須影八幡神社
主祭神 誉田別命・菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命
社 挌 旧村社
創 建 不詳
国道125号行田バイパス砂山(東)交差点付近を左折し、道なりに真っ直ぐ直進すると左側に須影八幡神社が見える。平野部に鎮座する社としては比較的境内は広く、常に整備され綺麗である。専用駐車場はないが、駐車スペースは確保されている。今回は鳥居を挟んで道路の反対側にある駐車スペースに車を停めて参拝を行った。
須影八幡神社拝殿
「新編武蔵風土起稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九万石石斗余を賜う」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見える。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)までの間に、現在の本殿と拝殿を造営したものだ。
本殿壁面の見事な彫刻
本殿 反対側より撮影
所在地 羽生市須影
彫師 3代石原常八
彫物製作年代 安政5年(1858年)
新編武蔵風土記稿に「村の鎮守なり、慶安2年8月24日、社領19石5斗余を賜う」と記されており、別当として蓮華寺の名がある。その最後の住職だった潮元が、安政4年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営した。拝殿の棟札には、安政5年再造、棟梁は当所の清水仙松、三村若狭正利の名がある。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲、上州雷電神社の造営にも携わった名家だ。彫刻は羽生市指定文化財になっている。
本殿の西、北、東面羽目板には、「七福神、神功皇后縁起、大蛇退治、八幡宮地形つき」のテーマの彫物がある。八幡宮地形つきは、本殿建設工事の様子を表したもので、人々の表情がなんともいきいきとしている。テーマ的には他に類を見ないユニークなものだ。彫工は石原恒蔵主計(3代石原常八)。また拝殿棟札には市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名がある。
指定文化財 須影八幡社彫刻(彫刻 羽生市指定第26号 昭和44年3月20日)
この八幡神社は。「新編武蔵風土記稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九石五斗余を賜う、」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見えます。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営したものです。
本殿の壁面には西、北、東の3面に彫刻が2つずつ残されています。西側は「七福神」、北側は「神功皇后縁起」、東側は「大蛇退治」と「八幡宮地形つき」を主題としています。「地形つき」は、本殿の建設工事の様子を表したもので、写実的に精巧に作られており、そこに出ている人は、本人に非常によく似ていたといわれています。
棟札によりますと、拝殿は安政五年(1858年)に再造され、棟梁として当所の清水仙松や三村若狭正利の名前が見えます。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲しており、市内常木の雷電神社や板倉町の雷電神社の造営に携わるなど著名です。彫工のなかには、市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名前も記されています。
おのおのの彫刻の大きさは、縦1メートル、横2.1メートルです。
羽生市教育委員会
案内板より引用
社殿奥にある境内社産泰神社と庚申塔 境内社 稲荷神社
須影八幡神社が鎮座する羽生市須影地区は羽生市の南端に位置する。羽生市は古くから利根川の乱流の最も甚しい地帯で、自然堤防、河畔砂丘が存在し、一様な平坦でなく、高い部分を畑・宅地に使い、湿地を水田等に利用してきた。須影地区南方には利根川の旧流路の一つである会の川が流れているが、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だった為に沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。
この河畔砂丘とは、利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された独特の地形であり、それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。とりわけ須影地区南方にある志多見砂丘は延長が3Kmにも及び大規模である。
須影八幡神社の祭神に菊理姫命(ククリヒメノミコト)がいることも注目に値する。この菊理姫命は別名白山権現、白山明神、白山比咩(しらやまひめ)神と呼ばれているが、日本書紀では一箇所に登場するのみ。イザナミ、イザナギが夫婦喧嘩したときに仲裁したとしか書かれていない謎に包まれた国津神である。
菊理姫神は、加賀の霊峰白山を御神体とする白山比売神社の祭神で、古来、人々から「いのちの親神」と崇敬されてきた女神である。 一説に白山神は大山祗神ではないかともいわれるように、菊理姫神はその本源として山の神の神格を持っている。 同時に山は神霊の宿るところ。 山は水源であり、その水泊だって水田を潤し穀物を実らせる。 それ故に農業の守護神としてそのパワーを発揮する神ということになる。
前段にて伊弉冉尊に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこで伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。
神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。