古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三田原氷川神社

 江戸時代における川田谷村は東西14町・南北1里余の村域を有し、村高1,200石を越える比較的大きな村であったようで、陣屋が置かれたのは村の北西部の天沼で、この陣屋は「牧野本陣」、あるいは「牧野陣屋」「川田谷陣屋」と呼ばれていた。
『新編武蔵風土記稿 川田谷村』
「邸宅 陣屋
 御入國以來牧野讃岐守康成及び其子内匠頭信成・孫佐渡守親成等住せし陣屋なりしが、慶安三年親成が弟太郎左衛門永成に分地せしより、今も其子孫大和守の陣屋となせり、構の内に鎭守として太神宮・八幡の合社、稻荷・辨天の合社あり、」
 村内は慶安3年(1650年)に信成の遺領(隠居領)が3人の兄弟により分割された際、川田谷村も3分割され、その後明治元年(1868)牧野一族3家により私称されていた上川田谷村・下川田谷村上分・下川田谷村下分の私称村名を廃止し、川田谷村に統一された。
 三田原氷川神社は「下川田谷村」(*下川田谷村上分・下川田谷村下分のどちらかは不明)の鎮守社であるが、この「三田原」は旧川田谷村の小字「三ツ木・田向・柏原」の各字を総称した呼び名で、この三つの字の人々によって伝承されていたという
        
              
・所在地 埼玉県桶川市川田谷2082
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧下川田谷鎮守・旧村社
              
・例祭等 春の大祭 315日 秋の大祭 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9852055,139.5223646,18z?hl=ja&entry=ttu
 桶川市西部にある「城山公園」の南側に東西に通る埼玉県道12号河越栗橋線を荒川・川島町方向に進み、「川田谷」交差点を左折する。その後、300m程先の丁字路を右折し、暫く南方向に進むと三田原氷川神社の鳥居が右側に見えてくる。
        
                 三田原氷川神社正面
 三田原氷川神社は、埼玉県桶川市川田谷地域に鎮座する社である。川田谷地域は早くから開けた地であったためか、元禄七年(一六九四)の「桶川町助郷帳」(須田家文書)では上川田谷村と下川田谷村とに分けて記され、化政期(一八〇四-三〇)には既に全体で家数五〇〇戸に達していて、当社は下川田谷の鎮守である。創建年代は不明であるが、1668年(寛文8年)に神祇管領長上吉田家より正一位に叙せられる等、江戸時代前期の時点で既に神階が与えられていて、かなりの信仰を集めており、江戸時代以前から存在していたものと推測される。
 明治初年に指定された近代社格制度では「無格社」となった。しかし氏子たちの篤い信仰を背景に昇格申請がなされ、1929年(昭和4年)に村社となったという。年不詳ながら八幡神社・八坂社を合祀している。また秋大祭では三田原(三ツ木、田向、柏原)の簓(ささら)獅子舞が奉納される。因みにこの三田原という名称は三ツ木、田向、柏原の各小字を総称した呼び名で、この三つの字の人々によって伝承されているという。
 
        参道左側に設置されている「氷川神社 御由緒」(写真左)
           と「氷川神社の簓獅子舞」(同右)の案内板
 氷川神社御由緒  桶川市川田谷二〇八二
 □御縁起(歴史)
 川田谷は、荒川左岸の自然堤防上に位置する村で、南北朝期から見える河田郷に比定されている。早くから開けた地であったためか、元禄七年(一六九四)の「桶川町助郷帳」(須田家文書)では上川田谷村と下川田谷村とに分けて記され、化政期(一八〇四-三〇)には既に全体で家数五〇〇戸に達している。当社は下川田谷の鎮守である。
 古い川田谷村の項には「氷川社 一は竹内にあり、一は三田原村にあり」と二社の氷川社が記されているが、当社はそのうち「三田原村にあり」とされている方の神社である。創建の時期は不明であるが、内陣には寛文八年(一六六八)の宗源宣旨があり、江戸時代の早い時期に正一位の神階を受けていたことがわかり、当社は既にこのころには相当の信仰を集めていたものと推測される。また、このほかに文政十三年(一八三〇)の墨書のある神璽筥と像高三七センチメートルの氷川大明神像、更に石棒などを納めた木箱が納められている。
 明治維新を迎え、社格制定に際しては無格社とされたが、規模も大きく、信仰も厚かったため、昇格の申請がなされ、昭和四年十二月二十七日に村社に列した。また、年代は分からないが、八幡神社と八坂社の二社を合祀して境内社とした。境内社は、かつて一社ずつ現在の幟竿置場の辺りに並んでいたが、昭和二十八年ごろ合殿にまとめられた。(以下略)
                    

 氷川神社の簓獅子舞   所在地 桶川市大字川田谷
 氷川神社の簓獅子舞は、毎年十月上旬から中旬に行われる祭礼において奉納されている。
 この獅子舞は別名三田原の簓獅子舞といわれており、この三田原とは三ツ木、田向、柏原の各字を総称した呼び名で、この三つの字の人々によって伝承されている。
 この獅子舞の始められた年代は不明であるが、地元に伝わる由来記には、江戸時代の元禄年間(一六八八~一七〇四)以降に盛んになったと記されている。本来この獅子舞は、柏原の八幡神社において、旧暦八月十五日にその氏子によって奉納されていたものであるが、その後八幡神社が氷川神社に合祀されたこともあり、現在の日時に行われるようになったという。
 舞は全部で十二の場からなり、旧村内の㐂(七が三つ)倉堂から行列を組んで、舞の庭に舞い込み、四隅に立つ花笠の中で、宰領とよばれる道化と女獅子、法眼、後獅子の三頭の獅子によって舞われる。その内容は、女獅子をめぐって、法眼と後獅子がいさかい、また和解するといった展開である。
 現在、この簓獅子舞は、後継者も多く、また舞の型のくずれも少なく、桶川市における貴重な民俗芸能の一つである。(以下略)
                                  どちらも案内板より引用

        
                   境内の様子
 社殿は東向き。丁度参拝時間も正午に近い時間帯で、参道から社殿に向かう軸線上に太陽の陽光がくるので、参道から拝殿に直接撮影することができず、境内の樹木からできる木陰をうまく利用しながらの撮影となった。
        
                    拝 殿
 三田原氷川神社の北側には「城山公園」がある。現在では桶川市民のみならず、周辺地域の方々にとっても多目的広場,児童遊園,水遊び場,テニスコート、バーベキュー場等が設置され、多彩な遊びの楽しめる憩いの公園で、広い園内は四季折々の自然に囲まれており、中心に位置する大池は家族連れの憩いの場になっている。
 この公園の一角で竹林の中に「三ツ木城跡」が存在する。この三ツ木城の詳細は不明で、鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられているが、いずれも定かではない。近年の調査研究によれば14世紀代に築城されたものとされている。現在城址は「城山公園」として整備されており、土塁の遺構が残っている。
『新編武蔵風土記稿』にもこの「三ツ木城跡」は掲載されている。
「舊蹟 三ツ木城蹟
 東西北の三方深田にして、西の一方のみ平地に續き、今も土手の蹟存せり、郡内別所村無量寺の縁起には、足立右馬允が居跡なりと云、是右馬允遠元がことにや、遠元は保元中の人にて、當郡の地頭職に補せらるゝことは、丹波國山垣村當家の系圖に見えたり、又石井丹後守が住せし跡ともいへり、いづれも定かならず、」
 前項「川田谷諏訪神社」にて、「足立遠元」の子「遠村」が河田谷氏を称したのだが、「舊蹟 三ツ木城蹟」の記載内容が本当であれば、遠元自身もこの地に居住していたことになろう。
 まああくまで伝承の域を出るものではないであろうが。
 
  拝殿手前右側に鎮座する境内社・八幡宮社       社殿の右隣に鎮座する合祀社
 この合祀社は「大六大社・天神社・八坂神社・稲荷社(三社)・白山社・妙見社・御嶽社」



参考資料「新編武蔵風土記稿」「桶川市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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