新井稲荷神社
旭地区は本庄市野最北端に位置し、北は利根川が流れ、地区全体が利根川の氾濫原で平坦地となっている。その中で「新井地区」は「山王堂」地区の西側にあり、共に直接利根川の左岸に位置していて、本庄市北端の地区でもある。
・所在地 埼玉県本庄市新井1
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧村社
・例 祭 例祭 2月11日 祈年祭 4月3日 大祓 7月23日
新嘗祭 12月8日
新井稲荷神社は国道17号を本庄市街地から上里町方向に進み、「小島」交差点を右折し、小山川を越えて道なりに北上する。「本庄旭小」交差点をそのまま進むと左右に「都島角折神社」「本庄市旭公民館」が見え、そこから250m程先にT字路があり、そこを左折すると、道路沿いすぐ右側に新井稲荷神社が鎮座する地に到着する。
社の左側は広い空間となっていて、お子様の遊具の邪魔にならない所に車を停めて参拝を行った。
田園地帯が広がる新井地区にあって、この新井稲荷神社周辺には住宅街が多くあり、北側利根川方向に目を転ずれば本庄利根工業団地も存在している。昔ながらの懐かしい青々とした垣根を伴った一軒家を見ながら、現代産業を担う工業団地や近代建築の住宅が入り混じった、不思議な空間を感じながらの参拝ともなった。
新井稲荷神社 正面
正面撮影を禁ずるとの看板表示があり、斜めから撮影。
新井地区は本庄利根工業団地もあり、烏川と利根川が合流するすぐ近くで、初め上野国(現群馬県)那波郡に属していたが、寛永二年(1625年)の利根川大洪水後の烏川の流路変更により、上野国から武蔵国に所属が変わった経緯があり、その為、旧家には上野国との関わり合いの深い家が多く、氏子の中で最も多い境野姓の本家も、上野国芝根村(現群馬県佐波郡玉村町芝根)からこの地に来たといわれている。
案内板 社号標柱の左側に並ぶ阿夫利神社石祠等
稲荷神社 御由緒 本庄市新井1
□御祭神…倉稲魂命
□御縁起(歴史)
新井の周辺地域は、初め上野国(現群馬県)那波郡に属していたが、寛永二年(1625)の利根川大洪水後の烏川流路変更により、武蔵国に所属が変わった。そのため、旧家には上野国とのかかわりあいの深い家が多く、氏子の中で最も多い境野姓の本家も、上野国芝根村(現群馬県佐波郡玉村町芝根)からこの地に来たといわれている。
稲荷神社は、古くから村の産土として信仰されてきた社である。創建の年代は定かではないが、当社には寛延三年(西1750)九月に京都の神祇官領長吉田家から受けた幣帛が安置されていることから、このころには既に現在のような形で祀られていたことが推測される。また「風土記稿」新井村の項に「稲荷社 鎮守なり、清淵寺持」と記されているように、江戸時代には真言宗の清淵寺が別当として当社の祭祀を行っていた。殿内装飾から神道護摩が行われていたかもしれない。
神仏分離によって、当社は清淵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。その後、政府の合祀政策に従い、明治四十五年に字御陣場の村社稲荷社を合祀した。同社の依代であった御幣は、当社に移されているが、これには「稲荷大明神 元禄八乙亥(一六九五)七月七日寄進 武州台河原 宮下新左衛門」の墨書がある。また、同年、字屯の無格社厳島神社、字御陣場の無格社琴平神社及びその境内社の大杉神社を当社境内に移転し、これらを境内社として祀るようになった。
案内板より引用
拝 殿
社殿後方にはたくさんの石祠や石碑が一ヶ所に集められていて(写真左)、天照皇大神・春日大神・八幡大神、蔵王大権現、大江神社、御嶽山神社、八海山神社、天野御中主神などの名が見られる。
また石祠、石碑群の右隣には境内社あり(写真右)。中には二基の石祠が納められているが、詳細不明。
案内板に紹介されている「境野氏」について調べてみると、
□境野氏
元は那波氏家臣の境野氏であり、今でも群馬県佐波郡赤堀町や群馬郡多野郡新町、伊勢崎市にもその氏は存在し、新井地区に多く今でも現存していて、古代以来の土着者とも言われている。またその氏は周辺地区、滝瀬地区や宮戸地区や深谷市・新戒地区にも広がりを見せていて、地域限定の一族でもある。
・武蔵国児玉郡誌
「大字新井の稲荷神社は、明徳年間に境野宗秀の創立せし社なり」
「三友河岸船問屋境野万右衛門。当村安政三年庚申塔に境野儀助。明治九年戸長境野儀八郎・文政六年生、副戸長境野重衛・文化五年生、副戸長境野佐平・文政十年生、立会人境野藤吉」
・明治二十一年皇国武術英名録
「山念流新井村境野新三郎・境野重三郎」