志賀八宮神社
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町志賀1512
・ご祭神 天照大神御子五柱命・月読命御子三柱命・下照姫命
建御名方命・保食命・素戔嗚命
・社 格 旧志賀村鎮守・旧村社
・例祭等 祭日3月15日・9月19日 天王様 7月6日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0515036,139.3084399,18z?hl=ja&entry=ttu
東武東上線武蔵嵐山駅から菅谷神社方向に南下し、一旦国道254号線・嵐山バイパスとの交点を右折し、小川町方向に進路をとる。その後右手にベイシア嵐山店が見えるすぐ先の交差点を右折し、東武東上線の線路を潜り、丁字路を左折すると、正面に森の覆われた小高い丘陵地面に達し、そこから細い路地に入ると志賀八宮神社の社殿が見えてくる。
志賀八宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「志賀村」の解説
菅谷村の北にあり、村域は市野川右岸の低地・丘陵部を占める。北は同川を隔てて杉山村。村内を南北に川越秩父道が通る。古くは四ヶ村・志ヶ村・鹿村などとも記した(「風土記稿」など)。地名の由来は、河岸・川畔にみられる砂地を表す言葉「スカ」が転訛したものという説もある(埼玉県地名誌)。「風土記稿」では寛文年間(一六六一―七三)に菅谷村から分村したといい、「菅谷村の沿革」に寛文五年の検地帳がみえることから、同年頃の分村と考えられる。
確かに筆者も『新編武蔵風土記稿 志賀村』を確認してみたところ、「村名古へは四ヶ村と書たりしと、いつの頃より今の文字に改りしとは云は詳ならず」と「四ヶ村」の表記があり、『武蔵国比企郡村誌 巻之七 志賀村』にも「元菅谷村と一村たりしが寛文(かんぶん)の頃分れて二村となり四ヶ村と称せしか後今の文字に改む」と同じような内容であった。但しどのような経緯で「四ヶ村」という村名となったのかについては確認できなかった。
対して「志ヶ村」「鹿村」に関しては名称自体、確認に至らず。
鳥居の先にある石段を登り終えた先に拝殿が鎮座。
鳥居の南側正面には東西に走る東武東上線の線路があり、時折電車が走る音こそ聞こえるものの、志賀地域の集落からは離れていて、また山の中腹に鎮座している地形から、境内一帯は静かで落ち着いた雰囲気が漂う。
石段右側に祀られている「大国主大神」の石碑等
石段を登るその中段付近で、段右側に鎮座している境内社。
社名を記した木札等が無く、詳細不明。
拝 殿
拝殿の社号額には「「志賀神社 五柱大神」と表記されている。
『武蔵国郡村誌 志賀村』
八宮社 村社。社地東西二十一間南北十七間、面積百五十坪。村の坤(ひつじさる)の方にあり下照姫命(したてるひめのみこと)を祭る。祭日三月十五日、九月十九日
本村は元五社明神と唱ひ、村民五組分れて氏子となる。明治五年(1872)八月舊入間縣に出願許可を得て今の八宮社合併ス。則天照大神、保食神、諏訪明神、上、下照月女の命の二神を以て五社明神と唱ふ故に五柱大神と尊号す、
『神社明細帳 八宮神社』
従前五社明神ト唱ヒ五ヶ所ニ鎮座在ス明治五年(1872)八月旧入間縣廳ニ出願許可ノ上合併明治四年中(1871)村社届濟、
明治四十五年(1912)三月二十七日同大字字北町裏無格社八雲神社ヲ本社ニ合祀ス、
本 殿
修繕工事中であったらしく、入り口鳥居付近には、多くの工事関係者がいた。
社の東側にある「志賀の庚申塔」
志賀の庚申塔
今から二八一年前の元文五(一七四〇)年の秋、徳川吉宗の時代の直後に、武蔵国志賀村下宿(しもじゅく)の百姓たちが、庚申様の石仏(石塔)を建てました。庚申様は、インドの猿の神様が中国を経て日本に渡来した民間信仰です。鎌倉時代、猿は馬の守り神で、武士の館に飼われていました。村人は庚申様を供養して五穀豊穣などを祈願し、「お日待」をして親睦を深めました。
元文五庚申十一月吉祥日
武州志賀村下宿講中
令和三(二〇二一)年三月二八日修復 志賀一区
「案内板」より引用
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「GO! GO! 嵐山3 HP」「庚申塔案内板」等