長坂聖天塚古墳
第1主体部から出土した方格規矩鏡は直径22.5cmの大型品で、出土鏡としては県内最大である。これらの出土品は一括して昭和51年3月30日付けで県指定有形文化財に指定された。墳丘から出土した土師器から、5世紀前半の築造と推定されている。
県内では初期古墳の代表的なもので、この地方の古墳発生を知るうえで重要な古墳として位置づけられている。
所在地 埼玉県児玉郡美里町2044-1
区 分 諏訪山古墳群 県指定有形文化財
古墳規模 直径60m 高さ4.5mの円墳
埋葬者 不明
築造年代 5世紀前半
長坂聖天塚古墳は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山両丘陵地の間を越えた最初の信号を左折すると左側に見えてくる。この古墳は分類上諏訪山古墳群に属しているようだが、諏訪山丘陵上に多数存在する古墳本群からは、やや離れた西裾部に独立して築かれているようにも見える。写真でも分かるように、道路に面して古墳であるため、道路沿いはまず削平されたものと考えられる。
江戸時代には墳頂上に聖天社が祀られていたことから聖天塚と呼ばれ、道路の拡張のため昭和49年に発掘調査を行ったところ、粘土槨3基、木棺直葬3基、菱雲文縁方格規矩鏡などが見つかり県の指定史跡の指定を受けた。
長坂聖天塚古墳
美里町周辺の丘陵には、多数の古墳が見られる。山崎山丘陵の西裾には諏訪山古墳群があり、長坂聖天塚古墳はその一つである。昭和49年に発掘調査を行ない、次のような事実を確認した。
墳丘は、自然の丘を整形し、1mほど盛り土をして墳頂部をつくり。あわせて高さ4.5m、直径50mの規模にした円墳である。埋葬施設は、粘土槨三、木棺直葬三の六か所がある。仿製方格規距鏡が出土した粘土槨は長さ7m、幅0.7mもあった。
遺物は、仿製方格規距鏡、獣形鏡、鉄製の刀子・直刀片、ガラス製小玉、滑石製の勾玉・刀子・有孔円板・臼玉などで、これらから古墳の築造年代は、五世紀前半と考えられている。
鏡をはじめとする優秀な副葬品は、この古墳の被葬者が志戸川流域を支配した権力者であったことを推定させる。
県内では初期古墳の代表的なもので、この地方の古墳の発生を知る上で重要である。
埼玉県教育委員会掲示より引用
この古墳の被葬者は一体どのような人物だったろう。 少なくとも志戸川流域の統治に成功し、権力をもつに至った氏族の"長"であるのは確かだろう。ただ、六基の埋葬施設を備えた多榔墓は、武蔵国内でも珍しい。埋葬された六人は、代々の盟主なのか、それとも一家六人同時期に埋葬されたか、謎とされている。いずれにしても、千五百余年前のこのあたりの繋栄ぶりを伝える遺構であることは間違いない。本庄市下浅見地区にある鷺山古墳(築造年代3世紀末~4世紀初頭)との関係も含めてこの地域は非常に魅力的だ。