古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平沢白山神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町平沢9682
            
・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菅原道真公
            
・社 格 旧平澤村鎮守・旧村社
            
・例祭等 113日 99
     
*例祭日…113日は「武蔵国郡村誌」、99日は「菅谷村の沿革」を参照
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0502142,139.3037822,16z?hl=ja&entry=ttu
 志賀八宮神社から一旦国道254号線・嵐山バイパスとの交点に戻り、そこを左折する。国道を750m程南東方向に進み、「平沢」交差点を右折、その後350m程進んだ進路方向右側に平沢白山神社の鳥居が見えてくる。
志賀八宮神社からはこの社まで、南方向で、直線距離でも760m程しか離れてない。
        
                  平沢白山神社正面
『菅谷村の沿革』での武蔵国比企郡平澤村の解説によれば、
地勢 西北山岳ヲ賓ヒ南面傾斜シ東一方田地多シ。北隅ヨリ入、村ノ中央竪切リ、東方菅谷村ヘ至ル秩父往還及東京縣道アリ。埴土多ク通路困難。地内ニ二ケ所坂路アリ。水旱両害アル地ナリ。
所属 古ヘ枩山領(まつやまりょう)、玉川郷(たまがわごう)、大河原ノ庄(おおかわらのしょう)ニ属ス。明治五申年(1872)二月大小區ヲ置キ六大区四小区ト称ス。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ヲ置キ、同年十七年(1884)
七月本村外八ケ村ヲ以テ菅谷村聯合戸長役場ヲ置ク、
と記されている。因みにこの『菅谷村の沿革』は、埼玉県撰の村誌といわれ、明治八年(1875)六月、太政大臣三条実美の示達に基いて県が調査編纂し、地理寮に提出したものの複本という『武蔵国郡村誌』作成のため、村々が調査・記述した資料を県に提出した際、各村にはその複本が保管されており、町村制施行により菅谷村が発足した後、それらの複本が集められ加筆・修正等をされて出来上がったものが、この「菅谷村の沿革」ではないかと考えられている
 
 鳥居を過ぎ、石段を登った正面にある不動堂     不動堂から更に石段を登ると拝殿が見える。

 いつも利用させて頂いている『日本歴史地名大系』での 「平沢村」の解説によれば、「千手堂村の北の山地・丘陵部に位置し、東は菅谷村、北は志賀村。玉川領に属した(風土記稿)。中世には菅谷(須賀谷)から北上する鎌倉街道上道が通っていた。「吾妻鏡」文治四年(一一八八)七月一三日条に「武蔵国平沢寺」とみえ、当地の平沢(へいたく)寺院主職に永寛が補任されている。長享二年(一四八八)、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の抗争は本格化し、顕定方にくみした太田資康は当地に張陣した。同年八月一七日、万里集九は「須賀谷之北平沢山」に入り、資康の軍営を訪れている」と記されている。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平澤村』
 七社權現社
 村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合殿して、七社と號す、されど古は白山のみの社にや、【梅花無盡蔵】の詩社頭月の自註云、九月廿五太田源六於平澤寺鎮守、白山の廟詩歌會、興敬壘相對、講風雅叶西俗無比様と、その詩に、
一戰乗勝勢尚加、白山古廟澤南涯、皆知次第有神助、九月如春月自花、
依て按るに、古へ平澤寺の鎮守白山は、當社のことにて熊野三嶋を合せ、今七社と號するは、長享より後のこと知べし、
『武蔵国郡村誌』
 白山社 村社々地東西六間三尺、南北十一間、面積六十二坪、村の西方にあり。伊弉諾尊を祭る。祭日一月十三日
『菅谷村の沿革』
 白山神社
 所在 村ノ西方字入
 祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
 社格 村社
 創建年月日 末詳
 祭日 九月九日
 氏子 四十六戸
 末社 熊野三社、三嶋神社
 現任宮司若クハ祠官ノ名 高坂榮衛
 雑 古ハ熊野三社、三嶋三社、白山一社合殿シテ七社ノ権現ト唱ヒ平澤寺ノ地中ニアリシヲ、神佛混淆スルヲ以テ御一新ノ際今ノ所ニ移シテ改殿シ悉ク末社ニ付ス
 
      拝殿に掲げてある扁額         社殿左側に鎮座する境内社・天神社
 平沢白山神社の創建年代等は不詳ながら、吾妻鑑の文治四年(1188)の条に、武蔵国平澤寺の院主に求寛という僧が任ぜられたと「風土記稿」に記してあり、当社はこの平澤寺の鎮守として創建されたと伝えられている。
平澤寺は、永正年間(1504-1521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後一時的に廃寺となり、本山派修験の持正院が地内に移り住み、当社の別当となった。
『新編武蔵風土記稿』に当社は「七社権現社村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合祀して、七社と号す、されど古えは白山のみの社にや(以下略)」と記されている。恐らく熊野社は持正院により勧請されたのであろう。明治に入り、社名も白山神社に復し、明治四十三年に現在の高台に移され、四年後に社殿が新築された。本殿北側にある石祠は、往時の社であるといわれている。
        
                        社殿北側にひっそりと祀られている石祠
                  元の白山社であるという。

『日本歴史地名大系』「平沢村」の解説で登場する太田資康(おおた すけやす)は、扇谷上杉家の家臣・武蔵国江戸城主太田備中守道灌(資長)の嫡男である。
文明18年(1486年)、父が扇谷上杉家当主である上杉定正に謀殺されると資康は江戸城に戻って家督を継ぐが、定正の追っ手に攻められて甲斐国に逃れる。
長享2年(1488年)、定正と山内上杉家・上杉顕定の間の内紛・長享の乱が勃発すると、同じく定正に追われていた三浦高救(定正の実兄)と共に顕定軍に加わった。これが縁で後に高救の孫(義同の娘)を室とした。この頃、生前の道灌と親しい万里集九が資康の見舞いに訪れて句会を開いている。
 そしてこの平沢の地が、埼玉県指定旧跡である「太田資康詩歌会跡」といわれている。

 埼玉県指定旧跡 太田資康詩歌会跡
 太田源六郎資康は太田道灌の子である。道灌は、江戸城築城等で知られる知将であったが、扇谷、山内両上杉氏の争乱の犠牲となり暗殺されてしまう。/資康は、父の仇敵上杉定正を撃つべく、この地平澤に布陣したという。
 その時、道灌の友であった詩歌の大家で元京都相国寺の僧、漆桶萬里集九は、はるばるこの地を訪れた。時に長享2(1488)817日であった。/萬里が陣中に36日滞在したとき、資康は、萬里のために送別の詩歌会を敵と対峙しながらここ白山神社で催した。/その詩歌会で萬里は社頭月と題し作詞したことが梅花無尽蔵という書に次のように残っている。
 一戦乗勝勢尚加 白山古廟沢南涯
 皆知次第有神助 九月如春月自花

        
                   社殿からの様子
 明応3年(1494年)、定正が事故死し、舅・三浦義同が相模三浦氏の家督を奪還すると、資康も扇谷上杉家への復帰が許されて新当主である上杉朝良に仕える様になった。初め菅谷城に居たが、長享の乱が終結した永正2年(1505年)頃に江戸城へと帰還したという。
 永正10年(1513年)、舅・三浦義同が伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められると援軍に駆けつけるが、相模国三浦郡にて早雲の軍勢に敗れ戦死したとされる。一説には資康の勢力を疎ましく感じていた主君・上杉朝良によって謀殺されたとも言われており、その年次も明応7年(1498年)・永正2年(1505年)などの異説が存在する。 
        
                       平沢白山神社に隣接している平澤寺
 天台宗寺院の平澤寺は、成覺山實相院と号し、当寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に「文治四年七月十三日丁未、武蔵國平澤寺院主被付」とあり、文治4年(1188)には、不動明王を本尊とする有力寺院だったと伝えている。永正年間(15041521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後廃寺となっていた当寺を、慈光寺住職重永(寛永91632年寂)が天正年間(15731592)に中興したという。
 旧本尊の不動明王が奉安される不動堂は、覺長(永禄8年・1565年寂)が創建したと思われる修験持正院が、明治中期まで別当として管理、慶安2年(1649)には65斗の御朱印状を受領していた。当寺所蔵の経筒は、享保年間に長者塚から掘り出されたもので、埼玉県有形文化財に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「嵐山Web博物館
    「Wikipedia」「平澤寺内案内板」等

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