古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川田谷諏訪神社

 江戸時代後期に編纂された『新編武蔵国風土記稿』において、武蔵国足立郡の一区分として「石戸領」が挙げられている。この領の諸村は概ね牧野一族が幕末まで知行した地域となっていて、現在の鴻巣市・桶川市・上尾市・北本市のあたりで、以下の21か村となっている。
(*各村の持添新田については幕府領に組み込まれ、小林村のように他家の知行地となった村もある)
鴻巣市域 滝馬室村・原馬室村・小松原(原馬室村枝郷)
北本市域 石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・高尾村・荒井村・北袋村(荒井村枝郷)
桶川市域 上日出谷村・下日出谷村・川田谷村・樋詰村(川田谷村枝郷)
上尾市域 領家村・藤浪村・古泉村(藤浪村枝郷)・中分村・畔吉村・小敷谷村・小林村
        
(小敷谷村枝郷)・菅原新田
 石戸領の「本村」と見なされたのは石戸宿村であったが、牧野氏の陣屋は川田谷村に置かれていた。というのも、川田谷村には平安時代創建と伝える天台宗の古刹泉福寺があり、中世には三ツ木城(城山公園に名を残す)や武城などの城が築かれ、旧来の土豪層の勢力も依然として強く、牧野氏は陣屋に居住して知行地支配を行ったと考えられ事。また近世の川田谷村は東西14町・南北1里余の村域を有し、村高1200石を越える比較的大きな村で(元禄郷帳)あったことも挙げられている
 牧野氏の陣屋が置かれたのは村の北西部の天沼地域であり、『新編武蔵風土記稿』にも川田谷村に「陣屋」があることが記されており、編纂時には牧野永成の子孫である牧野成傑(大和守。長崎奉行などを務めた人物)のものであるという。
 2007年、国道17号(上尾道路)の建設工事に先立ち、陣屋跡周辺は「大平遺跡」として発掘調査が行われており、陣屋に関連する区画溝と、牧野康成の弟で、関ケ原の合戦での負傷を契機に僧侶となった易然(いねん)が建立した「見樹院(牧野康成の院号でもある)」に関連する遺構などが確認されている
        
             ・所在地 埼玉県桶川市川田谷6710
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧石戸領総鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 327日 春祈祷 41日 大祭82627
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0105776,139.5178763,16z?hl=ja&entry=ttu
 高尾氷川神社から東側にある埼玉県道57号さいたま鴻巣線に合流後、南方向に進む。同県道33号東松山桶川線との交点にある「荒井」交差点を更に南下し、1.6㎞程先の「川田谷(一場)東」交差点を左折し400m進むと、進行方向正面に鬱蒼とした社叢林が見え、その中心辺りに川田谷諏訪神社の鳥居が見えてくる。
 鳥居から100m程先にある「諏訪神社」交差点右側手前に駐車スペースがあるので、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                 川田谷諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「川田谷村」の解説
 上日出谷(かみひでや)村・下日出谷村の西にあり、両村と村境が錯雑する。東を江川が南流し、西は荒川を隔て比企郡表村(現川島町)。現在は河川改修によって一部が荒川西岸になっている。江川上流には浸食谷がみられ、谷津が発達して湧水池が多くみられる。応永四年(一三九七)七月二〇日の足利氏満寄進状(黄梅院文書)などにみえる「河田郷」の遺称地。永禄一一年(一五六八)二月一〇日の泉福寺海証状(中院文書)には「河田谷泉福寺」とある。
 天正一八年(一五九〇)九月七日の伊奈忠次知行書立(「牧野系譜」京都府舞鶴市立西図書館蔵)に「河田や」とあり、牧野康成に与えられた石戸領八ヵ村の一村。康成は北西の天沼に陣屋を構え(風土記稿)、孫親成の頃まで存続したとみられる。遺構は明治初年に削平されたと伝えられ、北から南に湿地が広がる台地の先端部に、現在も土塁と堀の跡をわずかに残している。石戸領は康成の没後、子の信成が継ぎ、正保元年(一六四四)信成が一万七千石に加増されて下総国関宿城(現千葉県関宿町)城主となると嫡男親成に与えられた。同四年に信成が隠棲し親成に後を譲ると、石戸領は信成に養老料として与えられた。
 慶安三年(一六五〇)の信成没後は石戸領五千石は分けられ、親成の弟旗本の尹成に二千石、同永成と成房とに各一千五〇〇石が与えられた(寛政重修諸家譜)。
             
                川田谷諏訪神社 社号標柱
        
                           鳥居前面に設置されている案内板
 諏訪神社御由緒  桶川市川田谷六七一〇
 □御縁起(歴史)
『風土記稿』川田谷村の項に、「諏訪社 社頭三石天正十九年賜ひし御朱印の文に足立郡河田谷郷の内とあり、石戸領の総鎮守なり」と載り、境内に建つ文化十三年(一八一六)の敷石供養塔にも「石戸領二十一ケ村氏子中」と刻まれているように、当社は古来、石戸領二十一か村の総鎮守として崇敬されてきた。この「石戸領二十一か村」とは、滝馬室・原馬室・原馬室枝郷小松原・上日出谷・下日出谷・川田谷・川田谷枝郷樋詰・菅原新田・領家・藤波・藤波村枝郷古泉・中分・畔吉・小敷田・小林・石戸宿・下石戸上・下石戸下・高尾・荒井・荒井村枝郷北袋の諸村である。
 鳥居に掛かる扁額の銘文によると、当社の社殿は天保八年(一八三七)七月に再建されたが、同十五年正月に火災に遭って全焼したため、氏子の各村相計り、社殿を再建した。『明細帳』によれば、明治六年に村社となった。祭神は建御名方命である。
 また、江戸時代には当社の西方五〇〇メートルほどの所にある天台宗の普門寺(山号は諏訪山)が別当であったが、神仏分離後は、地元の高柳家が神職となり、(中略)奉仕している。ちなみに、高柳家の祖は、北条家の家臣であったといい、兄弟でこの地に来て土着し、兄が本家、弟が分家(現社家)となったとの伝えがあり、代々当社への崇敬の念が厚い家柄であった。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                入口に建つ石製の一の鳥居
 正面一の鳥居から鬱蒼たる社叢林が続く。所謂「鎮守の森(ちんじゅのもり)」とは、日本において、神社(鎮守神)に付随して境内やその周辺に、神殿や参道、拝所を囲むように設定・維持されている森林であり、森を伴わない神社はほとんどないと言って良い。鎮守の森というのは、多くの神社を囲むようにして存在した森林のことで、「杜」の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」と読ませている例もあり、古神道から神社神道が派生したことが伺える。また、「社叢」と称されることも多い。
 ただ残念ながら完全に昔の植生を今に残している森はそう多くない。元々「神道」における自然崇拝の基本の一つに「自然物は神、その他の霊的存在の仕業とみて崇拝する対象」であったが、太平洋戦争後は国土開発の一環として、鎮守の森を含む多くの森林が伐採されたにより、かなり生態系を変えさせられたからだ。
 今では行き過ぎた開発への反省、過疎とバブル経済崩壊による土地不足の緩和・解消により、森林など緑地を保全・再生しようという機運が高まって、ナショナルトラスト運動などに繋がっている。鎮守の森についても、上記のような生態系保全という観点だけでなく、住民・観光客にとっての行楽や癒しの場、東日本大震災(2011年)で津波の勢いを減衰させた防潮林としての役割が注目され、維持・再生に向けた運動が行われているという。
        
        石製の一の鳥居の先には朱を基調とした木製の二の鳥居が建つ。          
 
   鬱蒼とした社叢林の先に境内が見える。     参道を進むと一角に神池のような窪みがある。
 
境内に至り、すぐ左側には神興庫らしき倉庫あり。   神興庫の反対側にある社務所。
        
                    拝 殿
         後日地図を確認しると西向き(正確には南西方向)の社殿。
        
                            拝殿手前に設置されている案内板
 市指定文化財 川田谷・下日出谷の万作(諏訪の万作)
 平成1562日指定
 「万作」は、埼玉県をはじめとした関東一円に分布する民俗芸能として知られており、桶川では川田谷と下日出谷の地域で伝承されています。鉦(かね)や拍子木と歌で調子がとられ、「銭輪」「きっさき」「伊勢音頭」「下妻」「口説」などの手踊りが演じられます。かつては、歌に加え台詞を述べる「段物」と呼ばれる芝居の要素が入った演目もありましたが、現在では手踊りが主になりました。
 市場地区で伝えられている「諏訪の万作」は、昭和30年代の町村合併時に地区の交流を目的として、薬師堂喜楽連から教わり始められました。現在は、「伊勢音頭」や「銭輪」など花笠や手ぬぐいを使った手踊りの演目が、毎年8月に行われる諏訪神社の祭礼などで披露されています。(以下略)
                                      案内板より引用

            
                     本 殿
 市指定文化財 諏訪神社本殿
 諏訪神社は、江戸時代には譜代大名牧野家の所領であった旧石戸領(現在の上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての一帯)五千石の総鎮守として信仰される神社でした。天正19年(1591)には社領として三石拝領の朱印状を受けた記録が「新編武蔵風土記稿」に見ることができます。これにより諏訪神社は天正19年以前の創建であることがわかります。
 諏訪神社本殿は、一間社流造でという造り方です。身舎と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間(6=1.82m)で、屋根は杮葺と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られ、見る人の目を楽しませてくれます。
 造られた年代については、棟札が発見されていないため確定はできません。しかし、社殿細部に施された建築様式や発見された関連資料などから、19世紀中頃の建築であると推測されます。また、大工は地元の棟梁・新井家が深く係わっていると考えられます。(以下略)
                                      案内板より引用
        
        
                    「桶川市指定文化財 諏訪神社本殿」の石碑等が並ぶ。
  
 室町時代、古河公方の側近家臣の有力者の一人に木戸氏がいた。この木戸氏は栗橋城主であった野田氏と同族といわれ、下野国足利荘木戸郷を名字の地とする足利氏の家臣であった。
 その後戦国期になると古河公方側近の木戸氏の他にもう一つの系統の木戸氏の活躍が目だってくる。それが、羽生・皿尾城の木戸氏である。この木戸氏は持季の弟範懐の子孫とされるが、史料上に名を確認できるのは歌人として知られる大膳大夫範実からである。
そして範実には直繁・忠朝という二人の男子がいた。
黒田豊前守直邦の和歌系統』
藤原定家―為家―為世―頓阿―経賢―尭尋―尭孝―常縁―常和(弟弟子宗祗)―正吉(常和弟子、俗名木戸大膳太夫範実)―賢哲(木戸伊豆守忠朝)―休波(木戸元斎)」
  社殿右側奥に鎮座する境内社・稲荷社    社殿奥に鎮座する境内社・白幡権現神社        
 羽生城は、埼玉県羽生市にあった日本の城で、16世紀初頭の築城とされ、永禄3年(1560年)の長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵以降、上杉方の関東攻略の拠点となり、広田直繁、その後木戸忠朝という兄弟が城主を務めていた。この兄弟は関東管領・上杉謙信の忠臣で、終始一貫して謙信に仕えた武蔵国で唯一の武将として知られているが、後北条氏の度重なる攻撃を受け天正2年(1574年)閏11月に自落した。
 築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では弘治2年(1556年)、「木戸忠朝」によるものと記している。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない。一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で、
「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝」
と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている。
 この木戸忠朝という人物は、武蔵国の国人領主。木戸範実(正吉)の子。広田直繁とは兄弟(長幼の順は不明)。伊豆守。武蔵国羽生城将。はじめ河越方面の領主河田谷氏の名跡を継ぎ、「河田谷右衛門大夫」を名乗っていたが、永禄9年(1566)までには木戸姓を称している。
上杉謙信書状「木戸伊豆守殿、同右衛門大夫殿、菅原左衛門殿(広田出雲子、木戸伊豆婿)」
上杉家文書「信州御調儀之段、被仰出候、目出度肝要に奉存候、於当口両度得勝利候之上、弥以成田押詰可申候、林平右衛門尉殿(謙信家臣)、河田谷右衛門大夫忠朝花押」
永禄三年関東幕注文「羽生之衆、河田谷右衛門大夫・紋かたばみ」
        
                               社殿からの一風景

 河田谷氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した「足立遠元」の子「遠村」が河田谷氏を称したといわれていて、忠朝はこの名称を継ぎ、足立郡河田谷村(桶川市)に居住、或は知行し、河田谷(かわたがい)或は河田井(かわたがい)と称していたと思われる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」「最多案の神社」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
   

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