鷺山古墳
児玉丘陵は旧児玉町(2006年1月より本庄市)東部から、本庄市南部に広がる丘陵である。児玉丘陵は三つの丘陵から成っていて、中心になるのは東西二つの丘陵である。西半分は生野(なまの)丘陵、東半分が浅見丘陵と呼ばれる部分で、100ヘクタールほどの面積を有する。生野丘陵はゴルフ場、浅見丘陵は早稲田大学本庄キャンパスとなっている。両丘陵は独立しており、間の平地には水田が広がっている。
この水田の中にある小さな丘陵が鷺山である。面積は3.4ヘクタールほどしかないような小高い丘で、明治時代に郷土誌を著した河田羆は鷺山について「高さ44尺、共和村下浅見の南にあり、水田間に孤立し、鷺鳥多く集まるを以て此の名あり」と記している。高さ44尺(およそ13m)は周りの水田からの高さを表したものである。
所在地 埼玉県本庄市下浅見鷺山
区 分 埼玉県県指定史跡
古墳規模 全長約60m、後方部幅約37m、同高約5.4m、前方部最大幅約30m
埋葬者 不明
築造年代 4世紀前半?
大久保山丘陵と生野山丘陵との中間にある小さな独立丘陵上にある全長60mの前方後方墳。但し埼玉県の文化財マップの遺跡詳細情報では前方後円墳と記載されている。
古墳を時期区分する場合に用いられる分類名称で表現すると古式古墳(古墳時代初期の古墳)という。日本列島には500基ほどの前方後方墳が存在するらしいが、こと東日本に関していうと、東日本の前期古墳の多くは前方後方墳だということが分かってきている。特に下野国は100mを越える前方後方墳の数が4基、西隣の上野国にも2基存在し、どちらも築造年代は古墳時代前半で、大型の前方後円墳の出現前に築造されている。
撮影時期が8月のため草木が丘陵地辺りを覆っているため、前方部も後方部も古墳なのかどうかも実見した第一印象はまったくしない。県内最古の前方後方墳で重要な古墳と思われるが説明等の案内板の類は一切無いのは寂しい。
鷺山古墳の標識
鷺山古墳は東西方向におよそ150m、南北方向に500mほどの周囲の水田面から比高差7mで「く」の字形の小高い丘の頂点に築かれており、後方部の墳丘の頂点に標高84.42mの三角点がある。 鷺山古墳の全長は約60m、後方部の墳丘の高さは5.4m、後方部の一辺が37m、くびれ部の幅11mで前方部につながる。後方部は、厳密に方形ではなく、隅の部分が切り落とされたプランを呈している。
前方部は初期古墳独特の墳丘が低いばち型(扇状にひらく形)で、10.5mまで後方部に対して74度でひらき、35度に屈曲しながら13mほど外側にひらく。前方部前面の最大幅は、30mである。前方部の盛土は後方部に近い部分が高くされ、標高80.3mであった。前方部全面の扇形に広がる部分は一段低くなっている。周溝がほぼ全周すると考えられ、幅は4.3m、深さ1mほどである。
前方部と後方部をつなぐくびれ部の西側の周溝から焼成前底部穿孔の二重口縁壺が出土した。口縁部直径25cm、口縁部下端18cm、胴部の最大径が28.5cm、器高34cmで焼成後に赤彩されている。口縁部の「縁帯」の幅は8cmをはかり、直径1.8cmほどの円形の透かし孔が6対計12個あけられている。底部は6.4cmで焼成前に予めあけられた孔となっている。 そのほか、完形品の碗型土器、二重口縁壺の口縁部破片や、東海地方独特のS字状口縁台付甕の胴部と脚部をつなぐ部分の出土など初期古墳の特色を示す遺物が出土している。二重口縁の壺型土器と碗型土器は葬送儀礼の際に用いられ、墳丘に置かれたものが転落して周溝から発見されたと考えられる。
ウィキドペディアより引用
標識の側面にはこの古墳の概要が書かれていて案内板も兼ねているようだ。
史跡 鷺山古墳
この古墳は、一辺が約37メートルの後方部と撥型に開く前方部によって構成される。
全長60メートルの前方後方墳である。この古墳からは、底部穿孔の壺形土器等が出土しており、4世紀前半の築造と推定される埼玉県内最古の古墳と考えることができる。
案内板説明文より引用
別角度から見てもわかるかどうか判別しない。
標識の前には使用しているのかどうかも解らないトラクターが無造作に置かれている。数日後に再来訪した時も同様だった。遺跡整備にお金をかけながら、現状はあまり良くない状況だ。
埼玉県内最古級の古墳でもあり、県の記念物・史跡に指定されている文化財でもある。もう少し整備等に力を注いでもらいたい、と正直感じた。