古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

太郎丸淡州神社、勝田淡州神社

 市野川は延長約35km、流域面積147Km2の荒川水系の一級河川。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある。埼玉県大里郡寄居町牟礼の牟礼橋を管理起点とし、小川町、嵐山町へと概ね南東に向かって流れ、関越自動車道を越えた辺りからは流れを東へ変え、滑川町、東松山市を経由し、再び流れを南東に戻す。さらに吉見町、川島町を経て最後は北本市と桶川市の境界付近で荒川と合流する。
 武蔵国郡村誌や新編武蔵風土記稿によれば、市野川の上流部(寄居町と小川町の境界付近)には、金山、金塚などの小字名が分布している。例えば牟礼村に金山、今市村に金山、高見村に金塚がある(高橋の付近)。また、牟礼村には金山社が祀られていたとある。金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者(鍛冶屋や鋳物師)の信仰を集めたようである。これらのことから、市野川の周辺には金属の精錬を生業とする人々が居住していたと推測される。その時代は不明だが、鎌倉街道や古城跡との関連などから、おそらく近世以前だと思われる。市野川から採取した砂鉄を原料として、金属の精錬(たぶん、たたら製鉄)を行なっていたのだろう。この古代鍛冶集団と関係があるのか、嵐山町の市野川左岸流域には淡州神社が多く存在している。

所在地    埼玉県比企郡嵐山町太郎丸
御祭神    速御玉姫命
社  挌    旧村社
由  緒    大化(たいか)年中(645-650)本社再建スル所ナルト自来(じらい)*1年月久シキヲ経(へ)ルヲ以テ之レカ修繕(しゅうぜん)ヲ施(ほどこ)スト雖(いえども)元禄ノ頃(げんろく)(1688-1704)社宇(しゃう)*2大(おおい)ニ破損(はそん)ス是(これ)ヲ以テ猶(なお)再建スト云フ棟札(むなふだ)ニ元禄八年(げんろく)(1695)九月吉辰ト記載(きさい)アリ今現ニ存立(そんりつ)スル社宇ハ則(すな)チ之トナリ明治四年中(1871)中村社(そんしゃ)ニ列(れつ)セラル明治三十六年(1903)四月二十五日上地林(あげちりん)百十八坪(つぼ)ヲ境内(けいだい)ニ編入(へんにゅう)許可
                                                                                                                                                      「神社明細帳 淡州神社 七郷村太郎丸」より引用
例  祭    不明
       
 太郎丸淡州神社が鎮座する太郎丸地区は嵐山町の中央部に位置し、すぐ東側は滑川町である。太郎丸淡州神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方面に行き、武蔵嵐山病院を過ぎた次の信号のない十字路を右折すると左側に淡州神社の赤い鳥居が見えてくる。
          
  
参道正面に赤い両部鳥居があり、鳥居を越えて左側に何故か「大国主大神」の石碑がある。
          
                  二の鳥居と参道の突き当たりに拝殿がある。

 明治時代、内務省および庁府県に備え付けられていた神社の台帳のことを神社明細帳というが、1879年(明治12年)6月28日、内務省達乙第31号により、神社及び寺院の明細帳を作成し、その副本を内務省に送付することが各府県に命じられた。各府県では、社寺取扱規則(明治11年内務省達乙第57号)の基準に合致する社寺を、届出又は職権によりそれぞれ神社明細帳及び寺院明細帳に登載した。その神社明細帳、七郷村誌には嵐山町太郎丸について以下の記載がある。

水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 太郎丸村(たろうまるむら)   

 
太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)アリ。爰(ここ)モ本村ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。


 ここで注目される点はこの「太郎丸」という地名の由来だ。1665年の検地の際に、太郎丸という村民が案内をし、そしてこの村はこの太郎丸を中心に開墾した地であるためにこの地を「太郎丸」と命名した、ということのようだ。
 江戸時代初期この地は水房村の一部で、寛文五年(1665)の検地の時独立して太郎丸村となった。水房村とは本郷、枝郷の関係にあるのはその為で、それで太郎丸村の鎮守様は水房村の淡洲明神社(阿和須神社)であった。「新編武蔵風土記稿」で、太郎丸村の淡洲明神社を「村の鎮守」と書かなかった理由もここからくる。

 
      社殿左側にある境内社 弁財天               社殿右側奥にある八坂社

 太郎丸淡州神社の当初の社地は、現鎮座地の裏手の山中の「御林」と称するところにあったらしい。現社地には、幕末にその山から幣束が飛来して突き立ったので、これを神の御意として村民は心を一つにして社殿を造営したという。



勝田淡州神社

所在地    埼玉県比企郡嵐山町勝田270
御祭神    保武田別尊(応神天皇)、息長足日賣命、武内宿称命、菅原道真公、武甕槌命
社  挌    旧村社
例  祭    不明
          
 勝田淡州神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線に戻り、深谷市方向に北上し、玉ノ丘中北入口交差点を右折すると花見台工業団地となるので、そのまま5分弱進むと左側に勝田淡州神社が見えてくる。但し道沿いにはなく一本西側に入った道路で、しかも大変道幅は狭い。専用駐車場はなく、路肩に駐車して急いで参拝を行った。
          
 
            拝    殿                          本    殿

勝田淡州神社の由来は以下の通り。

淡州神社
由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)*1年月不詳(ふしょう)、宝永(ほうえい)年中(1704-1711)中宮(ちゅうぐう)建立、文化年中(1804-1818)上□建立、嘉永(かえい)年中(1848-1854)鳥居建立。
 元淡洲明神ト唱来(となえきたり)シ処(ところ)御維新(いしん)*2ノ際(さい)當号(とうごう)ニ改稱(かいしょう)ス。

 しかし淡州神社であれば、祭神は速御玉姫命であるはずなのに、この社は八幡神社でお馴染みの3祭神というのはどういうことだろうか。少し納得がいかない。

           
               社殿の右側に並んで鎮座する境内社、鹿島神社と天神社

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