古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西大沼伊勢之宮神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市西大沼300
              
・ご祭神 天照大神 豊受大神
              
・社 格 旧西大沼村鎮守 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 316日 春季祭 415日 例祭 113
                   
新嘗祭 1216
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2026243,139.2710281,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線で深谷市街地方向に進み、深谷市役所を過ぎた「田所歩道橋」交差点を右折、500m程北行すると、左側に西大沼伊勢之宮神社が見えてくる。
 社殿は東向きで、境内南側には社務所もあり、そこには広い駐車スペースも確保されている。
        
                 西大沼伊勢之宮神社正面
 深谷市・西大沼地域は、櫛挽台地先端部と上唐沢川左岸低地との境に位置する。標高は35m。中世は大沼郷のうちで、のち大沼村となるが、「郡村誌」では寛永2年(1625)東大沼村・西大沼村に分村したという。東は東大沼、西は曲田(まがつた)、南は萱場等の各地域に接している。『新編武蔵風土記稿 西大沼村条』では深谷領に所属。文明9年(1477526日の県道忻書状(鑁阿寺文書)によれば、道忻は県式部丞の病気平癒祈願のため「大沼郷之内橋本給分」を下野鑁阿(ばんな)寺(現栃木県足利市)に寄進したと「三島同宿中」に報じている
『新編武蔵風土記稿 西大沼村条』
 大電八社 村の鎮守にて八色雷大電八と唱、八色の雷神を祀し社なりと云、村持、
 伊勢内宮 村民持、
 伊勢外宮 西福院持
 西福院 新義眞言宗、針ヶ谷村弘光寺末、玉寶山と號す、古は庵なりしと云、本地藏を安ぜり、
        
              入り口付近に設置されている案内板
 伊勢之宮神社
 当社の創建は明らかではない。
「風土記」に「伊勢内宮 村民持、伊勢外宮 西福院持」と、あることから、かつては二社であったと考えられる。今日のように一社となったのは、明治時代初期のことと思われる。
 明治四十五年、萱場の稲荷神社、東大沼の神明社、御嶽神社、曲田の神明社、稲荷神社、八幡神社、及び西大沼の大電八社等を合祀し、社名を神明社から伊勢之宮神社と改めた。
 西大沼村以外にも、上敷免村・東大沼村・曲田村・山川村・それに田谷村などには、一様に伊勢内宮・同外宮・大神宮・神明社などと称して伊勢神宮が勧請されている。これらはすべて伊勢の御師の影響と思われる。
 なお、田谷村の名の起こりは、この御師がお祓大麻を檀那に配るために構えた宿舎に由来するともいわれている。
 平成十四年十二月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用

        
         案内板の奥にある「紀元二千六百年記念伊勢之宮神社合祀碑」
 紀元二千六百年記念伊勢之宮神社合祀碑
 神祇崇敬は肇國に基址にして之か祭祀は臣道の根幹なり。當社は元無格社神明社と稱したりしが明治四十五年一月二十四日當町大字萱場字池頭村社稲荷神社、大字東大沼字北村社御嶽神社、字新屋敷無格社神明社、大字曲田字六反田耕地村社稲荷神社、字下耕地無格社八幡神社、字櫻町耕地無格社神明社、大字西大沼字花小路村社八電八社の七社を合祀し又當大字緑小路無格社八坂神社を當境内に移轉し、同時に大字東大沼字北村社御嶽神社境内社岩戸神社、八坂神社、塞神社、字明間田無格社藏王者を合祀し村社に昇格して社號を伊勢之宮神社と改稱す。同日民有地七百五十七坪を官有地に組換え境内に編入の上境内施設を整備し大正五年三月二十八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。斯して神社祭事の歸一及び民心の統一を期せり。然るに昭和十二年七月支那事變勃發するや皇軍連戰連勝偉大なる戦果を収むること茲に四星霜時恰も紀元二千六百年に遭う。乃ち當社氏子崇敬者胥謀り悠久たる皇紀を慶祝し之を記念するに、當社合祀の縁由を鐫して後昆に傳えんとす文を予に囑せらるるに及び筆を執りて梗概を叙すと云爾(以下略)
                                       碑文より引用
        
            参道の右手には「
神社改修記念碑」がある。
 神社改修記念碑
 当社は大里郡神社誌によれば大里郡深谷町大字西大沼字伊勢之宮三百一番地ノ二に在り、明治四 十五年一月廿四日八柱を合祀して村社に昇格の上村社伊勢之宮神社と改称した。
 伊勢之宮神社の祭神は大日霊貴命、豊受毘賣命、天照大御神、譽田別命、稲倉魂命、日本武命、大山祇命、別電命の八柱で当地の鎮守として御神徳高く氏子の崇敬日に篤きを加えたが、第二次大戦後は国民の敬神の念うすれ年と共に境内地は荒廃し合祀当時の建築と思われる社殿も亦幾星霜を経過して腐朽の著しいものがあった。奉賛会長中島宗市氏は氏子の安泰と国家の隆盛発展は先ず敬神観念の昂揚からとの信念で奉賛会役員と鳩首会議の上、境内整備と社屋の修理を発起し奉賛金六百八拾八万円を以って拝殿の修理をはじめ社号額の奉納、水屋の新築、更に社務所を移転改装し物置の新設ブロック塀の構築及び神域の整備等に着手し、昭和五十四年三月起工し昭和五十四年十二月二十五日めでたく竣工した。
 ここに氏子並びに関係各位の絶大な御援助御協力に対して衷心から感謝の意を表し併せて其の大要を記し後世に伝える(以下略)
                                       碑文より引用

       
                            参道の先に神明系の鳥居がある。
 深谷市西大沼地域は、寛永2年(1625)に東西の両村に分村される前までは「大沼村」といった。大沼の地名は、かつて利根川が氾濫を繰り返し、沼や沢が造られた地形の名残という。
 柳田国男氏の地名研究によれば、「沼」を名とした土地は沼によって耕地を開いたことを意味する。人々が沼に着目したのは、一つに天水場と違って水が涸れてしまうことがないこと、もう一つは要害の便があることを挙げ、小野や谷(や)について、新しい農民がこの方面に着目したことを意味すると述べている。このようなことから「沼」の地名が付くところは、水田耕作民たる私達の祖先の足取りを語るものとも言えよう。
       
                                    拝 殿
 この大沼地域は、南側に櫛挽台地が広がり北側には妻沼低地が形成されているその境にあたり、櫛挽面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達していたと考えられていて、嘗てはその名のとおり湿地が多く点在し、旧石器時代の遺跡も少ないと思われてきた。
 しかし西大沼地域北側で見つかった「花小路(はなこうじ)遺跡」の発掘により、旧石器時代の石器、平安時代の掘立柱建物跡五棟、竪穴式住居跡六棟、中世の溝などが確認された。特に旧深谷市域では東方の幡羅遺跡に次いで2点目となる旧石器時代の遺跡が発見されたのは注目に値する。
 この遺跡では、古墳時代から奈良時代までの遺構・遺物が全く確認されていないが、平安時代の遺構は充実しており、廂を持つ建物は特に注目され、炭化米も出土しており、富を蓄えた有力者の居宅であったものと思われている。
        
                     本 殿
 中世には榛澤郡藤田庄に属していて、室町時代・深谷上杉氏の頃は、家臣大沼弾正忠の所領であった。深谷中学校南の西蔵寺は、大沼氏が開基創建したもので、この寺一帯が大沼館跡と推定されている。
 この大沼館跡は、深谷城の北西側で500m程の地点に所在していて、その距離の近さや、大沼氏と深谷上杉氏の主従関係を考えた場合、城下の重臣の屋敷を兼ねた出城のような存在であったかもしれない。
「大沼氏」は系統として残されている文献では「猪俣党岡部氏流大沼氏」及び「藤原姓大沼氏」「武田氏流大沼氏」3系統といわれている。

猪俣党岡部氏流大沼氏」
・秋元家藩臣秘録
「御譜代深谷衆七騎之内・大沼友左衛門。武州深谷新田と云所あり、先祖の旧跡にて、先祖岡部弾正と云。岡部六弥太忠純の後胤に今武州岡部駅に岡部六左衛門と云者あり。当時大沼弾正は岡部を改め大沼と名乗る」
大沼主馬。岡部六弥太忠純の三男岡部小五郎純憲より十一代の後裔岡部加賀守忠重なり、忠重代に岡部深谷大沼と云所へ移りてより右を以て名字とす、今に大沼村と云。忠重嫡子大沼外記忠宗、忠宗嫡子大沼弾正、次男大沼八郎兵衛は最上義光に仕、三男弾正左衛門は会津合戦に討死す、四男縫殿介嫡子大沼越後忠矩、忠矩嫡子大沼主馬忠興代より秋元家に仕ふ」

藤原姓大沼氏」
・新編武蔵風土記稿東大沼村条
古は上杉の家人大沼弾正忠藤原繁忠の所領なり。村内西蔵寺に墓あり、表に西蔵院殿従五位下弾正忠明安鳳誉居士・慶長十一丙午年十月二十五日、左に大沼弾正忠藤原繁忠、右に弾正忠八代孫大沼友左衛門忠賢とあり。この友左衛門は秋元左衛門佐が臣にして、近き頃当所に建しと云。村の北の方に屋敷跡あり」

武田氏流大沼氏」
大里郡神社誌
「榛沢郡上手計村二柱神社別当大沼院は、深谷城主上杉公の家臣大沼弾正忠繁の祈願所にて、恒例に依り同城へ年賀登城の際酒宴の席上礼を失し、弾正の怒に觸れ恐れて城内を逃出したるも、大雪の為め歩行意の如くならずして、困り居たるに、殿は乗馬にて追跡し遂に上手計村栗田家の門松の陰にて手打になりて斃れければ、遺骸を同地先へ埋葬せるに院の妻亦自害して失せけり。別当大沼家系図に依れば、其祖は晴信号信玄にして、其子信繁は永禄四年川中島に於て戦死せしものとあり。其子信連は大沼大和守と称し、其後大沼内膳正春は正保四亥年五月十八日病気に因り田舎に住す。後に大沼将監勝義は寛文三年十一月二日武州榛沢郡藤田庄櫛引の里(上手計村)に住居すと記載あり。是より後修験道に入り大沼院と称せしものの如し。当社参道の右側鳥居先宅地二畝二十一歩は旧別当大沼家の屋敷跡なり。明治三年復飾し大沼主馬・神主となる」
 
  社殿左隣に祀られている境内社・八坂神社  社殿右側には庚申塔や大黒天等が並んでいる。
       
             境内の隅に屹立するご神木(写真左・右)
        
                        街中にありながらも静かに佇む社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「熊谷Web博物館」
    「花小路遺跡」「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等
 

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