手白神社
ところで江戸時代末期に編纂された新編武蔵風土記稿の比企郡吉田村に当時は滑川の起点が吉田村(現在の嵐山町吉田)の湧水だったことが記されている。
”滑川:当村の田間所々より涌出水、村内にて落合ひ、一條の流れとなり、始てこの名を負へり、是滑川の水源なり”
この滑川源流域で熊谷市と滑川町との境付近に手白神社は鎮座している。
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町吉田952
・御祭神 手白香姫命、大貴巳命、大山祇命、金山彦命、高霊神、市杵島姫命
・社 挌 旧村社
・例 祭 不明
*写真は2021年12月17日に再度参拝時に撮影したものである。21年参拝時、石段の両脇に聳え立つご神木のうち、左側の杉は既に切り倒されていたが、ブログ内容は敢て変えないことにした。
手白神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、塩八幡神社の先の交差点を左折し、道なりに約1km位真っ直ぐ進むと右側に小高い山があり、その山を背にして鎮座している。
道幅は狭く、また専用の駐車場もないので社を過ぎた場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
手白神社正面
参道の間には御神木の杉が聳えている。
推定樹齢約800年以上という巨木であり老木だ。右側の木が高さ36m、目通り5.03m、左側が高さ26m、目通り2.7m。昭和49年に町の天然記念物の指定になった。
石段の参道を登りきると正面に拝殿が見えてくる。
社殿の随所に施された彫刻が見事である。 社殿の横にある案内板
町指定有形文化財 彫刻 手白神社本殿彫刻
手白神社は今から870年ほど前の天治元年(1124)に蘆田基氏が創建したと伝える。御祭神は手白香姫命である。大字吉田地区のほぼ中心に位置し、古くより「手の神様」として、近隣の人々からの信仰が厚かった。現在の本殿は、大正二年(1913)に峯野神社、五竜神社、六所神社が合祀された際に六所神社の建物を移築したものである。
彫刻は江戸時代の作品で、技法に勝れ保存状態も良い(以下略)
町指定天然記念物 手白神社の大スギ
この二本の大杉は、御神木として祀られており、神社の歴史の古さを物語っている。いずれも樹齢は八百年と推定される巨木である(以下略)
案内板より引用
本 殿
こちらも本殿、右側面から撮影
手白神社の御祭神筆頭である手白香姫命は継体天皇の后。二十四代仁賢天皇の第五皇女であり、武烈天皇は同母弟にあたる。古事記では手白髪郎女と表記されている。
この社の起源として嵐山町誌は次のように述べている。宝永三年(1706)に別当泉蔵院から領主折井氏に提出された伝説として、「仁賢天皇(第二十四代)の第五皇女に手白香姫命という女性がおり、武烈天皇の酷刑苛政を諫めたがきかれないので東国に下り、この吉田の里に止って里人を教化した。ところがある日、手白香姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたがついに発見することができなかった。その後、手白香姫は都に帰り継体天皇の皇后となった。
鏡を落とした湧水は鏡浄呂(きょうしょうろ)池と名づけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天を祀った。その後、白河天皇の御代(1080年頃)に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ、社木の樫の木に向って神気が立ち上がり、その中に姫の姿が現れて「私は先年ここで鏡をなくしたので魂はまだここに止っている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来て頼むがよい。」というお告げがあったという。
大和王権は第25代武烈天皇没後、一旦血統が途絶える。嫡子がいなかった為だ。その為ヤマト朝を構成していた豪族連合の意向を受け、遠い越前国に住んでいて約5代前に分家した意富富杼王が謂わば婿入りの形で手白香姫命との婚姻を条件に大王の位を引き継いだ。第26代天王継体天皇である。そしてその嫡子欽明天皇(509~571)は王家本流として敏達から舒明、そして天智・天武へと連なる大王家の礎とも云える系統を保持することができた上においてもこの手白香姫命の存在は大きかったといえる。
社殿の左側奥の突き当りに御神水か湧水か?柄杓もあるのでその類だろう。
拝殿の前を左に行くと神楽殿がある。 神楽殿前を右へと登って行くと境内社あり。