座している境内社。詳細不明。
境内地左側には広場があり、昔の殿様の『馬場跡』との伝承がある。その殿様とは松平信綱のことで、忍・川越藩主を務め幕府の老中の重責を担った信綱が馬を乗り回した場所として伝わっている。
信綱の父大河内金兵衛久綱の本領は武蔵国高麗郡710石であるが、代官・勘定奉行として活躍し、関東地方の幕府直轄領の年貢に関する実務を担った。代官として羽生領に努めていた際に、信綱が幼いころ病にかかり、志多見の名主のところで療養したという。その後回復したのち馬の稽古をこの地で行い、地元で語り継がれたそうである。
*「クニの部屋 -北武蔵の風土記-」を引用
https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/2ab7285b3c877b0396003cc21c8fd643
伝承 馬場跡の碑
志多見地域には、嘗て戦国時代の昔に伊勢の北畠氏に仕えていて、主家滅亡後に関東へ移住したと伝わる「松村氏」が当地の名主を代々世襲し、領主である松平氏に仕えていたという。
家伝には、伊勢国松村郷出身にて、永禄中に小田原・忍に移り、天正十八年志多見村に土着したと伝えている。
成田氏家臣松村対馬尉吉宗の三男佐左衛門(天正元年生)は幕府代官大河内金兵衛久綱(正保三年没、七十七歳)に仕え、元和七年に樋遣川村内の寺ヶ谷戸村及び枝郷広川村を開墾し、寛永二十年没している。子孫は代々名主を世襲し、久綱の子松平伊豆守信綱、其の六男旗本である松平頼母堅綱(寛文二年志多見村新墾田1000石を分与)、其子頼母信義、其子内記信連、其子舎人信応(延享二年没)に仕えたという。
志多見日枝神社拝殿からの眺め
「松村家代官文書」は、名主を務めた松村家に伝来し、古くは寛永9年(1632年)からの文書で、内容は寛永年間から天保年間までの年貢割付状と利根川の川俣締切について書かれた西福寺文書(写)などがあり、昭和34年6月16日加須市有形文化財に指定されている。また松村佐左衛門の墓も昭和31年9月24日に指定史跡とされている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「クニの部屋 -北武蔵の風土記-」
「境内案内板等」等