菖蒲町台久伊豆神社
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町台855-1
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧騎西領台村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭礼 4月15日 天王様 7月7日-14日 秋祭礼 10月18日
久喜市菖蒲町台地域は、北は備前堀川が境となり、南は星川の左岸地域の間に位置する農業地域である。埼玉県白岡市下大崎地域にある首都圏中央連絡自動車道(圏央道)のインターチェンジのすぐ北側で、また久喜菖蒲公園西側近郊に位置するのだが、筆者も嘗て仕事の関係で、この公園には何度か利用し、楽しませて頂いた思い出のある場所でもある。
途中までの経路は大崎神社を参照。大崎神社から北西方向に進路をとり、星川を越えた「三崎の森公園」を右側に見ながら道なりに進み、旧国道122号線との交点となる「三箇小学校入口」交差点を直進、すぐ先の丁字路を右折するとすぐ正面に久喜市立三箇小学校が見え、その東側隣に台久伊豆神社が鎮座している。
加須市騎西の玉敷神社を総本社とし、元荒川流域を中心に分布する久伊豆神社の一社。平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しているともいう。
台久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「台村」の解説
星川左岸、三箇(さんが)村の南側に位置する。東側を備前堀が流下する。東側の河原井(かわらい)沼は台沼ともよばれ、享保一三年(一七二八)に開発されて七ヵ村持添新田と武助(ぶすけ)新田となった(見沼代用水沿革史)。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定されている(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。
鳥居の社号額に「正一位久伊豆大明神」と表示 参道左側に「平和記念碑」が設置されている。
平和記念碑の並びに祀られている石祠等灯 石祠等の並びに祀られている合祀社
左から辨財天・不動尊・出世石尊宮等 左から神明神社・天神社・九ヶ所神社・熊野神社
境内に設置されている「台久伊豆神社 絵馬十一面」の案内板
久喜市指定有形民俗文化財 台久伊豆神社 絵馬十一面
指定年月日 平成四年三月二十三日
所有者 台久伊豆神社
台久伊豆神社は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると「村の鎮守なり、 久伊寺持ち」とあります。同じく久伊寺は「新義真言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、蓮臺山無量壽院と号し、多聞坊と云う、開山秀深寛文八年十月七日寂す、本尊阿弥陀を安ずる」とあります。
このことから、台久伊豆神社は江戸時代初期には既に存在じていたものと考えられます。
現在、台久伊豆神社には「繭額」一面を含む十一面の大絵馬があります。これは町内で二番目に多い数です。
画題としては『伊勢大々神楽』・『楠公桜井駅の別れ』・『岩国錦帯橋』・『桃園の誓い』・『獅子』などです。
『伊勢大々神楽』の絵馬は、明治二十年(一八八七・松林斎亀山画)と明治二十九年(一八九六・貴重画)の二面があります。どちらも保存状態は良好で、赤・白・紫・緑・水色の色彩鮮やかな絵馬です。松林斎亀山は幸手に在任した絵師で、本名を大久保謙吉といい狩野探妙の弟子にあたります。亀山の作品は、千葉県・茨城県方面に多く残されています。
文久二年(一八六二)の『岩国錦帯橋』は絵馬の画題としては珍しいもので、土産用の版画をもとに描かれています。伊勢参宮を済ませた一行が錦帯橋まで足を延ばし、無事に帰ったお礼として奉納したものと思われます。
文化十三年(一八一六)『獅子』、弘化二年(一八四五)『楠公桜井駅の別れ』、安政二年(一八五五))『武者絵』はともに伊白栄厚の作品です。 安政二年の『武者絵』には「行年六十五翁」の添書があり、これから計算して「獅子」文化十三年は二十六歳、『楠公桜井駅の別れ』弘化二年は五十五歳の時の作品とわかります。
伊白栄厚は法眼の位を受けた狩野派の絵師ですが、同じ形の絵馬は一つもありません。狩野派絵師としての意地でしょうか、特別な板面に描いています。
『桃園の誓い』文政四年(一八ニー)は、三国史の蜀漢の創始者である劉備と関羽、張飛がその昔桃園で義兄弟の契りを結んだ故事を題材としたものです。
平成九年三月十五日 久喜市教育委員会
案内板より引用
拝 殿
久伊豆神社(くいずじんじゃ) 菖蒲町台八五五-一(台字南)
鎮座地の大字台は、星川の左岸に位置する農業地で『風土記稿』台村の項によると、化政期(一八〇四-三〇)には一八八戸の大きな村になっていたことがわかる。更に、当社について「久伊豆社 村の鎮守なり、久伊寺持」と記していることから、江戸期は、当社に隣接していた久伊寺が別当として社務にあたっていたことがわかる。
本殿は三間社流造りであるため、古くは三柱の神を祀っていたと思われるが、『明細帳』に記された主祭神は、大己貴命の一柱である。内陣には「正一位久伊豆大明神神号」と墨書のある筥(はこ)に納められた神牌(しんぱい)一体が奉安されているが、年紀などがないものの、形態から推して江戸時代に京都の神祇管領吉田家から受けたものと思われる。
また、当社は、かつて広い境内地を有していたことから、この土地を利用して、地域のために三箇小学校を建設することになり、明治四十二年十一月十八日に当時の境内地の中で南側の現在地に社殿を移転した。しかし、社殿の東脇にあった銀杏だけは、神木であったことから伐られることなく残された。今も校庭にそびえる姿は神木としての威厳を保ちながらも、小学校のシンボルとして児童を見守っている。
なお、この移転に際して、この時期に進められた政府の合祀政策に従い、村社であった当社に地内の字南の八坂社、字向野の熊野社、字九ヶ所(くかせ)の九ヶ所社及び浅間社を合祀した。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
社の社名に関して、「ひさいず」「くいず」と両方の読み方が伝えられ、人によっては呼称がまちまちであるが、近年、特にテレビ等のクイズ番組に紹介されて以降、正式な場では「くいず」と呼ぶことが多くなっていることから、中年層より若い人たちは、「くいず」と呼ぶ人が多くなっているようだ。
本 殿
元々台地域内は、上下の二組に分かれていて、古くは別々に久伊豆神社を鎮守として祀っていたという。当社は、そのうちの上の久伊豆神社で、下の久伊豆神社は字九ヶ所(くかせ)にあったが、後に除堀(よけぼり)村に譲渡し、村全体で当社を祀るようになったという。村の開発について伝えはないが、一番の旧家は「さなえ様」と呼ばれる松本家で、同家には新田義貞の家来が立ち寄ったとの話があることから、中世には既に村が開かれていたものと推測される。
また、現在では久喜菖蒲工業団地になっているが、河原井沼もしくは台沼と呼ばれている所は、享保13年(1728)に開発されて七ヵ村持添新田と武助(ぶすけ)新田となり、そのうち武助新田は幕末までに台に合併されたという。
社殿の右側に祀られている境内社・八坂神社
久喜市保存樹木である「クス」の巨木。平成12年度指定
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内案内板」等