牟札熊野神社
「牟礼」地名は、東京都三鷹市牟礼、長野県上水内郡飯綱町牟礼、兵庫県赤穂市有年牟礼、香川県高松市牟礼町牟礼、山口県防府市牟礼等全国各地に存在し、主な地名由来として
○人や集落を表す「群れ」
○山・森・小高い盛
「埼玉の神社」では、「古語で山を示す場合と、村を示す場合とがあるが、当地では前者を「牟礼」と表している」と「山」由来を記載している。
○古代朝鮮語の「mori,more=山」
Wikipediaも全国の「牟礼」地名の由来を「古代朝鮮語で山や丘を意味するmoroが日本語に転じて『むれ』となったとされる」と紹介している。
古代朝鮮語由来なのか昔からの和語なのかの断定は難しい。字数の関係で詳しく解説できないが、結論として、和語でも高くなった状態を「盛り上がる」「山盛り」などと表現するので、古の時代は和語でも朝鮮語でも「山」のことは「ムレ・モロ・ムロ・モリ・ムラ」と呼んでいたのではなかろうか。
・所在地 埼玉県寄居町牟札460
・ご祭神 家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神
・社 格 旧村社
・例 祭 お日待4月17日 道饗祭7月23日 八坂祭7月25日
秋祭 10月17日 手長祭12月1日
牟札熊野神社は寄居町東部・牟札地区に鎮座する。埼玉県道274号赤浜小川線を小川町方向に進み、市野川を越え、「おぶすまトンボの里公園」の道を隔てた反対側の丘陵地斜面上に社は鎮座している。
牟札地区は南北約2.7㎞、東西(地区南部)約1.7㎞の歪な縦長の地形で、中央には市野川が流れる。市野川は牟札南界付近の溜池が水源域として、初めは北流し、次第に北東そして南東に方向を変える。地形上市野川がこの地区を東西に分けているようにも見え、古代からこの河川がこの地域にとっての命の源ともいえよう。
社号標柱
斜面上に鎮座する牟札熊野神社
石段の先にある鳥居 鳥居を越え、右側にある境内社
詳細不明
牟札熊野神社は、享保年間(1716-1736)に当地の修験小菅刑部が熊野大権現を勧請し祭祀したという。牟礼村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年字金山の金山神社、字駄木所の白髭神社、字柳沢の琴平神社、字新井の稲荷神社、字台の天神社、外根木の八幡神社を合祀している。地形を見ると南方には鎌倉古道が通っていて、その古道を見下ろせる要衝の地ともいえる。因みにこの地域では「ムレイ」と発音されているようだ。
拝 殿
30段ばかりの石段を登った小高い山上に鎮座。
熊野神社 寄居町牟礼四六〇
当地は、寄居町東方の山間部にある。地名「ムレイ」は、古語で山を示す場合と、村を示す場合とがあるといわれるが、当地では前者を「牟礼」と表している。『風土記稿』富田村の項には「富田村は正保のものには、無礼村を合て富田牟礼村と載す、其後元禄度の改めには、各別村となれり」とあり、元禄年間(一六八八-一七〇四)には一村として独立している。
鎮座地は、地内の物見山西麓にある小高い山上にある。また、この南方には鎌倉古道が通っている。
口碑によると、享保年間(一七一六-三六)、当地の字台に住む小菅刑部なる修験が、紀州から熊野大権現を勧請し、日夜祭祀に励んだという。この小菅刑部は、享保七年(一七二二)四月二十九日に当社境内において即身成仏したと伝えられる。刑部の死後、地内の天台宗長昌寺が神仏分離まで神勤を行った。
祭神は、家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神の三柱で、『風土記稿』には本地仏として薬師・観音・地蔵を安置し、相殿には津島天王を祀るとある。
『明細帳』によると、明治四十年五月十八日、字金山の金山神社、字駄木所の白髭神社、字柳沢の琴平神社、字新井の稲荷神社、字台の天神社、外根木の八幡神社を合祀した。
「埼玉の神社」より引用
拝殿左側手前には石碑、石祠あり。 石碑・石祠の隣には境内社合殿あり。
石祠の詳細は不明。 こちらも詳細は不明。
本 殿
本殿左側には境内社八坂神社と金山石祠 本殿右側には神輿庫と天之手長男神社
新編武蔵風土記稿 男衾郡無禮村
熊野社 村ノ鎭守ナリ津嶋天王ヲ相殿トス又藥師觀音地藏ノ三體ヲ安ス村持
「埼玉の神社」によると、牟札地域内には「字金山」があり、金山神社を祀っていたという。市野川の上流部にあたるらしい。金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者の信仰を集めたようである。同時に「金塚」の字もあり、「金山」は隣地今市、高見地域にも同名字がある。また近郊には塚田地域もあり、室町時代から戦国時代にかけて「武州塚田・鋳物集団」が存在していた。
昼であるにも関わらず社叢林に囲まれた境内は薄暗い。
旧花園町には黒田古墳群を始め、多くの遺跡の発掘が報告されている。その中で、関越自動車道花園インターチェンジ 付近には、縄文・古墳・平安期の遺構・遺物が検出された台耕地遺跡があり、平安時代後期の製鉄溶鉱炉(堅形炉)7基と、また鍛治を行った建物跡も発掘されている。
赤浜地区の南東部に位置する塚田地区は、嘗て鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほどに栄えたといい、それを支えたのが塚田鋳物師の存在だという。この地域は金井(坂戸市)小用(鳩山町)と並んで中世(室町時代頃)に鋳物業が盛んであったと伝えている。
鳥居周辺にある馬頭観音石碑
新編武蔵風土記稿赤浜村条には「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」と記載されている。
畠山重忠配下の武将で、赤浜関守の大沢半左衛門が直轄していた地域であり、塚田地域には半左衛門の墓もある。赤浜地区は畠山氏の所領地だったと考えられ、荒川を挟んでこの黒田地区も所領地内の可能性が高い。
室町時代から戦国時代にかけて、塚田地域に存在していた金属精錬「武州塚田・鋳物集団」が活躍していたという箏は、その周辺には鋳物を製造する原料が豊富にあった事を意味する。それより100年程前、畠山氏の部下であった大沢氏がそのことに全く気が付かなかったとは到底考えられない。当然資源豊富な地域であったと認識して、この地に「関守」として常駐させたと考えたほうがより理論的ではなかろうか。
高見地域にもその関連集団の痕跡が残り、牟札地域内には市野川上流に「金山」地名がある。「武州塚田・鋳物集団」と何か関連がありそうと筆者は勝手に考えているのは、自己都合的な見解だろうか。