古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瀬山八幡神社、三ヶ尻観音山、踏鞴薬師堂

 瀬山八幡神社が鎮座する深谷市瀬山地区は、熊谷市三ヶ尻地区と隣接し、律令時代には大里郡、幡羅郡、榛沢郡との境界地域であったという。この地域は地形的には荒川北岸に位置し、荒川という名称らしく時代によって流域の位置がしばしば変わったと思われ、その結果境界域もその都度変化があったと思われる。この瀬山地区も現在は深谷市に編入されているが、古代のある時期三ヶ尻地区内に組み込まれていた期間があったことは多くの文献からわかっている。
 またこの地域は荒川の度重なる氾濫によって肥沃な土地となり、早くから稲作が行われて、また人口も多かったと言われ古代から栄えていた地域だったようだ。

 瀬山八幡神社で10月10日、11日に行われる「八幡神社屋台囃子」「八幡神社庭場の儀」は深谷市無形文化財に指定されている。

所在地   埼玉県深谷市瀬山398
御祭神   誉田別尊(ほむだわけのみこと)(御神体乗馬木彫神像)
社  挌   不明
例  祭   10月10日八幡神社庭場の儀 

       
 瀬山八幡神社は秩父鉄道明戸駅の近くで、国道140号と140号バイパスとの間に鎮座している。この地域はすぐ西側から側にかけて櫛引台地の裾野が広がる。この櫛引台地は荒川によって作られた古い扇状地が浸食されてできた沖積台地で、寄居付近を頂部としているが、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されていて、櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているとのことだ。瀬山地区の東端は櫛引段丘との境界部の東側にあたり、荒川北岸の氾濫低地(沖積地)を形成していて、瀬山八幡神社はその沖積地の一角に鎮座している。
       
           瀬山八幡神社入口 社殿の隣には広場があり、子供たちが遊んでいた。
  
       社殿の手前左側にある神明社               鳥居の右側にある稲荷社
   
            拝    殿                           本殿覆屋

 瀬山八幡神社に関して「大里神社誌」で気になる箇所があり、ここに紹介したい。

 以前は、例祭日は、正月11日であった。この祭のあらましは大里郡神社誌によれば次の通りである。
 10日の晩の「前夜祭」には、当番宿から神社への行列がある。当番宿とは、祭の世話をする四人の当番の頭(当番頭)の家のことで、当番酒宿ともいい、1年間、幣帛(御幣)を預る。前夜祭には氏子は皆、当番宿に集まり、神職が幣帛を捧げ持ち、前後をお伴の村(大字)の役員や氏子が、堤燈を携えて厳かに行進をする。神社の前庭には庭燎が焚かれ、殿内には燈篭が点される。  明けて11日午前10時から祭事が執行される。早朝に年番は真新しい大莚を10枚持ち寄り、神事が終ってのち、前庭にこの莚を敷く。社殿を背に中央に神職が座り、神職の左が区長(大字の長)、右に氏子惣代、以下定められた位置に着座し、祝盃を挙げる。おもむろに前年度の当番が暇乞いを告げ、既に選ばれている新年度の当番が披露される。そこで神職は、半紙を四つに切り、そのうちの一枚に鋏で穴を切抜き、それらを折畳んで籤を作り、新年番4人に抽籤をさせる。穴のあいた籤を引いたものが新しい年番頭と決定する。年番頭が年番酒宿となり、これを氏子惣代が発表する。こうして祝盃の宴は盛り上がって行く。
 宴の行事に「御供の儀」というのがあり、餅を取りあう余興の行事らしい。正月7日に氏子から餅米の寄付が集まり、9日に(当番)酒宿で、よく身を清めて餅をつく。この餅は「的り餅」ともいひ、手に入れた者は五穀も養蚕も大当りとなるといわれる。  「莚かぶせ」という行事は、
境内入口付近の池に莚を浸しておき、これを余興の座へ運んできて、皆にかぶせて廻る。餅の争奪に関連する行事らしい。珍しい行事なので、近郷からの見物人も多かったというが、「非文明の行事」という理由で近年(大正頃か)に廃止になった。餅の争奪ともども詳細な説明が欠けているのは残念である。  宴が終ると、新年度の酒宿へ幣帛帰還の式がある。記載はないが、おそらく夕刻に行なはれ、前夜祭と同じ行列が組まれるものと思われる。「酒宿」という名からも、古くはどぶろくが造られて、神社に供進されたようだ。
 今は、例祭は10月11日となり、「庭場の儀」に引き継がれている。
                                                 大里郡神社誌より引用

 ここには瀬山神社の境内入り口付近に「池」があり云々と書かれている。この池はその昔「少間池」と言われ、飯玉神社の項でふれた片目のドジョウの伝説が今でも残っている。俗にいう古代鍛冶集団伝説である。
 
 少間の池は、三尻(みかじり 熊谷市)の観音山から西南へ三○○メートル、瀬山の田圃の中にある。傍らに「少間様」という石宮が祀られている。昔は深い淵だったが、今は埋まって水もなく、ただ細長い池には葦が一面に茂っているのがみられる。
 伝えるところによると、この池に棲む魚はみな片目だったといい、瀬山の人々は「少間様」のお使いだといって、どこで捕まえても「少間様の池」に送りとどける(放つ)か、その場で逃がしてやったという。
                                                埼玉県伝説集成より引用

 瀬山八幡神社の「瀬山」も元々は少間が転じたものだという。また埼玉苗字辞典にも「狭山」について以下の記述がある。

狭山 サヤマ 入間郡勝楽寺村(所沢市)は狭山庄を唱える。同郡二本木村字狭山、木蓮寺村字元狭山、峯村字狭山、三ツ木村字狭山、高倉村字狭山(以上は入間市)あり。今の狭山湖(旧勝楽寺村)より宮寺郷(入間市)の附近一帯を狭山庄と称す。現在の狭山市は昭和二十九年の名称である。また、榛沢郡折之口村字狭山(深谷市)、瀬山村(川本町)一帯を狭山と称す。瀬山村条に「村の東に少間池あり、当国名所狭山の池は是なりと云々」見ゆ。

 
この瀬山八幡神社から国道140号バイパスに向かう道路のすぐ右側に「少間池跡」が存在している。現在は一面水田地帯となっていて石祠として残っているだけだが、元々は鉄穴流し(かんなながし、砂鉄を含む土砂を水で流し、各所に堰を設けた樋に通して、砂鉄と土砂とを選り分ける方法)をしていた際の鉱物の沈殿池だったと言われている。
            
                             小間池跡の石祠
 この「少間」は「さやま」と読む。すると不思議な共通点がある場所に誘ってくれる。この瀬山地区からよく見える山、「三ヶ尻観音山」だ。
                         
                                                             三ヶ尻観音山全景
三ヶ尻観音山
  平地である市内において独立した山で、眺望もよく、特に南方は視界が開けています。標高83.3メートル、周囲約850メートルで、松・なら・くぬぎ等で被われています。
カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 南麓にある龍泉寺は真言宗の寺で、渡辺崋山ゆかりの文化財(県指定絵画の松図格天井画・紙本淡彩双雁図、県指定古文書の龍泉寺本訪へい録)を所有しています。カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 「成人の日(1月の第2月曜日)」にだるま市が開かれます。

                                                       熊谷市ホームページより引用
  観音山は龍泉寺の裏にある山で熊谷市における景観地の一つです。周囲をとりまく豊かな樹林は人々の心に安らぎを与えるとともに野鳥の絶好の生息地伴っており、貴重な緑地として、ふるさとを象徴するものとなっています。
 林相としては主にアカマツ、コナラ、クヌギ、サクラなどから構成されています。
                                                                                     熊谷市三尻観音山ふるさとの森より引用
                                                                                       
  三ヶ尻観音山は残丘と言われている。残丘とは周囲の台地面に対して一段高くなっている丘陵地のことで、深谷市の仙元山、岡部町の山崎山なども同種である。埼玉県北部のこの辺りは、大昔から利根川、荒川が入り乱れて流れていて、川の流れでまわりだけがけずられていって、観音山の場所だけなぜか残った為、現在の形状となったらしい。
 この三ヶ尻観音山はその昔は「狭山」と呼ばれていたようで、文明18年(1486年)殼恵比国紀行には「弥陀(箕田)という所に明かして武蔵野を分侍るにの径の辺名に聞こえし狭山あり。朝の霜をふみわけて行くに僅かなる山の裾に形ばかりの池あり」と記されていて、この文中にある沙山池は三尻観音山の池であると推察される。また江戸中期に記された「江戸砂子」という書に「狭山は田夫瓶尻のはげ山といい、観音堂あり、力士門の額に狭山の2文字を顕す」とあり、古くから知られていた場所だった。
 また山頂には神名を刻んだ板碑がいくつも建てられ、昔は信仰の山でもあった時期もあったと思われる。延喜式内社、田中神社や、瀬山八幡神社から見る三ヶ尻観音山はまさにランドマークであり、戦略上にも押さえたい自然の要衝だ。

 ではなぜこの三ヶ尻観音山が昔「狭山(さやま)」と呼ばれていたか。この答えを考えてみると終始古代鍛冶集団がそのルーツであったのではないかと考えてしまう。つまり狭山の「サ」が朝鮮語の鉄を意味する「ソ」であり、またある説では「砂」つまり、砂鉄が取れる山という意味ではないかと推測する。観音山において鉄穴流しをした為に少間池はできたということだ。
 不思議なことにこの観音山直下には少間山観音院龍泉寺が存在し、この寺の御本尊は不動明王だが、別に観音山の中腹にある観音堂があり、そこには千手観音が祀られている。龍泉寺の宗派は真言宗豊山派に属し、本山は奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)で、開山開基は1590年であると渡辺崋山は著書の『訪瓺録』の(ほうへいろく)中に記しているが、この千手観音は今から約1200年前この近くの狭山池の水中より出現したとの伝承があり、少なくとも観音堂は龍泉寺の開山開基よりも古い歴史があり、また龍泉寺正統の御本尊である不動明王とは違う歴史の系図があったと見るほうが自然だし、元々観音堂がこの地にあって、後から龍泉寺が建てられれ、この観音堂を吸収、合併したと考える。
 この観音堂に祀られている千手観音は何を意味しているのだろうか。狭山池の水中より出現したという時期が奈良時代という事は少なくともそれ以前に存在していたという事になる。「発見された」という客観的な表現ではなく「出現した」という主体的な表記に隠されたその意味は大変大きい。もしかしたら観音山の鉄穴流しと関連があるのではないか、と想像を膨らましてしまう。

  この三ヶ尻観音山の西側には薬師如来を本尊とするが存在する。別名踏鞴薬師堂。国道140号バイパス沿いなのでよく見える。この薬師堂は道路を隔てたすぐ西側に瀬山正福寺があり、その寺の管理下にあるが、歴史は古く、初代薬師如来は養老元年(717)春日仏師一夜の作と言われている。
           
                         田原(踏鞴)薬師堂全景
           
                        薬師堂の左側にある案内板

 この案内板には興味深い一文が掲載しており、「足でふいごを踏んで金物や和鉄をつくったところに建てた御堂」と書いてある。この一文の意味している意味は非常に重要で、この地「田原」は「踏鞴」であり、「タタラ」であり、古代鍛冶集団がかつてこの地域に活動していた何よりの証拠ではないだろうか。



                                                                                                                 
 

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