大雷神社
主祭神 別雷命
社 格 村社
由 緒 由緒不明
例 祭 不詳
国道17号線新堀(北)交差点を自衛隊基地入口方向へ下り、約1km位行くとY字路の交差点があり、手前の歩道橋脇から左側へ入って行くと、徳蔵寺の隣に大雷神社が鎮座している。参道の両側は徳蔵寺の墓地になっており、その墓地の西側に観音堂と閻魔堂、北東側に徳蔵寺がある。この社は筆者の住まいの近所にあり、今までなかなか参拝できずにいたが、今回満を持して紹介することとなった。
この地域は熊谷市の中にあって人口の増加から周辺は開発が進んでいるが、この社周辺にはその喧騒が全く感じない静かな時間が広がっている。小さい社ではあるが大切にしたいものだ。
大雷神社の静かな佇まい
ところで大雷神社の扁額には「大電八公宮」と記されている。熊谷市新島地区に鎮座する大雷神社も大電八公宮という。祭神も同じく別雷命。そこの由来の碑にはこのような説明が書かれている。
大雷神社 由来
当地新島は文禄年間(西暦一五九二年)に新島右近が開墾し、慶長年間(西暦一六○八年)には玉井村分と謂われ、元禄期(西暦一六八八年)までには新島村として独立するようになりました。江戸時代には旗本戸田氏や白須氏の領地となり、明治二十二年幡羅郡新島村から大里郡大幡村大字となり、昭和七年四月一日に熊谷町大字新島、同八年五月一日、熊谷市大字新島となる。
当社は古くは大電八公社(ダイテンハクシャ)として現在の熊谷市大字新島大天白北三百二十八番地に鎮座し・・・(中略)祭神は別雷命です。・・・(中略)風の神、安産の神として近郷の人々の信仰を集めてきました。
大電八公でダイテンハクと読ませることのほうが興味深いことだ。大天白神は星神・水神・農耕神・産泰神などの性格を持ち、別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり
別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり、またこちらの神社では産泰神としての性格も持たされていることを考えると、大天白神と別雷神を同一視している可能性もあるだろうか?
またある書類ではこのようなことが記入されている。
・・・・『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。関東では大天白を「大天獏・大電八公」、東海道では「天白・天縛」、相模国では「天獏魔王」、遠江国では「天白天王」尾張国では「手白」、志摩国では「天魄」、奥羽地方では「大天博・大天馬・大天場」と書くという。・・・
額に記された大電八公宮
「熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森」の看板の説明文には以下のことが記載されている。
熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森
昭和五十九年三月三十日指定
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この二つの樹林が、「ふるさとの森」に指定されました。
徳蔵寺は、真言宗の寺院として、六〇〇年ほど前に建立されたと言われ、薬師如来と十二神将軍の石像は、古くから人々の深い信仰を受けています。
大雷神社は、源平時代(1056年)に父の命を受けた源義家が、征途にあたり、この付近に十六間四方の兵舎を築き、五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています。
周囲の都市化が進むなか、天に向う大樹の森は、かけがえのない緑です。
林相としては、主に、カヤ、イチイガシ、マツ、クスノキ、スギ、ヒノキなどで構成されています。
大雷神社社叢ふるさとの森の説明板でも「大雷神社は、源平時代・・・(中略)五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています」と書かれている。拝殿の額に書かれた「大電八公宮」という名前といい、読み方といい、この説明板の水神といい、天白神との関係が非常に深いのでは、と感じた。