東別府神社
別府城址の一角に鎮座する東別府神社は、今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたり、その鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
所在地 埼玉県熊谷市東別府708
主祭神 天児屋根命 祝詞の神、出世の神 中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神)
宇迦之御魂神 生産の神/五穀豊穣の神
大物主神 蛇神、水神、雷神、稲作豊穣の神、疫病除けの神、酒造り(醸造) の神
国の守護神
(合祀) 彦由岐命 不詳
埴山比売神 土の神
社 格 旧村社 延喜式神名帳 白髪神社 武蔵国播羅郡鎮座
例 祭 四月十五日 例大祭
延喜式内社 奈良神社からほぼ西方向約3kmに東別府神社が鎮座している。直線距離では2km強だが実際の道路事情ではかなり入り組んでいて3km以上はある。籠原駅方向から行くと埼玉県道276号線を航空自衛隊熊谷基地から妻沼方面へ北上し、別府中学校北側の交差点で右折ししばらく走って行くと、そのうち左手側に東別府神社の社号標石が見えて来る。左折すると突き当たりに東別府神社が鎮座している。
東別府神社 一の鳥居 史跡 別府城跡地碑
別府城跡地の一角に東別府神社は鎮座している。
別府城の土塁跡。埼玉県指定史跡
埼玉県指定史跡別府城跡
熊谷市別府 七七七 他
昭和十六年三月三十一日指定
別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余メートル)四方で、周囲にに巾約二~三メートルの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約二メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。
太郎能幸に初まった東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまったので、この東別府城も廃城になってしまった。
昭和五十四年三月三十一日
参道途中から西へ伸びた参道の奥には神明社(写真左側),またその脇には御手長神社(同右)がある。神明社の社殿はよく見ると傾いている。
拝 殿
本 殿
東別府神社は別府氏の始祖藤原鎌足の後裔であるので、総本社は春日大社であり、かつては春日神社と称していたという。ということは本殿に祀られている3神はどういうことか。春日大社といえば、藤原氏の春日四神(経津主神・武甕槌神・天児 屋命・姫大神)を祭神としている。それに対して東別府神社の祭神は天児屋根命、宇迦之御魂神、大物主神だがそのうち藤原系は天児屋根命のみで、その他2神は稲荷系、出雲系である。どの資料にもそのことについての資料がないが不思議といえば不思議である。
境内社 八坂神社、天満天神社、八幡神社 青面金剛と三猿
両方とも大黒天の石碑 王瀧口 登山道?
御嶽塚
東別府神社
篆額 埼玉県神社市長 宝祭山神社宮司 横田茂
ここ別府城址に鎮座する東別府神社は今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたりその鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
明治22年6月境内地を拡張するとともに当時既に奉斎されていた春日神社稲荷神社□□がこの地域内に祭られていた榛名神社神明社御嶽神社大国主神社八坂神社琴平神社三船神社当を合祀し地域一円の崇敬の場が造営された。以来70年の間神祇を崇め祭祀を重・・・・・・みにも心のよりどころとして神人和合のまつりごとが行われてきた・・・・が本殿拝殿など積年の風雨による損いもはなはだしく之が修理について斉しく憂慮するところであった。
昭和32年10月東別府自治会が中心となり同憂の人達と協議をかさねた結果東別府神社(以下略)
社頭掲示板