箕輪船木明神社
船木山の裾に「つねぎした」という地名があります。船木神社の歴史を綴った史料である社伝によると、昔山裾を荒川が流れており、対岸から来る船を山頂から眺め、「船が来た…船来…船木」となったと言われているそうです。また、「つねぎ」は「繋ぎ」、つまり船を係留したところという意味があります。
平成元年の団地造成により、御神体を他の場所に移す遷座が要望されました。そこで、箕輪との境である現在の場所へ、標高35mの丘を築き、旧社殿と同様に西向きの社殿を新築しました。
「くまがや自治連だより」平成29年8月号より引用
・所在地 埼玉県熊谷市船木台5-3-2
・ご祭神 豊受姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
箕輪船木明神社の現鎮座地である船木地区は熊谷市の南側に位置し、荒川の河岸段丘上には現在、分譲住宅が多く建てられ、工業団地も隣接する住宅地との調和を図りながら、先端企業の立地を誘導しているようだ。
大里村南部土地区画整理事業施行区域でもあり、土地区画整理事業による基盤整備の効果が、その後の無秩序な建築行為等により損なわれることのないよう地区計画を策定し良好な居住空間の創出を誘導し質の高い市街地の形成を図ることを目的としているとの事だ。
箕輪船木明神社正面
箕輪船木明神社は埼玉県道66号行田東松山線を旧吹上町から荒川を南下し、東松山方向に進む。大芦橋を越えてから最初の交差点は直進し、次の手押し式の交差点では右折する。この交差点は右斜め方向に大きな工場が目印になる。右折後800m程暫くそのまま進み、次の十字路を左折、その後西南方向150m程の阿諏訪野公園を目指して頂く。箕輪船木明神社は阿諏訪野公園の隣に鎮座している。
因みに現在熊谷市船木台地区に鎮座しているので、神社名も「船木台船木神社」と表記したほうが正しいのだが、平成元年に当地に遷座した関係で、それ以前に所在した場所は「箕輪」地区である。また新編武蔵風土記稿では「神社」として記載されておらず、「明神社」と書かれていたので、今回「箕輪船木明神社」として紹介する。但し所在地に関しては現在の鎮座地を記載した。
近年遷座した関係で、神社も奇麗に整備され、周りの雰囲気もあり小ざっぱりとした印象。
拝 殿
船木神社 大里村箕輪八六七(箕輪字船木)
箕輪は、比企丘陵の東端部にあり荒川水系の和田吉野川右岸に位置する。地名は、かつて荒川や和田吉野川が増水した際、辺りが水の輪すなわち川の縁になったことに由来する。鎮座地は小高い丘の上にあり、その周辺からは弥生期から平安期に至る住居跡が発見されている。また、近くには冑山古墳やとうかん山古墳などの大型古墳が存在し、これは荒川の対岸にある行田の埼玉古墳群と同時期(五、六世紀)に築かれたものといわれている。
社名並びに小名である「船木」の由来については、日本武尊が東夷征の折、当地に船で着いたという伝承と胃山古墳の被葬者が武蔵国造兄多毛比命であるとの伝えから、この兄多毛比命が船で着いたという伝承がある。いずれにしても、当地はかつて荒川や和田吉野川を舟で渡って来る要地「船来」すなわち「船津」であったのであろう。あるいは、埼玉古墳群の被葬者と政治的にかかわりがあったかもしれない。
このような背景から考えるに、当社は船で往来する人々の安全を見守る「船来の神」であったのであろう。これが後世、村を開くに当たり、鎮守として崇敬されるようになったものと思われる。
当地は初め箕輪胃山村と称していたが、元禄年間(一六八八-一七〇四)までに箕輪村として一村となっている。
「埼玉の神社」より引用
石段手前、左側に並ぶ石祠群 拝殿の手前、左側に鎮座する境内社群
左から大神宮、白山神社、八幡・諏訪・日枝
神社石祠、不明×3
新編武蔵風土記稿では、箕輪船木明神社は地域の「産神」であったという。この「産神」とは
・その者が生まれた土地の守護神を指し、その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。
・出産の前後を通じて、妊産婦や胎児・生児を守り、また、出産に立ち会い見守ってくれるとされている神。
この「産神」は「氏神」とは違い、「氏神」は「今住んでいる地域を昔から守ってくださる神様。我々の日常生活を守ってくださる最もかかわりの深い存在」といい、「産神」は「自分が生まれた地域、土地に昔からいらっしゃる神様。その地域で生まれた子供の一生の健康と命を守る。産土神とも言い、出生地を意味する」と箏を指す。
本 殿
欽明天皇十四年紀に「蘇我大臣稲目宿祢・勅を奉じて、王辰爾を遣はし、船賦を数録せしむ。即ち王辰爾を以って、船の長と為し、因って姓を賜ひて船史と為す、今の船連の先也」と見える。この王辰爾という人物は、百済系王族の系譜から来た渡来人と言われている。
・百済貴須王―辰斯王―辰孫王(応神朝来朝)―太阿郎王(仁徳天皇近侍)―亥陽君―午定君―辰爾
欽明天皇十四年紀の上記では、王辰爾(辰爾)に「船賦を数録」せしめ、「船の長と為し、因って姓を賜ひて船史と為」したということから、「船(フナ)」と関連性のある人物と考えられ、この系統の一派が、この「船木」地区にも存在していたのではないかと考える。
社殿から鳥居方向を撮影
昭和48年調査の船木遺跡での発掘調査では、弥生時代後期から古墳時代・奈良平安時代の住居跡16箇所を検出した。とくに古墳時代後期初頭の住居跡からは滑石製模造品や未製品が多数出土したことから、玉作工房跡の発見となった。出土土器は5世紀末の須恵器・土師器が伴い当時の土器組成を知る格好の資料とされる。