今市兒泉神社
・ご祭神 木花開耶姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、吉野川を越えた先のY字路を斜め右方向に進む。埼玉県道184号本田小川線に合流後、暫く道なりに直進し、関越自動車道を越えてから「今市地蔵」交差点を直進する。今度は埼玉県道296号菅谷寄居線に合流直後のY字路を斜め右方向に進むと、市野川に沿って続く道路があり、そのまま200m程進むと、今市兒泉神社鳥居が右手に見える。
道幅は狭い道路の為、駐車スペースは周辺見当たらない。鳥居前の路肩がやや1台分ほど駐車できそうなので、そこに停めて急ぎ参拝を行う。
社号標柱 昭和56年建立の「今市地区土地改良記念碑」
今市兒泉神社正面
地形を確認すると、市野川左岸は右岸に比べて標高が高い。右岸の平均標高は約78mに対して、左岸に鎮座する今市兒泉神社の標高は約86mと、一段高い場所にある。
社の西側には舗装されていない掘割状の細い道(小道というよりは廃道のようである)があるが、嘗て鎌倉街道上道(かみつみち)に比定されている。また「今市」という地名は、嘗て鎌倉街道が主要街道だった時代、この市が立てられたことに由来するという。
鳥居より参道を望む。
「今市地区土地改良記念碑」
今市土地改良総合整備事業は、昭和五十四年八月地区関係者総意のもとに、農業近代化と市野川改修を合わせ実施する事を目的に発足した。地区内は道路用排水の不整備の上、狭い小田畑が多く、これらの悪条件の為生産性が極めて悪く、その上、毎年集中豪雨により厳しい災害に悩まされて来た。本事業の実施については、当地区では長い間の願望であった町の基本構想に基づき、男衾地区での土地改良事業第一号として、国県並びに町当局の積極的な指導のもと、地区内地権者、役職員一体となり、此の事業に取り組み、総面積四四.七ヘクタールを改善、整備した。(中略)本事業の実施により、農業重労働から解放され、効率的で明るい近代的農業への脱皮に成功したことは、地域一同限りない喜びである。この歴史的な完成に当り、関係ご当局に対して謹んで感謝申し上げると共に、地権者一同の卓見とその共同精神をもたたえ、こヽに事業碑竣工を記念して記念碑を建立して末永く後世に伝えんとするものである。
記念碑文より引用 一部句読点は筆者で加筆
奥深い森林が周囲を包む静寂な空間。参道の先に社殿が見える。
参道途中左側にある記念碑
神林取得記念
男衾村今市字富士山一一八三番の二は村社兒泉神社の境内神社なる淺間社の旧境内引裂上地林なりしを大正六年十二月十四日拂下げの手續をなし農商務省より買受け七年一月七日兒泉神社基本財産として登錄するを得たり氏子等再び神林となりしを抃ち欣び協力して記念せん為めに花崗岩鳥居一基を建設し且事由を記して不朽に傳ふるものなり
記念碑文より引用
拝 殿
児泉神社 寄居町今市五九九
当地は、かつて鎌倉古道にあった宿駅の一つで、物資を江戸方面へは隣村の奈良梨村、上野方面へは赤浜村へ継ぎ送った。地名の今市は中世新たに設けられた市にちなみ名付けられた。現在、宿駅の中央には当社と高蔵寺が、宿駅の二つの入口にはそれぞれ地蔵堂・薬師堂が祀られている。また町並みの南西には物見山がある。
社伝によると、当社は、物見山の尾根続きの地に、こんこんと湧き出る泉に坐す神を、児泉明神として祀ったことに始まる。また、口碑によれば、鎮座地は、初め明神台という地であったが、江戸期、別当を務める天台宗高蔵寺住職が、祭祀及び氏子の参拝の使を図り、寺の西一〇〇Mほど離れた現在地に社を移したという。明神台の地については、現在、どこを示すのか明らかでないが、物見山の麓の泉立寺近辺が、かつて湧き水がよく出た地であったことから、この辺りにあったことが考えられる。
当社には、児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政期(一八〇四-三〇)に高蔵寺に移されている。現在、本殿には、白幣を奉安している。
『明細帳』によると、明治四十年五月に字冬住の冬住神社、字富士山の浅間神社、字天神原の天神社の無格社三社を合祀している。
『埼玉の神社』より引用
社殿手前左手に鎮座する今市兒泉神社境内合祀社(写真左)。左から手長神社、冬住神社、天満神社、稲荷神社、浅間神社、天照大御神。また社殿奥右側には石祠(同右)あり。詳細不明。
ところで今市兒泉神社の北東近郊には「高蔵寺」がある。天台宗の寺で十一面観音菩薩像が祀られていて、嘗て児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政年代(1804-30)に高蔵寺に移されている。
高蔵寺から東側近郊の地蔵堂に祀られてる地蔵様には「いぼとり地蔵」という昔話が伝わっている。
約800年前源頼朝の妻、北条政子は行基菩薩の作といわれる6体の小さな地蔵尊を本尊とし、いつも持ち歩いていました。ある年、政子は病気になり、伊香保の温泉に湯治に出かけ温泉で病気が治り、近くのお稲荷さんにお礼参りをしていました。
その時ふと思いついたのが「自分のおでこにある大きなイボを取ってもらいたい」それから毎日お参りにいった満願の7日目のこと、大事にしてる6体の地蔵尊の1体が夢に出てきて、お告げをしました。「帰り道の鎌倉街道沿いの宿場町に桜の大木がある。その木で私と同じ姿の地蔵を彫れば、願いをかなえてやろう」って・・・。次の朝早く、鎌倉街道に急ぎ今市の宿の白坂の茶店で店の主人に尋ねました。「のう、主。この宿場に桜の大木はあるか?」。すると主人は「その先の地蔵窪にありますよ!立派な桜の大木が・・・。」と行って見るとそれは立派な桜の大木が・・・。
「これに間違いない」。政子は鎌倉から彫り師を呼び地蔵尊を彫らせた。その地蔵尊の胎内に自分の大事な地蔵尊を納め、地蔵堂を建てそこに祀りました。すると政子の大きなイボは跡形も無くなったのです。それから人々はこの地蔵尊を『いぼ取りの一体地蔵』と呼ぶようになったということです。今じゃ『子育て地蔵』とも呼ばれたくさんの白いよだれかけが壁に掛けられてるそうです。
日本各地に「いぼとり地蔵」なるものが多数存在していて、1000か所以上とも言われている。不思議とお地蔵様の近くには「こんこんと湧き出る清水」があって、その清水の効能(?)により、いぼが完治するような説話が多くみられる。
またこの地域は室町時代中期、同族同士が戦いを繰り広げた地でもある。この戦いは『長享の乱』と言う。長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の同族の間で行われた戦いの総称である。この戦いの中に長享2年(1488)11月15日武蔵国の現在の比企郡小川町高見・大里郡寄居町今市辺りで「高見原の合戦」と呼ばれる合戦があった。
上杉定正(修理大夫・相模国守護・扇谷上杉家当主)が2000余騎を率いて、高見原へ出兵した。それを上杉顕定(関東管領・上野、武蔵、伊豆守護)が3000余騎の兵で対陣し、戦いは15日にも及んだが、顕定が敗れて山内上杉氏は鉢形城に敗走したという。
今市地区には「首塚」という小字があり、『新編武蔵風土記稿』によれば、「村の北にあり、高二三尺の小塚にて、上に稲荷の小社あり、村民の持、此塚を掘ば髑髏多く出る故此名ありと云(中略)此塚は当時討死せしものの骸を、埋めたる印なるべし」と生々しく当時の惨状を「首塚」という地名で後世に残している。
資料参考・「埼玉の神社」「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等