大雷淡州神社、土塩淡州神社
・所在地 埼玉県比企郡滑川町山田1852
・ご祭神 大雷神 息長足日売命
・社 挌 旧村社
・例 祭 祈年祭 3月10日 例祭 7月28日 秋祭 10月16日
新嘗祭 12月11日 大祓 12月25日
森林公園南口側から県道250号森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を北東へ走って行くと、西側,つまり右側にに大雷淡洲神社の鳥居が見えて来る。社は道路沿いにあり、東側に社殿を向け、その前は比企丘陵の南北に細長い一面ののどかな田園風景が続く。
上山田に鎮座する淡州神社とは至近距離にある社だ。
大雷淡洲神社正面
参道の風景
大雷淡洲神社の案内板
大雷淡洲神社 滑川村大字山田(下山田)
祭神 大雷命 息長足日売命
由緒
当社は昔この地方がしばしば旱魃に見舞われ凶作が続くので、五穀豊穣を願って雨乞いの神大雷命と三韓鎮定に功績を挙げた神功皇后を祭神として奉祀した神社と伝承される。勧請の年代は資料によれば応永二乙亥(西暦一三九五)年と推察される。寛永二乙丑年に邑の鎮守となり、明治四年三月に村社に列格した。(以下略)
案内板より引用
鳥居を過ぎて数段の石段の上に鎮座する二社並列の大雷淡州神社の拝殿。
ただしどちらがどの社かは何も明記されていないため不明。
拝殿の右側に鎮座する境内社・天満天神宮
大雷淡洲神社 滑川町山田一八五二(山田字山崎)
当社は大雷神社と淡洲神社の合社で、大雷命と息長足日売命の二柱を祀る。社伝によると、昔この地がしばしば干ばつに見舞われて凶作が続いたため、五穀豊穣を願って水分の神である大雷命と、三韓・熊襲の征伐に功績のあった神功皇后(息長足日売命)を奉斎したことに始まるという。近くにある式内社の伊古乃速御玉比売神社が「郡中の総社」として淡洲明神ともいわれていたことから、同社をこの地に勧請したことが推測される。
一方、『明細帳』には「勧請年月不詳宝永七年(一七一〇)三月霊代ヲ改メ鎮守タリ明治四年三月村社ニ改ム」とある。これに見える「霊代ヲ改メ鎮守タリ」の記載は、同じ地内にある上山田の淡洲神社が同年代に神祇管領の吉田家から正一位の神位を拝受していることから、これに合わせて当社も神位の拝受を行い、名実共に村の鎮守としての地位を確立したことを表すものであろう。
『風土記稿』は、地内の神社について「淡洲明神社 村の鎮守なり、東光寺持、下二社同じ、雷電社山王社」と載せる。この記述から合社となったのは化政期(一八〇四-三〇)以降のことと考えられる。
合社後しばらくは二棟の覆屋にそれぞれ本殿が据えられていたが、淡洲神社の方に大雷社を合祀した際に大雷社の本殿は外に移された。現在の社務所はかつての大雷神社の覆屋である。
「埼玉の神社」より引用
【土塩淡州神社】
・所在地 埼玉県比企郡滑川町土塩422
・ご祭神 速御玉比売命
・社 挌 旧土塩村鎮守・旧村社
・例 祭 祈年祭 2月26日 例祭 4月17日 新嘗祭 10月17日
大祓 12月30日
埼玉県道250号を北方向に進み、山田交差点を左折し、上山田淡州神社を右側に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。突き当たりの福田交差点を右折し、元東松山有料道路を熊谷市方向に進むと土塩Y字路にぶつかるのでそこを左折すると左側に土塩淡州神社が見えてくる。小さく収まっている社という印象。
専用駐車場はないので、神社を通り過ぎてからすぐ先の交差点に駐車スペースがあったのでそこに停め急ぎ参拝を行った。
土塩淡州神社正面
淡洲神社 滑川町大字土塩
祭神 速御玉比売命
由緒
当社は神功皇后の三韓鎮定の広徳を仰ぎその神霊を此の地に奉祀したという。
創始の年代は天明三癸卯(西暦一七八三)年七月三日と記録されており、天児屋根命第五十八代的伝神祇道唯一人 吉川源十郎源従門によって創立されたと伝えられる。
境内地四○六坪には杉の大樹が聳え神苑に荘厳の気を漂わしている。
祭事
元旦祭 一月一日 新年祭 二月二十六日
例祭 四月十七日 新嘗祭 十月十七日
大祓 十二月三十日 案内板より引用
拝 殿
淡洲神社 滑川町土塩四二二(土塩字南薬王寺)
当社の鎮座する土塩は、滑川町の最北部にあり、町の北側を東へ流れる和田川に沿った沖積地である。地名は、塩が楔形の谷の奥の意で、当地が開析谷の奥にあることから付されたという。
当社は、『風土記稿』に「淡洲明神社 村内の鎮守なり、明昌寺持」とあり、江戸期は、真言宗金宝山明照寺が別当であった。
祭神は、速御玉比売命である。村内に鎮座する式内社伊古乃速御玉比売神社がかつて淡洲明神とも呼ばれていたこと、同社の境内社に琴平神社と天神社があることなど当社との相似点が多い。現在、当地方に淡洲神社(阿和須神社)が六社あり、伊古乃速御玉比売神社を中心にそれを取り囲むように放射状に分布しており、同社がその信仰の核になっていたことをうかがわせる。
『比企郡神社誌』によると、当社は「天明参癸卯年(一七八三)七月参日天児屋根命五拾八代的伝神祇道唯一人吉川源十郎源従門の創立」とある。
ここにいう吉川源十郎は、吉川神道を創唱した吉川惟足の子孫に当たる。惟足以来、幕府は、吉川家を吉田神道の正統の教義を継承した者とみなし、神道に関する故実の調査などを行う幕府神道方の職に世襲職として任命した。この神道方の吉川家が当社の創建にかかわった経緯については明らかではない。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側にある境内社・天神社 こちらの境内社は詳細不明
境内の一風景