今宿八坂神社
鳩山町は嘗て奈良時代に須恵器や瓦などの窯業の一大産地として栄えた。武蔵国国分寺の瓦を焼いた窯跡など多数の窯跡の遺跡が出土している。(南比企窯跡群)また8世紀前半と推定される小用廃寺の遺跡等から、早くから渡来文化・仏教文化を持った人たちが住んでおり、関東の古代寺院建立を担っていた人たちがいたことが伺われる。
平安時代後期から中世にかけて荘園が発達すると、年代や領主は詳細不明だが町内の地域の大部分は東松山市南部の早又・正代・宮鼻・高坂・元宿・下青鳥・石橋・岩殿・毛塚・田木・神戸と併せ、亀井庄になっていたようである(「新編武蔵国風土記稿」)。さらに鎌倉時代に鎌倉街道上道が整備されると、軍事上の要衝・宿場町や、材木の中継地として賑わいを見せた。「今宿」という地名は越辺川対岸の苦林宿の新興地という意味からきているという。
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町今宿503-2
・ご祭神 須佐之男命
・社 格 旧村社
・例祭等 例大祭 7月24日に近い土・日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9694427,139.3403141,18z?hl=ja&entry=ttu
嘗ては越生街道と呼ばれ、東松山市から入間郡越生町に至る埼玉県道41号東松山越生線を越生町方向に進む。途中経路は葛袋神社・神戸神社を参照。神戸神社を過ぎてから上記県道は南西方向に進行方向が変わり、3.5㎞程先で同県道171号ときがわ坂戸線との交点である「大橋交差点」に達し、そこからは171号線に沿って鳩山町市街地方向に南下する。鳩山町役場を過ぎた先の「今宿交差点」を右折し、200m程行った十字路を左に曲がると今宿八坂神社が見えてくる。
今宿八坂神社正面
民家が立ち並ぶ一角に静かに佇む社
今宿地域は越辺川の左岸に位置する。「今宿」は『新編武蔵風土記稿』によると、嘗ては赤沼村と同じ一村を成していたが、元禄年間に二村に分かれたという。「民家四十、連住して宿駅に似たれど、馬次の所にもあらず、少の河岸場ありて近郷の材木・薪等を爰にて筏とし、江戸ヘ出せるをもて土地賑へり」と記載されている。
地域名「今宿」は、越辺川対岸にある「苦林村の「古宿」に対する名称という。中世には鎌倉街道(上道)が通り、近世にも武蔵八王子などと上州方面とを結ぶ往還として利用されたという。
境内左側にある神楽殿
神楽殿の右側に設置されている「八坂神社祭囃子」の案内板(写真左)。この祭囃子の始まりは江戸時代の寛文3年(1663年)と古く、町の指定無形文化財となっている。
また神楽殿の左側には倉庫があり、山車が保管されているのであろう(同左)。
町指定無形文化財 八坂神社祭囃子
この祭囃子は、寛文三年(一六六三年)京都の八坂神社を勧請して、悪病の退散を祈り祭祀したのが、その始まりとされる。以来、毎年七月の〇大祭には、神輿、山車、獅子の渡御があり、悪病除として近在からの参詣者も多い。囃子は京都の祇園囃子風の神田大橋流の旧囃子で、曲目は、「祇園囃子」「屋台」「にんば」「鎌倉」「数え唄」「子守り唄」などがある。現在保存会を結成し後継者の育成を行っている。
昭和五十二年五月十八日指定 鳩山町教育委員会
案内板より引用
拝 殿
社伝によると、当社は寛文一二年(一六六三)に京都の八坂神社から勧請したという。古くから諸人の出入が多く、度々悪病が流行したことから、その退散を祈って奉斎したものである。
『風土記稿』は、地内の神社について「熊野社 村の鎮守なり、天神社、天王社、以上は村民持」と記しており、熊野社が鎮守であったことがわかる。しかし、明治初年の社格制定では熊野社に代わって当社が村社に列した。この鎮守の交替は、当社が疫病退散という熊野社よりもより切実な信仰から祀られていたことがその要因であろう。
明治四十二年に字安養寺の天神社と住吉社を合祀した。更に、昭和十三年にはやや北方の現在地に遷座した。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
境内の隅で道路沿いに屹立する大木(写真左・右)
街中ゆえに社叢林はほとんどないが、やはり社には大木・巨木はお似合いであろう。
拝殿からの一風景
参拝当日は生憎の雨であったが、社にはそのしっとり感が良く似合う。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内案内板」等