古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

遠山八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町遠山263
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧遠山村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春季・秋季例祭 4月・113
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.0397861,139.2877655,16z?hl=ja&entry=ttu
 小川町・下里八宮神社から蛇行する槻川沿いに通る道路で、2.6㎞程進むと、進路方向左手に遠山八幡神社が見えてくる。
 ときがわ町の田黒日枝神社からもこの社は近く、田黒日枝神社沿いで南北に通っている道路を北上し、槻川に架かる谷川橋を渡ったすぐ先の丁字路を左折し、南西方向に750m程進むと進路右手に遠山八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 
境内東側に駐車可能な駐車スペースも確保されているので、参拝前の心配事もなく、安心して散策に望める。
        
                  遠山八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「遠山村」の解説
 外秩父山地東縁の山地に囲まれた槻川左岸に位置する。東は千手堂村・平沢村、西は下里村(現小川町)。交通不便で周囲から遠い山中にあることが地名の由来という(嵐山町誌)。
 玉川領に属した(風土記稿)。田園簿では田高一三石余・畑高三五石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の御縄打水帳(杉田家文書)によると高七九石余で、反別は田一町九反余・畑一〇町余。名請百姓は二三名おり、寺一。一戸平均の所持田畑は五反ほどであった。
       
                        石段を登り終えた先に社殿は鎮座している。
         社は槻川の左岸段丘上の狭い平坦地を望む山麓に鎮座している。

日本歴史地名大系』による「遠山村」の解説において、交通不便で周囲から遠い山中にあることが「遠山」の地名の由来という。
 加えて社の鎮座地の小字は「蛇跡」。何と読むかも皆目見当もつかないが、地形を鑑みるに、槻川は下里地域から流れが南西方向に変わり、同地域南部でまた流れを東方向に大きく変化して、嵐山渓谷方向に蛇行しながら流入している。
 槻川は清流で有名だが、一度洪水になると、暴れ川に変貌したという。当然、河川流路も変わったのであろう。そして氾濫後の旧河川の跡地を「蛇跡」と命名したのであろうか。
 因みにこの地域内には「蛇谷」という小字も存在していて、他にも「滝守・井上・中沢・茗荷沢」という河川に関連している小字もある。
 
 鳥居手前右側に立つ社郷標柱。その並びに祀られている大黒天と聖徳皇太子の石碑(写真左)。
                        石碑の拡大写真(同右)。
       
                                       拝 殿
 八幡神社 嵐山町遠山二六三(遠山字蛇跡)
 遠山の地は山間の盆地である。地名は他地域との交通が不便で、周囲から隔たった遠い山中の意に由来する。当地の南西方、槻川を隔てた丘陵上には戦国期、小田原北条氏の家臣遠山右衛門太夫光景の居城と伝える小倉城跡がある。当地も同氏の所領であった。
 当社はこの遠山氏にかかわる社と考えられ、隣接する曹洞宗遠山寺は天正八年(一五八〇)に光景が父政景の追福のために中興開基したと伝えられている。当社もこのころには既に祀られていたものであろう。ちなみに北条氏滅亡後、遠山氏の子孫は山下を名乗ってこの地に土着したと伝える。
『風土記稿』には「八幡社村の鎮守なり、遠山寺持」と記されている。最も古い史料としては「八幡宮増成就・宝永六年(一七〇九)十二月廿日・武州比企郡遠山村」と刻む石碑が残されており、この年に参道石段を築いたことがわかる。
 神仏分離によって遠山寺の管理下から離れた当社は、明治四年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用 

             
                  拝殿から見た風景
『新編武蔵風土記稿 田黒村』
 田黒城は村の北の方にて、小名小倉の内にあり。遠山右衛門大夫光景が居城と云ふ。西方二町許の地にして、東北の二方は、都機川、槻川の二流に臨み、西南は山に添ひて頗る要害の地なり。光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年五月卒せし人なれば、爰に住せしも、元亀天正の頃なるべし、

『新編武蔵風土記稿 遠山村』
 八幡社 村の鎮守たり、遠山寺持、
 遠山寺
 曹洞宗、上野國緑野郡御嶽村永源寺末、長谷山と號す、寺領十石の御朱印は慶安二年賜ふ所なり、開山は漱怒全芳永正十五年十二月十五日示寂、開基は遠山右衛門大夫光景と云、過去帳を見るに、當寺開基無外宗關居士、其父政景也、天正八年三月廿三日開基桃雲宗見大居士、遠山右衛門大夫藤原光景、天正十五年五月廿九日とあり、按に此二人ともに開基とのせ、宗關居士の下に此父政景也とあるによれば、其實光景が父政景の追福のために、當寺を草創して父を開基とせしを合せて、二人共開基と記せるに似たり、又開山の寂永正十五年なれば、是も勧請開山なるべし、又按に隣村田黒村に、遠山右衛門大夫光景が城蹟と云地あるを以考れば、當時此邊彼が所領なりしこと知らる、光景が事蹟は他の書に所見なけれど、此人も甲斐守綱景の等の一族にて、共に北條氏に仕へし人なるべし、
 鐘。本堂の軒に掛く銘文中に遠山右衛門大夫光景家臣杉田吉兼と云者、大檀那として鑄造せし鐘なりしが、彼破壊せしにより、元禄十一年當寺十一世(山へんに圭)峻和尚の代に再造せしことを載す、

        
                             遠山八幡神社遠景

 武蔵遠山氏(むさしとおやまし)は、藤原利仁を祖とする加藤氏一門・美濃遠山氏の明知遠山氏の一族で、後北条氏家臣として、江戸城代をつとめた。
 元は室町幕府に出仕し、足利義材(後の義稙)の家臣で、奉公衆であったとも伝えられる。
 伝えによれば、大永年間(1521年~1528年)美濃国恵那郡遠山荘の明知城主の遠山景保の子の武蔵遠山氏初代にあたる遠山直景は明知城を親族に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き北条早雲の配下に入ったとされる。
 元々この直景と早雲は、同じく幕府に申次衆として出仕していた伊勢新九郎(後の北条早雲)と親密になったと考えられており、遠山氏と同じく関東に下向して重用された。彼は江戸城代の地位を与えられ、息子の綱景と共に後北条氏の重臣として活躍した。『小田原衆所領役帳』によれば、比企郡野本(現・東松山市野本)・入間郡苦林(現・毛呂山町苦林)などに領していた。
 永禄7年(1564年)第二次国府台合戦で綱景が嫡男の隼人佐とともに戦死したため、出家していた遠山政景が還俗し江戸城代を継いだ。『新編武蔵国風土記稿』では綱景死後の城代は、綱景の弟で小倉城に拠った遠山直親だとする。直親が江戸城に移った後、小倉城は遠山光景が入ったという。
その後、松山城の支城小倉城主遠山光景の子光房は、同城落城後に本名山下氏に復姓して、曹洞宗遠山寺隣の山下本家屋敷に帰農したという。

 嵐山町・遠山地域のような、小さい地域の中でも調べてみると、確かに深い歴史は存在する。だからこそ、社の散策はやめられないのだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「GO! GO! 嵐山3 HP」「Wikipedia」等
 

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