古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

和泉磐裂神社


        
               
・所在地 栃木県日光市和泉914
               
・ご祭神 (主)磐裂神・根裂神 配神 王位神
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 例祭 113
 七里生岡神社から一旦国道119号線に合流後、今市方面に進路をとる。といっても七里生岡神社から国道まで分かりやすい道はないので、来た道を引き返すように戻るルートを選択、結果的にはかなりの遠回りとなるが、あまり地理に詳しくないので、そこは慎重に対応。その後、国道を3㎞程進み、「杉並木公園」の西端近くで、国道と旧日光街道と合流する信号のある交差点の一つ手前の路地を右折する。丁度コンビニエンスとガソリンスタンドとの間の道であるので分かりやすい。
 右折した道路は丁度南方向に進行する。途中「天台宗・月蔵寺」を右手に見ながら更に南下、まもなくJR日光線の線路を越えるが、そのまま直進を続ける。300m程進むと十字路に到達、そこを右折して、そこからまた300m程進んだところにある丁字路を左折する。そして暫く道幅が狭く、道路の両側には杉林が生い茂げ、寂しさも漂う上り傾斜面の道路を道なりに進むと、その道は行き止まりとなるが、その手前右側に和泉磐裂神社の鳥居と社号標柱が見えてくる。
 駐車スペースは鳥居がある場所から先の行き止まり地点手前に確保されている。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
*追伸として、
道路を進む中では全く気づかなかったが、和泉磐裂神社に向かう途中に「磐裂の霊水」があったとの事。迂闊にも通り越してしまったことは、残念極まりない。やはり余裕のあるプランを事前に立てなければいけないと深く反省した。
        
               斜面上に鎮座する和泉磐裂神社
 日光は歴史も古く、日光権現を祀る山々が知られるようになった宗教地域である。その後。江戸時代に徳川家康および徳川家光などの江戸幕府の初期の将軍によって徳川家の廟地となった。明治以降は観光地・景勝地として日本における代表的な地域の一つとなり、日光東照宮や中禅寺湖・華厳の滝、日光連山、日光湯元温泉など、国際観光都市として多くの観光客で賑わいを見せている。
 ただ個人的な好みである点を最初にお断りするが、筆者は観光地の神社も勿論好きではあるが、現在は閑散としていて、目立たない場所であっても、昔からその地域を見守って下さっている社や祠を参拝したり、その地域の歴史を考察することが何より好きであるその地域に住む人たちの何気ない生活の時を、社は静かに、そして長い間絶えず見守ってきてくれている。生活の一部に社はしっかりと根付いていて、密着度が違うのだ。
 この地に降り立ち、社の鳥居を見た瞬間に、そのような思いが脳裏をよぎった。
 
 鳥居前で一礼し、参拝を開始する。鳥居にもたげるようにかかるモミジの紅葉が美しい。参拝当初は石段を登り(写真左)、その後緩やかな上り斜面先の二の鳥居まで真っ直ぐな参道が伸びている(同右)。参拝時、雨は止んでいたが、路面は濡れていたので、足元には注意しながら社殿方向に進む。適度に長い石段・参道。そして参道両側に聳える杉林の先に見える小さな鳥居とのコントラストが不思議と美しい。
        
                 参道途中にある庚申塔
『日本歴史地名大系』 「和泉村」の解説
南東へ流れる大谷(だいや)川南岸段丘上にあり、田川が南東へ流れる。西は野口村、南は山久保村、東は平ヶ崎村(現今市市)。泉村とも記される。村名は丘陵裾に湧泉があるからとも、和泉国から移した薬師如来を上泉(じようせん)寺(廃絶)に祀ったことにちなむともされる(「薬師如来略縁起」如来寺文書)。
慶安郷帳に泉村とみえ、畑高一四八石、日光領。同領となった時期は不明。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では和泉村とあり、高二九二石余。天保八年(一八三七)の神領組売木仲間規定帳(星芳夫文書)では当村から一人が加わっている。また朝鮮種人参が栽培されていた(日光道中略記)。
        
                 二の鳥居から境内を望む。
                鬱蒼とした森に囲まれ、昼間の参拝にも関わらず薄暗い境内
        
                   境内の一風景
 天長三年(826)九月創建。嘉祥元年(848)頃の慈覚大師円仁作と伝わる虚空蔵尊が月蔵寺に祀られた。宝暦三年(1753)五月に日光山星宮の御分霊を勧請して村の鎮守とした。
 江戸期には虚空蔵尊,妙見天童と称し,維新に際し磐裂神社と改称し現在地に遷宮した。
     
                        拝殿手前に聳え立つ巨木(写真左・右)
              
                                 「震災復興記念碑」
「震災復興記念」
 昭和二十四年十二月二十六日午前八時十七分、突如として激震に襲われ山は崩れ大地は裂け、社殿や家屋は傾きあるいは倒れ、甚大な被害を受ける氏子は一体となり三神社の復興に努め社資と氏子の奉仕により磐裂神社雷神宮を復興し、磐裂神社に拝殿を新築して王位神社を合祀し復興奉告祭を昭和二十六年四月三日執行し、この未曾有の災禍を銘記し碑を建て永久に記念す。
 昭和二十八年四月三日 氏子中
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                     本 殿
 和泉磐裂神社の御祭神である磐裂神(イワサク・イハサク)・根裂神(ネサク)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記されている。
『古事記』の神産みの段で伊邪那岐神が十拳剣で、妻の伊邪那美神の死因となった火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。
『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、第七の一書では磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。
「石折神(古事記)」は、「磐裂神(いわさく・日本書紀)」とも表記され、岩を裂く神であり、また、岩を裂くほどの切れ味をもった剣の威力そのものを神格化した存在であるといわれている。また「根折神」も上記と同様で、堅い木の根すらも切り裂くほどの威力という意味となる。磐石(いわむら)の神である「石筒之男神」と共に生まれたことから、この二柱の神も素直に磐石の神であったと解釈することもできよう。
        
                               拝殿からの眺め
 この磐裂・根裂を祭神とする神社はさほど多くないものの、栃木県に集中しており、県内に磐裂根裂神社や磐裂神社、根裂神社が何社もある。
 これは奈良時代の735年に下野国芳賀郡で生まれたとされる勝道上人(しょうどうしょうにん)が日光山登頂を三度目にして成功させたときに盤裂神の助けによるとしたことから盤裂神に対する信仰が始まったようだ。
 神仏習合時代は盤裂神の本地仏は「虚空蔵菩薩」とされ、栃木県日光市の磐裂神社は、かつて「星の宮」と称して虚空蔵菩薩を祀っていたとされている。「虚空」は広大無辺の宇宙を表しており、そこには無限の知恵があるとされ、そこから「星神」と結びついていったと考えられている。勝道上人が日光山で虚空蔵菩薩を感得したことで日光修験の本地仏が虚空蔵菩薩とされ、結果として栃木県に磐裂根裂神社が多くなったのだろう。
        
       
和泉磐裂神社の鳥居から北側道路沿いに並んで置かれている石仏像群


 ところで、この「星神」「星の宮」「星神社」は大きく分けると妙見菩薩信仰系と虚空蔵菩薩信仰系、それと天香香背男(アメノカカセオ)または天津甕星(アマツミカボシ)を祀る神社の3系統になる。
 この天香香背男、ないし天津甕星に関して、筆者は非常に高い関心を持っている。以前から疑問に思っていたことがあるのだが、日本神話には「星神」の話が極端に少ないのはどうしてなんだろう、ということだ。神話ではアマテラスを太陽神、月読尊(ツクヨミ)を月の神とする以外では、この天香香背男が唯一の「星の神」であり、その他星に関する話がほとんど書かれていない。
 嘗て日本人は古代ギリシャやローマ、メソポタミアは勿論、隣国の古代中国にも星座に関する知識や思想はあり、当然その考え方は日本にも入ったはずである。
 日本人が星について無関心だったわけではなく、四方海に囲まれている海洋国家でもあり、古墳時代には高松塚古墳やキトラ古墳の天井画には多くの星座が描かれているし、旧石器時代以降、多くの人たちが大陸や半島から海を渡ってやっていて、彼らは星の知識が当然あったはずだ。そうでなければ長い航海はできない。

 色々と考えることが多いが、本件には直接関係ないので、いずれ項目を設けてじっくりと考察したい…そんな神である。



参考資料「栃木県㏋」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内震災復興記念碑文」

      
           
                 

  

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